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CHAPTER 3

 旗本二百石は貧乏なもので、里香の家ではこっそりと庭に畑を作っていた。下男は農家の出で、作物のことはなんでも知っていたから、父は彼に大いに信頼を置いていた。弟なんかはほんの小さい時、父より下男を崇拝していた。里香だって冬の間にまいた種が、春の日差しと共に芽を出すのを見て、興奮して両親に教えて回ったのだ。

 冬のうちに蒔いておいた種から、小さな芽が出てきた。小鳥から死守した種は無事発芽したようだった。里香は嬉しくなって、庭にしゃがみこんでよくよく緑色の小さな葉を見てみる。こんな小さな芽が、野菜となるまでにはそう時間はかからない。

 そんな里香を呼ぶ声がした。父だろうか?今日は登城したのではなかったかしら?里香は声のする方へ、かけ足で向かった。芽が出たことを、父に伝えようと思ったのだ。

 しかし、父の隣には客がいた。いまだに門の近くにいた父は、興奮した面持ちで里香を呼び寄せた。――恭太郎さま。

 その客の顔を見た瞬間、里香は目が覚めた。

 また、夢だ。隣で寝息を立てる母も、居心地が悪そう。


 貧乏でも、まだ、旗本の娘のほうがましだった。父がいたし、なにより屋敷は部屋が多く、母と煎餅布団で眠らずにも済んだのに。

 里香の家は去年、公金着服の罪を着せられた父が切腹したことによって、お取り潰しとなった。どう考えても濡れ衣だった。里香や母は泣いたが、父はしょうがないと言って切腹したのだ。弟は出家して許してもらえたが、今や寺小姓である。

 あれほど里香にぞっこんだった恭太郎も逃げて行った。薄情なものだ。里香はさっさと忘れることにして、今日も料理屋に仕事をしに行く。料理屋ではあからさまにいじめられるし、主人はなにが気に食わないのか里香をよく打った。…旗本の娘だからだ。巷では品のよくない旗本がいるそうだが、父は決してそんなことしなかったはずだ。道で前を遮ってしまっても笑って許すような人だった。優しい父が死んで、悪いことばかりしている旗本が生きているというのは不公平な気がした。


 だが、里香に発言する機会も許可もない。口を噤んで、辛さに耐えなければならない。しかし、夢を見た後では難しい。今日は、泣いてしまいそうだった。

 あの着物を売ったら当分は大丈夫かしらん。嫁入り道具として買った小袖は三両した。あれを売れば、次の仕事が見つかるまで食いつないでいけるだろう。でも、でも、どうしても売らなくては駄目?辛い時慰めてくれた小袖。それを売るのと、今の料理屋で耐えるのどちらが辛いか考えて、里香は決心した。この小袖はまた買い直せばよい。

 そうと決まれば、里香は着物を持って長屋を出た。だが、その前にこれを買った木綿問屋の加斗屋の様子を見たい。だって、つい一年で里香の身辺は激変したのに、相変わらず加斗屋では着物を売っているのだろう。



 里香は店を辞めた。その帰りに、加斗屋の前を通り過ぎてみる。やはり一年前と変わらず新しい柄を紹介して、娘たちを洗脳している。私も騙されたようなものだわ。でも、なんて素敵な夢だったのでしょう。

 里香は足早に去ろうとしたのだが、声をかけられた。暖簾をくぐろうとしていた手代だ。


「大内様ではありませんか」


 里香の顔を見て分かってしまったみたい。やだ、髪型も変えて町人らしくなり、着物だって地味なのに。


「はい…」

「やっぱり」


 その手代は嬉しそうな顔をした。里香もその顔を見て、思い出した。去年主人の後ろにいた子だ。まだ少女めいた顔をした少年だったが、一年経つと顔つきは変わってくるもなのだなあ。変わらず繊細な顔つきをしているが、だいぶ男らしくなっていた。


「あの、私、今日は用があって来たのではありませんので」


 ただ通り過ぎざまに眺めただけだ。この店で誂えた着物を売ろうとしていたくらいなのだし。すみません、と里香は続ける。お手数掛けました。


「いいえ。その、私こそお声をかけて申し訳ありませんでした。大内様が歩いてきらした時、あまりにも、その、なんといいますか…」

「変わった?」

「いえ、確かに変わられたとは思いますが」


 なんだ。里香は余計なお世話だと思った。そのくせ彼は、不自然に目を泳がせているのである。里香が落ちぶれたことを、知っていたのではないか。それだったら、酷過ぎる。里香が憤慨し、さらに惨めになって泣きそうになった時だ。


「お綺麗な方だと思って、つい眺めてしまったのですが、大内様だとわかり、気が付いたら声をかけてしまいました」


 店の前だというのに、なんてこと言うのだこの男は。そのくせ里香はすっかり彼を許した。照れて色白の頬を赤くする彼をいい人だとすら思う。現金なものだ。


「そんな風に褒めていただいたら、こちらこそ赤くなってしまいます」


 里香は純潔を恭太郎に奉げて裏切られてからは男に愛想をつかせたのだが、男に縋らなければ苦しい世の中だとも分かっていた。だって里香は芸事が上手いわけでもなければ、腕のいいお針子でもない。愛想もよくない顔は、美人だといわれるが、商売にむかないようだ。


「あの、どちらにいかれるですか?」


 困った。加斗屋で買った着物を古着屋に売りに行くとは言えない。普通なら言えない。が、里香は妙な度胸を持っていた。火事場の馬鹿力というやつかも。


「私の身形を見ていただけたら分かると思います。去年、私の家はお取り潰しになりまして、今はもうただの町方の人間でございます。失礼ですが、お金に困りまして、加斗屋さんで誂えたこの着物を売ろうと考えていたのです。本当に、残念ですが…」


 手代は少し考えたようだった。里香の目から涙が流れると、意を決したようだった。嘘泣きではない。この着物を手放すのかと思うと、自然と涙が出た。少しは同情してくれるだろうが、だからと言って同情をもらってもしょうがない。だけど、口や涙は止まらなかった。こんな風に話しかけられて、話を聞いてくれた人は、今までいなかった。里香が旗本の娘だと知ると、みんなざまあみろと言わんばかり、顔では同情してみせて、内では嗤っているである。それがあからさまだったから、話すのも止めてしまった。それは里香が没落したから出せる余裕かもしれない。でも、それがなんだというのだ。


 彼は風呂敷を掴むと言った。


「すみません。こちらの不手際で不備のある商品をお出ししてしまうなんて」

 呆気に取られている間に、彼は店の中から持ってきた金の入った包みを里香に渡した。そんな馬鹿な。一年も前の商品だ。


「知っています。あなたが着た方綺麗だ。着物も喜びます」


 小声は里香にだけ聞こえた。里香は金を懐に入れると、逃げた。着物と同じ金額のお金は神社の境内で数えた。


「ありがとう」


 張り詰めていたものが崩れた。自分が考えている以上に、この着物を手放したくなかったのかもしれない。これは父が買ってくれたものだ。最後の思い出だった。

 今度は、彼への感謝に涙が出た。



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