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CHAPTER 16


 昨日、父は帰ってこなかった。それどころか、母も朝帰りだった。千代は番頭の彦兵衛に頼み込まなければいけない。


「お母さん!」


 千代は母に飛びついた。母は千代の頬を手で撫でる。


「お母さんが出て行っちゃったらどうしようって…」

「千代を置いてどこにもいかない」

「でも、お父さんもどっか行っちゃった」

「そうなの?」

「お母さん、昨日、どこ行っていたの?」

「ちょっと宿に泊めてもらったの」


 母はにっこりと笑って、静にお茶を頼んだ。千代と縁側に腰掛ける。


「お父さんと離縁するの?」

「まあ、なんてこと言うの?万が一なにかあったとしても、千代がお嫁に行くまではしない。それに、そんなことお父さんとは話してないのよ」

「でも、お父さんは昨日、絶望的な顔をして帰ってきて、出て行った…」

「そういうところがあるのよ。大丈夫、今日になったら戻って来るわ。もう二十年以上も一緒にいるんですもの。大喧嘩だってするわ」


 母はやけにすっきりとした顔で、千代を見た。なにかを言おうとして、口を開きかけて、そこへ静がお茶を持ってきてくれた。お礼を言って、口を付ける。


「ねえ、千代。その方と、一之助さまと一緒になりたい?」


 やけに静かで、語りかける口調に、千代はぽかんとした。だって、母は認めていなかったはず。強請りやたかりをしている人の仲間なんてと、軽蔑していたくせに。


「私も考えて、もし、これはお父さんとも話し合わなければいけないけど、千代がそうなりたいなら、それでもいい。賛成します」


 頷きたかったけど、千代は呆然として母の話を聞いているだけだった。


「お父さんは、加斗屋の心配もあるから複雑でしょうけど…でも、千代が本気なら賛成してくれるはず」

「お母さんは、一之助さまを知らないのに?」

「これは、千代を信じる。千代が好きになった人よ、悪い人ではないのでしょう?」


 母は一之助を非難したし、軽んじていた。

 大きく千代は頷く。一之助さまは、良い人だ。優しいし、礼儀正しく、こんな完璧な人はいないと思えるほど。


「完璧な人よ」


 そうすると、母はかろやかに笑った。


「完璧な人なんて、いないわ。お父さんも、完璧じゃないでしょう?若い時の横顔は完璧だったけど」


 それから、二人で暫らく話をした。千代は一之助のことを母に話した。どんな風に出会って、どんなことを話したか、どんな人か。母は頷きながら、一つ一つの話に驚いたり笑ったりした。


「でも、どうして賛成してくれる気になったの?」


 母は一息入れて、千代を見た。


「昨晩考えたの。自分たちを振り返ってみれば、この結婚に、概ね合格をあげたい。身分差や考え方の違いもあった。それでも、困難を上回る幸せがあった。父上が亡くなったことは悲しいけど、父上が見守ってくれているおかげと思いたい」


 後悔がないというわけではないが、里香は結末を知っていても、またこの道を行きたい。そう思えるのは素晴らしいことではないか。それだけで、自分たちを認めてもいいのではないか。


「だから、千代もそうでしょう。不安はあるけれど、これは加斗屋の結婚でも私たちの結婚でもない。千代のものよ。だから、千代が決めるべきでしょう」

 


 昼過ぎても父が帰ってこないと、母は探しに行くと腰を上げた。物々しい母の雰囲気に、ただならぬ思いを感じて、千代は声を上げた。


「私もいく」

「駄目よ。今日が終わるまでは家にいる約束でしょう」


 母はこんな時でも、約束を守れと言う。千代は従いたくないのに、結局は母が出ていく後ろ姿を見送った。


「お嬢さん」


 芳吉は口に人差し指を当てて、千代を部屋へ引っ張りこんだ。風呂敷を抱えている。


「今日一日、お嬢さんは、俺の同じ道場の友達の鶴介です」


 包みの中には男物の袴があった。縞格子の柄が渋い色に染まっている。千代は笑みを浮かべる。この際、どんな姿でもいい。

 帯を乱暴にとってしまうと、芳吉は素早くさらしを巻き込んだ。


「痛いっ」

「我慢してください」

「無理よッこの何年かで、おっぱい大きくなっちゃったんだもん」


 なんとかさらしを巻き終わり、芳吉は袴をはかせる。髪を結わき直し、鏡を見ると、小さむらいが見つめていた。


「でも、いいの?こんな悪だくみに加担したとなったら、お父さんやお母さんにおこられちゃうかも」

「どうせなら首謀者にしてください。あと少ししたら、実家に帰るんです。最後くらい、ド派手にかましたいじゃないですか」


 芳吉は千代の手を取った。裏口に向かって、二人で走る。途中で女中の静に出会ったが、どなり声は無視した。

 九日ぶりの外は、随分変わったように思える。母と外出した時は、そうは思わなかったのに。


「どこを探します?」


 初夏の日差しに、道行く人々は輝いている。芳吉は、それらの人々に目をやりながら、惣右衛門が面倒を見ていると噂の親子の家を訪ねることを提案した。

 千代は自分の格好がおかしくないか、袴に目を配る。こころなしか、いつもより視線を感じる。通りかかった女の子たちや少しの男性たちが、千代に熱い視線を送るっているのだ。ためしに微笑んでみると、彼女たちは黄色い声をあげて過ぎ去った。千代は居心地が悪くなって、芳吉に隠れる。女の姿の時より、人気者だわ。


「お母さんが先に行ってないかしら?」

「お内儀さんに手紙は取られましたけど、詳しい場所は書いてなかったはずです。一之助さまに聞けば…」

「八丁堀まで行く……まって、あれ」


 千代は丁度、見計らったかのように、街道に出てきた一之助を見つけた。


「すごい偶然」

「怖いですね」



趣味に走っちゃった…

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