CHAPTER 4
行灯の光の中で、夫にそっくりな娘が、里香を見つめていた。明日にする?と訊くと、千代は首を横に振る。もう眠い時間でしょうに。
残念だが、里香と惣弥の間には艶っぽい話はあまりない。近所で噂される話は、尾鰭どころか羽までついている。零落した旗本の姫様と商人の逆身分差婚は、恰好の話のネタだったのだろう。里香は姫様というには貧乏すぎたのだが、細部はこだわらないらしい。
小賢しく立ち回ろうとしても、もともと不器用な里香には商人の子に敵うはずもなく、引きずられるように密会を重ねた。一度感謝してしまうと、里香にはその人を裏切れない。良い意味でも悪い意味でも里香は三河から続く旗本の娘だった。
吉原の遊女は七度嘘をついても許されるというけれど、里香には無理だ。惣弥は笑って、嘘を付けない人だとは見れば分かると言う。分かっているから里香にちょっかい出したのだ。
惣弥が自分のことを話してくれたのは、それからだいぶ経ってからだ。里香が自分の身の上を話し終え、抱かれ、彼の胸のなかで泣きじゃくった後だ。
惣弥は主人が外で作った子供で、母親が死んだから引き取られたのだという。店は正妻の子供のものになるから、自分は弟を支えて行かねばならない、とポツリと漏らした。じゃあ、ただの手代ではなかったのね。里香は惣弥にもたれ掛かって聞いた。
里香ですらその切ない思いを感じ取ったのだから、彼の弟は兄が急に店の中で力を付け、自分を裏切ろうとは思いもよらなかったのではないか。子供の頃の五歳差というのは大きい。幼少の頃の記憶が強く残っている間に優しい兄が突如豹変して、母親や自分を追い出すなんて、想像すらしなかったに違いない。里香も惣弥ならば、劣等感にも苛まれることなく、上手に立ち回って暖簾分けしてもらえるまで耐えるだろうと思っていた。実際は上手く立ち回り過ぎた。先代の当主が亡くなると、弟を追い出し、母親を箱根に隠居させ、惣弥は名前を変え店の主人として、里香と結婚した。
娘にはその辺りはかいつまんで説明をした。
最初、千代は父親がしたことを聞いて、衝撃を受けたようだ。穏やかでめったに声を荒げない父が、半分とはいえ血のつながった弟を引きずり落としたのだ。
里香も当初はその弟というのはどうしようもない奴なのだと決めつけていた。番頭や義母は惣弥が店を継ぐことに異存はなかったというし、里香が嫁入りした時も、奉公人たちが惣弥に不満があるようには見えなかったからだ。
里香は満足していた。あまたいたであろう惣弥の恋人たちは、権利を主張しに押しかけてくることもなかったし、姑となる人も遠い箱根である。千代も生まれた。夫は優しいし、不足はなにもない。里香の母はあれほど商家に嫁がせるなんてご先祖に申し訳が立たないなんて言っていたくせに、最後には実家に帰らなくてよかったと言い、江戸の地で死んだ。
こんな人もいるのだ。一途に妻を想う誠実な、父のような男性が。里香は縹緻が良いと褒められるが、敵をつくってまで添い遂げたいと思える女かといえば、そうではない。年だってとうに行き遅れだった。なにがお気に召したのか分からない。絶世の美女でなくても顔が好みだとか、夫の邪魔をしない女だと思ったのか。兎に角、惣弥は里香を飢えと屈辱から救ってくれた人だった。里香はそのことに感謝して、惣弥の気持いいように過ごそうと決めていた。
だが、雲行きが怪しくなったのは、千代が十五の時に彼の弟である謙太郎が上方から帰ってきた時だ。旅姿のまま店先に現れて、里香を驚かせた。
「あんたが姉さんか、心配しないでください。俺は挨拶だけで帰りますから」
なんのようだと訝しんだ兄に、穏やかな笑みを浮かべて、商売が落ち着いたから江戸に帰ってきたのだと話した。
「この店は兄さんのものだよ。ここへは帰ってこない。俺はどこか良い家を買って、お琴と一緒に暮らす」
お琴というのは彼の随分年上の情婦で、昔この店でお針子の下請けをしていた女だと後から聞いた。その時は若い女かと想像したが、知ってしまえば無意識にも謙太郎への好感度は上がった。いまだ妻も子もなく、番頭へ店を譲ったらしい。
どうして自分は彼をろくでもない奴だと思い込んだのだろう。その頃から、夫の見方は徐々に変わった。里香は騙されていたのだ。確かに弟の印象は里香が勝手に決めた。それが違うからって夫を責められない。だが、なぜ昔話をもっと詳しくしてくれなかったのだろう。何も言わないという手段を取った夫に不信感を募らせるのは自然なことだった。別に、店を乗っ取ったっていいのだ。でも、どうして何も話さないで、これが当然の成り行きだという風に示したのだろう。
探るような真似はできなかった。里香は自分の矜持のせいで、動けなかったのだ。厄介者の義理の弟が帰ってきたという態度を取り続けていたし、夫に詰問することもしなかった。
だけど、どうしてもっと聞かなかったのだろう。好きなものだって、なんで言ってくれなかったの?どうして知ろうとしなかったのだろう。
受け身の自分に苛立った。しかし、積極的に動けば動くほどぎこちなくなってしまうし、いまさらお内儀さんと店に立てば失敗ばかりしてしまう。
その矢先に、夫がちょくちょく家を抜け始めた。はじめは商いが落ち着きだした証拠だと言い聞かせて、息抜きに出かけるくらいと楽観していた。女遊びを始めたのではないかと胸騒ぎがしたのは、夫の財布が軽くなっているのに気が付いたからだ。
来たのか。来たのかと分かっていても、里香にはどうすることも出来ずに、気が付けば一月、二月、と過ぎ、半年近く経ってしまった。
他の家では平気で女を囲っておいて開き直っている輩もいるというではないか。それに比べたら…
里香はぎこちなくなった首を娘のほうに回す。これ以上一人で秘密を抱えるのは無理だった。できれば娘を巻き込みたくない。かといって女中や、近所の内儀に打ち明けるのも憚られた。噂となり尾鰭まで付いて、里香や夫や娘を外から苦しめるだろうから。
目は自然と潤んだ。この子にも好きな人が出来た。そのうち同じ苦しみを味わうのかもしれない。あら、やだ。私はこの子にお話を話すように、私たちの話をするつもりだったのではない?
***
そのくせ、母は涙声だ。昔を思い出してるの?恋に落ちた夜を?
「お母さん?」
暗くて見えないけど、母は泣いているようだった。
「お父さんのこと?」
千代は母の手を握った。握り返す力は強い。千代の存在を確かめているよう。
「千代はお父さんのこと、好き?」
「うん」
「そうね、そうよね」
「お母さんは好きじゃないの?」
息を飲む声が聞こえた。
「…ええ、お母さんも好き」
嘘ではなかった。だけど、なんで言い躊躇ったの?
「お母さん?」
「千代…」
父が浮気しているかもしれないと白状したのは、深夜になってからだ。
朝起きた千代は外出禁止令が出ていることを悔やんだ。
母の話は本当?今も真面目くさった父からは浮気なんて匂いはしない。夫婦だから分かったのかしらん。千代にはいつもと同じだと思うし、特に変わったことはない。
朝食の後、千代は借りた本でも読もうと思って、自室に向かう。部屋には三匹猫がいて、犬をいじめていた。
「こらこら、駄目よ」
目尻を下げて怒ってもしょうがないのだけど、千代はネコちゃんを抱き上げて、犬を庭に放してあげる。この犬は、丁度芳吉が奉公に来た年に貰って来たから、芳子ちゃんという名前だった。芳吉は嬉しがって犬の世話を手伝ってくれる。もう一匹のネコちゃんが雀にちょっかいを出していたから、朝食で余った小魚を台所から貰ってきてあげた。ネコは全部で五匹いた。全身真っ黒い猫、三毛猫、茶トラ、白い猫、ブチの模様の猫。お父さんはもう拾ってくるのはやめなさいと言っていたっけ。
「お嬢さん」
芳吉だ。
「なに?」
「ちょっと…」
芳吉は懐から大事そうに文を取りだした。慌てて部屋の中に引きずり込む。
「一之助さまからです」
「今、来てらしたの?」
「あの、外で呼びとめられて」
「まだ、いらっしゃる?」
頷き終わる前に、千代は外に出ようとした。けれど、芳吉は千代の袖を掴んで、シーと指を立てた。
「裏にいらっしゃいます。けど、そのまま出て行ったら気が付かれますよ」
「じゃあ、どうするの?」
「芳子です」
芳吉の作戦は、芳子が家を飛び出したと千代を連れて芳吉が芳子を探しに行くというものだった。芳吉が監督していると言えば、母も父も許してくれる。だって芳吉はおっとりしているとはいえ、正直で真面目で父も信頼しているのである。
「冴えてる」
「えへへ」
照れてみせる。今では一番の親友だ。仲の良かった友達は殆ど嫁ぎ子供までいて、去年までいた女中は妹のように可愛がってもらったけど、二人目の子供が出来て休んでいる。
芳吉は素っ頓狂な声を上げ、父に事情を説明しているようだ。ちゃんとヒモで繋いである芳子は裏門で待機しているはず。千代も悲鳴を上げて裏から出た。
そこには、そわそわとした一之助が立っていた。
「一之助さま」
「千代!」
芳吉がシッー!と合図するが、一之助は千代を引き寄せると、すまんと頭を下げた。
「何も謝ることなんてありません」
「だが、軽率だった…もう少し待っていればよかったと」
「十分待ちました」
「縁談が来ているんだろ?いいのか?」
「一之助さまは、私に他の人と夫婦になってほしいの?」
「そうじゃないけど」
しゅんとした。そんな顔も可愛いけど、と千代はまだ幼さの残る一之助を見上げる。
「ね、私、今日から十日間、外出禁止になってしまいましたの」
知ってると、一之助は項垂れる。芳吉から聞いたみたいね。芳吉は時々、芳子を呼ぶ声を出して上手く演技をしている。
「だけど、ちょっと、緊急事態なんです。お父さんが…」
「お父上が?」
「外で、女の人に会ってるって」
「そんなまさか」
あの堅物が?と言って、その後に謝る。千代もそんな返事しか、母に出来なかった。
「私も嘘だって、信じたいんです。お願い!お父さんのこと、ちょっと調べてくれませんか?このままじゃお母さんが衰弱してしまいます」
「俺は構わねえけど」
「お母さんの思い過ごしに越したことはないの」
「心当たりはあるのかえ?」
千代は首を横に振る。しかし、一之助は同心の血が騒いだのかもしれない。夫婦の間を疑うのは気が進まねえが、と前置きした後に了承した。
「でも、千代の心配を晴らすと思えばいいな。お父上はそんなことしちゃいないと思うし」
「ありがとうございます!」
千代は一之助の首に抱きつく。
「こら!何してるんだ」
芳子に向けられた言葉なのに、芳吉の目はこっちを見ている。言い訳するように一之助は愛想笑いをする。優しく手が回された時、くしゃりとした音が一之助の袖のうちから聞こえた。また、貰ったの?手紙を見せろなんて野暮なことは言わないけど、ちょっと配慮が足りないんじゃない?
「いや、その、これは、人相書だよ」
その割には目が明後日のほうを向いている。




