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CHAPTER 12


 里香は徳次郎の後を追った。とにかく口の周りを砂糖塗れにしている夫の顔は、いくら好みだろうと、見たくなかった。

 徳次郎の歩き方はゆっくりとしていて、里香が夫と口論してから家をでても、追いつけるほどだった。


「待って!」


 彼は人通りの多い表通りを、商店を冷やかしながら歩いていた。里香の声に体を捻り、振り返って彼女を見た。


「どうしましたか?」


 駆け足で来た里香は肩で息をして、すぐには答えられなかった。でも、徳次郎は待っていてくれたし、手を差し出してくれた。


「ごめんなさい、あの、先ほどは失礼しました」

「なんのことです」


 特に変わった様子もない。もしかして、夫が言ったように本当に気が付いていないのか。里香は彼に導かれるままに横道に逸れた。苦笑して、里香を水茶屋の店先に座らせる。


「旦那さんは…とても、やきもち焼きなようですね」


 “とても”に力を入れて、里香を茶化した。ちゃんと分かっていたみたいだ。ぼんやりしているように見えて、ちゃんと観察しているようだ。嫉妬を露わにする亭主に、呆れたに違いない。


「すみません、違うんです。私が悪いんです」

「好かれている証拠ではありませんか?」


 里香は首を横に振った。顔が歪み、しゃくり上げて、泣く寸前のような顔をしてしまう。


「言ってください。もちろんネタとしてお借りする時は、ちゃんと名前を変えますよ」


 里香は、茶目っけたっぷりに言う徳次郎に全て話してしまいたかった。私たちより年下なのに、しっかりとしている。励まされて、重い口を開くと、意外なほどすんなりと言葉は出てきた。


「……浮気は男の甲斐性ですか?惣弥はあの通り昔から美男だし、もう年なのに、女から言い寄られます。大店の旦那だから、しょうがないって…で、でも、私は、駄目なんです。私のほうが、許せない」


 徳次郎は力強く肯いた。里香の味方だ。彼なら否定しないという確信があったのかもしれない。それがどこから出てくるのかは分からなかった。


「娘ほど年の離れてるコと、会ってるって…もし、単なる浮気じゃなく、私ではなく、そのコのほうが好きだったら、どうしよう…私とまだいるのは、娘がいるという義務だけだったら?」


 少なくとも、惣弥は娘を捨てはすまい。唯一、血の繋がった家族だ。でも、自分は?惣弥にとってただのお荷物以外の何物でもなかったら、どうしよう。夫の前では、嫉妬に取り乱したりはしていないし、怒っているけれど不安そうにはしていない。けれど、本当は不安でしょうがなかった。

 徳次郎は里香の肩を抱き、落ち着かせようと、大きな手で背中をさすった。もうなぜ腹を立てて、掻き乱されているのかわからない。夫のことが好きなのかもわからない。


「……もし、もしですよ。もし、あなたが少し考えたり、落ち着きたいというなら、私が三行半をご亭主から貰ってきてあげます。わ、私の家に、うるさいのが三人ほどいますが、宿代わりにしてくださっても構いません」


 背中にまわされた手が震えているのが分かった。だから私はこの人に甘えたのだ。里香は彼に体重を預けたかった。

 でも、そうしなかったのは、惣弥が追いかけてきたからだ。妻と徳次郎を見て、頭にきたようだった。相手が旗本でも、関係ないらしい。彼は意外と激情家だった。

 惣弥の姿を見て、徳次郎は里香から手を離した。さすがにまずいと思ったらしい。


「違うわ」


 力なく反論したけど、惣弥は何も言わなかった。深く息をして、その先を促しているようにも見える。それとも白状するのを待っているのを待っている?


「あなたは誤解しているでしょうけど、違う。違うわ、だって…」


 言うことはない。惣弥も徳次郎に二人の関係がぼろぼろなのを悟られているは分かったのだろう。


「戻りたいならそれでもいい」


 武家に戻りたいか。それは里香の命題だった。もし父が健在だったら?もし恭太郎と結婚できてたら未来は変わっただろうか。惣弥と会うこともなく、この苦しみを味わうことなかった。武士の娘として、妻として、母としての一生をまっとうしていたのではないか。なれない愛想笑いもしなくていい。自由は無かったが、不安もなかった。


「あなたはッ…いつもそうだわ!私になにも話してくれない。私に黙って、私の知らない人の面倒を見てたわ!私は飾りなの?私は旗本の娘よ、その背景が欲しかったの?」

「俺の話を無視しているのはお前だろッ、それに旗本ったって名前だけじゃないか!」


 徳次郎は腰を上げた。痴話喧嘩とはいえ、聞き捨てならない台詞だった。貧乏になっても、作家という肩書を持っていても、旗本という支えがあるから、聴衆の無言の侮蔑に耐えていられたのだ。暗がりから自分ひとりでのし上がってこられた惣弥に分かるまい。だから、彼が愛おしかった。羨ましかった。でも、今はそれがどうしようもなく憎い。


「加斗屋さん、いくらなんでも、それは言い過ぎです。大内家は三河から続く…」


 惣弥は睨みつけたし、そんなことが何なんだと言いたげだった。徳次郎はその剣幕に怯んだが、怒り狂うこともなく、静かに両人の間に立っていた。正体を無くしたことに気が付いたように、惣弥は体をぎこちなく動かした。


「と、とにかく、少し時間を置かれてはどうか。里香さんは、私の家で預かりましょう」


 唇を噛みしめた惣弥は、一度息を吐いて、「そうしてください」と呟いた。取り巻く人々は、そんな夫婦喧嘩も犬も食わねえとすぐに忘れていくだろう。夕食時に思い出しても、一晩経てば跡形もなく忘れている。移り気は嬉しかった。


***


 家では千代が泣きはらした顔で出迎えた。惣右衛門は娘の顔を良く見てみる。自分の若いころにそっくりだ。と言っても、千代のほうが輪郭は華奢で、頬がふっくらしているし、幸せそうである。

 だが、外見だけでは里香に似ているところはあまりなかった。彼女が自分に似ていない娘に愛情を持てるのは、千代が里香の中で十カ月も生きていたからだ。そして、自分の股の間から出てきたのを知っているからだ。そこには夫の必死な猜疑心もなく、子供の不安もないのだろう。


「お母さんは?」


 出て行った母を追いかけて行った父は一人で帰って来た。


「出て行ったよ」


 千代の顔が奇妙に歪んで、目には涙の粒が浮かんだ。


「帰って来る?」

「わからない」


 千代の湖が溢れた。芳吉が千代の涙を拭いてくれるだろう。二人は一人っ子同士だから気が合うのか、よく一緒にいた。

 惣右衛門は娘を彼に任せることにして、自室に戻った。彦兵衛はその辺を分かってくれているだろうし、もうすぐ代替わりしそうな主人を労わってくれるだけの優しさを持っていた。

 筆を持って、紙に文字を書いていく。昔は、音に記号があることが不思議だった。くっつきの“を”が書けなくて、又三郎に何度も教えてもらった。それらは過ぎ去り、現在の又三郎は無責任にも娘を押しつけようとする。考えておくと言ったものの、自分の娘より若い愛人を持つわけはない。それなりに金持ちを紹介しておけばいいとしか考えていなかった。それどころではないからだ。里香は惣弥から逃げて行った。母と同じように。

 紙には相談会で話したい内容を書いた。一つは、妻に本当のことを話すべきか。もう一つは、千代の結婚を許すべきか。

 すっかりあの中宿を利用していることに苦笑した。あれから二、三度となく通ったところだった。紙の墨が乾くのを待って、惣右衛門は立ち上がった。中宿に行く前に、向かうべきところがあった。

 店を出ると、寛太が追いかけてきた。彦兵衛の小言を伝えに来たのかもしれない。


「旦那さま!」


 寛太は息を切らしながら、惣右衛門の足に追いついた。五年前に寛太は加斗屋にやって来たのだが、この家で唯一、親戚筋でも知り合いの店からでもなく、小僧になった。そういう子は、どんなに頑張っても手代止まりで、番頭になれたらよっぽど能力がある。寛太の夢は、火事で無くなった両親の店を復活させることだった。そうでなくても自分の店を持つことが夢だ。家族は無事だったもの、店は立ち直れないほどになってしまって、父親は心労ですぐに亡くなった。

 親戚が寛太を引き取るのを躊躇ったため、たまたま通りかかった惣右衛門が引き受けたのだが、五年もたってみるといい拾いものをしたと思う。よく働くし、擦れていない。年は離れているが千代と結婚させて、一時期は本気で後を継がせようとしたほどだ。寛太も冗談にまんざらでもなく頷いていたし、いいところまで行ったのだが、やはり年が離れていることが災いした。二軒先の瀬戸屋さんが、次男をどうかと、寄合の席でしきりに勧めてきたのだ。困った。そうしているうちに千代は二十歳になってしまった。そして今回の事件である。


「寛太、すまないね」

「なんです?」

「いや、千代は一之助とかいうのに夢中だし、瀬戸屋さんとのお見合いもある。店が欲しかったんじゃないかえ?」


 寛太はにかっと笑って、自分の胸を叩いた。


「大丈夫です!俺はなんとかやりますよ。それより、お嬢さんが心配だ。旦那さまは、お嬢さんの好きなようにさせてあげないんですか?」

「武家は面倒臭いよ」

「そうですかねえ」

「そうだよ。私は、千代の好きなようにさせたいけど、どうしても心配が先走ってしまう」

「お嬢さんはもう二十歳ですよ」


 そうだ。少しは親元から放してあげなければいけない年だった。里香が嫌がったから、礼儀作法の大奥はもとより、武家へ行儀見習いにもいかせなかった。


「寛太はどうしたらいいと思う?」


 考え込むしぐさをしていたが、答えは決まっているようだった。寛太は言った。


「一之助さまとやらの結婚を認めるんです。でも、もし、出戻るようなことがあっても、俺がひきとります。そうすればすべて丸く収まるきがするんですけど、瀬戸屋さんには旦那さまが断りを入れなくちゃいけないけど…」

「…そりゃいいな」


 最後はやっかいだったし、二番目は寛太を信頼するしかない。一番目は認めたくなかった。それは惣右衛門のわがままかもしれない。千代は苦労や悲しみを進んで引き受けたいとすら考えているかもしれないからだ。そう思える相手は素敵だ。かつての惣右衛門もそうだった。里香と結婚したのも、人気取りだの、成り上がりの思い上がりだと散々影で言われた。けれど、構わない。彼女にはそれだけの魅力があった。当時の惣右衛門は、確実にそうだと言えた。

 寛太に店に戻るように言って、番頭からの小言を聞き、彼に小遣いをあげた。少し早歩きになって、目的地に向かう。

 でも、今は?もっと恐ろしいことに思い至っていたからだ。里香の知り合いの旗本が横やりを入れてきた時に、はっきりと感じた。里香に向かっていたのは、好意だけではない。それだけだけだったら、里香を好きでいられなかった。

今ならそれに名前を付けることができる。劣等感だった。

――俺は、(てて)なし子だ。

 加斗屋の先代の子供だというのは嘘だ。ちっとも似ていなかった。弟とも似ていない。母親似でも、年を取れば否応なしに仕草や顔つきは似てくるはずだった。それがないのだ。先代は今の惣右衛門と同じ年に亡くなった。思い出しても、顔や仕草だけでなく、体格も似ていない。

 母の家を訪れていた友達の顔を思い出して、面影を探しても、見つけられなかった。連綿と続く家系図を持つ里香には分からないことかもしれない。里香はぽつりと不意に現れた存在ではないからだ。生まれに父が欠損している事実というのは、気にしないようにしても、重くのしかかってくる。いいカモがいたもんだと母は思っただろう。間抜けなドラ息子を騙してまんまと金づるを見つけた。惣弥が九つの時に母は愛人だった浪人と江戸を出た。自分は死んだことにしろと言って、加斗屋に惣弥を放り込んだ。ただ、母に対して恨みはなかった。よくいい捨て場をみつけてくれた、と感心もしてしまう。加斗屋に来てから飢えで水を飲むこともなくなった。

 そんな岡場所の女の息子が、大店の旦那に成り上がり、不釣り合いの娘を嫁にもらった。

 里香が出て行ってもいい。でも、おみよとは今までもそうであったように、これからもなにもない。「小父さん」と呼んでくれればいいのだ。親友の娘だ。自分にも意地があった。

 惣右衛門は足が絡みつきそうになりながら、次第にほぼ駆け足で又三郎の家に向かって行った。駕籠を使うのももどかしい。息が上がって、戸を開けた時には、又三郎は驚いた顔をしていた。


「なにやってんだ」

「断りを入れようと思って」

「馬鹿。そうじゃねえよ」


 湯のみに入った水を差しだされるままに飲みほした。


「若い人は若い人と付き合ったほうがいいよ。それに、親子に世話になりたくない」


 又三郎が返事をする前に、おみよが顔を出した。今日は、店にでなくていいのか。


「惣右衛門さん、あたしは…」


 気が付いていないといえば、嘘だった。彼女の好意は、寄せられているこちらが苦しくなってしまいそうなものだった。最初は気のせいだと思ったし、里香の様子が変だから、自尊心のためにそう思いたいだけなのだと思っていた。

 彼女はその先を言い終わる前に、くるりと背を向けた。その後を追いかけようと、惣右衛門も足を踏み出す。何事かと、長屋の部屋から住人達が顔を出し、おみよと惣右衛門はその間をすり抜けて走った。


「待って!」


 段々と海鼠塀が増え、武家屋敷の密集してしまうところまで来てしまったのだ。静かでよかった。惣右衛門はおみよを捕まえて、彼女の顔を見ようとしたが、出来なかった。ばねのようにおみよが惣右衛門の胸に飛び込んできたからだ。


「おっとさんがばらしたのね。ごめんなさい、好き。好きです、ごめんなさい」


 肩を引きはがすことも、抱くこともできない。ただ黙って、彼女の言葉を聞いた。嬉しくないと言ったら、嘘になる。だけれど、関係を持つには、惣右衛門は娘を大切に育て過ぎた。彼女たちの若々しい肉体を抱きしめるのは同じ若者がいい。それが正しかった。


「でも、どうすることもできないんです。分かるでしょう?毎日は朝と夜あわせて十二あるのに、それが重なって年を取っていくのに、つまり、幾日かわからないけど、あたしとあなたの間には一定の期間がある。それが悔しいんです。こうして手を触れることはできるのに、壁で仕切られているみたい」


 里香は惣弥が悔しさに震えていた姿を知っている。おみよは知らなかった。それは、そんなに大きいことか?そうだった。惣弥は里香が没落していくのを見ていた。里香も惣弥がもがきながら、這いあがったのを見ていた。二人には歴史があった。加えて、千代という証人もいた。それは若い彼女が打ち破れないものだ。


「ごめん」


 おみよの髪の香油が香った。押しつけられた顔は惣右衛門からは見えなかったが、泣いていると分かった。


「里香が出て行った」


 びくっと彼女の肩が震えた。


「でも、これから先、君とそういうことにはならないと思う」


 はい、と小さな声が聞こえてきた。



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