CHAPTER 17
芳吉は一之助に駆け寄った。体格では芳吉のようが恵まれているみたい。一之助は見えなくなってしまった。
彼らが千代を振りかえって、千代は手を上げた。一之助は素っ頓狂な声を出して、芳吉に塞がれていた。
「千代!なにやってんだ」
いつもの癖で、千代の手を取った一之助だが、周りを見回した。女の子たちが、くすくすと笑いあっている。
「私、今日一日家にいなくちゃいけなかったんですけど、お父さんが心配で」
「お父上が?昨日、家に帰られたと思うけど…」
「え、そうなんですか?」
一度も帰ってきていない父に番頭たちは困っていた。彦兵衛なんてもともと禿げて髷が少なくなっているくせに、髪が抜けたことを父のせいにしていた。
千代は一之助から、昨日父と会ったこと、一之助の父が千代の父と会って、結婚を許してくれと頼んだことを聞いた。
「殴られた…親父以外では初めてかな?」
「大丈夫ですか?」
「上手く避けたから、女の子のビンタみたいだった」
それは強がりだった。一之助の頬は少し腫れている。相当強くやらないと、ここまで酷くならなかった。
「お父さんが人を殴るなんて」
「しょうがないよ。それに殴られてよかった」
「え?」
「今度、挨拶に行くよ」
一之助は千代に接近していて、いつも同じ距離なのだが、今日は袴を履いているせいか余計近くに感じる。
「あの、一之助さま、さっきからどうもあの子たちが私たちに大注目しているんですけど」
「三軒先の夫婦もだよ」
「斜め後ろのジジイたちもです」
「千代を若君だと思っているのかも」
「そうすると、今の私たちは、とても、古風な…古き良き時代の二人ですね」
「そうかもしれない。温故知新だ」
芳吉は呆れている。一之助が、冗談のつもりか、千代の袴の一文字結を掴んで引き寄せた。千代も、一之助の頬に自分の頬をすり付ける。千代は女としては少し背が高めだった。草履を履いていても、一之助より一寸も身長は違わない。
「すっごーい、今の見た?」
その子たちは悲鳴を上げた。ジジイ達もあんぐりと口を開け、夫婦はいそいそと仕事に戻っている。
「でも、実際に温故知新はしないでくださいね」
「わ、分かってるよ」
丁度、今から帰宅するところだという。
「もし、父を見かけたら家に帰るように言ってくれませんか?私は芳吉ともうちょっと父を探します」
「芳吉と?」
にわかに苦い顔をした一之助に、芳吉は笑みを堪えている。一緒に行こうかという誘いも、千代は断ったからだ。
「結婚前の最後の自由ですよ。さあ、一之助さまは、お勤めを果たしてください」
「もう、終わった」
「帰宅するまでです」
芳吉に急かされ、一之助はしぶしぶと名残惜しそうに、二人を振り返りながら別れた。
昼の四つを過ぎ、千代と芳吉は父がよく訪れていると聞いた伊勢又三郎の住む裏長屋に向かう。途中の水茶屋で場所を確認しようと思い、店の女の子に声をかけようとすると、縞格子の柄で千代と色違いの着物だ。嬉しくなって、千代は変装中だということも忘れ、ちろちろと視線を送った。彼女は華奢過ぎる少年に気が付いて、その顔を凝視した。千代は気づいたと思って笑みを浮かべ、高い声も気にせず、挨拶をしようと口の形を作った。
「千代さん?千代さんですよね?」
なんで知ってるんだと不思議だったが、見たことある顔ではない。彼女も、口に手を当てて、千代の言葉を待っている。
彼女は健康的な浅黒い肌に、男の子のようなはっきりとした顔つきをしていた。ぱっちりとした二重瞼や濃い眉、形の良い唇はどれをとっても素敵だった。隅田川の水を使って初湯をつかった江戸っ子たちを書くならこう。千代は自分のぽやぽやした色白が恥ずかしく思えるほどだった。
「な、なんで」
「あ…そうですよね。私の父が惣右衛門さんにお世話になっていて、おみよといいます」
この子が、千代はじろじろと眺めまわした。でも、やましいことがあったら、自分から言わない。ひょっとしたら、本当に噂だけだったのかもしれない。おみよは微笑みながら、千代を見た。感謝すら浮かんでいるその目に怯んだ。
「父が?」
「ええ、私の父と古い友人だったんですって」
彼女がもう一度千代に聞き返そうとすると、奥から女主人の声がする。おみよを呼んでいるのだった。千代は話が聞きたくなって、おみよを引きとめた。
「おばさん!ちょっと、おみよちゃんをかりてもいい?」
「私はもうちょっとであがりますから」
おみよは引きとめて、お内儀さんに掛け合っている。タスキをしまうと、千代の前ではにかんだ。
「それで、どうしてそんな格好を?とても似あってますけど」
「話せば長くなるんだけど、その話は後でもいい?」
おみよが頷いたから、千代は先ほどの話の続きを聞きたかった。
「つまり、その、あなたのお父様が、私の父と友人だった?」
「ええ」
「だから時々会ったりしてるの?」
「そうです。父の話し相手になってくれて、薬代までいただいてるんです」
「それだけ?」
「それだけって?」
「あの、つまり、気を悪くしたら申し訳ないんだけど、父とは何もなかった?」
きょとんとして、おみよはその次に笑いだした。
「まさかあ、だって惣右衛門さんは父と同い年ですよ?」
にこにことするおみよを見て、千代は芳吉と顔を見合わせる。じゃあなんでお父さんはあんな風に隠したりするのだろう?
「うちは近くですよ。父に会いますか?部屋は汚いけど…」
とにかくおみよの父に会ってみることにする。お父さんを探しにきたのに。
表通りを行く千代とおみよを少し後ろから芳吉が辺りを見回して付いてくる。少しも歩かないうちに、柄の悪い遊び人みたいな人達に、罵声を浴びせられた。
「おい、アレみてみろよ!“小倉庵”かよ」
「お嬢ちゃんたち、どこ行くの?」
行く手を阻まれて、千代は悪態をついた。
クソッ。
どうやら彼らには、芳吉の姿が見えなかったみたい。千代は腰に手を当てて、叫んでいた。
「その甘ったるい口、黙らないとただじゃおかねえぞ」
途端にヒューとか、はやし立てる声をあげる。おみよは「無視して」とことを荒げないように、千代の耳元で囁いた。負けじと千代も、安心させるように言った。
「こっちには、日暮里のこんこんさんが」
「なにそれ、全然強そうじゃない!」
芳吉の道場のあだ名なのだが、初耳にはなかなかなじまないならしい。芳吉の生家は日暮里にある古着屋で、先代の弟の三女だかが嫁いでいて、つまり千代とは親戚なのだ。いつもにこにこ笑っていて、こんこんさんのように頭が良いから、日暮里のこんこんさんなのだが、どうやら道場の友達にしか通じていないらしい。
「日暮里のこんこんさん?」
しかし、そいつらは反応した。その顔がみるみる困惑していく。どうやら分かる人達みたいね。
「そう。日暮里のこんこんさん」
「お前が?」
「違う!いや、正確には、私はこんこんさんの一番弟子」
芳吉は団子屋の婆に絡まれていて、振り返ってみると相当後ろの方にいた。呑気に飴を購入していた。千代が買ったことにするつもりのよう。立派な体格の芳吉の姿を認めた不良たちは、顔をひきつらせた。日暮里のこんこんさんのあだ名は伊達じゃない。
「くそ、覚えてろ」
芳吉のにこにこをみてしまったら、もう逃げられない。噂は尾鰭を付けて広がり、芳吉は喧嘩をせずとも勝つ。でも芳吉は一度だって真剣で戦ったことはないし、人とも喧嘩したことはないのだが。芳吉の友達たちの噂の威力は凄い。にこにこ顔の後ろには大量の屍が、なんて不名誉な噂話をされている。
「どうしたんですか?」
「道を聞きたかったみたい」
三人分の水あめを手に持った芳吉は、千代とおみよにも水あめを渡した。しれっと答えた千代も遠慮なく水あめを口に含んだ。あまーい。
「さ、食べて」
おみよは上の方だけちょろっと口をつけて、甘さに見悶えていた。
「おいしい」
三口くらいで味わってしまった千代や芳吉と違い、おみよは長屋に着くまでもったいぶってなめていた。
「ここです」
恥ずかしそうにおみよは戸を開け、父親を大声で呼んだ。
「おっとさん」
同い年の割には父より老けている。千代はその小さな背中の男を見た。彼も千代の姿を目を見開いて凝視した。
「おどろいた」
又三郎が最初だった。千代が袴姿で、父の惣右衛門に似ていたからだ。そして、千代も驚いていた。又三郎が妖怪みたいなおじさんだったからだ。これから、おみよみたいな可愛い子が生まれるかしら?
「わ、私もです」
「でも、惣弥は娘だと言っていたが…」
「これは変装中で」
おみよの顔を見ると彼女も聞きたそうだったから、千代は掻い摘んで話した。つまり一之助と密会したから、お仕置きされた経緯を。
「ああ、その話か」
なぜだか又三郎はそのことを知っていて、あんまり父ちゃんに心配かけるなよと笑った。千代はそんな最新の話を知っている又三郎が不思議だったが、何日か前に父が訪れているらしく、納得した。
「それで、どうして今日は来たんだ?そんな格好までして」
「お父さんがいなくなっちゃって」
「なんで」
「お母さんを追いかけて、一之助さまを殴って、そのままどこかへ行っちゃった」
「あいつ、昔からカッとすると、訳わかんなくなるからなあ」
昔のことを思い出したのか、喉を鳴らしながら笑う。
「どこに行ったか心当たりはありませんか?」
「さあ、わかんねえ」
「私もどこに行ったか全然わかんない。お父さんのこと、なんにも知らないんだもん。だって、あなたみたいな、悪い意味じゃないのよ、友達がいるなんて知らなかったんです」
「俺もまさかの展開に驚いてる」
又三郎もうんうんと頷いた。それからにやにやして、千代にたぶん惣右衛門が娘や妻に教えたくないことを告げ口した。
「いまじゃ想像できないけど、あいつ昔、引き算ができなかったんだぜ」
これには千代だけでなく芳吉も目を剥いた。おみよは何故だか、父親を睨んだだけだ。
「そんなまさか」
「ほんと、ほんと」
「でも、うんと小さい頃でしょ。物心付く前とか」
「いいや、十才くらいまで」
困惑している二人に、又三郎は面白くなってきたのか、父との思い出話を喋りまくっていた。
「文字も読めなかったし、馬鹿だったし、鼻水垂らしていた。いまじゃ大違いだぜ。いつの間にか入れ替わっちまったみてえだ。俺もこんななりしてるけど、元は御家人の次男坊なんだ」
「又三郎なのに?」
「姉貴がいるんだよ」
「ふーん。でも、お父さんが文字も読めなかったなんて驚きだわ。今じゃ、算術も好きなのよ」
「だから不思議なんだよ。どこでなにを間違ったか…昔は俺の子分だったんだけど」
いじめっ子から守ってやったとか、博打で勝った金で飴を買ってやったとか(悪ガキの又三郎はほんの若いうちからそんな場所に出入りしていた!)、惣弥という字を教えてやったとか、嬉々として話す又三郎は陽気なジジイだった。千代も笑いながら、彼の話を聞く。おみよがお茶を淹れてくれて、芳吉はさっきからの衝撃で胡乱だった。
「でも、そんなに仲良かったのに、どうして喧嘩しちゃったの?」
「不幸な行き違いだよ。つまり、俺は相手方によく選ぶように言ったんだけど、おふみっていう女なんだけど、惣弥の弟を嵌めちまって」
「叔父さんを嵌めたって?」
もしかして、叔父を追い出したことに関係している?千代は身を乗り出して聞いた。
「つまり、その頃の俺の主な収入源だった、そのだな、あれだよ」
「美人局」
おみよからの横やりに又三郎は顔を顰めた。
「はっきり言うな。暗かったし、相手が誰だか分かんなかった。ただいつもならことに及ぶ前に俺が踏み込むはずが、おふみが、今日は遅めにしろってんで妙だとは思ってたんだけど。俺が踏み込んで『てめえ、俺の女房に手を出しやがって』と言おうとした時、謙太も俺に気がついて、ブチ切れやがった」
その時叔父は大小を持つ又三郎に殴りかかって来たという。まさか、あの叔父が?
「『てめえこそ、兄貴の恩を忘れやがって』ってな。俺はその頃、小遣いを惣弥に貰ってたから。おふみはまさか丸腰で素っ裸の謙太が反撃するとも思わなかったから、慌てて外に飛び出るし、町方に捉まるし、さんざんだったんだ。だが、最悪なのは最後だ。修羅のような惣弥が自身番に到来して、俺ら二人を追放した…」
修羅の様なってなによ。が、千代は合点がいった。お母さんが言っていた、叔父を追い出す顛末はここね。まあ、美人局に引っ掛かったら、しょうがないかもね。千代は叔父に同情するのを止めた。商売で大切なのは信用だ。
「それはご愁傷さま」
「まあ、今世話になってるからこれでおあいこな」
おあいこってあんたが悪いんじゃん!千代はそう思ったが、言うのは止めた。
またもや趣味に走りました…




