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中編

「あらためて助けていただきありがとうございます。私はミリアンヌ。ナーミア神を主神とするナーミア教のシスターを務めております。こちらにいるのはアレン。孤児院で暮らす子供たちの一人です」

「……アレンだ」

 馬車の中で丁寧に挨拶をするミリアンヌに対してアレンと呼ばれた少年はこちらを警戒しているように険しい目を向けてくるが、ミリアンヌに促されたことで渋々といった感じで名乗った。

「ナーミア教のシスターでしたか。私は一応この隊のリーダーを務めているミランと申します。彼女はシオン。そして——」

「ルイリアス王国第一王女のマリアナ・ヘルオンスですわ」

「これは!王女殿下とは知らずにご無礼を!」

 まさか馬車の中で一般人のように振舞っていた相手が王女だとわかると慌てて平服しようとするミリアンヌだったが、それをマリアナは手で制した。

「そのようなことはしなくても結構ですわ。ここでは私とあなたは対等な立場であり、わたくしもそれを望んでいます。今あなたの目の前にいるのはただのマリアナですわ。それで?お二人はどうしてあんな事態になっていましたの?」

「はい。実は……」

 ミリアンヌはゆっくりとこれまでのことを語りだした。

 ミリアンヌは同じ教会で働く司教の頼みで隣町へ向かった帰りだったそうだ。用事を終えて何事も無く無事に村へと戻れると思っていた矢先、突如として森の中から襲撃を受けてしまったことであの状況に陥ったみたいだ。アレンは元々連れて行くつもりは無かったのだが、どうしても同行したいと聞かなかったので仕方なく一緒に向かうことにしたらしい。

 逃げるにしても最初の襲撃の際に馬車の車軸は折れてしまってその場を離れることができず、馬車を放棄して逃げるにしても幼いアレンを連れていてはいずれ追い付かれてしまう。

 どうするべきか悩んでいる内に取り囲まれ、絶体絶命になってしまったところでサーリャが駆けつけたということになる。

 ミリアンヌの話を聞くサーリャたちだったが、全員の意識はちらちらと別の方向へと向いていた。かくいうサーリャも話を聞き流しているわけではないが、どうしても視線が別の方向へ向いてしまうのを止めることができなかった。

 視線の先では荷台の端にもたれかけ、終始外の景色を眺めているルインがいる。ミリアンヌとアレンが馬車に乗り込んでからは目を合わせることも話しかけることもせずに二人から距離をとっている。

(本当に似ているわね)

 こうしてあらためて二人を見比べると似ている。二人が並んで姉弟だと言われれば誰もが納得できるほどだ。

 ルインの過去を聞いた後では彼女がルインの姉なのではないかと誰もが思っているはずなのだが、それを口にすることを誰もが躊躇っている。

 先程彼女は自分のことをルミアではなくミリアンヌと名乗った。ルインを目にしてもミリアンヌは特に反応は見せず、初対面であるサーリャたちと同じような態度だった。……他人の空似なのだろうか?

「ねぇ。そこにいるあなたも少しお話をしませんか?」

 サーリャたちの間で緊張感が増し、固唾を飲んで状況を見守る。話しかけられたルインは横目でチラリとミリアンヌの顔を見た。ミリアンヌはすべてを包み込むかのような優しげな表情でルインを見ている。数秒ほど彼女の微笑みを見ていたルインだったが、再び視線は馬車の外へと向いてしまった。

「話すことなど何もない。俺はそいつらと違ってただの一般人だ」

「あら。お話をすることに肩書きなど必要ないでしょう。しばらく一緒にいるのですから、せめてお名前だけでも教えていただけませんか?」

 突き放すようなルインの言葉にミリアンヌは気分を害することなくルインと関わろうとする。

 しばらくルインは無言を貫いていたが、ミリアンヌからの視線に耐えられなくなったのか最後はルインが根負けする形となった。

「……ルインだ」

「ルインさんですね。短い間になるとは思いますけどよろしくお願いしますね」

 ルインの名前を聞いてもミリアンヌは何の反応も見せなかった。おおよそ家族に対して向ける反応ではないことにサーリャの胸がチクリと痛む。

「あの、ミリアンヌさんはルミアという名前に心当たりはありませんか?」

「サーリャ!」

「だって!」

 だからこそ少しでもとサーリャはルミアの名前を出したのだが、名前を出した途端強い口調でルインがこちらを睨みつけてきた。その目には「余計なことを言うな」という意思がはっきりと表れている。

(ルインはお姉さんの手がかりを知りたくはないの⁉)

 ルインとの間で険悪な空気が漂う中、二人の間に挟まれている形のミリアンヌは気づいていないのか、それともあえて気づかないふりをしているのか二人のやり取りをそのままにして思案顔になる。

「すみませんがルミアさんという方に覚えはありませんね。その方を探されているのでしたら教会に戻れば何かわかるかもしれません。戻ったら司教様に確認してみますね」

「はい……ありがとうございます」

 申し訳なさそうにするミリアンヌだったが、サーリャも同様に肩を落とす。

「その必要は無い」

「え?」

 ミリアンヌやサーリャがルインへと視線を向けると、ルインはサーリャを睨むのを止めて再び視線を馬車の外へと戻しており、はっきりとミリアンヌの提案を拒絶した。

「今更調べても……答えなどすでに出ている」

 淡々としたその言葉はまるで自分に言い聞かせているかのような響きがあった。

 馬車の中にいる全員がさまざまな感情を抱く中、話に関わらずミリアンヌにピッタリとくっつくぐらいの場所で座っていたアレンは誰にも気づかれないまま静かにルインを睨みつけているのだった。



 ルインのミリアンヌ。二人の関係がはっきりしないままであったがそれを除けば特に問題なく順調に旅は進んでいた。魔獣の遭遇は何度かあったが、それも短時間で殲滅できてしまうのでミリアンヌたちと出会う前と変わらない。それどころかミリアンヌたちに余計な不安を持たせないために迅速に処理するので、いつも以上に早く終わるぐらいだ。心なしか魔獣と遭遇する頻度が多いような気がするが、特に周囲に異変は無いのでたまたまなのだろう。

「ルイン。聞きたいことがある」

「どうした?」

 小休憩の為に馬車を止めてミリアンヌとアレンが外に出た時を狙ってシオンが少し声を落としてルインへ話しかけていた。サーリャは馬車の車軸に絡みついた草を取り、異常がないかを確認しながら耳を傾ける。

「ルインはどうしてあの人にお姉さんの話をしないの?もしかしたらルインのお姉さんかもしれないよ?」

 誰もが一度は考えていたことをシオンは遠慮することなくルインへと尋ねる。サーリャもその件に関しては気になっていたのだが、ルインの過去に関することなのでどうしても立ち入りづらい。

「そのことか。それは俺の中ではもう終わったことだ」

「どうして?」

「まず初めに姉さんはこの辺りの出身ではない。俺たちが住んでいた場所はさすがに言えんが、あの家があった場所に住んでいたわけではない。昔から暮らしているというのであればそれは姉さんとは別人なのだと判断できる。それにな——」

 ルインはそこで一旦言葉を切り、僅かだが躊躇うような沈黙があった。

「仮に——万が一あの人が姉さんだったとしても今はあの時の悲惨な記憶を持たずに充実した毎日を送っているんだ。あんな過去を持たずに生きてけるのならばそれに越したことはない。思い出さないことが最善の場合だってあるんだ」

「……そう」

「……」

 シオンは短く反応を示すだけでそれ以上は何も言うことはなかった。馬車の外で聞いていたサーリャもシオンと同じように黙っていることしかできなかった。



 まだ目的の村は見えてはいないがあともう少し進めば辿り着くというところで馬車は川のほとりで少し長めの休憩を取っていた。火の後始末をしていたサーリャだったが、そんなサーリャの耳に突然怒声が聞こえてきた。

「恥ずかしくねえのかよ!」

 アレンの声だ。何事なのかと駆けつけてみれば同じように怒声を聞きつけた全員が集まっており、怒声を発したアレンは相当感情が高ぶっているのか肩を大きく上下させている。

アレンの怒りの矛先を向けられていたのはなんとルインだった。ルインは折り畳み式の簡易テーブルを持つ態勢のまま横目でアレンを見ている。

「ちょっと何事ですの?」

「アレン君落ち着いて。いきなりどうしたの?」

 マリアナやミリアンヌがその場をなだめようとするが、誰もこうなった経緯を知らないようで状況が分からないまま首を傾げていた。

 アレンに関してはかなり興奮しているようで、ミリアンヌが傍に付いていなければ今にも飛び掛かりそうな勢いだ。少なくともアレンとルインの接点はほとんどなかったはず。それなのにどうしてこんなことになってしまっているのか。ミランがルインへと近づいていく。

「ルインこれは一体どういうことなの?説明してちょうだい」

「説明と言われてもな。そいつが一方的に突っかかって来ただけで俺は何もしていないぞ。この通り俺は片付けをしていただけだ」

 そう言ってルインは見せつけるように持っていたテーブルをわずかに持ち上げてみせる。たしかにルインの言う通り周囲には椅子や食器の類が並べられており、直前まで作業をしていたことがうかがえる。

 ならばこの騒動のきっかけは何なのか?

「お前男だろう。なんで外に狩りをしに行かないんだ!ずっと馬車の中で本ばかり読んで手伝おうともしない。女に守られてばかりで恥ずかしくないのか!」

「だから言っているだろう。俺はただの一般人だ。俺が行かなくてもここには騎士がいるんだ。そういうのはそいつらに任せておけばいいし、そもそもそんなことをしろと頼まれてもいない」

「頼まれなければお前は何もしないのか!」

 アレンが更に反論する中ルインは周囲にいる全員を見渡し、「どうだ?」と言わんばかりの表情で肩を竦めてみせる。僅かにうんざりした様子から、一度だけではなく何度も同じ問答を繰り返していたのだろう。

「あ~。なるほど。理解したわ」

「まぁ彼の言いたいことは分からなくはありませんが、認識にズレがありますわね。騎士としての役割を説明した方がいいのではなくて?」

「皆さんお騒がせしてすみません。アレン君には私からよく言っておきますので……」

 ミランたちが納得顔になる中、ミリアンヌは申し訳なさそうにぺこぺこと頭を下げている。

「アレン君。たしかにルインは男の人だけど、別に男の人だから戦わないといけないなんてことはないのよ。私たちは騎士として皆を守ることが仕事なのだから気にしなくてもいいの」

 目線を合わせるようにミランはアレンの前でしゃがむと騎士についてできるだけわかりやすく説明する。しかしそんなミランの説明にもアレンは納得しなかったようで、機嫌が悪いままだ。

「騎士じゃなくても戦えるはずだ。初めから後ろで守られるだけなんて臆病者がすることだ!あいつは最初から動こうともしていないじゃないか」

 思っていたよりもアレンの認識が変な方向に凝り固まっている。ミランやマリアナもどうしたものかと顔を見合わせて困り顔になっている。

(別に男の人だけが騎士になるわけじゃないんだけどな~)

 サーリャを含めてこの場にいる女性の半分が騎士だ。魔法による補助もあって今では男女での力関係にはほとんど差は生まれない。それによって現在騎士として在籍している者の半分近くが女性だ。

 毎年多くの者が騎士を目指すために騎士学校へと入学してくるが、卒業して騎士の資格を手にするのはその数の三分の一にも満たない。

 理由は様々だが、圧倒的に多いのが騎士になるという気持ちが折れてしまうことだ。「毎日の過酷とも言える訓練に耐えられなくなる」「周囲の実力の高さに追いつけなくなる」「魔法と武器の両方を扱うのが困難である」など挙げ始めればきりがない。

 腕っぷしに自信のある平民や家督を継ぐことのできない貴族家の次男次女や興味本位・自身の箔付けの為に入学してくる者が多いが、中途半端な覚悟しか持たない者はほとんど脱落する。

 その辺りをアレンに説明しても今の彼では理解し納得するのは難しそうだ。

「つまりお前は俺のように後ろで守られているような男は全員武器を持って戦え——そう言いたいんだな?」

「そうだ。武器を持って立ち向かうことは誰にだってできる!」

「そして罪もない人間が次々と無意味に死んでいくのも当然だと——そう言いたいんだな?」

「えっ……」

 これまで怒りの感情で暴走気味だったアレンだったが、自然な流れで発せられたルインの言葉を理解できなかったのかアレンは気の抜けたような声を漏らした。

 そんなアレンを一瞥したルインは中断していた片付けを再開するためにテーブルのパーツを取り外し始める。

「確かにお前の言う通り、武器を持つだけならば誰にでもできる。そこらにいる子供にでもそれぐらいはできるだろう。だが武器の扱いは?どんな立ち回りをすればいい?相手の情報は?騎士ならば当然習得しているはずの内容だが、ただの一般人がそれを知っていると思っているのか?そんな状態で相手に突っ込んでいけば屍の山がいくらでもできるだろうな」

 淡々と話すルインの話にアレンだけでなく、その場にいる全員が黙って耳を傾ける。パーツを外し終えたルインはじろりとアレンに冷たい視線を向ける。

「そんな屍の山の前でそいつらの友人や家族が悲しんでいる中お前はこう言うのだろう?『こいつらは当然のことをした。死んでしまったが臆病者と呼ばれないだけマシだ』と。随分とお前は人の命を軽く見ているんだな。お前にとって他人の命はいくらでも替えの利く消耗品と同じ扱いなのか?」

「ち、ちが……俺は、そんなつもりじゃ」

 さっきまでの怒りが嘘のように消え去り、逆に青褪めているアレンにルインはさらに言葉をぶつける。

「違わないだろう。さっきからお前が声高に騒いでいるのはそういうことだ。逃げることは許さず、わけもわからないまま死ぬかもしれない相手に立ち向かえと。そんな言葉をお前以外の誰が聞き入れると思うんだ」

 子供であるアレンに向けるにはあまりにも厳しい言葉。しかしサーリャだけでなくミランやマリアナも誰一人として口を挟むことなくルインに言わせるままにしている。

 厳しいことではあるがルインの言っていることは決して間違っているわけではなく、今のアレンにはそれぐらいの言葉を投げかけなければ届かないと誰もが理解しているから。

 話は今度こそ終わりと言わんばかりにルインは畳んだテーブルや椅子を持って馬車の方へと歩き去ってしまった。そんなルインにアレンは何かを言うわけでもなく僅かに俯くだけだった。

 そんな中、ミリアンヌは歩き去って行くルインの背中をじっと見続けていた。



 ミリアンヌとアレンが暮らす村に到着したのは夕方に差し掛かるぐらいの時間だった。村の中に見知らぬ馬車が入ってくると村で暮らす人々は僅かに警戒するような眼差しで遠巻きに様子を窺っている。

 ミリアンヌに案内されるまま村の奥へと馬車を進めると、大きくはないが教会が見えてきた。あれがミリアンヌの職場なのだろう。

 馬車を止めると同時に教会の扉がゆっくりと開き、ミリアンヌと同じく神官服に身を包んだ一人の老人が姿を現した。

「司教様。ただ今戻りました」

 馬車を下りたミリアンヌは老人に駆け寄り優しく抱擁を交わした。

「おお、ミリアンヌ戻ったのだね。無事に戻ってきてくれたのは喜ぶべきことなのだが、わしが最後に見た時と少し様子が変わっているようだね。見たところお客様もいるようだが?」

「そのことで司教様に話さないといけないことがあります。少しお時間をいただくことはできますでしょうか?」

「もちろんだとも。ご挨拶が遅れましたが、わしはこの教会で司教を務めておりますゴドウィンと申します。さぁ、どうぞこちらへ」

 二人に促される形で教会の中へと案内されたサーリャたちはこれまでにあったことを説明した。村に戻る途中で突如襲われ身動きが取れなくなっていたところにサーリャたちが駆けつけ大事には至らず、二人を救った後ここまで護衛を兼ねて送り届けに来たのだと。

 話を聞き終えたゴドウィンは二人が無事だったことにホッと胸を撫で下ろし、一人一人に頭を下げて何度も感謝をされた。泊るところが決まっていないと知ると是非泊って行ってくれと逆にお願いされてしまい、ありがたくその申し出を受けることになった。

 教会に泊まることになったサーリャたちはミリアンヌに案内される形で教会に隣接した建物へと訪れた。

「あっお姉ちゃんだ。おかえりなさい」

 室内には何人かの子供たちが自由に過ごしていたが、ミリアンヌの姿を見ると全員にぱっと笑顔があふれる。見たところシオンと年頃は近い。

「こちらは教会が運営する孤児院になっています。教会が運営しているとは言っていますが、さすがに手が足りていませんので、村の皆さんにも手伝ってもらっています。——みんな、しばらくの間一緒に生活するお客様だから失礼が無いようにね」

「「はーい!」」

 元気よく返事をする子供たちの姿にサーリャやミランたちは優しげに微笑む。

「子供たちから慕われているんですね」

「毎日の務めがあってずっとそばにいることはできませんが、可能な限りは時間を作るようにしています。こうして子供たちが笑って暮らしていることが嬉しいですね」

「素晴らしい姿勢ですわ。これから少しの間お世話になるのですから、わたくしたちもできる限り皆さんのお手伝いをさせていただきますわ」

 サーリャたちが話す中、アレンも子供たちの輪に加わっているが、ずっと馬車の旅についてあれこれ質問攻めにあって僅かに表情が引き攣っているが、それでもどれだけ楽しい旅だったのかを自慢するように子供たちに話している。

「よーし!今日はお姉ちゃんが美味しいご飯を作ってあげるわ。みんな楽しみにしていてね」

 気合を入れて腕まくりをしたサーリャはキッチンへと向かうのだった。



 その日の夜、ミリアンヌはゴドウィンの私室へと訪れていた。

「夕方にも言ったことだが、無事に帰って来てくれて本当に安心しましたよ」

「ご心配をおかけしました。私もアレンもこの通り無事に司教様と再会を果たすことができました。これもナーミア神のご加護のおかげです」

 蝋燭の灯に照らされ暖かな光の中二人は信仰する神に感謝の祈りを捧げながら今日の出来事を話していた。

「それで?何か変化はあったかい?」

 ゴドウィンが何を言いたいのか察したミリアンヌは静かに首を横に振った。

「いえ。今回も変化はありませんでした」

「そうか。だが、きっと良い方向に向かうはずだ。気落ちせずに前を向いて進み続けなさい」

「はい」

 ミリアンヌは努めて明るく振舞うのだった。



 翌朝の早朝。空が明るくなり始める時間帯にミリアンヌはいつもの神官服に身を包み、教会のすぐ傍にある井戸で一人水を汲んでいた。早朝ということもあり寒さが身に染みる中、ミリアンヌは黙々と水を汲んでは用意した水桶に井戸水を注いでいく。

 毎日の仕事で慣れているとはいえ、重労働なのには変わりない。ゴドウィンとミリアンヌの二人だけならばそれほど水を使うことはないが、子供たちの分も考えるとそれなりに量が必要となり一回では足りなくなる。夕方前にはもう一度汲む必要がある。

「よいしょ……よいしょ——あっ!」

 あともう少しで引っ張り上げられるというところでミリアンヌは少し油断してしまい、うっかり水汲み用の桶に繋がれていたロープを手放してしまった。水が満たされている桶が井戸の底へと落ちていく。

「あ~。やっちゃったな」

 井戸を覗き込みながらミリアンヌは僅かに疲れと落胆が混じった表情を見せながらひとりごちた。

 幸いにもロープは繋がれたままなので再び引き上げることはできるが、あともう少しというところで初めからやり直しになってしまったのはしんどい。

 仕方なくもう一度汲み直そうとロープを手にしようとしたミリアンヌだったが、その前に横から伸びてきた手がロープを手に取った。

 こんな朝早くに誰だろう。そう思いながら振り返ると、いつの間に起きて来たのかルインがミリアンヌの傍に立っていた。

「あら。ルインさんおはようございます。お早いですね」

「……おはよう。ここからは俺が代わりにやるから少し休んでいろ」

「そんな⁉これは私の仕事ですからルインさんがやっていただく必要はありません。毎日のことですから私は慣れています」

 自分の代わりに水汲みを始めたルインの姿を見てミリアンヌは慌てて仕事を代ろうとする。客人であるルインにこんな朝早くから重労働をさせるのは気が引けてしまう。

 しかしルインはロープを手放そうとしない。

「気にするな。泊めてもらっている身だからこれぐらいの労働などたいしたことではない。朝の運動にはちょうどいいくらいだから、気にせず休んでいればいい」

「……わかりました。それではお言葉に甘えさせてもらいます」

 ミリアンヌは僅かに微笑みながら近くに腰かけ、ルインの作業を見守る。しばらく黙って井戸水を汲んでいたルインだったが、唐突に口を開いた。

「水汲みなど別にあんたが一人でやる必要は無いだろう。孤児院の子供たちなら頼めばできる奴はやってくれるはずだと思うが?たしかアレンとか言ったか?あいつなら喜んで引き受けそうなものだが」

「いくらアレン君であっても一人では井戸水を汲み上げるには力不足だと思います。何人かで引き上げるのであれば可能かもしれませんが、万が一井戸の中に落ちてしまったら大変です。誤って落ちていないか気になってお務めどころではなくなってしまいますよ」

 目の前にある井戸は蓋がされているわけではなく開けっ放しになっている。身を乗り出したりして冷たい井戸水の中に落ちてしまえば大事だ。だからこそミリアンヌは孤児院の子供たちに井戸には決して近づかないようにと口を酸っぱくして言い聞かせている。

「みんないい子たちなので、手伝うと言ってくれることは嬉しいのですけどね……」

 嬉しさを滲ませながらもミリアンヌは悲しげに目を細めた。ルインの言った通りこれまでアレンを筆頭に何人かの子供たちが手伝うとは言って来ているのだが、その度にやんわりとミリアンヌが断っている。……気持ちは嬉しいが、子供たちの安全には代えられない。

「つまり危険が無く、楽に水を汲むことができればいいんだな?」

「え?ええ。それはそうですが……何か方法をご存じで?」

 戸惑うミリアンヌの目の前でルインは水を汲むのを中断し、桶を井戸の縁に置くと顎に手を当てて何かを考え始めた。

(いきなりそんな無茶なことを言われて、なんとかできるとは思えないけど……)

 ミリアンヌが見守ることしばし、やがて考えがまとまったのか顎から手を離したルインはミリアンヌへと顔を動かす。

 自分と同じ綺麗な青い目に自分の顔が映り込む。

「少し欲しいものがあるんだが、用意できるか?」



 朝食を済ませたサーリャたちはシオンだけ孤児院に残して全員で村の各地に挨拶回りをしていた。昨日はゴドウィンに事情の説明をするのと、時間が遅かったということもあったので村の人々に挨拶ができていなかった。

 挨拶回りをしていて知ったことだが、この村には数人の騎士が暮らしておりこの村を拠点として活動していた。

 初めはよく知らない余所者が来たことに警戒感を表していた村民だったが、サーリャたちの素性が分かるとその不安は一気に吹き飛び、一転して歓迎ムードとなった。

 村長に紹介される形で村の騎士とも顔合わせをしたのだが、まさか自分たちの村にマリアナとミランが来るとは夢にも思っておらず、目の前の相手が分かるや否や飛び上がるくらいに驚いたのは言うまでもない。

 挨拶回りが終わり教会へと戻る道中、ミランは困ったような顔をした。

「それにしてもルインったら、いったいどこに行ったのかしら?」

「そうですね。用があるとは言っていましたが、詳細は全然教えてくれませんでしたしね」

 普段気分で寝起きを繰り返しているルインが誰よりも早く起床していたことにも驚いたのだが、朝食を終えるとやることがあると言ってこちらの返事も待たずに教会から出て行ってしまった。

「師匠のことですからきっと重要な役目があるはずですわ。言ってくれればわたくしだってお供しましたのに」

「さすがに姫様が挨拶をしないわけにはいきません。それにルインはきっと——って。何かあったのかしら?」

 ミランの言葉につられるように視線を前方へ向ければ、何やら教会辺りが騒がしくなっている。部屋の中で遊んでいたはずの子供たちが全員外に出ており、留守番を任せていたはずのシオンも子供たちに手を引かれてどこかに向かっている。

 何が子供たちの興味を引いたのだろうか。子供たちが外に出ている理由に心当たりが無く全員が顔を見合わせるが、ひとまず子供たちの向かう先へ向かうと辿り着いたのは教会近くに設置されている井戸のある場所だった。

「こんな場所に集まって何を……ってルイン⁉」

 井戸から少し離れた場所で囲むように集まる子供たちの中心にはなんと出掛けたはずのルインが立っており、ミリアンヌもルインの近くで様子を見守っている。

 ルインの足元にはシートが敷かれており、その上には様々な形に削り出された木材のパーツがいくつも並べられている。バラバラになり過ぎているので何に使うのかサーリャには見当もつかない。

 見たことも無いパーツを見ながら今から何が始まるのかと期待を膨らませ騒がしくなっている子供たちを見ながら、サーリャは子供たちの輪の外にいるミリアンヌにそっと近づく。

「ミリアンヌさん、これからなにをするつもりなんですか?」

「それが……実は私も何をするのか聞かされていないのです。とりあえず手伝ってくれそうな子がいたら集めてほしいと言われただけでして」

「ええっ⁉」

 てっきり事情を知っていると思っていたミリアンヌも困惑顔で成り行きを見守っている。準備が整ったのかルインは周囲を見渡す。

「とりあえずこんなもんか……サーリャたちもちょうどいいから少し手伝え」

「手伝うのはいいけどいったい何をするつもりなのよ」

「特に難しいことじゃない。ただの組み立て作業だ。——よく聞け。シートに置いてあるパーツのすべてに番号とマークが書かれているだろう。番号は二つで一組になっているから同じもの同士でパーツを嵌めていけ。わからんかったら周囲に聞けばわかる」

 子供たちは戸惑いながらもシートへと近づいて言われた通りにパーツに書かれた番号を確認していく。

 しばらくするとあちこちで子供たちの楽しそうな声があちこちから挙がるようになり、周囲が賑やかになる。

「次は四番だ!四番はどこだ~!」

「私は十一番よ。誰か持っていない?って男子!そんなにいっぱい持って行かないでよ」

「十番持ってきたよ。これで揃ったね」

 子供たちがパーツを探してきてルインの指示通りにパーツを嵌め込んでいく中サーリャたちは子供たちが持てないようなパーツを支えて手助けしていく。宝探しとパズルを組み合わせたかのような作業に子供たちは新しい遊びを見つけたかのように率先して動き回っている。

 やがてすべてが組み上がると子供たち全員が「なんだこれ」と言いたいような表情になる。

 金属のチェーンが一つの輪のように繋がっており、そのチェーンに子供たちが組み上げた均等間隔で小さな羽根が取り付けられている。

 そこからは自分の仕事だと言わんばかりに魔法で組み上げた物を浮かばせながら井戸へと近づいて作業を進めていく。間近で魔法を目にした子供たちはキラキラとした眼差しでルインの作業を見守っており、昨日のような警戒感は最早無くなっている。

 やがて井戸に新たな装置が取り付けられた。井戸の入口には格子状の蓋が取り付けられ、それまで無かったハンドルが井戸の横に取り付けられる。

「ハンドルを回してもらうが、やってみたい奴はいるか?」

 ルインの言葉に子供たちが全員反応し、次はどんな面白いことがあるのかと我先にハンドルへと殺到する。

 このままではまずいとミリアンヌが慌てて仲裁に入り、誰がハンドルを回すのか急遽じゃんけん大会が開かれるほどだ。やがて羨望の眼差しを一身に集めながら幼い女の子がゆっくりとハンドルを回し始める。

 ハンドルの動きに合わせて井戸の中に吊り下げられたチェーンがゆっくりと回転し始める。やがてチェーンに付けられた羽根に溜まった井戸水が増設された排水口から流れ出てきた。

「「おおー‼」」

 子供だけでなくミランやマリアナも感心したように声を上げる。

 ルインは井戸の中に小型の水車のような装置を取り付け、ハンドルを回せばチェーンに取り付けられた羽根が井戸水を汲み上げ排水口に流すようになっている。滑車を取り付けてあるので幼い子供でも容易に井戸水を汲むことができる。井戸も格子の蓋がされているので転落の危険もない。

「これなら誰でも使うことができるだろう。これから毎日必要な水は自分たちで用意することだな。誰かにやってもらうようなことは少しでも減らしていけ」

「「はーい!」」

 ぶっきらぼうなルインの言葉に子供たちは元気よく返事し、次々と交代しながらハンドルを回し井戸水を汲み上げていく。

「ルインさん、ありがとうございます。これなら子供たちに安心してお願いすることができそうです」

「どういう風の吹き回しよルイン。あなたがわざわざ動くなんて、明日は雷でも降ってくるのかしら?」

「そこそこ失礼な奴だな。サーリャの中で俺はどんな認識なんだ」

「そうですわ。師匠ならこれぐらいのことで驚く必要などありませんわ。あなたは師匠を何だと思っているんですの?」

「いや、だってルインだし」

 確かにサーリャの発言は失礼極まりないが、これまでのルインの態度を知っているサーリャからすればそう思ってしまうのは仕方ない。普段自分の事だけしか考えないルインが自ら率先して他人の為に動くなど考えられないのだ。

「特に深い理由はない。毎日のこととはいえ相当な量になるはずだし、辛そうに見えたからな。少しぐらいは宿代の代わりになればと俺が勝手に動いただけだ」

 相変わらずぶっきらぼうな物言いだが、そんなルインの態度が今はどことなく照れくささを隠しているかのように見え、ミリアンヌとサーリャは顔を見合わせるとおかしそうに笑い、その横でマリアナは誇らしそうに頷いているのだった。

 そんなサーリャたちの様子を遠くから見続けている者がいた。笑顔を見せるミリアンヌとルインを交互に見たアレンは最後にもう一度ルインを見た。アレンの表情には周囲の子供たちのような笑顔は一切浮かんでおらず、どこか暗い光を灯しながらしばらくルインを見続けている。アレンから視線を向けられているミリアンヌとルインは最後までアレンからの視線に気づくことはなかった。



 時は少しだけ遡り、村から遠く離れたとある場所。最近見つけた新たなねぐらで静かに眠りについていたソレはある変化に気がつき意識を浮上させた。

 極めて細くではあったが、自分が意識を繋いでいた駒の反応が突如として消失したのだ。反応が消失することに関しては特に珍しいことではない。弱肉強食の世界で力の無いものや弱いものが淘汰されることは当たり前のこと。

 今回意識を繋いでいた駒はその中でも底辺と呼べるほどの有象無象なのだが、一つ気になることがあった。

 駒の命を狩り取ったのは明らかに牙や爪の類ではない。もっと鋭利な何かによるものだ。そして繋がりが切れる間際、自身へと届いた駒の視覚情報が更に関心を強くする。

 繋がりが細すぎた影響でまともな情報は得られなかったが、輪郭すら曖昧になってしまっている視界には何体かの存在が映っており、その中にどこか見覚えのある存在がいたような気がした。

 アレはいったい何なのだ。

 ソレはゆっくりと体を起こし、繋がりの切れた駒の方向を探るかのように周囲を見渡す。やがてある方向を見据え、わずかに目を細めたソレはゆっくりと移動を開始した。



 数日が過ぎ、一行はまだ村に滞在し続けており、ミリアンヌと共に教会と孤児院の掃除を進めていたサーリャは賑やかな声が聞こえる部屋を見つけ、入口からひょっこりと顔をのぞかせた。

「あら、シオンじゃない。今日も人気者みたいで大変ね……他の子供たちはどこに行ったの?」

 部屋の中ではシオンを中心に何人かの子供たちが集まっており、シオンがやろうとしていることを間近で見ている。中には後ろからシオンに抱きつくかのように身体を密着させている子までいる。随分と懐かれているようだ。

「子供たちの相手はこれまでずっとしていたからこういうことは得意。男の子の何人かはいつものように練習をしている頃だと思う」

 ある程度成長した子供は将来自活できるように定期的に村にいる騎士からサバイバル技術や武器の扱い方を学んでいる。少しでも役に立てるのならばと騎士も快く引き受けているようで、手が空いている時には顔を出している。

 サーリャたちもいつまでも善意に甘え、タダで泊めてもらうわけにはいかないので、ミランは村の騎士に混じって依頼をこなしてマリアナは魔法の基礎を教える先生役を引き受けている。シオンは年少組の子供たちの相手を任されており、机の上にはいくつもの折り紙が広げられている。

 サーリャはミリアンヌと一緒に食事の用意や掃除など教会と孤児院の管理を手伝っている。

 アレンも武器の扱いを学ぶために練習に参加しに行っているが、なんとなく彼に関しては他の子供たちと参加への意欲が違っているように見える。別に怠けているわけはなく、むしろ自ら積極的に参加しているように見える。その姿はどこか鬼気迫るようなものがあり、少し心配になるほどだ。

(何もなければいいんだけど……)

 一抹の不安を感じていたサーリャだったが、その不安を断ち切るかのように教会の方から男の大声が孤児院へと届いた。

「司教様、司教様はいらっしゃいませんか!」

 切羽詰まったような声に何事なのかとサーリャは慌てて孤児院を飛び出し教会へ向かうと、同じように騒ぎを聞きつけたミリアンヌとマリアナが駆けつけてくる。

 教会に到着すると入口の前には数人の村人が集まっており、その中心で座り込んでいる男性の姿を確認するとミリアンヌは小さく悲鳴を上げた。

「酷い怪我じゃないですか!いったい何があったんですか⁉」

 中心にいる男性は右足の脛から血を流しており、破れたズボンが真っ赤に染まっている。

「それが、俺たちゃ畑を広げようと皆で耕していたんだがよぉ、こいつ手元が狂ったみたいで持っていたクワを振り下ろした時に自分の足に当てちまったみたいなんだ」

「司教様は今用事で教会を離れておられます。すぐに手当てしますのでこちらに運んでください」

「わたくしたちも手伝いますわ」

 別室に男性を案内したミリアンヌが治療の道具を用意し、サーリャとマリアナは血を流す足のズボンを引き裂いて傷の具合を確認する。サーリャは傷口の状態を見て僅かに眉を寄せた。

(思っていたよりも傷が深いわね。幸い骨には問題なさそうだけど、出血が酷いからすぐに治療を始めないと)

「ミリアンヌさん、少し傷が深いですわ。通常の処置よりも神聖魔法で治療した方が回復が早くなりますわ」

 神聖魔法。それは通常の魔法とは異なり、神に仕える聖職者のみが使える特殊な魔法になる。神聖魔法は他者を癒す治癒の魔法に特化しており完治とまではいかないが、自然治癒よりも遥かに治りが早くなるとされている。

 サーリャが提案するよりも先にマリアナが即座に状況を把握してミリアンヌへと振り返る。シスターであるミリアンヌならば神聖魔法が使える。

 すぐさま神聖魔法の準備に取り掛かると思っていた二人だったが、ミリアンヌの反応は違った。

「え、ええ……」

 いつまで待ってもリリアンヌは神聖魔法を使おうとはせず、治療の道具を持ったまま男性の怪我を食い入るように見つめている。顔は青褪めており、ゆったりとした神官服に隠れてはいるが僅かにミリアンヌの服が揺れている。

(震えている?)

「あ、あの。俺の足は本当に大丈夫なんですか?」

「くだらない心配をする元気があるなら問題なさそうだな」

「……ルインさん」

 固まったように動かないミリアンヌの様子に不安を感じた男性が泣きそうな顔になる中、いつの間に部屋に入って来たのかサーリャが振り返るとルインが部屋の扉にもたれながら様子を見ていた。孤児院と教会の外をあまりで歩かないため、ルインを知らない村人からは「誰だあいつは?」と胡乱げな目でルインを見ている。

 ルインはそんな村人の反応など眼中にないようで、おもむろに懐に手を入れ何かを取り出すとサーリャへと何かを投げ渡した。

 慌ててキャッチしたサーリャの手の中にはポーションの小瓶がある。

「原液とまではいかないが、ギリギリまで薄めずに調整したものだ。効果はその分高いが、どうなるかはわかるな?」

 ルインの説明にサーリャはそれが何を示しているのか嫌でも理解させられ、おもわず遠い目になりながら心の底から男性に同情した。これを今から彼は飲まないといけないのね……。

「それじゃあ早速ですけれど、これを飲んでもらいましょうか」

「あの、魔法で治していただけるんじゃ……」

「大丈夫です。同じものではありませんが私も飲んだことがあるので効果は保証できます……その後ちょ~~っと大変かもしれませんけど、あなたなら乗り切れますよ」

「いや、そんなことを言われると逆に不安になるのですが……」

 小瓶を手にサーリャがずいっと近づくと男性はその分だけ逃げようとするが、怪我のせいで逃げられず上半身だけ引くことで少しでも距離をとろうとする。

 サーリャは笑顔のままさらに近づく。

「安心してください。別に毒を飲めと言っているわけじゃありませんし、あとで薬代を請求するようなことはありませんので遠慮することはありません」

「いえいえ。時間がかかってもいいのでやっぱり魔法で——」

「ああもう!焦れったいですわね。つべこべ言わずさっさと飲みなさい!」

「んぐ⁉」

 マリアナはサーリャが持つポーションをひったくると、指で蓋を弾きそのまま男性の口に小瓶を突っ込んだ。ビクンと男性が震え、なんとか逃げ出そうともがくがサーリャとマリアナがそれを許さない。

 周囲の村人は王女らしからぬマリアナの行動ともがく男性の姿にドン引きだ。

「ひゃっ!」

 ミリアンヌの小さな悲鳴にサーリャが背後を振り返ると、ルインがミリアンヌを抱き上げていた。突然お姫様抱っこをされたミリアンヌは困惑と羞恥から顔を赤くしながら身体を固くする。

「そっちはもう大丈夫だろう——少し体調が悪そうだな。少し休んだ方がいい。部屋まで俺が運んでやる」

「ルインさん大丈夫ですよ。しばらくすれば元通りになりますから」

「ダメだ」

 ミリアンヌを抱く力が強くなったように見えた。いつになく真剣な表情でルインはミリアンヌを見下ろしている。

「そんな状態で大丈夫と言っている時はたいてい大丈夫じゃないんだ。そんな状態のあんたを俺は放っておくことはできん。——後は頼んだぞ」

 ルインはそう言い残してミリアンヌと部屋を出て行ってしまった。ルインが出て行った扉をサーリャが複雑そうに見送る隣でマリアナが「羨ましい……」と呟くのが聞こえるのだった。



「先程はご心配をおかけしました。昔からどうしても多くの血を見ると気分が悪くなってしまって……」

「気にしないでください。誰にだって苦手なものはありますよ」

 治療が終わりミリアンヌの部屋に集まった一同。男性の怪我は無事に治癒してしばらくは松葉杖でリハビリが必要になるが、後遺症なく歩けるようになるだろう。その代わりに驚異的な治癒の代償として今は猛烈な吐き気に襲われているらしい。少なくとも丸一日は苦しむことになるらしいが、怪我のことを考えれば安いものだ。

 ベッドの上で上半身だけ起こしたミリアンヌの顔色は良くなっており、青かった肌にも赤みが戻っている。

「ミリアンヌさん。神聖魔法をわたくしが提案した際に少し様子がおかしかったように見えましたが、何か気になることがあったのですか?もちろん言いにくいことでしたら無理に言う必要はありませんし、わたくしたちもこれ以上は踏み込みませんわ」

「いえ、特に隠しているようなことではありませんのでお話しします。——シスターを務めている私ですが、実は神聖魔法を使うことができません。神聖魔法だけではありません。理由は分かりませんが私は他の魔法も一切使うことができないのです」

「魔法が使えない?」

 ミリアンヌの告白にその場にいる全員が首を傾げ、ルインも今回に限っては眉を寄せて懐疑的になっている。

 ミリアンヌの話ではありとあらゆる魔法の行使ができないようで、火種を作る程度の小さな魔法すら発動させることができないそうだ。自身の魔力を用いない魔道具に関しては使えるようだが、そもそも魔道具は種類によってはそこそこ値が張るものもあるので孤児院では普段使いできるほどの余裕はない。可能な限り魔法に頼らずこれまで生活してきたようだ。

 しかし魔力は人類にとって非常に密接したもので、この世に生きる者は少なからず魔力を有している。それなのに全く魔力を有していないなどあり得るのだろうか。

「……確かに魔力の反応がないですね。ルイン、魔力が一切無いってそんなことあるのかしら?」

 ルインは何かを確かめるかのようにミリアンヌに断りを入れてから優しくその手を握る。

「……いや。少なくともそんな体質は初めて聞くな。もしかしたらマリアナのような特殊な体質なのかもしれないが、今は何とも言えんな。昔何かきっかけになるようなことはあったのか?」

「……昔、ですか。きっかけになるようなことは何も無かったと——うっ!」

「ミリアンヌさん⁉」

「ちょっと、大丈夫ですの⁉」

 記憶を探るように視線を彷徨わせていたミリアンヌだったが、不意にその身体が傾いた。傍にいたルインがすかさずミリアンヌを支え、サーリャとマリアナは心配そうにミリアンヌを覗き込む。ミリアンヌは頭に手を当てながら頭痛を堪えるかのように表情を顰めている。

「すみません。時折頭が痛くなる時があって、今回もそれだと思います。しばらくすれば治まりますので心配しないでください」

「少し無理をさせ過ぎたのかもしれんな。今日はここまでにして休んでいろ」

「ご迷惑をおかけしてすみません」

「……気にするな」

 横になるミリアンヌにルインは優しく布団をかけるのだった。



「へぇ~。そんなことがあったのね」

 体調が芳しくないミリアンヌの代わりにサーリャたちが食事を用意した夕食の席でミランは日中に起きた出来事を聞いていた。今日はミランが持ち帰ってきた猪肉を使ったクリームシチューだ。ゆっくりと食事を進めるマリアナやミランと違ってシオンは余程食事が気に入っているのかシチューを一心不乱に食べている。

「師匠。ミリアンヌさんの話を聞いていた時と同じ質問になりますが、魔力を全く持たないなんてことはあり得るのですか?」

 王宮の晩餐会に参加しているかのように上品にシチューを口にするマリアナはルインに意見を求める。マリアナの問いにルインは静かに首を横に振る。

「あまり考えられない症状だな。あの時も言ったが魔力が全く無いというのは普通では考えられん。どんな生き物にも少なからず魔力は宿っている。装着者の魔力を封じる魔道具でさえ結局は対象の魔力を吸い上げると言うだけで、体内にある魔力をゼロにすることはできないんだ」

「つまりミリアンヌさんの魔力も少なからず存在していると?」

「おそらくな。原因に関してはさすがに俺でもわからん」

 マリアナとルインの会話からすると魔力を失うような何かがあるはずなのだが、ミリアンヌは心当たりは無いと言っている。

魔力は物質として存在するわけでもなく、荷物のようにその辺に落とすようなものではない。見つからないのならばどこかで消費されているのが自然だ。

(ミリアンヌさんの魔力はどこに行ったのかしら?)

 そう考えながらサーリャは止まっていた食事を再開するのだった。



 夜中の教会内。皆が寝静まった時間帯にミリアンヌは備え付けられた浴室で遅めのシャワーを浴びて身を清めていた。温かな水が身体の汚れだけでなく精神的な疲れも一緒に洗い流していく。

「あぁ失敗しちゃったな~。こんなつもりじゃなかったのに……」

 汚れを落としたミリアンヌは新しく設置された浴槽の中で温まりながらミリアンヌは落ち込んだように一人呟く。落ち込む理由は当然日中の出来事だ。

 普段はうまくやれていたはずなのに、今日に限っては不覚にも大量の血を見て動揺してしまい、石のように固まってしまっただけでなく客人に手当てを任せる形になってしまった。それだけでなく男の人に抱き上げられ、ベッドにまで運んでもらうという醜態を多くの人に見られるなど羞恥以外の何物でもない。

 村には噂好きの人が多いので、確実に数日の内に村中に知れ渡ってしまうと思うとこれから出会う人から生暖かい目で見られるのは少し憂鬱だ。

「ルインさんには本当に助けられてばかりだなぁ」

 ミランやサーリャたちもミリアンヌのことを助けてくれるが、ルインは特に自分のことを気にかけてくれている。出会った当初は愛想が無くぶっきらぼうで何を考えているのかわからず話しにくい印象だったが、いざ向き合ってみると最初に抱いた印象とは違い隠しきれない優しさにミリアンヌは何度も助けられている。

 実はこの浴槽も元々は教会に無かったもので、ルインが井戸の改修を済ませた後に作ってくれたものだ。木の香りが石鹼の香りに混じってミリアンヌの鼻腔を刺激する。

(本当にルインさんはなんでこんなに優しくしてくれるのかしら)

 少なくとも彼とミリアンヌは今回が初対面のはず。しかしなぜかルインだけでなく周囲の者も反応がどこかぎこちなかった。ルミアと言う名前が馬車の中で出たのでその人が何か関係しているのかもしれないが、やはりその名前に心当たりはない。村に戻ってゴドウィンにも聞いてみたが、やはり心当たりは無いと首を横に振るだけだった。

 首まで浸かりながらミリアンヌはゆっくりと両手で湯を掬い上げる。指の間から湯がこぼれていき最後には自身の両手だけが残る。

 ルインに優しく握られた感触を思い出すかのようにミリアンヌは右手を左手で包み込みながら数時間前のやり取りを思い出す。

 魔法を使うことのできない今の体質は特にミリアンヌは気にしていない。周囲の反応を見ると魔法が使えないのは不便なのかもしれないが、大抵のことは魔法を使わなくてもこなせるし、どうしてもという場合は魔道具の力を借りればいいだけなので問題はない。

「昔……か」

 俯いたミリアンヌの表情に僅かだが影が差す。実はミリアンヌはルインたちに明かしていない秘密がある。今の体質に関係するようなきっかけのような出来事に覚えが無いと言ったことに嘘ではない。しかしそれはミリアンヌが覚えている範囲に限られる。覚えていなければ知らないものは知らないのだ。

(ルインさんに相談してみようかな……って何を考えているのよ私)

 こんなことを相談しようものなら余計に心配させてしまうのは明白。不意に湧き上がった衝動をミリアンヌは即座に否定するかのように首を横に振る。振った際にズキリと頭に痛みが走り、ミリアンヌは顔を顰めた。考え事に夢中になり過ぎて少し浸かり過ぎたのかもしれない。

 ザバリと音を立てながら浴槽から出たミリアンヌは水滴を落としながら脱衣所の方へと歩いていく。明日は元気な姿を見せるのだと意気込んでいるミリアンヌの背後には小さな鏡が備え付けられており、彼女の背中が映し出されている。

 背を向けているからこそミリアンヌは気づかなかった。

 白磁のように白い綺麗な彼女の肌の左肩から右脇腹にかけて——背中全体を覆うかのように大きな傷痕が走っており、色も僅かにくすんでしまっている。そんな痛々しい傷痕から陽炎のようにどす黒いナニかが漏れ出していることに。



 ソレは最後の痕跡に辿り着いた。駒だったものはすでに周囲の獣に食い尽くされたのかそれとも持ち去られたのかわからないが、姿が見えなくなっているがそれはさしたる問題ではない。

 周囲に散らばる木片を確かめながらそれは周囲を歩き回っていたがたいしたものは残っておらず、無駄足だったかと思い始めたところで——見つけた。

 大きな残骸の塊の端に布切れが引っ掛かっている。布切れは決して大きくなくほとんどゴミと呼ぶ程度のものだったが、それの鋭敏な嗅覚は決して見逃すことはなかった。布切れに付着した僅かな血。そしてその血に混じっているモノに。

 それは歓喜の咆哮を上げた。すでに失ったと思っていたものが見つかったのだ。これを喜ばずにいられるわけがないし、今度は決して見失うわけにはいかない。

 湧き上がる衝動に突き動かされるようにソレは匂いを辿りながら移動を始める。

 それが進む先には人間たちの暮らす村がある。



 アレンは一心不乱に木刀を振り続けていた。今日は村の騎士に見守られながら武器の扱いを学ぶ日だ。アレンの他にも何人かの子供たちが参加しており、全員が一列に並んで木刀を振り続けているがアレンほど熱心に振り続けている者はいない。

 アレンはこの訓練を一度として欠かすことなく参加しているので、参加メンバーの中では一番動きが自然だ。

「よし、今日はここまで。全員木刀を返してくれ」

 村で暮らす騎士の一人であるゼンが子供たちから一本ずつ木刀を回収していきながらケースの中に放り込んでいく。木刀をゼンに返した子供たちは「ようやく終わった」といったような表情で大きく伸びをしたりしている。

 アレンの木刀を回収しに来たゼンにアレンは何度目かになる意見を再び伝えた。

「なぁゼン。今度こそ俺も外で実戦の練習をさせてくれよ」

「またその話か……何度も言っているだろうアレン。実戦なんてお前にはまだ早過ぎる。今はまだ基礎を身につけている段階なんだから、そんな状態で村の外に連れて行くわけにはいかない」

「そんなことない!他の奴より俺が一番扱いが上手いのはゼンも知っているだろう。あとは実戦で勉強した方が早いはずだ。こんな素振りばかりじゃいつまで経っても全然強くなれないじゃないか」

 これまでと全く変わらない答えにアレンは怒りを滲ませながら必死に訴える。しかしそんなアレンの怒りを聞き流すかのようにゼンの反応は変わらない。

「実戦はアレンが思っているほど簡単な場所じゃないんだ。少し武器の扱いが上手い程度では生き残ることなどできない。今はまだ多くを学ぶことに集中するんだ。」

「でも!」

「話はここまでだ。前よりも動きは良くなってきているから練習は欠かさないようにしておけよ」

「おいゼン!」

 木刀が入った箱を持ったゼンをアレンが呼び止めようとするが、ゼンは止まることなくそのまま歩き去ってしまった。



「くそっ!」

 参加していた子供たちも解散し、一人残されたアレンは悪態をつきながら教会へと続く道を一人歩いていた。最近自分の周囲で起こっていることが気に入らない。

(どうしてゼンも他の奴らも俺を外に連れて行ってくれないんだ!こんな意味も無い素振りを続けるだけじゃいつまで経っても強くなれない)

 ゼンだけじゃない。自分たちの練習を見てくれている騎士全員にこれまでアレンは外に連れて行ってほしいと声をかけているが、どれも徒労に終わっている。まだ早いと皆が口を揃え、検討する素振りすら見せない。

 アレンが武器を手にするのはひとえにみんなを守るためだ。その為にも実戦は早い内から経験し、短期間でいっきに強くなるつもりだったが、その計画がここにきて上手くいかなくなってきた。

 参加している子供たちとの模擬戦では全勝し、もはやアレンは負けなしだ。より強くなるためにも村の外で経験を積みたいのに……。

 そんなことを考え、胸の中にある不満が大きくなり始めていたアレンは気づけば教会へと戻ってきていたが、敷地奥からミリアンヌの楽しげな声が聞こえてきた。普段とは違う楽しげな声に興味を引かれたアレンがこっそりと窺うと、孤児院と教会の間にある中庭でミリアンヌが洗濯物を干しているところだった。そしてそんな彼女の隣にまたしてもアイツがいた。

「ルインさんが手伝ってくれてとても助かります。一人だとどうしても手が足りなくて、まとめて洗えず何日かに分けないといけなかったんです。これなら今日で全部終わらせることができます」

「気にするな。これぐらいのことなら遠慮なく言ってくれ。魔法を使えばそれほど苦労するようなことじゃない。——こんな風にな」

「わぁ!」

 ルインが魔法を行使すると籠に入っていたシーツがふわりと浮き上がり、空にいくつもの白い幕が広がった。シーツは風になびかれながらゆっくりと下りてきて、用意されていた物干し竿へとかけられた。

挿絵(By みてみん)

 ミリアンヌはその様子を無邪気な笑顔で見守っている。笑顔なのは変わらない。しかし普段アレンたちへ見せる笑顔とは違う表情をルインへ見せるミリアンヌをアレンは見ていられず、アレンは逃げるようにその場から離れた。

 あいつは何かとミリアンヌのそばにおり、この村に来てまだ数日だがその間にミリアンヌから絶大な信頼を得るまでに関係を深めていた。

 ミリアンヌの負担を減らすために様々なところに手を加え、恩を押し付けるようなことはせず、さりげなく手を差し伸べている。アレンはそれが面白くない。姉のように接してくれる彼女を守るのは自分の役割だ。

 あいつからミリアンヌを取り戻すためには今までのことを繰り返すだけではだめだ。もっと大きなことを成し遂げて頼れる存在だと見せつけなければ!

「やってやる……俺はやれるんだ!」

 わずかに危険な光を瞳に宿したアレンは誰にも見られることなく早足で目的の為に動き出した。



 その日の夕方、いつものようにミリアンヌは各部屋に顔を出し子供たちの様子を確認し回っていた。客人である四人に子供たちはある程度心を許しており、あちこちで彼女たちを囲んで盛り上がっている。ルインに関しては井戸の改修で心動かされたのか、もの作りに興味を持ち始めた何人かが彼の元へと訪れている。しかし本人曰く説明が面倒だと言ってパーツのレプリカと図面を渡すだけで彼は子供たちから逃げてしまった。

 それでも子供たちには十分な刺激になっているようで、一室に集まってパーツを組み立てて似たような物を作ろうとしている。

 そんな子供たちを見て回っていたミリアンヌはあることに気がついた。

「誰か、アレン君がどこにいるのか知らない?」

「知らな~い」

「そういえば見てないね。どこに行ったのかな?」

 ミリアンヌは子供たちに聞いてみるが、誰もアレンを見ていない。水汲みに出かけたのだろうか?いや、水汲みはみんなが率先して汲んでくれたので今日はこれ以上必要ない。

 そんなミリアンヌの様子に気づいたサーリャが声をかけてきた。

「ミリアンヌさんどうしたんですか?」

「それが……アレン君の姿がどこにも見えないのですよ」

「いつものように剣の稽古をしているのではないのですか?」

「こんな時間帯に稽古は普段しません。普段ならアレン君はこの時間帯になると夕食の手伝いをすると言ってくるんですよ」

 思い返してみれば最近のアレンはどこか様子がおかしかった。焦っているのか少し思い詰めていたようにも見える。

「私も少し周囲を探してみます。ミラン様たちには私から言っておくので、子供たちの面倒は任せてください」

「お願いします」

 子供たちを心配させないようにと気を配りながらミリアンヌは早足で孤児院を出るのだった。



 ミリアンヌからの知らせを受けて周囲を探し回っていたサーリャだったが、結局アレンを見つけることはできなかった。見つからなかった代わりに、村の騎士から狩猟小屋に保管されていた剣が一本無くなっていると知らされたことで状況が変わった。

 これだけ聞き込みをしても足取りが掴めないとなると、アレンは村の外へと出ている可能性がある。さらに武器を持ち出したのがアレンならば当然、武装しなければならないような場所へ向かっているということになる。シオンに子供たちを任せ、ミランとマリアナも捜索に加わり少しでも手掛かりがないかと走り回る。

「最近のアレン君はどこか思い詰めていたような気がします。もしかすると何か悩みがあったのかもしれませんね」

 村の外を探し回っている途中でこぼしたミリアンヌの言葉にサーリャは歩みを止めて隣を歩く彼女を見た。気づけなかったことを後悔しているのかミリアンヌはわずかに俯き、肩を落としている。

 これまで子供たちの面倒を見てきたからこそ、今回彼女に何も言わずに行方が分からなくなったアレンの行動はショックなのだろう。

「今はアレン君を見つけるのが最優先です。見つけた後ゆっくりと二人で話をしましょう」

 慰めるべきなのかもしれないが、今は立ち止まっている時ではない。サーリャは引っ張るようにミリアンヌの腕を引くのだった。



 サーリャたちの必死の捜索も虚しくアレンを見つけることなく時間だけが過ぎていく。陽もだいぶ傾いており、これ以上長引けば見つけるのも困難になる。

 途中でミランと合流することができたが、ミランの方も成果は挙がっていない。

「ん?」

「どうしましたか?」

 見つからないことにサーリャが焦りを見せ始めた時、村とは逆方向——あまり遠くない山の方からわずかに反応があった。これは……。

「ミラン様。気づきました?」

「ええ……なんであんな所にいるのかしら?」

 ミランもサーリャと同じ心境なのか、心配よりも困惑した表情で反応が返ってきた山へと視線を向けている。

「すみません。アレン君がいるかどうかわかりませんが、少し行ってみたい場所があるのですけどいいですか?」

 歯切れの悪いサーリャにミリアンヌは首を傾げるのだった。



 サーリャとミランが道を切り開きながら三人は山の奥へと進んでいく。反応を手掛かりに進んでいたサーリャたちだったが、進先が僅かに騒がしくなっていることに気が付くと即座に身構え、万が一に備える。

 相手に気づかれないように三人は慎重に木の陰から様子を窺うと、そこには行方が分からなくなっていたアレンがなんと剣を構えて一匹の狼と対峙しているではないか!

「アレン君⁉」

「大変!今すぐ助けないと!」

 いくら剣を持っていても獣相手にアレンでは太刀打ちできない。危機的状況に青ざめ口元に手を当てるミリアンヌの横をすぐさまサーリャが駆け抜けようとするが、その前にミランがサーリャの肩に手を置きその動きを止めた。

「ちょっと待ちなさい。近くにルインがいるわ。状況が分からないから少し様子を見ましょう」

 アレンに気を取られていたが、確かにミランの言う通りルインがアレンから少し離れた切り株の上に腰かけている。ルインはアレンに視線を向けることなく手元の何かをナイフを使って削っている。

 サーリャが感じた反応。それはルインの魔力反応がこの山から出ていたからである。

(なんでルインがアレン君と一緒にいるのよ。村で会ったときは知らないって言っていたじゃない)

 村の中で捜索をしていた際、偶然出会ったルインにもサーリャは声をかけていた。あの時のルインはアレンの行方を知らないと言っていたはずなのに、今はそのアレンと一緒にこんな山の中にいる。

 何も言わずサーリャたちに協力してくれたのかと思ったが、ただ見つけたにしてはアレンを助けもせず静観しているのはおかしいので、確かにミランの言う通り状況が分からない。

(ルインはどうして助けないのよ!)

 武器の扱いに多少の心得があるといってもアレンはまだ子供だ。剣を構えてはいるが、木刀とは違い本物の剣なので支え切れておらず、ふらふらと切っ先が揺れており構えているだけで精一杯のように見える。

 怒りが沸き上がるサーリャだったが、様子を窺っているうちにあることに気がついた。アレンと対峙している狼だが、その胴体に魔力の糸が幾重にも巻き付いており、糸の先は地面へと伸びている。まるで繋がれた犬のようだ。

(あれじゃあアレン君に近寄れない)

 ルインに対して湧き上がっていた怒りの勢いが弱くなったところで「おい」とようやくルインが手元から視線を外し、頭を上げてアレンの方を見た。

「いったいいつまでそこに突っ立っているつもりなんだ」



 アレンは近くから聞こえる気に食わない声に自分の機嫌がさらに悪くなるのを実感する。

「うるさい!あんたは黙っていろ!」

 感情のままにアレンは即座に怒鳴り返す。そんなことは言われなくても自分自身が一番よくわかっている。

「威勢がいいのは結構なことだが状況が全然変わっていないぞ。お前はわざわざここまで生き物観察でもしに来たのか?それなら大人しく村の中で犬でも眺めていろ」

 一方のアイツはといえばこちらの感情をぶつけてもまったく気にした様子もなく、逆にこちらを煽ってくる。それがさらにアレンの感情を逆撫でする。

 もともとこの山にはアレン一人で入山した。周囲に気を配り慎重に山の奥へと歩みを進めていたアレンだったが所詮は子供。奥へと進むことに集中しすぎて木の陰からこちらを窺う存在に気づかなかった。小枝の折れる音が聞こえ振り返った時にはあまりにも遅すぎ、鋭利な爪がアレンの顔を切り裂こうとする直前でルインの魔法がその動きを止めるという間一髪のタイミングだった。

 情けない声をあげながら尻餅をついていたアレンだったが、ルインの目的が自分を連れ戻すのだと思い咄嗟に剣を向けたのだが、ルインは何も言わず近くの切り株に腰かけて自分の作業を始めてしまった。

 肩透かしを食らった気分だが、完全に無視というわけではなく時折こちらを怒らせるような言葉を投げかけてくるので鬱陶しいほどこの上ない。

(見ていろ。今すぐこいつを——)

「グルルルアアァァァ!!」

「っ!」

 助けられていことは非常に癪だが、相手はこちらに手を出すことができない。剣をしっかりと握り直し目の前の敵に向けて一歩を踏み出そうとしたところで、これまで間近で聞いたこともない方向が自分へと向けられ、踏み出そうとした足が止まってしまう。

 近づくな——幼いアレンでも理解させられてしまうほどの明確な敵意がそこにはあった。

 (本物の剣ってこんなにも重いのかよ)

 普段手にする木刀とは全く違う。両手で握っているにもかかわらず、まるで大きな鉄の塊を持っているかのように腕全体が重く、少しでも力を抜けば地面に落としてしまいそうだ。

 両手に伝わってくる冷たさはまるで全身を凍えさすかのよう。

「少しは変化が欲しいところだな。少し手伝ってやるからお前ひとりで何とかしてみろ」

「え?」

 何をするつもりなのか。アレンが問いかけるよりも先にアイツは軽く指を鳴らした。同時にこれまで狼の動きを縛っていた魔力の糸が霧散する。

「グルルルル」

「ひっ!」

 アレンの喉から引き攣ったような声が漏れる。もう相手を縛るものは何もない。襲い掛かる恐怖に足が震え始める中、狼は姿勢を低くし、今にも飛び掛かってきそうな態勢になる。

「グルルオォ!」

「うわあああ!」

 もう終わりだ。トドメのような咆哮にとうとうアレンは持っていた剣を放り出し、情けない悲鳴をあげながら頭を抱えてその場にしゃがみこんだ。もはや最初の威勢など欠片もない。

(……あれ?)

 しかしいつまで経っても自分の身体に牙が届くことも爪で切り裂かれることもない。恐る恐る顔を上げると狼は数歩ほど進んだあたりで動きを止めており、視線はアレンではなくルインへと向けられていた。ルインは切り株に相変わらず腰かけているが、目だけはしっかりと狼だけを捉えている。ゆっくりとルインは立ち上がると武器も何も持たないままこちらへと歩いてくる。

「おい何をしているんだ。お前武器とか持ってないのかよ!」

「黙っていろ。余計なことはせず動くな」

「うっ……」

 これまでのからかうような雰囲気はなりを潜め、有無を言わせない凄みにアレンは思わず黙ってしまう。ルインがこちらに近づいてくる度にじりじりと狼が後退を始める。相手は何の武器を持っていないにもかかわらずだ。ルインはまるで恐怖など感じていないかのように歩いてくる姿はこれまで見せたこともない一面で、その態度が理解できずアレンはルインに対しても少しながら恐怖を覚えた。

(こいつただの腰抜けじゃないのかよ。なんで狼を前に堂々としていられるんだよ)

 アレンの近くにまで寄ってきたルインはおもむろに手を伸ばすと何もないはずの場所で彼の腕が肘から先が無くなった。「うえっ⁉」と思わず声が漏れてしまったが腕を引くと無くなっていたはずの腕が現れ、その手には手頃な大きさの肉の塊が握られておりそのまま狼の方に放り投げた。

「こっちの都合に付き合わせて悪かったな。それはその詫びとして持って行ってくれ」

 狼は一瞬躊躇うような素振りを見せたが、やがてこちらの様子を窺いながら肉を咥えて木々の中へと姿を消した。

「おい、なんであいつを逃がしたんだ。お前ならあのまま倒すことだってできたはずだろう」

「勘違いするな。俺は狩りをするためにここに来たんじゃないんだ。不必要に命を奪うつもりはない。俺のことよりもお前こそどういうつもりなんだ?あれだけ大口を叩いておきながら結局お前は何もできなかったじゃないか」

「それは……」

 咄嗟に言い返そうとしたが、口を開くだけで言い返す言葉が見つからない。確かにこいつの言う通り自分は何もできなかった。チャンスはこれまでいくらでもあったはずなのに。

「しかも相手は行動を制限されてお前には手を出せない一方的な状況だったんだぞ。それで何もできないのならお前は何になら動けるんだ。自分に向かってくる相手のすべてがカカシだとでも思っているのか?」

 容赦のない厳しい言葉にさすがのアレンも歯を食いしばりながらルインを睨みつけ、そんなアレンをルインが冷たい目で見下ろしていた。そこにはこちらに対する同情や哀れみなどは欠片も含まれていない。

「最初から何でもできるはずがないだろう。少しずつ回数をこなせばお前から説教される必要もなくなるんだ!」

「……驚いたな。ここまで状況を理解していないとは。そんな思考力でよくそこまで強気でいられるな」

 こちらが怒鳴り返すとルインは最初こそ目を丸くするが、やがて呆れたような表情になった。

「なんだと!」

「わかっていないようだから教えてやる。『次がある』とお前は言ったが、俺がいなければここで死んでいたんだぞ?」

 アレンは頭を殴りつけられたかのような衝撃に襲われた。死んでいた?俺が……?

「襲われた時お前はどうしていた。背後から襲われて全く対処できずに無様に転がっていただろう。俺が止めなければお前は今頃獣の餌になっていたんだ。失敗した先に残っているのは『死』だけだ。失敗しても次があるという考えをしている時点でお前は間違っているんだ。だからこそそれを生業とする奴らは自身も狩られるという覚悟を持って武器を手にするんだ」

 アレンは思わずすぐそばに落ちている剣へと視線を向けた。敵と対峙した時に感じたあの重み。あれは剣だけの重さだけではなく、命を奪うという——背負うにはあまりにも大きすぎる重圧があったのだと今更ながらに思い知らされた。

 鈍い光を反射するその刀身が眼前に迫った爪と重なって見え、アレンは思わず身震いする。

「剣を振るうだけですべてが解決するわけじゃない。万が一負傷した際の応急手当てをお前は知っているのか?毒を受けている仲間がいた場合は?自分の役目は剣を振ることだと言って大切な相手が目の前で苦しんでいてもそのまま放置するつもりか」

 アレンの脳裏に大切な人の顔が思い浮かんだ。その顔が苦しみに歪みそうになる前にそれを振り払うかのように首を振る。

「……俺が間違っていたのかよ」

 これまでの自分のすべて否定されたような気持ちになり、地面に両手を付きうな垂れた。今までの努力がすべて無駄だったなんて……。

「すべてが間違っているとは言わん。ただお前は優先順位が逆なんだ。お前に今必要なのは力ではなく知識だ。医療、薬学、サバイバル、他にもいろいろとあるぞ?力なんてものはそのあとだ。……まぁ、お前にそのすべてができるとは思えんがな」

 挑発するようなルインの物言いにアレンの中で別の感情が沸き上がってくる。

(こっちの気も知らないで好き勝手に言いやがって!)

 これまでの自分の努力が空回りしていたのは変えることのできない事実。それをこれ以上無様に言い訳をするのはみっともない。悔しいがこいつの言うことは正しいのだ。今の自分にはあらゆるものが足りていない。

 そのうえでこいつは自分が挽回できることはないと決めつけている。ここまで言われてはこちらも黙っているわけにはいかない。

 顔を上げれば相変わらず気に入らないアイツの顔があり、こちらを見下ろしている。余裕そうなその顔を何としてでも歪ませてやる!

「助けてくれたことは……感謝している。でもお前に一つ言っておくことがある」

「なんだ?」

 こちらの姿を見て面白がるルインにアレンは決意を胸に、本心を遠慮なくぶつける。

「俺はあんたが嫌いだ」

「奇遇だな。俺もお前みたいなガキは嫌いだ」

 どうやらこいつとはどこまでいっても分かり合うことはできなさそうだ。

「さて。もう向こうでもお前がいないことは知られているだろうな。そろそろここにも探しに来ると思うが、そのままずっと転がっているつもりか?」

 そう言いながらアレンが見上げる先でルインはどこか別の方向に視線を向けるのだった。



「……どうやら何事もなく終わったようね」

「見ているこっちはヒヤヒヤしましたよ」

 陰から成り行きを見守っていた三人はそれぞれ安堵したように強張っていた全身の力を抜いた。サーリャも剣の柄に添えていた手を離して緊張で張りつめていた意識を解くのと同時に大きく息を吐いた。

 ルインが魔法による拘束を解いた時は流石に飛び出しかけたが、ミランに押さえつけられて動くことができなかった。結果的にルインが動いたので何事もなかったが、見ている側は流石に精神的に疲れた。

「それにしてもどうしてアレン君とルインさんはあそこまで仲が悪いのでしょうか?」

 ミリアンヌは二人の関係に疑問を浮かべている。

「まぁだいたいはアレン君が吹っ掛けているので本人は最初から何かしら苦手意識があるのでしょうね。ルインに関しては仲良くする気もないのだと思いますよ」

 どちらかというとルインは最初からアレンに関心を示していない。アレンが一方的にルインを嫌っているというのがサーリャの印象だ。

 そんなことを話している三人だったが、不意にルインの視線が木々に隠れているこちらへと向けられた。たまたまなのかと思ったが、ルインの視線は間違いなく隠れているサーリャたちを捉えている。

 ……確実にバレている。

 これ以上隠れている必要もないので少し時間を空けてから三人は木の陰から姿を現し、まるでたった今到着したかのように振舞う。

「あ!ようやく見つけたわ。こんなところで何をしていたのよ」

「アレン君心配したのよ。どうしてこんなところにいるの?」

 まさかずっと見られていたとは思ってもいないであろうアレンは慌てて立ち上がると地面に落ちていた剣を拾い上げて背中に隠す。さすがに武器を無断で持ち出したのはまずいと理解しているのだろう。

 ミリアンヌから問い詰められ口ごもっているアレンだったが、助けは意外なところから来た。

「村のすぐ外でこいつを見つけたんだが勝手にここまでついて来たんだ。ミランたちが来たのならこれで子守はしなくても済むな。あとは頼んだぞ」

「いやいや。そもそもなんでアレン君がルインについて行くのよ。二人って一緒に散歩するような仲でもないじゃない」

「せっかく遠出しているんだ。珍しい薬草の類があるか調べるつもりだったんだが、こいつが俺の行動を不審がって見張ると言い出したんだ。どうせついて来るなら社会勉強させた方が効率いいだろう」

 こちらからの指摘にも淀みなく答えるルインとは対照的にアレンはなぜ自分を庇うようなことをするのかわからず、疑惑の目でルインを見上げている。

「アレン君、ルインさんの言っていることは本当なの?」

「あ、ああ。フラフラと村の外に行くなんて怪しすぎるからな。俺が見張っておかないといけないと思ったんだ」

 ミリアンヌから問われたアレンはルインの思惑に乗るかどうか最初躊躇っていたが、これ以上状況を悪化させるのはまずいと感じたのか結局ルインの作り話に同調するように頷いた。

 それが嘘だということは本人以外の全員が知っていることだが、本人のプライドの為に誰も口にはしない。

「勝手に出て行ったのは褒められることじゃないけれど、とにかくアレン君が無事でよかったわ。本当に心配したんだから二度とこんなことはしないでね」

「……ごめんなさい」

 本来なら怒るべきところだが本人がしっかり反省しているのならばこれ以上言葉を重ねなくてもわかってくれるだろう。気持ちを切り替えるようにミランはパンっと軽い音を立てながら手を合わせた。

「さぁ。目的も済んだことだからみんな帰りましょうか。孤児院でみんなが私たちが帰ってくるのを待っているわ」

「そうですね。あ、アレン君。勝手に出て行ったことに関して私はこれ以上何も言うつもりはありませんけど、武器を持ち出したことに関してゼンさんがとても怒っていたので帰ったらお説教は覚悟しておきなさいね」

「うぇぇ~」

 このまま終わりだと思っていたアレンだったが、ミリアンヌのその言葉に情けない声が出るのだった。



(また助けられちゃったな……)

 村へと戻る道中、ミリアンヌは一番後ろを歩きながら一人物思いに耽っていた。心配させないように努めるはずが逆に助けられてしまうなんて、これでは正反対の結果になっているではないか。

「そんな辛気臭い顔をしているなんてらしくないな」

「ルインさん」

 いつの間にか歩く速度を緩めてルインがミリアンヌのそばに寄っていた。本当にこの人はさり気なく私を気遣ってくれる。そのことが嬉しくもあり申し訳なく感じてしまう。

「今回もルインさんに助けられてしまいましたね。アレン君を守ってくださってありがとうございます。今回の件でアレン君も考えを改めたと思います」

 ミリアンヌの視線の先ではミランやサーリャに質問をぶつけているアレンがいる。将来必要になる知識は何かと真剣に聞き入っている様子はこれまで目にしてきた彼とは少し違って見える。

「あいつは変に気合が入りすぎて空回りしてばっかりだったからな。もう今回みたいな馬鹿なことはしようと思わんだろう。……それよりもあんたは少し何でもかんでも背負いすぎているな」

「ミリアンヌです」

「ん?」

 ミリアンヌは子供に注意するかのように人差し指を立てて少し頬を膨らませる。

「ルインさんは私のことを一度も名前で呼んでくれないじゃないですか。今日初めて会ったわけじゃないんですから、そろそろ私のことはちゃんと名前で呼んでください」

 そう。ルインは会った時から一度として自分の名前を呼んでくれない。まるで呼ぶことを避けているかのようにも感じられる。それが距離を取られているように感じてミリアンヌはそれが不満に感じる。

「今更だろ?別にこのままでも——」

「名前で!」

「うっ……」

 ルインはこちらからの圧に思わずたじろぎ視線を彷徨わせていたが、ミリアンヌは姿勢を崩すことなく真っ直ぐ期待するような眼差しでルインを見続ける。

「……ミリアンヌ、さん」

「うん。それでよろしいです。これからはちゃんと名前で呼んでくださいね」

 ぎこちなく自分の名前を呼ぶルインにミリアンヌは満面の笑みを浮かべた。

「これを渡しておく。……ミリアンヌ、さんはもう少し楽に生きた方がいい」

 話題を変えるかのようにルインはこちらへと何かを手渡してきた。掌の上には小さな木製のアクセサリーが置かれていた。四角い枠の中に花の彫刻が施されている。

「ルインさん。これは?」

「俺の故郷で作られていたものだ。それを身に着けていればその花に引き寄せられて幸せが持ち主へと届くと言われている、まぁお守りみたいなものだ。村で育った奴はたいてい持っていたものだ」

「綺麗……」

 ミリアンヌは引き込まれるかのように手渡されたお守りを見る。木を削って作られたはずなのに表面は磨き上げられたかのように光沢を放ち、指でなぞっても引っ掛かりがないほどに滑らかだ。

「ありがとうございます。こんな綺麗なお守りは初めて見ます」

「……そうか。初めて見る、か」

「ルインさん?」

 嘘偽りない感想を言ったのだが、その言葉を聞いたルインはミリアンヌが思っている反応とは違った。傷ついたかのように表情をわずかに歪め、まるで泣き出しそうにこちらを見ている。

 どうして彼がそんな表情をするのかわからない。それでも彼の心を動かすほどの何かがあったのは確かだ。悲しげなルインの表情を見ると胸の奥が苦しくなる。

「もう、いい加減納得しないといけないな。——ミラン、サーリャ!」

 一人何かを呟いたルインだったが、何かを決めたかのように前を歩く二人を呼んだ。呼ばれた二人が振り返る中、ルインはミリアンヌが思ってもいないことを口にした。

「もうこれ以上はいいだろう。明日にはこの村を出るぞ」

「明日⁉」

「それは随分と急な決定ね」

「俺たちは二人をこの村に送り届けるのが目的だったはずだ。それはもう果たされたのだからいつまでもこの村に留まる必要はないはずだ。それぞれやることはあるんだからな」

「私たちはかまわないけれど、ルインはそれでいいのかしら?」

 ミランが何故かチラリとこちらを見てくる。

「ああ」

「そう……それなら帰ったらシオンにも伝えておかないといけないわね」

 三人が話を進める中、ミリアンヌはどこか現実味がないままそのやり取りを聞いていた。

 ルインたちは村の住人ではない。それぞれ帰るべき家があるのだからずっと村にいられるわけではないのはわかっていたはずなのに、いざいざその時がやってくると信じられない思いがミリアンヌの胸を満たし苦しくなる。

「あの……私たちのことは気にせずとも大丈夫ですよ。子供たちも皆さんに懐いておられますし」

 まだしばらく話をしたい。もっともな理由をミリアンヌは提案してみるが、ルインは首を横に振ることで否定する。

「あまり長居すればそれだけ別れが辛くなるだけだ。俺たちはこれ以上関わるべきじゃないんだ。それに——」

 ルインはミリアンヌへと僅かに笑みを浮かべた。

「別に今すぐ帰るわけじゃないんだ。明日までまだ話す時間があるのだから、それまでいくらでも話を聞いてやるさ」

 ルインの言う通りまだ彼らが帰るまで時間がある。それでも明日までという期限はミリアンヌからすれば短過ぎる。

(せっかく名前で呼んでもらえると思ったのに)

 もっとミランさんやマリアナさんとも話をしたい。自分に不器用ながらも優しくしてくれる彼と一緒にいたい。

「あの!」

 だからこそミリアンヌはルインの服の裾を思わず指先で掴んで引っ張る。切れそうになっている繋がりを少しでも繋ぎ止めたくて。

「実はルインさんに相談したいことがあるんです」

「ん?どこまで役に立てるかわからんが、話は聞けるぞ」

 この気持ちはもう止められない。これまで隠していた秘密を打ち明けよう。少しでも彼と一緒にいたくて。

「私、実は昔の記憶が——っ!」

 勇気を振り絞ったミリアンヌの言葉は最後まで言い切ることができなかった。突如としてルインがミリアンヌを強引に引き寄せ、包み込むかのように抱き寄せたからだ。

(わわっ!いきなりなんで⁉)

 ルインの胸に顔を埋める形になって顔を真っ赤にさせながら混乱するミリアンヌだったが、その疑問の答えはすぐに思い知らされた。何か固いものがぶつかる衝撃音がミリアンヌの耳に飛び込んできて、抱き寄せられたまま音のする方向へ顔を動かすと二人のすぐそばに淡い虹色の輝きを持つ壁が立っており、その壁に尖った木が刺さっていた。



「ミラン!サーリャ!」

 ミリアンヌを傷つけないようにと抱きしめるルインが鋭い声を発する。その声を聞くまでもなく二人はすでに行動を起こしている。

 ミランが前へ一歩進み出る中、サーリャは武器を手にしながらアレンを守るように近くへと引き寄せる。突然の襲撃にサーリャの中で警戒が最大限に高まる。

「攻撃⁉いったいどこから!」

「見つけたわ。十一時の方向、崖の上よ!」

 ミランの鋭い声にルインとサーリャが指示された方向を見た。こちらを見下ろすことのできる切り立った崖の上に何かがいる。

「魔獣?」

 目を凝らす先には一体の鹿らしき外見の獣がいた。立派な角を持つ姿はまさに鹿そのものだが、内側から盛り上がっている筋肉質な肉体は通常の鹿とは比べ物にならないほどで、淡い銀色の輝きを持つ巨体は遠くからでもわかる。

 相手の特徴からサーリャは一体の魔獣の名前を引き当てる。たしかスピアディアだったはず。

 相手の動きを観察していたミランが変化を確認し、全員に聞こえるように警告を発した。

「気をつけて!仕掛けてくるわよ」

 スピアディアの近くに立っていた木がまるで見えない力で操られているかのように丸ごと引き抜かれ、ルインとミリアンヌ——二人へと向かって撃ち出された。

「獣風情が!」

 普段と違い感情を露わにしたルインが右手でミリアンヌを抱き寄せたまま左手を軽く振り、魔法を発動させる。二人に向かって一直線に向かっていた木は向かってくる途中で全体をすっぽりと飲み込むほどの炎に包まれた。超高温の炎に焼かれた木はすぐさま灰となり果てた。

「いったい何なのよアイツは」

 縄張りを荒らしたわけでもないのに襲撃を受けていることも驚くところだが、先程からあのスピアディアはあきらかに()()()()()()()()()()()()()。山で暮らす獣を狩りに来たアレンではなく、なぜ山に入っただけのミリアンヌを狙うのか。

 執拗にミリアンヌだけを狙った攻撃をルインはすべて的確に排除し、欠片ほどの脅威も届かせない。

「いつまでも鬱陶しい。ミラン!あいつを黙らせてくるからミリアンヌさんを頼む」

「落ち着いてルイン。いくらあなたでもここから今すぐ向かっても逃げられるわ」

 今にも飛び出していきそうなルインをミランが引き留めようとしているところでスピアディアからの攻撃が止んだ。そして空へと首を上げ、


 ルオオオオオオォォォ!


 スピアディアの声が周囲に響き渡る。新たな攻撃が来るのではとそれぞれが身構える中、予想外な異変が起こった。

「うあああぁぁ!」

「ミリアンヌさん⁉」

 見ればミリアンヌが苦悶の表情を浮かべ、ルインへとしがみついている。状況はそれだけにとどまらない。木々のあちこちからゆっくりと魔獣が現れ、サーリャたちを取り囲む。魔獣だけではない。その中に明らかに異質な存在が紛れ込んでいる。

「なんなのアレは?」

 姿形はこれまで何度も目にしたことのある獣の姿。しかし同じなのは姿形だけ。全身が青白く光っており、まるで影を前にしているかのようにわずかな凹凸があるだけで目玉や本来空いているはずの穴などもない。

「魔法生物?だとしてもこんな大量に使役できるはずが……。ルイン、ここは一度退くわよ。姫様だけでなく村も心配だわ。あなただってその状態のミリアンヌさんを抱えて戦えないでしょう」

「くそっ!」

 ぐったりとしているミリアンヌをちらりと見たルインは悪態をつくが、すぐさま撤退の為にミリアンヌを抱き上げる。

「行くわよ!」

「アレン君、私から離れないでね」

 サーリャたちが包囲網を突破し村へと戻っていくのを魔獣たちは追いかけることはなかった。

「……」

 サーリャたちが遠ざかっていく姿をスピアディアは黙って見送り、やがて見えなくなると踵を返してその場を離れるのだった。



 無事に村まで帰還することのできたミランたちはすぐさま村長や村の騎士を集め、状況を説明することになった。

 魔獣が集まっているだけでなく、未知の個体まで確認されたという話は部屋の空気を重くするには十分で、誰もが何を言えばいいのかわからず沈黙がその場を満たす。

「……以上が現状わかっていることです。統率する個体らしき存在も確認されている以上、この村に魔獣が押し寄せる可能性は十分に考えられます」

「わたくしも同意見ですわ。多少吹き飛ばしましたがすべてとはいかなかったので、再度ここに戻ってくるのは間違いないでしょう」

 サーリャたちが山中で襲撃を受けていたころマリアナとシオンが残っている村にも襲撃があったらしく、村の外にはあちこちに攻撃魔法の跡が残されている。幸いにも村に被害は無く、二人にも怪我一つ無い。

「マリアナ様、敵の規模はどれくらいだったのですか?」

 サーリャが尋ねるとマリアナは記憶を探るようにわずかに上を見上げる。

「だいたい五十体くらいですわ。初撃の攻撃魔法で大半が消し飛びましたが、残りはシオンにも手伝ってもらいましたから多少数にばらつきはあるでしょう。相手の強さですが、わたくしが見た限りでは一体一体はそれほど脅威ではありませんね。せいぜい中の下と言ったところですから、十分騎士で対応可能な相手ですわ」

 つまり防衛に徹するのであればそれほどの脅威ではない。サーリャを含めた今の戦力ならば問題にならない。

 しかし楽観視できない状況がまだ残っていた。これまで静かに話を聞いていたゴドウィンが不安気な表情で口を開く。

「わしからも一つ聞いてもいいだろうか。彼女の状態はどうであろうか?」

「それに関しては彼から説明してもらいます。——ルイン、ミリアンヌさんの容態はどうなのかしら?」

 壁に寄りかかりながら腕を組んでいるルインに全員の視線が集まる中、険しい表情のままルインが口を開く。

「……調べてみたが、身体に直接的な影響を及ぼすような外傷は見られなかった。俺の防御魔法が突破されていないことからもそれは確実だろう。ならば精神干渉系に近い類の攻撃を受けている可能性が高いだろう」

 今もミリアンヌは自室で臥せっており、今は眠っている。それでも気休めにしかならないのか顔色は徐々に悪くなっている。

「師匠。精神干渉系の魔法は受けてしまうと今回みたいに効果がいつまでも残るものなのですか?」

「いや。物理干渉しない分通常の魔法よりも射程は伸びるだろうが、発動し続けるとなると対象の近くにいる必要がある。解除するならば術者を倒すのが手っ取り早い。残された時間がどれくらいかはわからんが、何の訓練も受けていない彼女が長く持ち堪えられるとは思えん」

「そんな……」

「ならば、最優先で魔法を行使している個体の殲滅あるのみですわね!」

 彼女に残された猶予が僅かなことに蒼白になるゴドウィンに対し、そんな空気を打ち破るかのようにマリアナは明るく努め、状況を打破する可能性を口にする。

「ちょっと待ってください。そもそもその個体がどこにいるのかわからないじゃないですか。相手がどこにいるのか見当はつくのですか?」

「それをこれから絞り込むんだ。——この辺りで比較的安全で、魔獣たちの溜まり場になり得そうな場所に心当たりはないか?」

 中央に地図を広げ一同が候補を絞ろうとする中、その問いに真っ先に反応したのは村を拠点とする騎士たちだった。

「安全、とは言い難いですが候補として真っ先に思い浮かぶのは『嘆きの砦』ですね」

 代表としてゼンが地図の一点を指さした。隣の領へと続く山と山の間を通る細い道で、ちょうど山間部を抜けて道が広くなる部分にゼンの指が置かれている。細道を抜ければ村まではほぼ一本道だ。

「昔この辺りには旧国境があったようで、外敵からの進行を阻止する為に砦が置かれていたようです。国境線が変わったことで放棄されてしまったのですが、今はそこに魔獣が住み着き占拠している形になります。縄張り争いが絶えず、山から吹き込んでくる風が砦に到達した際に呻き声のような音を発するのでそう呼ばれています」

「ならばこの砦に目的のスピアディアがいる可能性が高いわね。準備ができ次第すぐに私たちは出発します。騎士の皆さんは村の防衛に専念。万が一に備えてルインを待機させて——」

「却下だ」

 ミランが手短に指示を飛ばすのを遮るかのようにルインが口を挟む。

「時間は一刻を争うのだぞ?ミランはともかく他の三人はそんな速度重視の行軍は慣れていないはずだ。三人に合わせてミランが速度を落とせば意味がない」

「確かにそうかもしれないけどミラン様一人で向かうわけにもいかないでしょう」

 ルインの指摘通りサーリャは今回のような時間的制約のある中での進軍は経験がない。それでも無詠唱で魔法が使えるサーリャや高火力の魔法が使えるマリアナ・鉄壁の守りを持つシオン。各々が持つ強みは他の騎士の追随を許さない。多少速度は落ちるかもしれないが、それでもミランを一人で向かわせるよりかは遥かにマシなはずだ。

 サーリャの疑問に対してルインの回答は実に簡単なものだった。

「俺が出る」

「え?」

「師匠が⁉」

 マリアナだけでなくミランも予想していなかったのか、驚きで目を丸くする。

「俺とミランで一気に道を切り開く。三人は少し距離を空けて後ろから追いかけて来い。村へ向かう奴らと背後から追撃してくる奴らの掃討がお前たちの仕事だ。村の騎士はミランの指示通りに村の防衛に専念していればいい」

「……それは助かるけど、あなたはそれでいいの?ミリアンヌさんの傍についていた方がいいんじゃない?」

 ミランの代わりに配置を決めていくルインにミランは気遣わしげな表情を見せるが、ルインは肩を竦めた。

「何もせずただ傍にいるだけなど俺が納得できん。万が一に備えて簡単な転移陣だけ設置してくるからそれまでに準備を済ませておけ」

 そう言って全員が唖然とするのをそのままにルインは部屋を後にするのだった。



 転移陣を設置し終えたルインはミリアンヌの部屋を訪れていた。ベッドの上では相変わらず顔色の悪いミリアンヌが横になっている。ベッドの傍にしゃがんだルインは少し乱れていた布団をミリアンヌが起きないように静かにかけ直す。

 外に出ていた左腕を戻そうと触れたところでミリアンヌが僅かに反応し、閉じられていた瞼がゆっくりと開かれる。

「……ルインさん?」

「すまん。起こしてしまったな」

「気にしないでください。もう十分寝ましたから、いずれ起きていたと思いますよ。お務めもせずにこんなにゴロゴロとできるなんて幸せ過ぎて癖になっちゃいそうですね」

「これまでが頑張りすぎだったんだ。ミリアンヌさんはもう少し自分を大切にした方がいい。別に少し楽をしたくらいで誰も文句など言わんさ」

 ルインと言葉を交わすミリアンヌは相変わらずこちらが目を細めてしまいたくなるような微笑みを浮かべている。それでもやはり辛いのか言葉に普段のような力は無く弱々しい。それを目にすると自分の不甲斐なさに怒りを覚える。

(あの時、精神干渉系の攻撃の可能性も考慮すべきだった。物理的な攻撃ばかりに意識を向けるなど鈍っているにもほどがある)

 長い間戦場から離れ、誰かを守るということをしていなかったので完全に意識していなかった自分の怠慢だ。これではミランのことを偉そうに言えない。

「ルインさんどうしたのですか?とても怖い顔になっていますよ」

 黙り込んでしまったルインにミリアンヌが心配そうに声をかけてきて、慌ててルインは思考の海から意識を浮上させた。自分の方が辛いはずなのに彼女はこちらの心配をしてくれる。

「あぁ、すまない。少し考え事をしていた。ミリアンヌさんの状態だが、魔獣からの干渉を受けているようだから、これから全員でその原因を排除してくる」

 その言葉にミリアンヌの表情が曇った。

「そんな……私は大丈夫です。私の為に皆さんが危険を冒すようなことはしないでください。きっと休んでいればまた元気になりますから」

「ダメだ。そんなこと言ったらいつまでも回復しないことは自分でもわかっているはずだろう。俺たちの心配よりもまず自分が元気になることを優先してくれ」

「それは、そうですが……」

 申し訳なさそうにするミリアンヌだったが、こればかりはルインも引き下がるわけにはいかない。ミリアンヌは強がってはいるが、確実に魔法はミリアンヌを蝕んでいるのだ。

 それは原因を取り除かない限りいつまでも彼女を苦しめる。そんな状態は一秒でも早く治さなければならない。どれだけの壁が立ちはだかろうともそのすべてを叩き潰すだけだ。

 ミリアンヌを安心させるようにルインは彼女の左手を取り自身の両手で優しく包み込む。

「大丈夫だ。命知らずな鹿に少し教育をしに行くだけだ。終わったらすぐに戻るから何も心配するようなことはない」

「ルインさん。どうしてここまで私の為に動いてくれるのですか?ルインさんとは今回お会いしたのが初めてですよね?」

「……」

 ベッドに横になったままのミリアンヌの瞳にルインだけが映し出される。引き込まれそうな澄んだ青い目が潤んでいる。彼女からすれば何故ここまでされるのかがわからないのだろう。

「俺には昔、姉がいた」

「お姉さん、ですか?」

 ルインは震えそうになる声を無理やり抑えつけ、努めて平静に話す。

「ガキだった俺を姉さんはいつも守ってくれた。だが、俺は守られてばかりで何一つ恩返しすることができなかったんだ。最期の瞬間まで俺は震えるばかりで何一つ動くことができなかった」

 それが何を意味するのか理解できたのだろう。突然の話にミリアンヌは絶句している。

「ミリアンヌさんは姉さんに似ているんだ。もちろん俺とミリアンヌさんは他で会ったことはない。申し訳ないと思うがどうしてもミリアンヌさんと姉さんが重なって見える。ただの独りよがりな願いだが、俺はどうしてもあなたには元気でいてほしい。だからこそ俺は今回あなたの為に動くんだ」

 これまで話さなかった想いをルインは伝える。本来なら話すことなく別れるはずだったが、その機会は失われてしまった。ならばあとは動くだけだ。

「ルインさん。辛い過去を話してくださりありがとうございます。戻ってこられたら私も話したいことがあるので聞いてくださいますか?」

 ルインは表情を緩め安心させるように笑いかける。

「ああ。すべてが終わったらいくらでも聞いてやるさ。だから待っていてくれ」

「はい。お待ちしております」

 そう言ってミリアンヌは包まれた左手をぎゅっと握るのだった。



 部屋を出る際にもう一度振り返ったルインはミリアンヌに笑いかけるとそのままゆっくりと扉を閉めた。数秒ほど扉の前に立ち尽くしていたルインだったが、顔を上げて外に向かって歩き出す。すでにルインの顔からは先程までの優しげな表情は消え去り、気迫に満ちたものへと変わっている。

(助ける。何があっても、絶対に‼)



 準備を整えたサーリャは村の入り口でマリアナとシオンを交えて今後の動きを確認していた。

「フォーメーションは私を前にマリアナ様が間。最後尾にシオンを置く縦列形態でどうでしょうか。これならば後衛のマリアナ様を前後から挟む形になるので向こうからの攻撃を通すことはないと思います」

「それではシオンがこちらのペースに追いつけなかった場合に引き離される可能性がありますわ。分断される可能性は排除する必要があるので、シオンを中心にわたくしが最後尾から全体の様子を確認して指示を出しますわ」

「わかった」

「わかりました。それではそのように編成しましょう」

 あくまでも目的は一点突破による目標の排除だ。余計な相手に時間を取られるわけにはいかない。

「魔獣だ!魔獣がこちらに向かってやって来るぞ!」

 村の外を監視していた騎士の一人が周囲に聞こえるように声を張り上げ、誰もが警告のあった方向に視線を向ける。

 見通しの良い平原——嘆きの砦がある方向からぞろぞろと魔獣たちが村へと迫ってくるのが見えた。

「……なんだか変な集団」

「種族も数もバラバラですね。普通ならああやって一緒に襲ってくるなんてありえないわ」

 通常のスピアディアやフォレストボア、中には普段温厚な性格で滅多にテリトリーから出てこないような魔獣も混じっている。捕食者と被食者が肩を並べて襲ってくるなど本来はありえない。

「報告にあった各地の魔獣の大移動とも関係がありそうですわね。いずれにしても立ち塞がるのであればまとめて敵ですわ」

 群れの中にはあの青白い姿の魔獣の存在も確認できる。ミランは一時的にこの個体を朧種と名付け、全員に注意を促している。

 背後から近づく足音が聞こえたサーリャは振り返るとそこには準備万端のルインとミランがこちらへと歩いてきていた。二人から発せられる気迫に誰もが息をのみ、自然と道を空け歩みを妨げるものは誰一人としていない。

 数年ぶりに二人の英雄が同じ戦場に揃った瞬間だった。



「使う系統は?」

 余計な装飾もなく身軽さを重視した戦闘服に身を包んだルインにミランは短く尋ねる。

「土と風だが面倒なら火で。土は以前と同じだ。そっちは昔と変わっていないな?雑魚はこっちで処理するからミランはとりあえず前へ進め」

「速度は?ブランクがあるなら少し落とす?」

 挑発するような言い方をするミランにルインはじろりと睨みつける。

「ふざけたことを聞くな。トップスピード以外選択肢はない」

「そう。なら私はいつも通りで行かせてもらうわ。ブランクで追いつけないとか言わないでよね」

「それはこちらのセリフだ。久しぶりだからと言って俺の足を引っ張るようなことはするなよ。遅れるようなら問答無用で捨てていく」

 互いに厳しい言葉を投げ合うが二人は特に気分を害した様子はない。まるで当たり前のことを話すかのようで、言葉とは裏腹に相手が足を引っ張ることなど微塵も考えてないようだ。

「師匠の凛々しい姿……久しぶりですが何度見ても眩しすぎます!」

 隣でマリアナがうっとりとルインに熱い眼差しを向けているのを横目にサーリャはルインの姿に目を奪われていた。普段のダラダラとした姿など微塵にも感じられず、近くにいるだけで気を引き締めなければと感じてしまうほどの雰囲気が全身から発せられている。

(これが本当のルインの姿なのね)

 サーリャたちの元へ二人が到着するとルインは三人を見渡した。その際にルインと目が合ってしまいサーリャの心臓が跳ねた。顔が熱くなり、なぜか気恥ずかしくなり思わずルインから顔を背ける。

「それじゃあ作戦を改めて説明するぞ。……サーリャは何をしているんだ?」

「な、なんでもないわ!私のことは気にせず続けてちょうだい」

 真っ赤になり舌がもつれながらも必死にパタパタと顔の前で手を振るサーリャにルインは首を傾げたが、それ以上追及することはせず大人しく引き下がったことにほっと安堵に息を吐いた。

「今回の目標は精神干渉魔法を行使しているであろう統率個体、スピアディアの討伐だ。俺とミランで道を切り開くから三人は俺たちが撃ち漏らした奴らを処理しながら追いかけて来い。雑魚に紛れて変異種が紛れている可能性もあるから一体も残すな」

「「「はい!」」」

「それじゃあ行くぞ」

 ルインはこちらに迫ってくる魔獣の群れに目を向けると魔法を構築し始める。ルインの目の前に巨大な魔方陣が現れ、その中心から紫電が漏れ始める。

「レイン・バースト」

 いくつもの枝分かれした雷がまるで生き物のようにうねりながら先頭集団へと殺到し、瞬時に対象を焼いていく。直撃していない魔獣は辛うじて息はあるが、強力な雷が体内で暴れ、痺れたようにその場に次々と蹲っていく。

 最後には群れの中央に大きな道が出来上がっていた。

「作戦開始だ」

 ルインとミランを追いかけるようにサーリャも駆け出した。



 サーリャたちが戦闘を開始してしばらく経った頃、ミリアンヌはベッドから抜け出し部屋の中で祈りを捧げていた。体調は未だ回復の兆しは無くこうして起き上がるのも辛いが、だからと言って祈りを止めるつもりはない。

 ミリアンヌがこうして祈り続けている間も自分の為に危険を冒して戦い続ける人たちがいるのだ。何もできない自分に歯がゆくなりながらも、せめて無事に戻ってくることを祈るぐらいはしたい。

「皆さん、どうかご無事で!——っ!」

 目を閉じ、より強く祈るために自然と合わせていた手に力が入ったところで突然頭に針を刺されたかのような鋭い痛みが走った。あまりの痛みに思わず身体がよろめき、片手を床につくことで何とか倒れそうになる身体を支える。

「また……何なのこの痛みは」

 頭痛はこれまで何度もあった。しかし最近その頻度が多くなり痛みも強くなっている。これも今自分を襲っている症状の一つなのだろうか。痛みに耐えながらも自然と目の端に涙が浮かんでくる。

(ルインさん……)

 ミリアンヌは首から下げていた木彫りのアクセサリーを握る。少し前に彼からもらったお守りだ。少しでも彼の優しさに縋ろうとするミリアンヌだったが、そんな彼女にさらなる変化があった。


 —————————。


「な、なに?」

 不意にどこからか呼ばれたような気がして、頭を上げたミリアンヌは周囲を見渡す。しかし部屋にはミリアンヌ一人だけで他には誰もいない。


 —————————。


 それでも遠くからはっきりと誰かが自分を呼んでいる。名前を呼ばれたわけではなく言葉にならない音のようにも聞こえる。それでも呼び声はミリアンヌの意識へと深く浸透していく。

「……行かないと」

 ゆらりと立ち上がったミリアンヌは熱に浮かされたかのようにフラフラと歩きだす。彼女の目は焦点が合っておらず左右に身体が揺れているが、自分を呼ぶ声に抗えずミリアンヌはわずかに開いていた窓を開けて外へと転がり出た。

 ゆっくりとミリアンヌが顔を上げると目の前の何もない空間が蜃気楼のように揺らめき始め、青白い光が出現するとやがて一体の鹿へと姿を変えた。

 目や鼻の窪みがあるだけののっぺりとした存在の異様に裂けた口がゆっくりと開かれ、自身へと近づいてくるのをミリアンヌは感情の宿さない瞳で見続けた。



 教会の一室。閉められた扉を小さくノックし、数秒後に扉が開くとアレンが慎重に何かを持って入ってきた。

「ミリアンヌ姉ちゃん。お腹空いてないか?ちびっ子たちとお粥を作ってみたんだ。初めてだったけど多分食べられると——」

 器に盛られた粥から湯気が立ち上る中、そこでアレンはようやく部屋の変化に気づいた。

「ミリアンヌ姉ちゃん?」

ベッドの上で寝ているはずのミリアンヌの姿はどこにもなく、もぬけの殻となっている。トイレか?いや……ここまで誰もミリアンヌが部屋を出た姿を見ていない。

 開け放たれた窓から入る風でカーテンが静かに揺れているだけだった。



 戦場の最前線。空から地上を見下ろせばいくつもの生物がひしめき合い、あまりの密集具合に誰一人としてその中を通り抜けることはできないと思うだろう。

 そんな集団の中に自ら突っ込んでいく一団がある。いや、一団というには規模があまりにも小さく、圧倒的な物量差に簡単に押し流されてしまいそうだ。

 しかしその一団はそんな戦力差など全く関係ないというかのごとく自分たちの目の前に立ち塞がる存在を例外なく薙ぎ払って道を作っていく。

 雷をまといながらミランは進行を阻むかのように立ちはだかった魔獣に剣を突き出し、まるで矢が貫通したかのようにその巨体に大穴を空けながら駆け抜ける。

 そんなミランを止めようと魔獣が集まり数の力で押し戻そうとする。

「跳べ!」

 たった一言。背後からの声にミランは振り返ることなく反応し、前方へ向けて大きく跳び上がる。着地先では早く下りて来いと言わんばかりに獣たちがミランを見上げて待ち構えている。

 そんな獣の集団はミランが見下ろす先で鋭利な何かで斬られ、身体が上下に分かれる。肉塊になった集団はそれだけでは済まない。まるで巨大な手で邪魔なものを払い除けるかのように左右へと無理矢理移動させられる。残ったのは新しく出来上がった道だけだ。

 誰にも邪魔されることなく着地したミランは速度を落とすことなくそのまま前へと走り出す。その隣には追い付いたルインが並走している。

 ミランは走りながらチラリと横目でルインを見る。彼はブランクなど無かったかのように昔と同じように自分の隣を走ってくれる。こんな状況なのにもかかわらずミランは今この瞬間を楽しんでいた。

 自分の後ろではなく隣で肩を並べてくれるような存在は今の王国には一人としていない。彼だけが唯一同じ場所を走ってくれる。

 ルインが何を考えているのかわかるように、彼もこちらの意図を読み取ってくれる。言葉を交わさなくても自然とお互いにやるべきことが分かる。それだけでミランの心が高鳴り笑みがこぼれる。

「もう少ししたら砦だ。気を引き締めろよ」

 どうやらこっそりと見ていたのに彼は気づいたみたいだ。些細な変化に気づいてくれていることがさらに嬉しく感じてしまう。

「任せて。さっさと終わらせましょう!」

 弾むように答えるその様子に説得力はない。それでも不安など無かった。

 彼とならどこまでも先へと進める。



 一方後ろから追いかけるサーリャは二人が切り開いていく道をただ突き進んでいた。

「遠距離攻撃来ます!」

「シオン、二時方向の頭上にフォートレスを二枚屋根のように掲げなさい。位置はわたくしたちの移動に合わせてその都度調整。砲撃先はわたくしが対処するのでサーリャはそのまま進みなさい」

「はい」「わかった」

 マリアナの指示を受けて二人はそれぞれ防御と攻撃を止めることなく先へと進む。弧を描いてサーリャたちへと降り注いできた攻撃をシオンのフォートレスが防ぎ、一つとして三人へと抜けるものは無い。酸の攻撃が含まれていたのか、攻撃の一つが地面へと落ちるとジュっと音を立てて石が溶けていく。

「勝利をわたくしに。贈るは燃えるような大輪の花。咲き誇りなさい——」

 遠距離攻撃の飛んできた先へマリアナが杖を向け、杖の先端にある宝玉が眩い光を放つ。

壮麗な(グローリー・)花炎(ボルレシア)

 杖の先から赤い魔力の塊が撃ち出され、先頭にいた魔獣に命中する。相手に大穴を空けることも爆発することもせず一瞬の静寂が相手側に訪れる。

 不発か?そんな考えが生まれそうになったところで命中した魔獣の身体が歪に盛り上がり、内側から巨大な赤い花の蕾が突き破ってきた。蕾はどんどん巨大化していき、突き破られた魔獣がすっぽりと入ってしまうほどに成長したところで巨大化が止まった。

 そして内側から爆発するかのように勢い良く花開く。周囲を飲み込むほどの大きなクレマチスの花弁が広がり、周囲にいる魔獣たちの頭上に落下してくる。花弁に触れた魔獣は一気に燃え上がり、その様子を見ていた周囲は急いでその場から離れようとするが、密集しているために身動きが取れない。

 あちこちに炎が広がる中、その中心にあるクレマチスの花は決してその魅力を失うことなく美しく咲き誇っていた。

「もしかしてマリアナ様は花がお好きなんですか?」

大地の(グラウンド・)葬送花(フューネラル)」や「壮麗な(グローリー・)花炎(ボルレシア)」などマリアナの魔法には花を冠するものが多く見受けられる。騎士は自分のスタイルに合わせて使用する魔法に特徴がみられるが、ここまで花を主軸とした魔法構成にしているのはマリアナが初めてだ。

「あら、今頃気づいたのですか?あなたの言う通りわたくしは花が好きです。土地や環境によって各地で特徴があり、たった一輪であっても力強く生きるその姿は気高く感じます。種類の多さも素敵ですが、気高く多様性を際限なく受け入れるその懐の深さはわたくしにとって見習うべきところなのです」

 大穴が空いた敵集団へさらにもう一発「壮麗な(グローリー・)花炎(ボルレシア)」を撃ち込んだマリアナから凛とした声が返ってくる。

「力が強いだけの魔法など美学がありません。力強くありながら美しさも兼ね備えるのがわたくしの目指すものですわ。——あっ、もちろん言っておきますがこれを誰かに強要するつもりなどありません。わたくしの美学があるならば人の数だけ美学・信念があるのですから。それよりも少し師匠たちから遅れ始めていますわ。二人とも少しペースを上げられますか?」

「……やってみる」

「こっちが遅れているというより、二人が速すぎるのですよ」

 前を行く二人の姿を遠くに感じながらサーリャは呆れと感心が混ざったような心情を吐露する。シオンもできるとは言わずに努力するという範囲でとどめている。

 ここに別の騎士団がいたのならばあっという間に置いてけぼりにされ、追いつくことは不可能だろう。だからこそ多少距離が開きながらも追いかけられているサーリャたちは十分健闘できていると言ってもいいが、それでもルインとミランのペースには劣る。

(これが本気になった二人の実力なのね)

 マリアナのように指示を後方から出しているわけでもなく、互いに役割を主張しているわけでもない。お互いに何をするべきなのかを理解し、何を相手に任せるのかを正確に把握しているからこそ声を掛け合う必要はない。最小限のやり取りだけで完璧な連携が取れている。

 そして何よりもめまぐるしく変化する戦場の中での状況判断が異常なくらいに早い。まるで流れ作業のごとく瞬時に判断し対処していく。今も二人の猛攻を避けるように後方のサーリャたちへ向かってくる個体が何体かいるが、ミランはわずかに首を動かし相手を確認するとすぐに興味を失ったかのように再び前を向いて新たな敵を屠り始める。

 ミランのわずかな隙を埋めるようにルインが何も言うことなくフォローに入り、速度を維持する。

 すべてを殲滅しながら進むのではなく、多過ぎもせず少な過ぎもない絶妙な量をサーリャたちへとまわしている。この加減のおかげで三人が何とかついて行けていると言ってもいい。

(まだまだ遠いわね……)

 強くなったつもりではいるが、まだまだ二人と並ぶには圧倒的な力不足。そのことを思い知らされたサーリャは剣を今一度強く握り直し、先へと進むのだった。



 嘆きの砦がようやく見えてきた。険しい山に挟まれる形で頑丈そうな砦が道の中央に存在している。所々崩落しているが、比較的被害が少なかったのかそれとも砦自体が強固だったのか、放棄されているにしては思っていたよりも綺麗に残っている方だ。

 砦が機能していたころに破壊されたのか、それとも放棄されてからなのか分からないが、正門があったはずの部分はぽっかりと穴が開いており砦の奥が見える。そんな正門後にはまるで守りを固めているかのように魔獣たちがひしめいていた。サーリャたちが接近してきたことに気がつくと次々と体を起こし、こちらに注目が集まる。

「ルイン、例の個体が今のところ見つからないわ。砦の奥に引っ込んでいるのかしら?」

「おそらくな。魔法を行使するために奥に引っ込んでいると仮定すれば、あいつらはそれを守る門番と言ったところだろう。数を減らして無理矢理にでも外に引っ張り出すしかない」

 ミランは頷くとサーリャたちへと振り返る。

「三人はここで周囲の魔獣たちを処理して退路を確保しなさい。朧種がどれだけ控えているかわからないから、できる限り魔力の消費は控えるように」

「了解!」

「ふん!そんなこと言われるまでもないですわ。シオンはわたくしのフォローをお願いします」

「任せて」

 ルインとミランが砦へと進んで行くのを見送りながらサーリャたちはその場にとどまり左右へと広がって迎撃を始める。サーリャは集団の中へ突っ込むようなことはせず中距離から魔法で魔獣たちを次々と狩っていく。空気中に含まれる魔力をできる限り使用し、自身の魔力消費は可能な限り抑えるがそれでも少しずつ消費はしていくことは変わらない。大規模な範囲魔法は使わず確実に一体ずつ処理していく。

 そんなサーリャの背後で大きな爆発が生じ、思わず振り返ってみれば紅蓮の炎が周囲一帯を焼き尽くし、魔獣が宙へ吹き飛ばされるのを眺めていると熱波が遅れてサーリャへと届いた。

「……本当に魔法の威力が桁違いね」

 魔力消費を抑えていてあれほどの威力を気軽に使えるのだ。いくらサーリャでも周囲を吹き飛ばすほどの威力を何度も使うとなれば自身の魔力を相当消費してしまう。にもかかわらず使うことができるのはひとえにマリアナが持つ特性による恩恵が大きい。

 範囲魔法で周囲を殲滅するマリアナの姿に呆れながらもその実力の高さに思わず見とれていたサーリャだったが、視界の隅に動きがあり意識を引き戻す。

 毒があるのかと思えるほどの色鮮やかな体毛を持ったデコイラビットが鋭利になった前歯を見せながらサーリャへと飛び掛かってくる。

 サーリャはデコイラビットの脳天に寸分違わず剣を振り下ろすが、剣はデコイラビットの身体をすり抜けていき真っ二つになることなく、その姿だけがかき消える。

(これは想定の範囲内よ)

 サーリャは動揺することなく素早く周囲に目を走らせる。サーリャの死角から地味なくすんだ色の兎が迫って来ている。

 色鮮やかな分身を作り出して注意を引きつけ、本体はその間にその場から離れる。本来は逃走用として使われるが、こうして戦闘の囮としても十分効果がある。

 サーリャは左腕をデコイラビット本体へ向けるとピアーズ・ショットを放つ。魔力で構成された針がデコイラビットへと飛んでいきその眉間へと吸い込まれる。デコイラビットは空中でビクンと体を震えさせるとそのまま力を失って落下していく。

 最後まで見届けることなく意識は次の敵へと向けられている。もう一体のデコイラビットが左から迫って来ている。

 サーリャは身体の勢いはそのまま、コマのように片足で立ちながら強力なまわし蹴りを繰り出す。サーリャの蹴りをまともに食らったデコイラビットはボールのように吹き飛ばされ、転がった先の止まった瞬間を狙って風の刃を放ち本体を真っ二つにする。

 休む暇もなく間髪入れずに何かが飛来し、サーリャはそれらを剣で弾きながらその内の一つを叩き切る。赤い軌跡を描きながら足元にボトリと細長い肉の塊が転がる。


 ギュエエエエェェ!


 少し離れた場所で苦悶の声を上げているのは二メートルほどもある巨大なカメレオンで、口から盛大に血をまき散らせている。傷ついた同族を守るかのように何体ものカメレオンが前へと進み出る。

「次は誰?何体でもかかってきなさい!」

 周囲に聞こえるようにサーリャは声を張り上げるのだった。



 サーリャの啖呵はマリアナの耳にも届いていた。

「随分と派手に暴れているようですね。まぁ彼女ならそれぐらいできて当然ですわね」

 満足そうにするマリアナとは違い、シオンの方は少し困ったような表情を浮かべる。

「それを言ったらマリアナも同じ。むしろサーリャよりも派手……」

 シオンの視線の先はまさに地獄さながらといった光景が広がっていた。見渡す限り炎で焼き尽くされており、大地は赤熱化している場所があちこちに出来上がっている。死体は尽く炭へと成り果てているので、残っているのは存在証明になる魔核だけだ。

 しかしこの惨状を引き起こしたマリアナは特に何も感じない。

「あら、そうですか?まぁこれがわたくしなので慣れてください。今回ばかりは人命救助が最優先なので手加減などするつもりはありませんわ」

「それはかまわない。でも、これ以上炎を広げないで。シオンの歩く場所が無くなってしまうし、暑い……」

 近接戦闘もこなすシオンからすれば足場が無くなってしまえば自由に身動きが取れなくなる。至極真っ当な意見だが、マリアナからすれば服の胸元を引っ張りながら口にした最後の一言が本音のように感じられる。

「それでは少し趣向を変えてみますから少し時間をくださいな。あまり離れすぎないのであればシオンも動いてもらって構いません」

 杖を軽く振り目の前の炎を消し飛ばすとマリアナは魔力を集めながら次の準備を始める。マリアナの言葉を受けてシオンはスカートの下に隠し持っていた二本のダガーを抜き放った。鈍い光を放つ刀身がシオンの魔力で包み込まれて魔力の刃が形成される。

 シオンはそのまま単身敵集団へと突っ込んだ。地を這うかのように姿勢を低くし迫るシオンを迎撃しようと体格のいい猿が前へと進み出る。発達した太い腕は捕まってしまえば小さな身体など簡単に粉砕してしまうほどで、その巨腕は足元に転がっていた岩を手に取るとシオン目掛けて投擲する。直撃すれば即死、掠りでもすれば身体の一部は持っていかれるであろう死の塊をシオンは感情が抜けたかのようにスッと目を細めた。

 すぐさま右へと進む方向を変え、直撃しない最低限の行動で岩を避ける。そのあとも岩が幾度となくシオンへ飛来するが、そのすべてを左右へ避けるだけで足を止めず距離を詰める。

 投擲が無意味だと悟った猿は一度足元に感情を爆発させるかのように腕を振り下ろす。地が震え、腕の下の地面が大きく凹んでしまっている。サルは足元に転がしておいた棍棒を手に取ると、向かってくるシオンを待ち構えるかのように構えるが、シオンは猿の周囲にいる魔獣の群れの中に飛び込んだ。自分よりもはるかに体格の大きい群れの中に飛び込んだことによってシオンの姿が見えなくなる。

 シオンは周囲の獣の陰の間を縫うかのように移動し、相手がこちらを見失った瞬間を見計らって飛び出すと相手の右足の腱を切り裂く。体毛に覆われた強靭な足に深い傷が入った感触が剣を通して伝わってくるのを感じながらシオンはそのまま次の群れの中に姿を紛れ込ませる。

 突然傷つけられたことで猿は叫び声を上げながら攻撃が飛んできたであろう方向を振り返るが既にシオンはその場所から移動している。残っているのは獣の群れだけだ。

 再度シオンは群れの中から飛び出し今度は左足の腱を深々と切り裂き、同じようにまた別の群れの中に姿を隠す。

 一撃離脱。シオンは決して正面から打ち合うようなことはせずに自身の体の小ささを最大限に活かしながら確実に攻撃を通していく。姿を隠す際に小型の魔獣に姿を見られてしまうが、こちらは駆け抜けざまに一撃でその息の根を止める。騒がれる前に処理するので、周囲の魔獣からすれば突如として仲間が死んだと映ってしまうので状況が分からない。

 両足の腱を切られたことでようやく相手が膝を地に着けた。

 好機とばかりにシオンは再び死角から飛び出し、今度は首を飛ばそうと剣を振ろうとしたところでぐるっと異常な速度で猿の頭が勢いよくシオンの方へと向いた。

「っ⁉」

 突然の動きにさすがのシオンも驚愕し目を見開く。先ほどまで確実にこちらを見失っていたはず。それなのに今回はシオンの位置を正確に察知してみせた。これが獣の直感というものなのだろうか。

 シオンの姿を捉えた猿は持っていた棍棒を大きく振りかぶる。シオンは攻撃態勢に入っているので空中に留まったままで方向転換ができない。これまで積み重ねられた痛みと怒りを全て乗せるかのような強烈な一撃がシオンへと迫る。

「……フォートレス」

 即死の一撃はあと少しでシオンに届くというところで大きな衝撃音が響き渡った。シオンと棍棒の間に滑り込むかのように一枚の盾が主への脅威を受け止め、残りの三枚はシオンを守るように周囲に浮かぶ。相当な勢いがあったはずだが、棍棒を受け止めた盾は少しも退くことは無い。

 まさか攻撃を止められるとは思っていなかったようで、振りぬいた態勢のまま相手の動きが僅かに止まり、その隙をシオンは見逃さない。自己強化魔法で自身を加速させ一気に迫る。

 弾丸のように一直線に突っ込んだシオンは猿の首のすぐ側を通過し、地面へと着地する。敵は固まったかのように微動だにしないが、やがて猿の首がゆっくりとズレ始め地面へと落下した。頭部を失った身体は切り口から盛大に血を吹き出し、遅れるようにして地響きを立てながら地面へと倒れこんだ。

 フォートレスがシオンの頭上へと移動し、まるで屋根のように広がると降り注ぐ赤い雨を受け止める。シオンには一滴とて触れることは無い。

「ありがとう」

 まるで親しい人に語りかけるかのように、シオンは嬉しそうに頭上の戦友を見上げるのだった。



 シオンが魔獣を倒したのを見届けたマリアナは安堵しながら、発動待機させていた魔法の一つを解除した。念の為にと思って用意していたが、彼女には必要無かったようだ。

 敵の注意がシオンへと向けられている間にこちらの準備も完了した。

「光よ、遥かなる高みからすべてを見渡せ。大地よ、命の鼓動を感じとり一つの願いを聞き届け。願うは護り——恐れを振り払う至高の灯火」

 両手で杖を掲げながら詠唱を始めるマリアナの周囲に変化が起こる。戦場のあちこちで地面から淡い輝きを放つシャボン玉のような光が浮かび上がってくる。マリアナの周囲も同じで、地面の中からゆっくりと光球が浮かび上がってくる。

 そしてマリアナの遥か頭上で巨大な魔方陣が展開され、鏡写しのように遅れて地上にも同じ大きさの魔法陣が出現する。戦場すべてとはいかないが、それでもかなりの範囲が魔法陣の中に収まる大きさだ。

「ちょっとちょっと!マリアナ様、この規模はまずいです!範囲内に私たちも入っていますからね⁉」

 魔法陣の範囲内にいるサーリャがギョッとしながらこちらに振り返ってくるが、気にすることなくマリアナはゆっくりと目を閉じる。閉じられた視界の先ではまるで空から眺めているかのように戦場が見え、仲間たちだけでなく()()()()も見える。

挿絵(By みてみん)

 自分自身を中心とした戦場を見渡しているマリアナは静かにその名を口にする。

夜明けの(アウロラ・)波紋(フルクティクルス)

空に浮かぶ魔法陣の中心からまるで朝露が落ちるかのように一つの光球が落下してくる。光球は真下にいるマリアナの杖の先端にある宝玉に触れた瞬間、光が弾けた。

水面に石を投げ入れたかのように全周囲に向かって光の波紋が広がる。戦場に浮かび上がっていた光球に波紋が触れると光が弾け、新たな波紋を作り出す。連鎖的に波紋が戦場を駆け巡っていく光景は空から、そして状況が違えば綺麗に映ったことだろう。

迫り来る波紋にサーリャはシオンが咄嗟に身構えるが、波紋は二人の身体を通り抜けるとそのまま通過していく。何の影響も起きなかった二人は困惑しながら光が出入りした自身の身体を触っているのが見える。

波紋は当然魔獣たちがひしめいている場所にも到達した。サーリャたちと同じように魔獣たちの身体の中にも波紋が吸い込まれていく。しかしサーリャたちと違って吸い込まれると同時に魔獣たちに変化が訪れた。

 あちこちで苦しむ声が上がり、苦しみに耐えきれないのか次々とその場で蹲り始める。そして砂のように指先から徐々に崩れ落ちていく。

 超広域迎撃魔法「夜明けの(アウロラ・)波紋(フルクティクルス)」——範囲内に存在するあらゆる敵を殲滅することのできるマリアナのオリジナル魔法。地上と空。双方から敵の位置を把握し、敵が地上にいようが空を飛んでいようが位置に関係なく相手に打撃を与えることができる。

 粒子レベルにまで最小化された攻撃は敵の体内に侵入すると、内部から細胞単位で崩壊させていくという見た目に反してなかなかに恐ろしい魔法である。

 夜が明け始め、闇が消えていくように派手な爆発も破壊音も響かせることなくゆっくりと崩れていく。

 圧倒的に見えるが、この魔法が〝迎撃魔法〟と呼ばれているのには理由がある。

 そもそもこの魔法は攻めることを主眼としていない。広範囲に探知魔法を展開しながら魔法で自身の視覚を上空に飛ばして敵味方の選別を行う必要があるので、乱戦となってしまえば一人も漏らすことなく識別することなど不可能である。

 これは退路を断たれ、周囲を敵に囲まれたような籠城戦を想定して作られている。それこそ周辺国に攻め込まれ、いよいよ覚悟を決めなければならなくなった時のような——。

 どんなに辛いことがあっても、幸せな日々が続いている時でも変わらず朝が来るように、希望の光を絶やさず最後まで戦う。王族として最後まで愛する民を守り抜くというマリアナの覚悟が込められている。

 本来なら複数の騎士を動員し、役割を分担してようやく行使できる魔法を単独で使えるのもマリアナの持つ特性ゆえである。

 最後の波紋がゆっくりと消え去ると、マリアナの周囲に敵は一体として残っていない。己を守るようにその場に立ち尽くすサーリャとシオンがいるだけである。

 唖然とするサーリャとシオンがこちらに視線を向けているのを感じながらマリアナはゆっくりと瞼を開く。周囲を見渡し結果に満足したマリアナは、

「完っ璧‼」

 そう言って胸を張るのだった。



 時間は少しだけ戻り、マリアナの魔法の効果はルインとミランのいる戦場にまで効果を及ぼした。

「またアイツは派手な魔法を作り出したんだな」

「それについては否定しないわ。でも、元はと言えばあなたが範囲魔法の良さを姫様に何度も言い聞かせていたのが原因なのだから、少なからずルインにも責任はあるわよ」

 他人事のような反応をするルインにミランはやんわりと責める。

 マリアナの持つ特性を最大限発揮するならば、今回のような大規模範囲魔法は確かにマリアナ向きである。しかしその教育者がルインとなれば通常では考えつかないようなトンデモ魔法を使いだすのは時間の問題だった。魔法の効果内容はマリアナの意思だが、それを可能にさせたのはルインが叩き込んだ魔法技術あってのことだ。

 二人の周囲にはあまり敵は残っていなかったが、それでも手を下すことなく数が減ったのは大いに助かる。ルインとミランが砦へと歩みを進めると、扉を失った正門からゆっくりと銀色の体毛を持つ獣が姿を現した。これまで相手にしてきた雑魚とは力もその身から放たれる風格も違っている。さすがに砦の内部までにはマリアナの魔法の効果は届かなかったようだ。

「ようやくお出ましか。さっさと片付けるぞ」

「気持ちはわかるけど焦らないで。見た目だけじゃなく朧種まで引き連れているのだから確実に通常個体じゃないはずよ。何を仕掛けてくるのか分かったものじゃないわ」

 そう言っている間にもスピアディアの周囲の空間が揺らめき、青白い炎がいくつも出現する。ゆらゆらと揺らめく炎はやがて獣の姿へと変わっていく。狼であったりヤギであったりと形作られた個体の種族は様々だ。

「そんなものすべて薙ぎ払えば済む話だ。俺は行かせてもらう」

 初めて遭遇した時のように前へ出ようとするルインを心配するミランだったが、そんなミランの心情を裏切るかのようにルインはたった一人集団へと突っ込んでいく。

「ちょっとルイン⁉」

 背後からミランの咎めるような声が聞こえてくるが、そんな声を無視していると迎え撃つかのようにスピアディアの前に何体もの朧種が集まって壁を作る。ルインは敵陣の左右に「ウインド・ストーム」を展開させる。巨大な竜巻は周囲にいる邪魔な朧種を次々と吸い込んでいき、吸い込まれた朧種は内部に配置した真空の刃で切り刻まれ命を落としていく。

 立ち塞がる邪魔な存在が消え去るとルインは竜巻が作り出す強力な吸引力を利用して一気に加速し、ボルクの上位魔法であるボルガストをスピアディアへと展開する。弾丸ではなく放射された紅蓮の炎が視界の先を一気に焼き尽くす。

 炎が晴れた先には——なにもいない。

 ボルガストを逃れたスピアディアはルインの左側へと移動すると力を溜めるように首を大きく後ろへ引く。

 そして力を一気に開放するかのように勢いよく角による刺突がこちらへと向かってきた。ルインは直前に地を蹴りその場を離れたが、直前まで立っていた位置を角が通過するとボッと空気が貫かれる音が聞こえた。まともに受ければ致命傷は避けられない。

 スピアディアは左右に角を振り回し、時折こちらの隙を見つけては強力な刺突を出してくる。スピアディアと言っても角の先端は鋭利なため振り回すだけでも当たれば相手を切り裂くことができる。

 ルインは態勢を低くし角を避けると、首を振り切った瞬間を狙って無防備な胴へ雷撃を放つ。貫通した雷撃は相手の体内を焼くだけでなく、体内に残留した雷撃が行動を麻痺させる。

 決定的な隙。その好機を見逃さないルインは決定打を放とうとするが、ルインの背後の空間が揺らぎ、朧種のスピアディアが二体姿を現した。どちらも刺突の予備動作に入っている。

「ちっ!」

 軽く舌打ちするとルインは背後に「サンド・ウォール」の魔法を展開し壁を作る。壁を構築し終えたと同時にサンド。ウォールに二つの大穴が空いた。土や岩ではなく砂によって衝撃を吸収させたにもかかわらずこの威力。

 しかし作り出された刹那とも言えるこの時間は両者の明暗を分けた。大穴の先でルインは緑に輝く二つの球体を浮かび上がらせていた。

 朧種の対応をするルインの背後からこちらも好機とばかりに銀の体毛を持つスピアディアが刺突を無防備なルインへと放つ。しかし、横から割り込んだ存在に阻まれた。

「まったく、人の話は最後まで聞きなさいよ」

 ミランが自分の盾を掲げてルインの背中を守る。衝撃でビリビリと盾が震えるが、貫通されることなく鋭利な角を弾き返す。

「結局何とかなったんだ。問題ないだろ」

「あなたが問題なくてもそれに振り回される私のことを少しは気にして欲しいのよ。その辺りは相変わらずなのね」

 背中越しにミランの声を聞くルインはふっと僅かに口角を上げながら、小さな真空の刃を無数に内包した「エアリアル・ボール」を今しがた出来上がった大穴から相手に向かって撃ち出す。

 頭を大きく前へ突き出したままの朧種二体に命中し、障害物を真空の刃で削りながら真っすぐ進む。サンド・ウォールが崩れていく先で、頭から尻にかけて一本の貫通痕が出来上がった二体が燃え尽きるかのように崩れ落ちていくのが見えた。



 ルインのあとを引き継ぐ形でミランは目の前のスピアディアの猛攻を捌き続ける。すべての攻撃を避けるルインとは違い、ミランは自身の持つ盾で角の軌道を逸らし生まれたわずかな隙を狙って剣を振るう。

 何度目かになる渾身の刺突が来ると察知したミランは盾を構えたまま一歩引くのではなく、逆に前へと踏み込む。

「ふっ!」

 魔法で身体強化したミランはインパクトの瞬間、盾を下から上へと跳ね上げる。盾を通じて攻撃の衝撃が左腕全体に伝わってくるが、引くことなくその場で耐えきる。勢いを上へ逃がされたスピアディアの前脚が地から離れ、ミランに無防備な胸を晒した。そこをミランが剣で一閃しようとするが、不意に背筋に悪寒が走り大きく後ろへ跳び下がる。

 スピアディアが前脚を下すのと同時に、先程までミランが立っていた場所の地中から土の槍が何本も突き出してきた。

 接近戦でやり合うのは危険と判断したのか自慢の角で突っ込んでくることはしなくなり、先程地面から生やした土の槍が魔力によって引き抜かれスピアディアの周囲に浮かぶ。しかしその槍はミランの背後から飛来した魔力弾によって一つ残らず砕かれた。

「突っ込め。狙うのは前脚だ」

「わかったわ」

 二人を近づけまいとスピアディアが周囲に転がる岩や瓦礫を引き寄せて撃ち出そうとするが、それらをすべてルインが叩き落し駆けるミランを止めようと何もない空間が揺らいで中から朧種が出てくるがミランの突進力に抗えず駆け抜けざまに次々と斬り捨てられる。

 ミランは懐から小瓶を一つ取り出すと、それをスピアディアへ全力で投げつける。一直線に向かっていた小瓶はスピアディアへと命中する前に、新たに出現した朧種のウルフ系が横から嚙み砕く。

 小瓶が割れると同時に小さな破裂音を響かせながら大量の黒煙が噴き出し周囲の視界を遮る。それでもミランは相手の魔力を正確に捉えているので視界が封じられた程度で足が止まることは無い。

 時間にしてほんの数秒。突如として突風が吹き荒れ、周囲に満ちていた黒煙が吹き飛ばされ互いの姿が視認できるようになった。自分の姿を見られてしまったが、それでもミランの口元は思わず口角が上がってしまう。

 剣の間合いまであと少し。もはやこちらを止められないと察したスピアディアが少しでも致命傷を避けようと首を後ろへ引き、ミランを踏みつけようと前脚を上げる。そのままミランの頭へ叩きつけようとしたスピアディアだったが、何かに気づいたのかその動きが一瞬止まる。

 スピアディアの視線が自分ではなくその背後へと向けられている。

 先程まで自分のすぐ後ろを走っていた相棒の姿はどこにもない。いるのはミランだけだ。

 目の前の脅威を排除しなければならない。しかしルインを見失っている状況を放置するのも脅威。どちらの対処を優先するべきなのか思考を巡らす無防備な相手に肉薄したミランは剣を一閃させる。切り飛ばされた前脚が宙を舞いスピアディアの悲鳴が響き渡る。

 痛みでおもわず空を見上げたスピアディアはようやく気付いた。太陽を背にして何かがこちらへと向かって来ていることに。

「今更気づいても遅い」

 ミランが作り出した黒煙に紛れて空高く跳び上がったルインは落下しながら右手に魔力を収束させていく。魔力が集まると同時に魔法の発動に備えて周囲の空気が圧縮されながらルインの右手に集まっていく。

 ルインの落下先から逃れようとするが前脚を失ったスピアディアは移動することすらままならない。そしてとうとう魔法の射程に入った。

破穿槌(はせんつい)


 高密度に圧縮された空気の塊がスピアディアに振り下ろされた。抗うことを決して許さない攻撃が地表に届くと、地面が跳ねたのではと思えるほどの振動と人など容易く吹き飛ばすほどの暴風が周囲へと広がる。

 サーリャは咄嗟に剣を地面に刺し、さらに魔力障壁も前面に展開させて迫り来る衝撃に耐える。圧縮されていたとはいえ、とんでもない空気の力に障壁を展開していても思わず身を縮こませてしまう。

 暴風が収まり周囲を見渡せばマリアナとシオンはフォートレスの陰に、ミランは着弾点から少し離れた所で盾を地面に突き刺して耐えていた。

 そして大きく地面が抉られ穴の開いた場所にルインは立っていた。足元には体の後ろ半分しか残っていないスピアディアだったものが転がっている。

「やったわねルイン。これでミリアンヌさんの魔法も解けたはずだわ」

「師匠お見事ですわ。シオンの盾に隠れることしかできませんでしたが、あれほどの威力の魔法を即座に構築できるなんてわたくしには到底真似できませんわ!」

 無事な姿を見せるルインの元へサーリャたちが集まってくる中、ミランだけは複雑そうな表情で突き刺していた盾を引き抜き土を払っていた。

「……そんな威力の魔法を至近距離で受ける私の身にもなってほしいわね。あなたのことだから大丈夫だとわかっていても生きた心地がしなかったわ。——ルイン?」

 ルインは振り返ることなく足元に転がるスピアディアの一部を見つめている。つられるように全員がルインの視線を追いかけると、あるものが目についた。

「これは……傷痕?」

「ん。でも最近できた傷じゃない。時期は特定できないけれど、相当前に付けられたものだと思う」

 何かに引っ掻かれたような傷が背中から尻にかけて走っている。シオンが言うように随分前に付けられた傷のようで、肌が少し歪になっているが完治している。怪我の影響からなのか傷の周囲の体毛は無くなって、肌が露出しているから傷が余計に目立っている。

「ルイン、この傷がどうかしたの?」

「……いや、なんでもない。とりあえず討伐はできたから急いで村へ戻るぞ。本当に精神干渉が解けているかどうか確認する必要がある」

 ミリアンヌの状態が気がかりであるが、ひとまず目的は達することができた。だからこそ皆が気を緩めてしまって反応が遅れてしまった。

 この場で絶対に聞くことのない声を——。



 真っ暗な闇の中でミリアンヌは一人立ち尽くしていた。いや、立っているのかどうかも今のミリアンヌには確認しようがなかった。下を向いても自分の身体を視認することはできず、どこを見渡しても闇が広がっているだけだ。視界だけが今のミリアンヌが自由に動かすことができる感覚だ。

「ここは?私って何をしていたの?」

 確か自分は自室で祈りを捧げていたはず。それなのにいつの間にかこんな闇の中で一人。いつ部屋を抜けだしたのかもどうやってこの場所にたどり着いたのかも覚えていない。そんなミリアンヌの問いに答えが返ってきた。

「それはここが現実の世界じゃないからよ」

「誰⁉」

 突然聞こえてきた女性の声に——身体があるのかわからないが——ビクリと大きく身体が跳ねたミリアンヌは周囲を見渡した。しかし周囲に目を凝らしても闇があるだけで人の姿は見えない。

「ここは深い意識の底にある空間。わかりやすく言うならばあなたの精神世界ということになるわ。この場所をあなたが知らないのはある意味当然のことよ。だって行きたいと思って気軽に行けるようなところじゃないのだから」

 まるで音が部屋全体に響き渡るかのように全方位から再び何者かの声が聞こえる。

「まぁそれは今気にすることじゃないから説明は省かせてもらうわ。偶然とはいえここにあなたが来られたのだから伝えたいことがあるの」

「伝えたいこと……ですか?」

 いったい自分に何を伝えるというのか。緊張するミリアンヌに届けられたのはたった一言だった。

「逃げなさい」

「えっ?」

 予想もしていなかった内容にミリアンヌは思わず聞き返してしまった。逃げる?何から?

「あなたは覚えていないでしょうけど、今外のあなたはとても良くない状況なの。このままだと最悪の事態になりかねないわ。……一度だけなら何とか助けられるかもしれないけれど、それ以上は私じゃどうすることも……できないわ」

「どなたか知りませんが、あなたの言いたいことはわかりました。とりあえず元の世界に戻ったら危ないことから逃げればいいのですね。それよりもあなたは大丈夫なのですか?とても辛そうにしていますけれど」

 声の主は何かを耐えるかのように辛そうな感情を滲ませている。少しでも助けになればと思い声の方向に近づこうとしたミリアンヌだったが、即座に「必要ない!」と叫ぶように拒絶されてしまった。

「私のことはいいの。それよりもあなたに伝えないといけないことがもう一つあるの。これは何よりも優先して。いい?目先の危険をどうにか出来たらあなたは急いで姿をくらませなさい。周囲には決してそのことを伝えず悟られないで」

「ちょっと待ってください!そんなこといきなり言われてもできるわけないわ。どうしてそんなことをしないといけないのですか」

 今自分の身に何が起こっているのかわからないが、到底受け入れることのできない内容にミリアンヌは腑に落ちず待ったをかける。村にはこれまでお世話になってきた人が大勢いるのだ。そんな人たちに何も告げずこれまでの生活をすべて捨てることなどできるわけがない。

 しかし相手はそんなミリアンヌの心情など気にする素振りすら見せない。

「それを説明している時間は無いわ。お願いだから言う通りに行動してちょうだい。そして絶対に()には知られないようにして」

「彼?」

 彼とは誰のことを指しているのか。それを問おうとしたミリアンヌだったが、周囲が唐突に明るくなり始めた。真っ暗な空間から、今度は眩しいほどの真っ白な空間に変わり始める。

「時間ね……約束よ。絶対に私の言う通りにしなさい」

「待ってください!突然一方的にいろいろ言われても困ります。ちゃんと私にもわかるように説明してください。それに彼って誰なの?」

 周囲が明るくなるのに比例して姿の見えない相手の声が次第に遠くなっていく。少しでも会話を続けようとミリアンヌは声を張り上げるが変化は続いていく。

「誰のことを指しているのかはあなたにはわかるはずよ。私が言ったことを決して忘れないで。でないと——」

 あまりの眩しさに目を開けていられなくなり、目を閉じようとしたところで気づいた。自分だけしかいなかったはずの空間に誰かが立っている。黒い髪を持つあの子供は?

「取り返しのつかない結果になってしまうわ」

 最後に届いた不吉な言葉を最後に、ミリアンヌの意識はそこで途切れた。



 上下に激しく自分の身体が揺れている。あまりの激しさにミリアンヌの意識が徐々に浮上してくる。乗り心地は最悪で、馬車に乗っていてもここまでひどくは無い。

「うっ……」

 ゆっくりと目を開けたミリアンヌが最初に目にしたのは流れゆく地面の景色だった。どうやら何か馬か何かに乗せられているらしい。息が詰まりそうになるほどの振動から起き上がろうと生き物の体に手をついたミリアンヌは心臓が凍り付いたような感覚に陥った。

 自分を乗せている生き物の体が不自然なほど青白く光っている。光っているだけではない。手を通じて感じられる相手の体温が一切無いのだ。冷たくもなく熱くもない。そんな生き物などミリアンヌは見たことがない。

 いや、一度だけ見たことがある。しかもそれは決して穏やかな状況ではなかった。

「ひっ」

 引き攣ったような声が漏れたミリアンヌだったが、徐々にその身体がずり落ち始めた。鞍に乗せられているわけでもなく、ただ背に乗せられているだけなのでバランスが崩れれば当然ずり落ちる。

 すぐにでもしがみついて位置を戻さなければならなかったが、目の前の不気味な存在に自分から触れることをミリアンヌは躊躇してしまった。目の前の存在から少しでも離れるべきなのかそれとも落下しそうなこの状況を何とかするべきなのか。

 時間にしてほんの数秒。しかしその先の結果を大きく分岐させるには十分な時間だった。ミリアンヌはナニかの背から落下してしまい、勢いのまま地面をゴロゴロと転がる。

「あぅ!」

 全速力で駆けていたわけではないだろうが、それでも衝撃で意識と視界を大きく揺さぶる。

 何度転がったのかはわからない。勢いが無くなり弱々しく状態を起こしたミリアンヌは周囲を見渡したが覚えがない。遠くの方には石造りの砦のようなものが見える。

 カツっと蹄の音がミリアンヌのすぐ近くから聞こえた。ゆっくりと隣を見れば先程まで自分を運んでいたであろう鹿の姿をしたナニかがこちらを見下ろしていた。

「こ、来ないで!」

 じりじりと下がりながらミリアンヌは相手から視線を外すことなく何かを探すように右手を必死に動かす。やがて指先に硬い感触が当たり、ミリアンヌはすかさず拾い上げ相手に投げつけた。投げつけた石が鼻面に命中して顔が明後日の方向へ向いた。

 痛覚があるのかわからないが機嫌を損ねたのがはっきりと分かった。苛立たしそうに蹄で足元の地面を荒々しく削り、角を大きく振り上げたのを見てミリアンヌは咄嗟に右腕を突き出した。

 腕を突き出したとて何も変わらない。数秒後に右腕ごと貫かれると思っていたミリアンヌだったが、右手の先から眩いほどの光が放たれ、目の前の敵が消し飛んだ。

「え?」

 ミリアンヌは呆気にとられながら自身の右手をまじまじと見た。この力は一体何なのだ。自分は魔法が使えなかったはずなのに……。


 一度なら助けてあげられるかもしれない


 真っ暗な闇の中で聞いた言葉が蘇る。あのやり取りは夢ではなかった。姿の見えない彼女は言った通り自分を助けてくれたのだ。——しかし安心していられない。

(は、早く逃げないと!とりあえずここから離れなきゃ)

 助かったとはいえ、まだ危険な状況なのは変わらない。彼女の言う通りならばもう先程のような助けは無いということ。武器を持たない非力なミリアンヌでは対処できない。

 落下の衝撃で体のあちこちが痛むがそうも言っていられない。フラフラと立ち上がろうとしたところでミリアンヌの頭上に大きな影が入り込んだ。……雲の類ではない。

 ミリアンヌはゆっくりと背後を振り返り「そんな……」と口にしながら絶望の表情に染まる。振り返った先には一頭のクマが二本足で立ちあがった状態でミリアンヌを見下ろしていた。体毛はわずかに紫がかっており、ミリアンヌを映すその目は血のように赤い。短くはあるが額の辺りに一本の角があることからもただのクマでないことは一目瞭然だ。

「あ……」

 立ち上がろうとしていたミリアンヌは力無くその場に座り込んだ。顔を真っ青にしながらもその目は縫い付けられたようにクマに向けられている。これまでとは比べ物にならない恐怖に震えが止まらない。

 三メートルを超えるであろう巨体を支える足が一歩踏み出される動きを見つめながらミリアンヌは胸元のお守りを握りしめ、真っ先に浮かんだ相手の名前を叫んだ。

「ルインさん‼」



 スピアディアを討伐したサーリャたちは村に戻ろうとしたところで眩い光が戦場から離れた場所で生まれたことに気づいた。新手かと身構えたサーリャたちだったが、その光の中心にいる人物の正体に愕然とした。

「ミリアンヌさん⁉」

「そんな、どうしてこのようなところに⁉」

「全員すぐに救助を‼」

 何故教会の自室で身体を休めているはずのミリアンヌがこの場にいるのか。魔法を使えないはずの彼女が何故魔法を使えているのか。状況が理解できずその場に固まっていたが、ミランの一声ですぐさま我に返って動き出す。

 ミランとサーリャが全速力で駆けだす中、マリアナはその場で高速で詠唱を紡ぎ、シオンはフォートレスをミリアンヌへと飛ばす。しかしあまりにも距離が遠く気付くのが遅すぎた。

(遠い……でも絶対に助けないと!)

 自身を最大限に強化し駆けるサーリャは焦燥感を募らせていた。ミリアンヌは孤児院の子供たちにとって希望の光だ。彼女の優しさを受けているからこそ子供たちは毎日笑いながら明日の為に頑張れるのだ。彼女に何かあれば心に大きな傷を負ってしまう。

 そして何よりもルインの目の前でそれをさせてはならない。他人の空似であっても家族を失った時の記憶を呼び起こすようなことは!

 ミリアンヌの目の前に立つクマが一歩踏み出し、前脚を大きく振りかぶろうとして背筋が凍る。あんなものをまともに受ければミリアンヌさんは——。

「だめええええぇぇぇ!!」

 サーリャは絶叫しながら左腕を伸ばす。届かないとわかっていてもそうせずにはいられなかった。今にもその腕が振るわれようとする直前で座り込んでいたミリアンヌの姿が感度の悪い映像を流したかのように不自然にブレた。

(えっ?)

 変化は一瞬だった。サーリャが瞬きで一度目を閉じ、再び目を開けた時には座り込んでいたミリアンヌの姿は消え、代わりに彼女がいた場所にルインが立っていた。

「あれは!」

 かつてルインが見せてくれた魔法。まだ完成には至っていないと言っていたはずの魔法をルインは発動させたのだ。だがその代償は?

 獲物が突如として変わったことにクマは一瞬驚きで動きを止めたが、すぐさま怒りの感情を宿しルインへと襲い掛かる。ルインはすぐさまバックステップで距離を取ろうとするが、あまりにも相手との距離が近過ぎた。

 巨腕がルインへと振るわれた。



(成功したか……)

 バックステップで後ろへと下がりながらルインは直前まで自分が立っていた場所に目を向け、彼女がいることに心の底から安堵した。これでひとまずミリアンヌへの脅威は無くなった。

 こんな事態を想定したわけではないが結果的にミリアンヌへ渡したお守りが魔法を発動させる問題を解決し、彼女を守ることに繋がったのだからルインに不満は無い。むしろ過去の自分の行動を褒めてやりたい気分だ。

 ミリアンヌはルミアではない。そう自分に言い聞かせていたが、どうしても彼女に姉の姿を重ねてしまう。だからこそ今度は守りたかった。たとえそれが自己満足だとしても、あの日何もできなかった無力な自分とは違うのだと証明したかった。

(転移したばかりで魔法は使えん、か……直撃は免れんな)

 まるで他人事のように達観した様子でルインは自身の状況を確認する。使えないのは魔法だけではない。虚空に保管している武器も取り出せないので攻めることも守ることもできない。

 この時になってようやくルインは視線をミリアンヌから外し、眼前の魔獣へと目を向け——呼吸が止まった。

 視線の先でクマの魔獣が鋭い爪を持つ腕を振りぬこうと大きく引いている。しかしルインが大きく心を動かされたのはそこではない。

 自分よりもはるかに巨大な獣。こちらの命を容赦なく刈り取ろうとする巨腕。あの時の光景を再現するかのような状況にかつての記憶がフラッシュバックのように駆け巡る。


 大丈夫。何も心配しなくてもいいのよ


 姉の言葉が呼び起こされ、魔獣を背にして決して忘れることのできない少女の姿が見えた。あの時とは違い目の前に見える少女は悲しげに涙を一筋こぼす。その表情を見るだけでルインの感情はぐちゃぐちゃに搔き乱され、心が悲鳴をあげる。

 ルインの心の奥底からナニかが這い上がってくる。長い時間をかけて折り合いをつけ、自分の奥底に押し込めていた感情。この望みは果たされることは無いと諦めていた。——それが今、目の前に再び現れた。

「ああ……」

 歪んだ笑みを浮かべ、自然と口角が上がる。


 ()()()()


 限界にまで引き延ばされた刹那の時の中で決定的なナニかが外れるような音が響くのと、凶爪が自身に届いたのは同時だった。



 夢を見ているのだとその場にいる誰もが思った。かくいうサーリャもあまりに信じられない内容に幻覚か精神干渉を受けたのではないかと疑うほどだ。

 だってそうではないか。どんな過酷な状況でも、強大な敵を前にしても常に涼しい顔で道を切り開くルインが敗れるなど……。

 そんなサーリャの期待を裏切るかのように視線の先で赤い軌跡を残しながら、ルインが弧を描くように吹き飛ばされていく。まるでスローで見ているかのようにはっきりとその動きを目で追い続け、ルインはそのまま受け身を取ることなく地面へと激突し動かなくなった。

「……師匠?」

 背後でマリアナが掠れた声で呟くのが聞こえた。その間もルインは倒れたままピクリとも動かない。その事実に自身の鼓動が速くなる。

 まさか……ルインが死——

「いやあああぁぁぁ‼」

 喉が張り裂けんばかりの悲鳴が背後から上がった。振り返れば転移前にルインが立っていたであろう場所にミリアンヌが最後に見た姿で座り込んでいた。彼女は顔面蒼白になりながら、かつてないほどの恐怖を目にしたかのようにその目は限界にまで見開かれている。

 ミリアンヌの恐怖が周囲に伝播していく。絶対的な信頼を寄せていた身近な人物が傷ついたことに動揺し、誰もがその場で石のように固まる。サーリャもその一人で、とめどなく涙を流すミリアンヌをただ見ていることしかできない。

「三人とも何をしているの‼まだ戦いは終わっていないのよ!」

 いつまでも動くことのできないサーリャの耳にミランの怒声が届き、ようやく我に返った。ミリアンヌから視線を外し、前に視線を戻せばミランが剣を振り続けていた。いつの間にか周囲にはおびただしい数の朧種が出現しており、ミランがたった一人で戦っていた。

「三人はミリアンヌさんを保護したあとルインの元へ向かいなさい。道は——私が作る!」

 ミランからさらに魔力が溢れ出し、雷撃を纏わせた剣が周囲の朧種を何体もまとめて焼き切る。

「サーリャはミリアンヌさんの保護をしなさい。シオンはわたくしと一緒にミランが作った道を維持しますわよ」

「わかりました!」

「わかった」

 先程までの遅れを取り戻すかのように三人はすぐさま行動を開始する。マリアナの杖の先端が輝き、シオンはフォートレスをフル展開させて近くの敵へと駆け出す。

 サーリャはミリアンヌの元へ辿り着きすぐさま彼女を立ち上がらせようとして言葉に詰まった。

「あ、あああ……」

 ミリアンヌは遠くで倒れたままのルインから目を話すことなく言葉にならない声を漏らすだけで、気が触れてしまったのではないかと思うほどの状態だった。

「ミリアンヌさんすぐに移動します。ルインの元へ行くので私から絶対に離れないでください」

 震えそうになる自分の声を必死に抑えつけながらサーリャはミリアンヌを半ば強引に立たせ、手を貸しながら二人はルインの元へ駆け足で進む。肩に手を置く左腕からミリアンヌの震えが嫌でも伝わってくる。

 合流した二人を守るようにマリアナとシオンが左右で並走しながら全員でミランが作り出した道を進んで行く。

 剣を振るうことができないので代わりに魔法で周囲の朧種を迎撃しながらサーリャは前を行くミランを見た。ミランの周囲では際限なく雷撃が迸り、壁のような敵集団に穴を空けながら前へと進んで行く姿が見える。

(やっぱりミラン様もルインのことで動揺しているのね……)

 誰よりも早く戦闘に復帰したミランの姿に最初はさすがと感じていたサーリャだったが、こうして全体を見ることができるようになってそれが間違いなのだと理解させられた。

 ルインとの付き合いの長さで言うならばこの中ではミランが一番だ。騎士時代から戦場で肩を並べていたのならば相手への信頼は揺るがないものだっただろう。そんな戦友が倒れたのだ。動揺するなというのが無茶だ。なにより、必要以上に雷撃が周囲にまき散らされているのがその証だ。

 朧種の数は少しずつ減りはしているが、なかなかルインの元へと辿り着けないことに誰もがもどかしく感じながら少しずつ近づいていく。そしてまだ距離はあるが遠くでルインの身体が僅かに動き、誰もがルインの名を呼びながら自然と進行スピードが速くなる。

 息があることは喜ばしいがまだ安心はできない。酷くゆっくりと上体を起こし始めているその動きから相当に傷は深いはずだ。サーリャたちがルインの状態に気づいたように、ルインに傷を負わせた魔獣もルインに気づいた。クマの魔獣——正式名称はブラッドベアだったはず——はゆっくりと近づいていく。

「させるかああああぁぁ‼」

 全身に雷撃を纏わせたミランが雄叫びを上げながら弾丸のように飛び出した。盾を前にして身体ごと相手にぶつかったミランは無理矢理ルインから距離を取らせた。ミランと共に飛ばされたブラッドベアは獲物を前に二度も妨害されたことに怒り狂い、対象をミランへと変えた。

 額にある角が輝きだし、輝きと同時にブラッドベアの周囲に何体もの朧種が出現する。

「あいつらはあの魔獣が生み出しているの⁉」

「てっきり朧種は先程のスピアディアが生み出していると思っていましたが違うようですわね。あくまでもスピアディアはその力を借りていただけで、本来朧種を生み出す力の持ち主はブラッドベアのようですわね」

「それでも不可解。自分の力を別の個体に分け与えるなんて聞いたことがない。力はあくまでも自分だけのもののはず」

 シオンの指摘にサーリャとマリアナは無言で同意を示す。新たな種族を生み出すという特殊な力がおいそれと周囲の別個体に分け与えられるはずがない。しかし山で初めて遭遇した際、確かにスピアディアは朧種を生み出していた。そしてあの場にはブラッドベアは近くにいなかったはず。……何かそれを可能にできるカラクリがあるはず。

「それを考えるのは後回しですわ。もうすぐ到着しますわよ」

 ミランから少し遅れる形で四人はルインの元へと辿り着いた。マリアナとシオンが周囲を警戒する中、サーリャとミリアンヌはルインへと駆け寄った。

「ルイン大丈夫⁉」

「ルインさん!ああ……なんてこと」

 ルインの胸元は大きく爪で切り裂かれており、咄嗟に庇ったであろう右腕も深い裂傷で力無く垂れ下がっている。傷の具合からしても明らかに重傷だ。あまりの状態にミリアンヌがぼろぼろとさらに涙を流す。

 しゃがみこんだサーリャはすぐさま腰に付けているポーチを開け、応急処置の道具を取り出していく。さすがにこの傷は放置すれば命に関わる。

 包帯やポーション。少しでも役に立ちそうなものを選別するサーリャの視界の隅でルインが動いたような気がしたがサーリャはルインを見ることなく話しかける。

「ルイン動かないで。とりあえず傷の手当てをするから——」

「ルイン……さん?」

 戸惑ったようなミリアンヌの声にサーリャはこの時になってようやく顔を上げた。顔を上げた先では周囲の朧種と対峙しているはずのマリアナが信じられないものを見るかのようにこちらを見ている。

 いや、マリアナはこちらを見ていない。見ているのはその隣。自分の隣に目を向けると、そこには先程まで倒れていたはずのルインが立っていた。血まみれで重症なことには変わりなく足元に血が滴り落ちているが、本人はそれすら気づいていないかのようにただ真っ直ぐミランと戦闘を繰り広げているブラッドベアに釘付けになっている。

「……ようやく見つけた」

 これまで聞いたこともない地の底から響くかのような低いルインの声がサーリャの耳に届いた。

「すべての元凶……村長を殺し俺からすべてを奪った存在。俺の家族を、姉さんを貴様が……貴様がぁ‼」

 感情が爆発し、ルインの身体から膨大な魔力が解き放たれた。ルインの感情に呼応し周囲に影響が出始める。足元の地面が砕け、大気が悲鳴をあげるかのように軋み空は鏡を砕いたかのようにひび割れる。

 暴風のような魔力を間近で受けたサーリャは耐えきれず思わず尻餅を付くが、ルインはそんなサーリャは眼中にもないかのように目もくれない。一歩踏み出した先の地面が蜘蛛の巣のようにひび割れる。

 嵐のように吹き荒れる魔力だったが、不意にその一部がルインの左腕に集まっていく。肩から指先にかけて鎧を纏うかのように魔力がルインの腕を覆いつくし、やがて人の腕とは違うナニかを形作る。

「あれって!」

 どす黒く濁った色に変わってしまっている魔力は一本の腕へとその形を変えた。サーリャが驚きを現したのはその形だ。

 あれは今まさにミランが戦っているブラッドベアの腕そのものではないか。

 見た目が獣の腕へと変容した自身の左腕をルインはゆっくりと上げ、鋭利な爪の先に魔力が収束していく。あまりにも集められた魔力が多すぎて周囲の景色が陽炎のように揺らめいている。

 異変を察知した周囲の朧種がルインへと殺到するが、ルインは欠片の反応も見せない。そしてその時は訪れた。

「死ネ」

 力を収束させた左腕が振り下ろされた。



 サーリャは最初何が起きたのか理解できなかった。ルインが何もない空間に腕を振り下ろすだけで、それ以上の変化は起こらない。

 いや、変化は遅れてやって来た。ルインが振り下ろした腕の先の景色にあまりにも不気味な一本の線が走った。まるで絵画にナイフを走らせたかのようにその長さを伸ばしていき——。


 空間が裂けた


 線を境界にして上下で位置がずれ始め、上半分がゆっくりと滑り落ちていく。ルインへと向かっていた大量の朧種たちもその先にある砦も——材質も距離も、生物か建造物なのかも関係無い。ルインの前にある全てが切り裂かれた。防御を許さない死の刃に朧種の大半が青白い光とともに消え去り、堅牢な砦は轟音と共に崩落し瓦礫と化した。

「ミラン様!」

 サーリャは血相を変えて思わず叫んだ。ルインの攻撃の先にはミランがいたはず。ルインはミランがいるにも拘らず警告無しで攻撃を放ったのだ。

「安心しなさい。ミランは無事ですわ」

 マリアナの指さす先には砦の崩落で土埃が舞っているが、その中にミランが地面に伏せている姿が見えた。間一髪避けていたことにサーリャは大きく安堵の息を吐いた。

 わずかに地面が震えると同時に土埃の奥で巨大な影が動いた。ゆっくりと土埃の中から姿を現したのはあのブラッドベアだ。

 まさかあの攻撃を避けたのか⁉そう思っていたサーリャだったが、よく見ると完全に避けていたわけではなく額の角が半ばで切り飛ばされている。角だけとはいえほぼ不可視の攻撃を避けているのは獣の直感が影響しているのだろうか。

 それでも角が切り飛ばされたことには大きな意味があった。半分ほど残っていた角から輝きが失われ、輝きが失われると同時に周囲にいた朧種が一体残らず消え去った。

「そうだ。簡単に死んデくれるナ。キサマにはまだまだ苦痛を受けてモラウ。絶望と地獄の果てに——オレが必ずコロシテヤル!」

「ルイン、待っ——」

調子が外れ、明らかに正気とは思えない状態にサーリャはまるで頭から氷水をぶっかけられたかのように身震いし、ルインへと慌てて手を伸ばす。しかしその手がルインの腕を掴む前にルインは魔獣へと突っ込んで行ってしまい虚しく空を切った。

 ルインは速度を緩めることなく突っ込んで行き、ブラッドベアも突進を避ける素振りを見せず身構えるように腕を引く。

 〝異形〟と〝異質〟二つの存在が正面から殺意むき出しでぶつかった。

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