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CHAPTER 20


 謙太郎の記憶が次第にはっきりとしてきたのは、腹違いだという兄が家に転がりこんできた頃からだ。その頃は“ハラチガイ”がよく分からなかったので、純粋に兄が出来たことが嬉しかったし、母がなにを彼のことがそこまで気に食わないのかも分からなかった。

 店の小僧たちに混じって算盤をはじいたり、掃除をしたりするのを見て、ただ単に良い人なんだと漠然と思っただけだ。明確にその時の感情や思いを思い出してみろと言われても困るのだが、何かを感じていた気がする。といっても、馬鹿息子で、十代に入る頃まで鼻水を垂らしていた。まともに思考していたかと聞かれると、断言が出来ないのが辛いところだ。

 五つ上というのは、そんなに大人だったろうか。兄が家に来たのは九つの時だから、文字を覚えだした謙太郎より幼かった。その兄は、家に来るまで引き算が出来なかったし、かろうじて自分の名前が判別できるだけしか、文字を知らなかった。

 父はぎょっとして慌てて兄を寺子屋に通わせた。兄の母親に払ってあるはずの授業料が正しい用途で使われていなかったのだ。それに、謙太郎が覚えている限りでは、兄はシラミが発生していたし、飢えで痩せ過ぎていた。井戸水を飲んで空腹を癒やしていたのだという。白いご飯が毎食でる謙太郎には考えられないことだった。父はこれが自分の子かと、我が目を疑っていた。変わり果てた、と言っても一度も会っていない息子が、餓死したとなれば父も寝心地が悪いと思ったのだろう。

 母は兄に灰を被せ、その後に焼酎をぶっ掛けた。彼女なりの風呂だった。子供なりにもやり過ぎだろと思っていたが、案の定父と口論をしていた。


 それから謙太郎と両親と兄の生活が始まる。

 兄はおおよそ従順だった。母にも逆らうことなく、意地悪されても反論することもない。仕事も一生懸命するし、非行に走ることもない。

 彼は謙太郎のお守だった。一番よく覚えているのは、寺子屋の帰りに兄が迎えにきてくれて、友達と遊んでいる自分を見ていてくれた。夕暮れ前に、手を繋いで、家に帰ったことだ。誰と遊んだとか、どんなことをやったとか、謙太郎は嬉しくなって、どんなつまらないことも一生懸命に話した。父は謙太郎を放置していたし、母親はお琴や兄を子守として使役していて面倒を見なかったからだ。兄は根気強く謙太郎の聞き難い話を聞いてくれた。それが、どんなに嬉しかったことか。

 でも、兄はたぶん、そんな自分がうざったかったのだ。鈍くさく、馬鹿面でべちゃくちゃ喋るうるさい弟がいたら、謙太郎だって嫌気がさす。ぶん殴っちゃうかも。


「惣弥ッ!どこにいるの、返事しなさい」


 母のどなり声は半端ではない。家にいると怒鳴りつけて、なにか言いつけている。母はこの界隈で有名な美形で、十六の時父に見初められて嫁いできたのだが、結婚してからはいいことはなかった。夫は他所に子供がいたし、謙太郎が生まれると彼女に飽きた。

 うるさい姑や舅はいなかった。夫も暴力をふるう性質ではない。だけれど、彼女には苦痛に違いなかった。

 母の兄への態度が軟化し始めるまでに何年か要したが、父が家にいない間に二人は随分と仲が良くなった。少年の日の兄の顔は母好みだったし、気晴らしを見つけたと思ったのだろう。

 母と兄がつるむようになってしまったので、謙太郎は必然的にお琴と一緒にいることが多くなった。謙太郎は確かにお琴が面倒を見ているといっても過言ではなかった。腕のいいお針子として店でも頼りにしていたが、子供が好きなようで謙太郎が懐いても嫌がる素振りをみせなかった。兄との違いは、兄は五つしか離れてなかったが、お琴とは一回り離れていた。彼女は子供が出来にくい体で、お腹の子が流れてしまった後は、夫とも別れてしまっていた。

 謙太郎はお琴の隣に纏わりついて、仕事しているのを見ていても、お琴は怒ったりうるさがったりしなかった。父親はいい子守が出来たと思って、多めに給金を与えているだけだった。

 大きくなってもお琴のもとへいくのを止めなかった。お琴は二人目の夫と別れたり、新しい男がいたが、謙太郎とは相変わらず会ってくれる。


「たぶん世間の母親や姉というのはこういう存在なのだろう」


 自分の子供より、他の子を優遇するようになった母への当てつけもあったかもしれない。従順な兄は母に可愛がられるようになり、少年から抜け出す頃には、一番のお気に入りになっていた。一方の謙太郎は十三になっても顔の表情がぼんやりしていたし、母の前で喋らなかったからあまり好かれなかったのかもしれない。お琴や兄の前では喋り出すと止まらないくせに、父や母を前にすると、「うん」とか「はい」とか五文字以内でしか返事をしなかった。


「あの子、なにを考えているのか…私の前ではちっとも笑わない」


 兄に母が愚痴をこぼすのを聞いたのは一度や二度ではない。不器用すぎた母が子供を育てるのに難儀している中、謙太郎はお琴の家で遊んでいた。母親に好かれないのも無理は無かった。



 だが、親子の仲を裂く決定的な出来事が起こった。父である先代の主人が死んだ。お得意様に布の説明をしている最中に、胸を押さえて、あっけなく逝った。

 狼狽する母の肩を押さえたのは兄であったし、母が名前を呼んだのは兄のほうだった。謙太郎は十八になっていた。その頃になると、人間には血では解決できないものがあると納得できるようになっていたし、お琴とは母子や姉弟の関係を離脱していた。言葉通りお琴は謙太郎のことを“食べちゃいたい”くらい可愛がり、実際に呑み込んだ。母の小町の実力はこのころに発揮されてきた。父親のようなぼんやりは薄くなり、メリハリの利いた顔つきになった。ほっそりとした頬に、やや釣った目、女っぽ過ぎない鼻筋、一目見るだけで栄養状態のいい肌は謙太郎を陰から引きずりだした。

 だが、謙太郎の普段の態度は近所のドラ息子と変わらなかった。年上の情婦のもとに四六時中いて、店のことを放っておいた。当たり前といえば当たり前だが、後継者として見られていなかったし、奉公人たちも自分たちを気にかけ、気軽に声をかける兄のほうが好きだった。

 それでもいい。別に俺は家を継ぎたいわけじゃない。兄が家を継ぐことになっても、謙太郎は反対しなかった。店の者たちも誰ひとりとして反対しなかった。

 お琴だけは、残念そうに「坊ちゃんの店だったのにね」と呟いた。謙太郎はその彼女に、店の主人になったら嫁を貰わなくちゃいけないし、こうして一緒にいられないと言い訳をし、慰めた。彼女はその答えをお気に召したようで、それ以来なにも言わなくなった。


 月のない夜に提灯を持ってお琴の長屋から帰ると、父の喪が明けて再開した店にも、もはや灯りは無かった。奉公人たちが眠る部屋を通り過ぎる。母も兄ももう休んでいる時刻だった。母の部屋を横切る提灯にビクつく音が聞こえる。音が聞こえたというよりも、暗がりが動いたような、不思議な感覚だった。母のような人でも、夫が死んだら悲しむのだろうか、息遣いは泣いているのだろうかと錯覚させる。謙太郎はなにを思ったのか、この時ばかりは母が可哀想に思えて、慰めようとでもしたのだろうか。間違いだった。

 確かに母は泣いていたが、むしろ嬉しくて咽び泣いている。この泣き声は生涯、謙太郎の胸の奥に根付いて消えることはなかった。

 障子を開けると、硬直した母の顔と、恐怖に固まった振り向きざまの兄の顔が、ぼうっと浮かび上がった。服を着ているとか、裸だとかはわからない。小さな提灯はそこまでは照らしてくれなかった。でも、もう子供じゃないんだ…なにをやっているかくらい分かる。

 謙太郎も動けない。その中、何か言おうとして開いた口を、母は遮った。兄をどけ、乱れた髪を撫でつけて、謙太郎の手から提灯を奪った。


「私を責めるの?そんな権利誰にだってない!私があの男に恥をかかされている時、あんたは何をしていた?」


 そんなこと謙太郎が分かるはずもなかった。言い返せないというのは、負けたということなのだ。どちらが正しいということを越えて。


 その場から謙太郎は逃げ出した。行くところなんて決まっていた。来た道を帰ればよかったのだ。謙太郎は泣いた。なにが原因かもわからない。


 だが、母は女に戻ったが、利口だった。謙太郎が兄に追い出されて、すぐに店を譲る代わりに手切れ金を貰って、家を飛び出した。箱根で何物からも自由になって、一生を全うした。そこには忌まわしい義理の息子も、出来そこなった血の繋がった息子もいない。母はみっともない女ではなかった。

 謙太郎が母に会ったのはそれが最後だ。お琴の長屋に転がり込んだが、しばらく遊び人みたいに過ごした。


 五日後にふらふらと外に出た時に、夜でも分かる美人に話しかけられた。これが美人局というやつだろうと思ったが、気力も無くしていた謙太郎はただ美人に付いていった。自暴自棄になっていたのか、家に面倒をかけるのも悪くはないと思ったのか、両方だった。鰯油の匂いの中、はじめてお琴以外の女性と関係を持ち、相手の女が謙太郎の輪郭を撫でて、「ごめん」と呟いた時だった。


 伊勢又三郎のことは知っていた。兄の友達で、たびたびつるんでいる両人を見かけたからだ。そして兄の手が財布に伸びていくのも知っている。それも、嫌がる様子もなく。謙太郎は又三郎が嫌いだった。十代の頃から賭場に出入りしているし、良いところと言えば顔が通常より三割くらいよろしいことくらい。女に貢がせているし、その上兄から小遣いまで貰っていた。一番嫌いなところは、謙太郎が嫌いなのに、兄は力なくそれに反駁するのだ。根は悪い奴じゃない。悪くなかったら、美人局なんてするかよ!

 又三郎は謙太郎の顔を見ると、口を開けた。今まで母に向かっていた謙太郎の思考は、急に兄のことを思い出していた。思い出すたびに腸が煮えくり返りそうだった。


「てめえ…」


 その後に続くであろう台詞も容易に想像できた。だが、口は「てめえ…」で固まっている。謙太郎から金はとれない。


「てめえこそ、兄貴の恩を忘れやがってッ!」


 謙太郎の咆哮は、女房役を飛び上がらせるくらいの威力があった。彼女は襦袢姿のまま、着物を手繰り寄せ、飛び出していった。

 犬が吠えはじめ、女の悲鳴を聞いた不寝番の差配が飛び出して、すぐさま自身番に括りつけられた。翌朝を待つまでもなく、定町廻りがやってきて、兄がすっ飛んできた。

 ざまあみやがれ。謙太郎はそう思った。少なくとも、兄が現れるまでは。美人局を働いた又三郎は死罪だし、自分はどうなるかわからない。


 が、兄は同心や差配がびっくりして道を開けるほど、怒り狂っていた。顔を真っ赤にして、匕首でも持っていようなら、又三郎と弟をめった刺しにしそうな勢いだ。


「よくも…」


 今までの感情はすぐに萎れ、謙太郎は恐ろしさでいっぱいになった。自分のほうが歩があると勘違いしていたが、違う。兄が父を裏切って義理の母と寝て、又三郎と関係を持っていることを知っていても何の役にも立たなかった。

 物凄い勢いで捲し立てる兄は、やはり下町生まれだった。綺麗な巻き舌は、こんな時だからこそ思う存分発揮していた。


「お前たち二人とも、殺してやる。お(めえ)らのせいでなにもかも台無しだ!くそったれ」


 同心と岡っ引きが兄を羽交い締めにしなかったら、確実に謙太郎の首は締められていたし、又三郎は張り倒されていた。

 友達は美人局を働き、馬鹿な弟はそれに引っ掛かった。最悪なのは、二人が捉まったことだ。これから訪れるであろう加斗屋の苦難を考えれば、至極当然の反応だったのかもしれない。

 兄は店の信用が無くなるであることを罵り、美人局を働いた友達を口汚く罵った。一頻り罵ると、お前たちとは金輪際、赤の他人だ、二度と顔をみせるんじゃねえと啖呵を切った。


「謙太郎、店の蓄えは今、五百両ある。半分はやるが、受け取ったら江戸を出てけ!二度と戻って来るんじゃねえ」


 また、兄は財布を取り出して、又三郎に叩き付けた。店の主人になった兄の財布には小判が入っているのかもしれなかった。


「手切れ金だ。お前とはもう友達じゃねえ。どこへでも行け!」


 二人は突然親の逆鱗に触れた子供のように動けなくなった。同心たちも呆然としている。差配が慌てて口をはさんだのは随分後のことだった。


 二人は放免となったが、なにをどう出来るというものでもない。又三郎と別れ、無気力にお琴の長屋へ戻った。木戸をくぐると、お琴の隣には、彼女と同じくらいの年齢の男が、熱心にお琴を口説いていた。


「あんなドラ息子の面倒を見ていてなんになるんだ?お琴ちゃんだってまだ三十だ。あいつがいたら、再婚だってできやしない…」


 その通りだった。殆ど泣き叫びそうになりながら、謙太郎は闇雲に走った。どこへ行こうと考えたわけではないが、たどり着いたなんでも屋の前には手甲脚絆が並んでいた。



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