CHAPTER 21
幼い自分は、こんな穏やかな人生が待っているなんて、想像できただろうか?なんの疑いもなく、家を継ぐと考えていた。半分の兄貴が現れて、それが恩知らずにも、謙太郎を追い払い、母を騙し、父を裏切った。でも、当然と言えば当然だった。父は間抜けだったし、母は夫に蔑ろにされ過ぎていた。輪をかけて謙太郎は間抜けだった。
頭に血が上った嵐が去ると、謙太郎はすがすがしい気持ちになって、江戸を出たのだ。一度思い切り、今までの自分が亡くなるというのは気持いいものだった。謙太郎はただの謙太になり、大坂では間抜けな父も女に戻った母もいなかった。それに、兄を悪者にしていれば万時上手くいった。
お琴はその謙太郎に、昔と大して変わらない笑みを浮かべている。
だって、大坂へ行く時、お琴は男を理由に付いてきてくれなかった。自分もそれならいいと思って、多少の気持ちを置いていくだけで別れたのだ。
大坂からの帰りにいの一番にお琴に会いに行くと、お琴はまるで一昨日会ったかのように謙太郎を出迎えた。
「まあ、坊ちゃん。おかえりなさい。もっと早く帰って来ると思ったんですけどねえ」
一緒に住んでくれないかと頼んだら、お琴は溜めていた息を全て吐きだしてから答えた。
「もっと早く帰ってきてくれりゃよかったんですよ。私はもう女隠居です…どこかでいい人でもみつけてください」
いやだという謙太郎にお琴は弱弱しく主張した。
「若い男と歩くのは苦痛です。坊ちゃん…」
でも、お琴はそれでも、最後には一緒に住んでくれた。母は兄を捨てたが、お琴は謙太郎を捨てきれなかった。
兄の顔は浮かなかった。しょうがないが、頑固で主導権を握りたがる兄が、よくもここまで折れたと感心してしまう。やっぱり娘というのは可愛いものなのだろうか。謙太郎にはよくわからなかった。自分が向ける姪への愛情とは、なにが違うのだろうか。
謙太郎から言わせてもらえば、千代は化け物だった。もちろん良い意味でだが、復讐に取りつかれていた兄を、人の親にしてしまった。不躾に現れた叔父の前に飛び出した千代は、大切にされていなければできないような大きな笑みを浮かべていた。その時の娘を見る兄の顔といったら。
「こんにちは!」
父親似の顔は、まったく違って見えた。兄がなんの屈託もなく育ったのなら、きっと同じだったはずだ。
「姉さんと喧嘩したってくよくよするなよ。はじめから上手くいきっこなかったんだ。それがもう何年だっけ?二十年以上続いたんだから、いいんじゃないの?」
謙太郎は何故だかわからなかったが、この兄を褒めてやりたくなった。大したものではないか。少なくとも同じ立場だとしたら謙太郎にはここまで出来ない。
だけど、兄ははじめからうまくいきっこないのところで突っかかった。傍から見てもすぐにわかることなのに、当の本人たちは気付かずに一緒になるんだから笑えない。
「だって、姉さんはお姫さまだ。それがあんたみたいな汚ねえ野良猫みたいなのと一緒になったんだから、上手くいくはずねえよ。そら、その旗本からしたら面白くねえ。自分たちのお姫さまだぞ。それも姉さんのような縹緻良しと」
育った場所はなにもかも違った。兄は貧乏長屋の上を行く、蛇骨長屋。それに対して里香は、貧乏でも庭つきの家だった。二人が合うわけもない。どうして一緒になったのか、いまだに分からない。当時の二人は相当厚かましい奴らだったのだろう。
俯いた兄はなにも言う気配がない。さらに言おうと思った謙太郎に、兄は被せるように、言葉を繋いだ。
「でも、俺はまだ好きなんだ…劣等感だけじゃなく」
こんな風に自分の気持ちを吐露する男だったろうか。謙太郎は時の無情を思う。たぶん、兄の魅力はその顔にほんのちょっと現れる鬱蒼とした表情だったのだ。ふとした瞬間に見つけた人は、もう一度彼の顔を見ずにはいられない。見てしまえば、聞かずにはいられない。そこで誤魔化すから、相手は答えてくれるまで夢中になる。時間が経って、兄は話すことを覚えた。千代のせいだと、謙太郎は思う。子供を育てるには、他人との意思疎通が不可欠だった違いなかった。
兄はただの男になった。若かりし頃の魅力は消え、もう少しすればただの好々爺になってしまうであろう兄の顔を見る。なんてことだ。だが、別段と残念だとも思わない。
「じゃあ迎えに行けよ。こんなところに居ねえで」
「でも、里香になんて言い訳すればいいんだ」
ほとんど泣きだしそう兄に、だんだんイライラしてきた。もう答えは出ているのに、ぐちぐち悩むのは悪い癖だ。助言したところで謙太郎の意見は採用されたことなんてない。
「なにを言い訳するんだよ?母さんを騙したことか?男と寝たこと?」
***
「誰に似てるの?」
好奇心にかられて千代は婆に訊ねる。婆は口を開けるよう命令する。反感を感じない訳ではないが、婆の言う通りに大きく開けた。
「今度は押し黙って。そう、嫌そうに」
一之助も不審そうに婆をながめた。
「本当に似てる」
「誰に?」
千代ではなく一之助が訊く。婆は顔を横にふり、嘆息した。
「わたしの最後のいい人に」
色気付いてるんじゃねえとは言えなかった。何故なら、婆は千代を心底いとおしそうにながめたからだ。昔を思い出したように目を細めた。瞼が垂れてくる前は切れ長の美しい目だったはずだ。婆は聞かずとも語り始めて、その姿はボケた老人と変わりはなかった。
(一回りも年下なんだ…)
千代の返事なんか聞いていないようだった。
「最後よ。夢中だった。夫もいたし、今も茶呑み男はいるけど、付き合った中では断トツね。寝た男の中でも」
どんな人だったの?と千代は聞きたくなった。こんな偏屈な婆をうならせるのだから、どんなに素敵な相手だったのだろう。思い出の効果とばかりは言えない。
「その人とはどうなったの?」
「別れたわ。どんな相手でも終わりはあるのよ。死に別れか、生きて別れるか。どっちにしろ終るわ」
「悲観的」
「そんなことない。何度だって好きな男は出来るもの。それは運命の人と出会うより奇跡的なことよ」
千代には分からなかった。だって、一之助と別れるなんて想像できない。考える前にその可能性を拒みたい。
婆は根岸に息子を訪ねて行く途中だという。久しぶりの江戸に道に迷い、友達も神田宿に置いてきた。
「一人で行けるの?」
「なんとかなるでしょ」
「送ってこうか?」
「老いぼれちゃいるけど、そこまで迷惑かけるほどじゃないよ」
「俺は見廻り同心の見習いなんだ。送ってくよ」
「女みたいに泣いててね」
一之助は顔を赤らめる。婆の皮肉を罵ってやりたかったが、千代は黙って堪えた。千代を追って、二人に合流した芳吉は、もうそろそろ帰ろうと千代の手を取った。
「でも」
「一之助さまが送ってくれますよ」
「わたしはこっちのほうがいいわ」
千代のほうを指差した婆に、芳吉のこめかみに血管が浮き出た。無意識かもしれないが、笑みが深くなる。
「どっちでもいいでしょう」
「よくないわ。わたしは老い先短いんだから、わがまま言ってもいいでしょ」
芳吉は殆どキレかかりそうになりながら、大きく息を吐いた。観念したように、大声をあげる。
「わかりました。でも、私たちも付いていきます」
「後ろを歩いて」
注文の多い婆に芳吉は舌打ちしそうな勢いだった。千代もしょうがないので婆の隣を歩く。その間中、婆はべちゃくちゃ喋った。千代はこの頭巾をかぶった婆の話を聞いていた。乞われるがままに、千代も婆の質問に答えた。父親を探さしている途中だとも。
未亡人になり四十を目前として箱根に発った婆は、箱根を終の棲家にするつもりだったらしい。だが、どうしても江戸が恋しい。死ぬ時くらい生まれ育った地で過ごしたい。婆は奮起して江戸までの旅を決意した。
「で、根岸のどこなの?」
「さあ」
「さあって、息子さんとは連絡はとってなかったの?」
「まあ、いいのよ。ぶらぶら歩きましょう」
「ぶらぶらって、それなら浅草とかのほうがいいんじゃないの?根岸には私の叔父さんが住んでるの」
「あら、そうなの?じゃあ、見つからなかったら泊めてもらおうかしら」
芳吉は後ろの方を一之助と一緒になって歩いている。一之助が機嫌の悪い芳吉を盗み見ていた。辺りは薄暗くなっている。千代は今日は家に帰れないことを悟った。叔父さんは千代を泊めてくれるだろうか。
根岸の辺りは畑も多く、避暑地という感じだ。お金持ちたちの奥方や、隠居した主人たちを休めるためのゆったりとした建物がまばらにある。農家の家も奥の方に見えるはずだが、日が沈み今は見えない。
とうとう千代は婆と叔父の家の前まで来てしまった。門の前に立つと、お琴が顔を出す。そして、門先から見える庭には父と叔父が何やら言い合っていた。
お父さん!千代は声を出しそうになった。婆が頭巾を目の下まで覆って、人差し指を口元と思しきところに持って行く。お琴は婆を見て、困惑した表情を浮かべている。
「お内儀さん…」
「お琴ちゃん、まだあの馬鹿の面倒を見てくれているのね」
この婆とお琴が知りあいのように口を利くのをみて、千代は二人を見た。婆を凝視して、こう言う他なかった。
「誰?」
あなたは誰なの?婆は口を頭巾が覆っているから、目元がにっこりと弓のようになった。
叔父のどこか怒ったような、焦れているような声が聞こえた。
「母さんを騙したことか?男と寝たこと?」
婆は門から中庭の息子の一言に反論していた。
「騙したなんて人聞きの悪い。わたしが馬鹿みたいじゃないの」
次に叔父はぽかんを一行を見て、思わず叫んだ。
「母さん?死んだんじゃなかったの?」
こんなに仕事サボってたら番頭さんに乗っ取られそうですね…




