CHAPTER 15
鰯油の匂いの中、円になって座っている顔だけがぼんやりと浮かび上がる。惣右衛門はその中の一人で、差配の顔が対角上に見える位置だ。今日はこの間の四人のうち、二人が来ていた。酒乱の久兵衛と、音瀬だった。今日は惣右衛門と差配と中宿の主人、そしてその二人だけだ。
音瀬と久兵衛の話を聞くと、次は惣右衛門の番になった。惣右衛門は紙を取り出して、言うべきことを書いた紙を見る。さっき、結婚させるか否かは、ほぼ決着がついた。瀬戸屋さんには悪いが、断りを入れなくてはならない。ああも頼まれたら、娘が嫌がっていないのだ。認めるしかなかった。
「今日、相談したいことは一つです」
惣右衛門は舌がもつれそうになりながら、妻に浮気を疑われて、出ていかれたことを告白した。久兵衛は涙ぐんでいた。どうやら、恵吾だけでなく、久兵衛も妻に逃げられたようだ。
「私は、浮気はしていません。誓ってもです。でも、その面倒を見ている人、仮にイさんとすると、イさんのことを妻に話したくないんです」
音瀬は優しく聞いた。
「何故です?」
なぜか。それは惣右衛門や又三郎の尊厳に関わることだった。惣右衛門は言おうとして、覚悟してこの場に座ったものの、まだ震えた。言いたくなくて、上手く口が開かない。そのくせ、喉には早く吐き出したくて溜まっているものがある。深く息をした。
「その人と、若いころ、少しの間、関係をもったからです」
久兵衛は口に手を当てた。音瀬も差配も中宿の主人も驚いた顔を、暗いなかでも分かるほど作っていた。言ってしまえば、どうってことないのだが、やはり事実は重かった。
「それも、指で数えられるだけです…足も入れたらですが…」
なんとか言ってみる。でも、目は緩み、淵に涙が溜まっていた。涙目だ。
里香が知ったら、気味悪がるのではないか。それが素直に話さなかった理由だ。里香と一緒になる前の話だし、十代のほんのわずかな時間だけだった。それでも惣右衛門は怖かったのだ。もし、里香が軽蔑の視線を自分に向けたら、その目が拒絶していたら。過去に関係のあった人なら、疑われても反論できない。
白状すれば惣右衛門は里香や又三郎が羨ましかった。彼らは落ちぶれても、旗本の娘であり、御家人の息子だった。ふとした瞬間に彼らに現れる侍たちの目が、どれほど自分を灼いただろう。それは生まれる前から決まっていたことだ。彼らだって望んで武家に生まれたのではないということは分かっていた。でも、どうしても羨望と嫉妬はある。それが、里香への本来持つべき愛情を歪ませた。恋には落ちたが、情は奇妙に絆された。
「全て話して、楽になるという方法もあります。一人で抱える思い出も秘密も辛いものです。お内儀になら、なおさらなのではありませんか?」
差配は言った。あくまで惣右衛門が迷っていることで助言をくれる。
「はい」
おみよが現れた時、知らぬとつっぱねれば、こんなことにはならなかったのかもしれない。又三郎は一度、惣右衛門の人生から出ていった存在だ。居なくなったままでも、はるか昔の思い出として、死に際に振り返る一つでしかない。
でも、おみよの思いつめた顔はどうすればよかったというのだろう。奇しくも、おみよと千代は一つしか年が変わらない。千代をこの手で育て後に、同じ年代の娘が困って、縋ってきたら嫌でも心は動く。町中を騒がす事件に若い娘が巻き込まれていたら、親と同じように怒り悲しむだろう。そして、その間に昔を現在と切り離された過去として懐かしむのは罪だろうか。
久兵衛はゆっくりと自分の意見を言った。
「俺は無理に言わなくてもいいと思う」
はっとして彼を見た。久兵衛は、惣右衛門がそうしたいと思っているほうに賛成した。
上手く言えないけど、久兵衛は言い淀んだ。
惣右衛門は何度も頷いた。言ってしまったほうが楽だ。相当の勇気が必要。そうしないというのなら、あとは黙っていることだ。墓場まで持っていくのには、忍耐が必要だった。
「言いたくないけど、妻には帰ってきて欲しい」
それは本心だ。意地や世間体だけではない。思い出に縋っているわけでもなく、惣右衛門は里香に帰ってきて欲しかった。彼女との長い夫婦生活は、劣等感だけがあるわけではなかった。あれも、これも、つまりは他方に伸びた感情がある。
「それに、他にも秘密が…」
惣右衛門は意を決した。ここの人々は同じように悩みを持っているからこそ、自分を非難しない。否定もしなければ、頷いてくれる。惣右衛門にはそういう場所は必要だった。
みんな惣右衛門の話を待っている。橙色の顔には、気遣いも見てとれる。
「それだけじゃなく、弟の母親とも関係を」
お家問題のことは話してあった。店の者たちは、先代のお内儀が惣弥の働きに感激して、店を譲る気になったのだと思っている。お内儀さんも最後には正しい判断をしたなあ、と。だが違う。弟は確かにぼうっとしていたが、あれはあれでいい主人になれたと思う。今がいい証明だった。
「店を乗っ取ろうとしました。成功はしました。けれど、今思えば、苦しいだけです。良い人たちだったから」
母の嘘に騙されてくれた先代の主人、お内儀、無邪気に慕ってくれた弟。恩を仇で返すような行為だった。当時にあったのは妬み嫉みだった。同じ家に住めていても、彼らとは別のところに住んでいた。自分の姦計のせいで、弟とその母親に深い確執を植え付けてしまった。本人たちの問題だと思い直してみても、いや自分がいなければ仲違いせずにすんだのではないか、と考えは堂々巡りをしてしまう。そのくせに、本人たちに確かめる勇気はないのだ。
唯一、それらを忘れられるのは、里香や千代といる時だった。彼女たちは自分を必要としていた。千代はその最たるもので、自分が寝かしつけ、手を引いてきた。罪悪感に潰れそうな時期も、幼い千代がなんの不安も恐怖もなく、横で眠っている姿は、それだけで自分を肯定してくれた。
「それはお内儀に話していないことですね?」
「そうです」
鼻をすすった。唇が波のように歪んでいた。もうこれで隠し事はない。みんなはほうっと息を付く。話しただけでも胸がすうっとした。
もう惣右衛門の中では決着がついていた。もともとそんなに考えることに時間はかけないし、答えをだしてから思い直すことはあっても、後悔はしないというややこしい性格をしていたせいだ。
里香には又三郎のことは言わない。絶対に。これは墓場に持っていこう。夫婦だからってなにもかも話さなくてもいい。黙っていても許される方法はあった。
差配はこういうことは得意だと言わんばかりに、胸を張った。
「それなら、どれだけあなたがお内儀のことを想っているか、伝えなくちゃいけません」




