CHAPTER 19
朝になったら帰って里香を迎えに行こうと決心したものの、惣右衛門は午前中いっぱいを布団で過ごし、中宿の主人に叩き起こされ、しょうがないので昼風呂に行って、家に帰れずにぶらぶらしている。
加斗屋に来て間もないうちに、家が嫌になって飛び出したことがある。母と住んでいた長屋を訪れてみようと、足は自然と最初に住んでいた深川に向かったが、途中で止めた。母は金が溜まったら送ってくれと渡してきた紙には、読めるようになっていたひらがなとその横に立派な漢字が並んでいた。どうやら浪人の情人が書いてくれたようで、惣弥はそれを後生大切に持っていた。その字を見ているうちに、縹緻が良いが文盲だった母を思い出す。そのせいで吉原に上がれなかったのだ。母の噂を聞きつけてきた抱き主が、文字が書けないことを知って、苦笑したという。
「あんた、それでどうやって自分の旦那に会いに来てくれって頼むんだね?」
いままでそんな必要はなかったのだ。言わずとも誰もが会いに来た。でも、それではナカでは通用しないという。親切な抱き主は、母に文字を教えようとしたが、最後まで彼女は音を紙に閉じ込めることができなかった。「あ」には上がったり、下がったり、その時々の向きがあるのに、紙の上に書いてしまえばいつも同じ「あ」なのだ。
「それでどうやって私の気持ちをわかるってんだ」
字は読めなかったが、人の気持ちを察することができた。言葉の向きを知ればよかったのだ。
母は深川で惣弥を産み、神田に越してからは近所の浪人とデキていた。先代の主人で我慢してればいいのに、なにが不満だったのだろう。
そして小遣いを貰えるようになると、重大なお役目を賜ったお侍のように、家に内緒で金を届け続けた。止めたのは、その浪人が二十歳の時にふらりと現れて、もっと大きな額の金を請求してきた時だ。母が死んだのだと悟った。又三郎に小遣いを持たせて追っ払って貰ったのだ。地図を見るようになって、草加は江戸よりたいして離れていないことを知った。日本橋から一本の道で繋がっている。
母の墓はどこにあるのだろう。考えたこともなかったが、母の情人が作ってくれているとは考えにくかった。
浅草のほうまで行ってみようかとも思う。でも止めた。そういうふうなことを繰り返しているうちに、日が傾き始めた。またあの中宿に戻れば、主人は苦い顔をする。惣右衛門は奉公が辛くなって逃げ出した小僧のように、声をかけてくれる人が現れるまで石の上で座り込んでいた。スリもこの不気味な男には近づいてこない。
たった一人、その孤独な中年男に声をかけるものがいた。惣右衛門より五つ若く、そのくせ世捨て人みたいに遊び暮らしている。弟だった。
「なにやってんだ、兄さん」
顔をあげてみれば、先代の主人とは似ても似つかない顔があった。小町といわれた母に似た弟も、父に全く似ていなかった。
お前こそなんでこんなところにいるんだと言いたかったが、出たのは言い訳のような、泣きごとだ。
「家に帰りたくない…」
「なーにいってんだ」
呆れている弟は、人目を気にすることなく、怪しい男の腕を取り、立ち上がらせた。
「彦兵衛のやつ、また月代の幅が広がるな」
一人で笑って、謙太郎は兄の腕を取って歩きだした。でもその方向が家だったので、惣右衛門は嫌な散歩道でぐずる犬のように動かなくなった。
「いくつだよ。ほら家のやつらが心配してるだろ」
「やだ。帰りたくねえ」
どんどん口調は伝法になっていく。惣弥が生まれ育ったのは下町だった。
「どうしたんだよ」
「里香が出て行った」
「はあ?なんでカミさんが出てったのに、あんたも出てくんだ」
そんなこと言ったって。
「それに千代はどうした」
「家…」
「もうすぐ日が暮れるだろ」
謙太郎は兄の腕を引っ張ったが、まったく動かないのを見ると、溜め息をついた。
「俺は自分の家に帰るぞ。兄貴はどうする?」
ついてく他、なかった。家には帰りたくない。
無言で弟に付いていっていた惣右衛門だったが、上野を越えるころには、事の顛末を話し始めていた。根岸の自宅に着くころには、謙太郎は呆れていた。
「なんであのごろつきみたいなやつの面倒みてんだよ」
「だって、おみよが」
「金だけやって追っ払えばよかったんだ」
弟は相変わらず又三郎が嫌いだった。一度、又三郎の美人局に引っ掛かって、惣弥に江戸を追い出されてからはさらに嫌いになっていた。
お琴が余計なのを一人連れてきたと顔を顰めて、弟は部屋着に着替えてくると、縁側に座った惣右衛門の隣に腰掛けた。あのあたりで本を買っていたのだという。そういえば弟は顔に似合わず本をよく読んでいた。
庭には庭師が入っているのか、いろいろな花や木が調和を持って鎮座している。なんという名前かはわからなかったが。弟も庭師に全てを任せているらしい。
薄暗い夕暮れで、段々と星が目立ち始め、隣に座る謙太郎の顔が見えなくなりそう。弟は夏はホタルを放そうと思うと、庭の人工池を指差して言った。
油を用意してきたお琴が、夕食はどうしますか、と訊ねた。そういえば今日はなにも食べていない。ただ食べたくはなかった。首を振ると、弟は俺もいいやと首を揃える。
「急に暑くなったせいか、腹がへらねえなあ」
ぬるいお茶を淹れてもらい、飲みほした。落ち着いてくると、弟は話の続きを促した。惣右衛門は千代を十日間謹慎したことや、里香と喧嘩したことを話す。守口の家に千代をやりそうになることも話した。
「ふーん。十日も閉じ込めておきながら、結局許すのか」
「誰のせいだと思ってんだ。父親も出てきやがったし、俺は本当は嫌なんだ…」
「もう諦めろよ。一之助さまって結構いい奴だろ?」
「そうは思えねえ」
「そりゃあんたからしたら誰だってそうだろうよ。ちょっと頼りねえけど、なにより顔がいい」
「父親は岩みたいな男だ」
「そうなんだよな。それが不思議でなんねえよ。なにか間違いが起きたんじゃなきゃ、思いつかねえよな。つまりは種が違うか、種が突然変わっちまったみたいに。ほら時々花でもあるだろ。きれいな紫の朝顔が、白になっちまうことだって」
そうかもしれない。そうだとしたら、惣右衛門は先代の子の可能性だって出てくる。弟は先代の部分だけ母親の中に忘れてきてしまったんだろうか?ぼんやりとしていた顔は、こう見ると悠然とした顔にも見えるから怖かった。
そして弟とこんなふうに彼と話すのは初めてだと気が付いた。昔を思い出そうとしても、弟の非難する目を思い出してしまうだけだった。それなのに、今では本当の兄弟のように、話している。
「千代も誰かの女房になるのか。まあ、でももう二十歳だもんな」
惣右衛門には割り切れなかった。目頭を抑えた兄に、謙太郎は言う。
「泣くなよ。遅せえくれえだぞ。あんたがいつまでもぐずってるから、千代は行き遅れの仲間入りだ。可哀想に、短い娘時代をあんたの人形として過ごしたんだぞ」
「だから、許すって…」
「当たり前だ、馬鹿」




