後編
ルインが解き放った力の影響は遠く離れた各地で観測され、突然の事態に多くの人々を大混乱に貶めた。
突如として発生した膨大な魔力は外敵からの脅威を監視している者からすれば寝耳に水で、他国からの侵攻、もしくは別の何か重大な兆候を見落としていたのではないかと何人もの職員が過去の報告書を片っ端からひっくり返す勢いで確認していき、状況の把握に全力を尽くしている。
ルイリアス王国の王城も例外ではない。王城内を何人もの職員が慌ただしく行き交い、状況の把握に全力を尽くしている。
「つまり、現時点では原因となり得るような動きや事象は確認されていなかったということか?」
「はい。今回観測された異常な魔力ですが、それに繋がるような報告は届いておりません。仮にあれほどの膨大な魔力が地中深くに溜まっていたとしても、これまでその兆候すら出さないなど考えられません」
玉座の間でルシャーナは目元を険しくしながら高官の報告に耳を傾けていた。
「他国からの侵攻という線はどうか?」
「恐れながらその可能性は低いかと思われます。あの辺りは旧国境線があった場所ではありますが、既にその意味を成さなくなっております。仮に他国からの侵攻だと仮定しても、軍事的要所でもないあの土地を全力で攻め落とす理由がありません」
「で、あるか……」
ルシャーナはゆっくりと目を閉じ、もたらされた情報を頭の中で整理していく。今回の事態、王国はどう動くべきなのか。
結局のところ突如として発生した異常事態に関して何もわからないということだ。自然現象でもなく他国からの干渉でもない。しかしきっかけもなくいきなり災害になり得るかもしれない事象が起きるはずがない。いずれにしてもこのまま何もせず傍観しているわけにもいかない。
考えがまとまりルシャーナが目を開けると目の前の高官が緊張で身を固くする。有益な情報を提示できない彼の心情を思えばルシャーナは同情したくなる。
「報告ご苦労であった。突然の事態に混乱してそなたたちには多大な苦労をかけていると思うが引き続き調査を進め、何かわかり次第知らせてほしい。他国からの侵攻の可能性も考慮し騎士団には緊急招集をかけて待機させよ。各領地との連絡を密にし、情報の共有を務めるように知らせを出すのだ」
「はっ‼」
高官が退室し、周囲の目が無くなるとルシャーナは疲れたように玉座に深く身を沈めた。普段よりも年老いたように見える彼の隣に宰相であるクレスは黙って立つ。
「クレスよ。此度の件、おぬしはどう捉える?」
「……判断に困りますね。彼の言う通り他国からの干渉という線は今のところ低いかと思われます。しかしながら自然発生したにしてはあまりにも突然すぎます。意図は不明ですが少なくとも何者かの影響を受けた結果と考えるのが自然でしょう」
「娘……マリアナが関与していると思うか?」
ルシャーナの問いにクレスは即座に答えることなく沈黙で返した。王であり父であるルシャーナを前にこの問いはあまりにも答えにくい。何よりも最後の報告でマリアナの行き先が、まさに異常事態が発生しているであろう方角だと把握しているのだ。
しかしルシャーナはそれをわかったうえであえて問いかけている。それは自身の右腕としてのクレスを信頼しているからだ。王相手に言いたいことも言えないのでは宰相など務まるはずがない。
そして王からの信頼に応えるかのようにしばらく沈黙を続けていたクレスは眉間に皺を寄せ、険しい表情のまま口を開いた。
「可能性はゼロ……とは言い切れません。王女の持つ事情を加味すれば今回の事態を引き起こせるかもしれませんが、これほどの規模の魔力量を運用できるほど魔力を保持しているのか疑問が残ります。いくら魔力効率が良くてもそれを運用するとなると相当な技術が必要になります。それに、王女の性格からして無用な混乱を周囲に与えるようなことは良しとしないでしょう」
「そうだな。マリアナならば逆に、混乱を起こそうと画策している連中のところへ殴り込みをかけているだろうな」
「王女として、それもどうかと思いますけどね」
気が強く王国各地を一人で旅しているマリアナだが、王族としての自覚は持っている。守るべき民を不安にさせるような行動はとらないだろう。悪党のアジトで大暴れしているかもしれない娘の姿を想像し、ルシャーナは可笑しそうに笑う。
「どちらにしても、今は続報を待つことしかできんか」
ルシャーナは窓の外へと目を向けた。遠い地にいるであろう娘の身を案じるように目を細めるその表情は王としての表情ではなく、どこにでもいるありふれた一人の父親としての表情だった。
各地がその動きを注目している戦場では激しい攻撃の応酬が繰り広げられていた。ブラッドベアが腕を振るい鋭い爪でルインを切り裂こうとするが、ルインはしゃがむことで自身へ迫っていた脅威をやり過ごし、逆にお返しとばかりに左腕を勢い良く突き出し相手の巨体を貫こうとする。
ブラッドベアの尻尾が長さを伸ばし鞭のようにしなりながらルインの左腕を弾いた。あまりにも強烈な一撃に左腕だけでなく身体ごと吹き飛ばされそうになるが、ルインは即座に自身にかかる重力を何倍にも引き上げ強引にその場に留まる。あまりにも非常識な力にルインの身体が悲鳴をあげるかのように軋むが、ルインはそれすら感じていないかのように敵だけを見据える。
ブラッドベアの前にまたしても幼い少女の姿が見え、涙を流しながらこちらを悲しげに見ている。
「ガアアアアァァァ‼」
獣のような雄叫びと共に左腕をまるでハンマーを振り下ろすかのように真っ直ぐ振り下ろす。振り下ろされた先で地面に深く大きな裂け目ができ、その先にある山肌にも切れ目が新たに作られる。
おおよそ単一の相手に向けられることのない出力の攻撃が周囲にまき散らされる。
そんな両者の攻防をサーリャたちは少し離れた所からただ見ていることしかできなかった。
「なんなのこれは……」
「あれは本当にルインさんなのですか?」
サーリャだけでなくルインの身を案じて涙を流していたミリアンヌですらルインのあまりの変貌ぶりに戦慄し、言葉を失っていた。
周囲はルインの攻撃の影響であちこちがボロボロになっている。地面は裂け目だらけで、真っ二つにされた砦はあの後さらにルインの攻撃を受けたことでもはや瓦礫の山となっており、砦の面影など完全に無くなっている。
「……今のルインは怖い。あれはシオンの知っているルインじゃない」
「ミラン、師匠の全力はあれほどのものなのですか⁉ここまでの力を持っているなんてわたくしは聞かされていませんわよ!」
付き合いの長いミランにマリアが掴みかからんぐらいの勢いで問い詰める。しかし今回ばかりはミランも動揺を隠しきれず大きく首を横に振る。
「そんなわけありません!たしかにルインは規格外の力を持っていましたが、それでもここまでではありませんでした、空間ごと全てを切り裂くなどありえません!これほどの力を持つなど……こんなの、これではあまりにも……」
人の規格を超えている。
ただそこにいるだけで周囲の空間が軋むかひび割れ、空を見上げればあまりにも放出されている魔力量が多すぎるのか黒ずんだ紫色に変わってしまっている。なによりも周囲の空間を漂う魔力がまるで怯えるかのように、どれだけサーリャが引き寄せようにも全く動かないのだ。
つまりこれだけの事象をルインは自身の保有魔力のみで引き起こしているのだ。これだけの魔力を常時垂れ流し続けるなどありえない。
「まさか……」
何かに気づいたようなマリアナに一同が目を向ける。マリアナは何か心当たりがあるようだが、その顔は青ざめて様子がおかしい。あまりの様子に全員が嫌な予感を感じるほどだ。
「かつて師匠はわたくしの力を解明するにあたり、それを再現できないかと考えました。再現できるのであればそこから解決の糸口が見えるのではないかと。……結果的にこの実験は失敗に終わりましたが、その過程で師匠は別のことに着目したのです。個人の魔力総量は日々の魔法鍛錬の結果少しずつ増えていくことはこの場にいる皆さんは知っていますわよね?」
魔力は限界まで使い込み、身体に魔力不足を感じさせることで生み出される魔力量が増えていくという仕組みだとこれまでの研究で解明されている。ただ魔力を消費させるのではなく、必要だと感じるほどの想いがなければ魔力量は増えない。だからこそ、誰もが厳しい鍛錬を続けることで魔力を増やそうとするのだ。
とはいえ永久的に魔力量が増え続けるのかと言えばそうではない。適性や才能など個人の能力で上限は決まってしまう。上限に届いてしまえばそれ以上の魔力量の増大は見込めない。あとは自身の魔力量をどうやりくりしていくのかの問題になる。
「師匠は魔力欠乏に陥るほどまで魔力を消費し、その状態の身体に高濃度の魔力を投与することで強制的に魔力量を増やすことができるのではと気づきました。高濃度の魔力は投与されたとしても濃度が高過ぎてそのままでは使用することはできません。高濃度の魔力を自身の魔力で薄めながら量を増やし、通常濃度にまで下がればようやく使えるようになります」
「姫様!たしかにその方法なら魔力量は理論上増えるかもしれませんが、それでは被験者があまりにも危険すぎます」
「どういうことですか?」
マリアナの説明にミランは咎めるように口調が強くなる。あまりの剣幕ぶりにさすがのマリアナも何も言い返すことができず、口を閉ざしてしまう。
「いいですかサーリャ。消費した魔力は時間が経てば回復するわ。姫様が仰ったように努力を続けることで魔力量が増えることも間違っていない。でもそこに意図して高濃度の魔力を投与することが大問題なの。自身の許容量に加えて高濃度の魔力など与えれば器がどうなるかわかるでしょう?」
そこまで言われてようやくサーリャはその拙さに気づき愕然とした。
「で、ですが許容量を超えたのならば余剰魔力として放出されるのでは……」
実際サーリャは過去にルインのポーションでその状態に陥っている。しかし、しばらく行動不能になるだけでそれ以上の危険は無かったはず。
「普通ならそうなるかもしれないけど、魔力欠乏状態だと話は違うわ。高濃度の魔力であっても身体は何としても取り込もうとするわ。全身に取り込まれた高濃度の魔力は通常の過剰魔力接種と違って外に溢れることはないの」
皮袋の中に水を入れるのだと仮定すればいい。すでに水で満たされている皮袋だが、時間が経つにつれて徐々に中の水が増えていく。多少であれば皮が伸びるので容量は増やすことができる。しかし量の見極めを誤り、容量を超えてしまえば皮袋は破れてしまう。
皮袋——器の壊れた人間がどうなるかなど想像したくもない。
「この研究は初期段階で危険性に気づき、関係する資料は徹底的に処分しました。万が一外部に漏れたりしようものなら恐ろしい人体実験が世界中に広がるのは目に見えていました。そもそも高濃度の魔力を精製するだけでも必要な材料・設備で莫大な費用がかかり、割に合いませんでした。師匠も惜しむ素振りすらありませんでしたので、わたくしはてっきり……」
「それをルインは秘かに続けていたのね」
顔面蒼白になるマリアナにミランはわずかに怒りを抑え、同情するように肩に手を置いた。
(ルイン、あなたはなんてことをしているのよ!)
初めからルインは研究を手放すつもりなど無かったのだろう。研究資料は破棄されたとしてもその知識はルインの頭の中に入っている。再開するなど造作もなかっただろう。
材料の心配も皆無だ。高濃度の魔力で満ちているルクドの大森林ならば少量の材料で簡単に精製できる。
以前ルインは言っていた。ルインですら足を踏み入れるのを躊躇うほどの高濃度地帯があると。誰にも干渉されない地で自分の命を賭け皿に乗せ、長い時間をかけて魔力を増やし続けていたのだとすればあの規格外な魔力量も納得できる。
そしてその行動の原動力となっていたのは——。
「そもそもどうしてルインはあんな状態になっているの?ミリアンヌさんが狙われていたにしても様子がおかしすぎるわ」
「そうですわね。ミリアンヌさんが師匠の傍で襲われたのは二回目なのでしょう?どうして今回はあんな状態になっていますの」
「ルインがおかしくなる直前、何か叫んでいたのをシオンは見た。シオンは聞き取れなかったけど……サーリャは知ってる?」
三人の視線がサーリャへと向けられる中、サーリャよりも先にミリアンヌがおずおずと口を開いた。
「あの、ルインさんは『見つけた』と仰っていました。何のことなのでしょう?」
「見つけた?ルインは何を見つけたの?」
何を指しているのかピンと来ないミランたちだが、間近にいたサーリャはその言葉の意味がわかってしまった。わかっているからこそ口にするのが苦しい。
「多分あれがルインのずっと探していた魔獣なんだと思います。あの魔獣がルインのお姉さんを……」
「「「っ‼」」」
ルインの過去を知る三人が同時に息をのんだ。そう、ルインが探していた存在が目の前にいるのだ。感情的になるのは必然と言える。
そして今回はただ出会ったわけではない。姉のルミアと姿が似ているミリアンヌを目の前で手にかけようとしていたのだ。感情的になるなというのは無理がある。ルインが我を忘れてしまうのは自然な流れだ。
しかしだからと言ってこのままにはしておけない。戦闘が今も続いているのは実力が拮抗しているのではなく、ルインが片腕しか使えないからだ。左腕一本で戦うにはどうしても体勢が崩れ易く手数が少ない。
会話を断ち切るかのように轟音が響き、全員が再びルインへと視線を向けざるを得なかった。たった今ブラッドベアがルインを押し潰すかのように両腕を地面に叩きつけ、それをルインが身体を回転させながら避けていた。
衝撃で突風が吹き荒れる中、土や小石に混じって何かがサーリャの頬に当たった。自然な動きでサーリャは頬に付いたものに触れ、指先を見た。触れた指先は真っ赤に染まっている。鮮やかでありながら残酷なこの赤の正体は——。
「ルイン止まって‼これ以上はあなたの方が倒れてしまうわ!」
「師匠‼」
「ルイン‼」
ルインは応急処置すらせず重症のまま戦いを続けているのだ。出血すら止まっていない状態をこれ以上続けてしまえば命を落としてしまう。全員がルインへと呼びかけるが、ルインは聞こえていないのかこちらに視線すら向けることなく魔獣との戦いを止めようとしない。
「このままではマズいですわ。サーリャ、わたくしたちも向かいますわよ」
「はい!」
「ダメよ。下手に出て行けば私たちが攻撃を受けて命に関わるわ」
「ではミランはこのままわたくしたちにここで見ていろというのですか!」
たとえ周囲から魔力を集めることができなくても、自身の魔力は使える。二人が飛び出そうとしたところでミランに肩を掴まれ、それに対しマリアナは睨み返しながら怒鳴り返す。サーリャもこのまま傍観するなどできるはずもなく、今すぐにでもルインの元へ向かいたいがミランががっちりと掴んで離さない。
「落ち着いてください。何も私は助けるなとは言っていません。タイミングを見極めるべきだと言っているのです。今のルインはこちらに気づいていません。その状態で私たちが乱入すればあの切断魔法が意図せずこちらに飛んでくるかもしれませんし、もしかするとこちらを敵と判断してくる可能性もあります。……シオンはミリアンヌさんの護衛をお願いしてもいいかしら?」
「任せて」
「くっ!」
マリアナはミランの言葉に頭が冷えたのか悔しげに表情を歪めながらルインへと視線を戻し、飛び出すのをぐっと堪えてその場に留まる。いつでも動ける状態で待機するサーリャたちがしばらく戦闘を見守っていたが、視線の先で状況が動いた。
ブラッドベアと接近戦を繰り広げていたルインは大きく後ろへ跳び下がり距離を取ると、身体からさらに膨大な魔力が溢れ出し左腕へと収束していく。
「まだあれだけの魔力を出せるの⁉」
「そんなこと、これまでの師匠を見ていれば今更でしょう。それよりもマズいですわよ!」
すべてを切り裂いたあの攻撃をルインは再び放とうとしている。しかも問題なのはその威力だ。
込められる魔力が砦を切り裂いた初撃よりも圧倒的に多い。一度目の攻撃ですらあれほどの被害を出したのにもかかわらず、ルインはさらに威力を高めようとしている。
(どこまで切るつもりなの⁉)
あれだけの魔力を集めてしまえば被害はここだけでは済まない。万が一射線上の先に人里があろうものなら、それらごと切り裂いてしまうのは明らかだ。
近づくことすら叶わず遠く離れた場所から止めさせようと声の限り叫ぶが、ルインは止まらない。ゆっくりと左腕を持ち上げ爪の先に魔力が収束していく。
そのまま勢いのままに振り下ろすというところで不意にルインの身体が傾いた。同時に周囲一帯を包み込んでいた魔力が制御を失い霧散していく。
「「ルイン‼(師匠‼)」」
全員がタイミング同じくして飛び出した。致命的な隙を見せるルインからブラッドベアを強引に引き離すためにそれぞれがありったけの攻撃魔法を叩きこむ。制御が失われた影響なのか周囲の魔力を引き寄せられるようになっている。
「ルインどうしたの!私が分かる?」
「……」
立っていられず片膝をついてしまった状態のルインは駆け寄ったサーリャの声にピクリと反応し、こちらにゆっくりと顔を向けるが、ルインの顔を見たサーリャは悲鳴を上げそうになった。
血色の悪くなった顔でこちらに振り向いたルインの瞳は瞳孔が異様なほど開いている。振り向きはしたがこちらを認識しているのかも怪しく思えるほど無表情にこちらを見るルインは、普段の彼からすると別人のように思えてしまうほどだった。
喉まで上がって来ていた悲鳴を何とか飲み込んだサーリャの視線の先でルインの瞳孔が徐々に狭まり元に戻っていき、合わなかった視線がようやく交わった。
「……サーリャか?」
「ルイン良かった、正気に戻ったのね。傷が酷すぎるわ。治療の為にひとまず退くわよ」
まるで今までサーリャたちがいなかったような物言いで、話す力も弱々しくではあるが、正気に戻ったことに安堵する。
「……毒だな」
「毒⁉」
「心配するな。命に関わる類の毒じゃない。魔力制御を阻害する毒のようだな。……まったく使えないわけではないが、大規模な魔法を使うのは厳しそうだな」
魔力が散ってしまい元の左腕に戻った自身の腕を見ながら呟くルインは掌に小さな炎を作り出すが、風が吹いているわけでもないのに不自然なほどに揺らめいている。
「サーリャたちはミリアンヌさんを連れて撤退しろ。俺がヤツの相手をする」
「馬鹿なことを言わないで‼そんな状態で戦うなんてできるわけないでしょう」
「サーリャの言う通りですわ師匠。今すぐにでも師匠は手当てを受けなければならない状態ですのよ」
「ルイン……退こうよ」
誰もが退くことを促すが、ルインは決して首を縦に振らない。
「できるできないなど関係ない。ようやくヤツを見つけたんだ。ここで逃げるなどできるわけがない。たとえ刺し違えてでも俺は……ヤツを!」
「っ!」
限界だった。サーリャはルインの胸ぐらを掴み強引に引き寄せると、右手で力いっぱいルインの頬を張った。パンっと乾いた音が響く。
突然のことに呆然とするルインにサーリャはボロボロと涙を流しながらもう一度両手で胸ぐらを掴み上げる。
「何を言っているのよ。そんなことをみんなが許すはずがないでしょ!あなたに何かあればここにいるみんなが悲しむことになるのよ。刺し違える?自分の命を軽んじるようなことは二度と言わないで!あなたが傷ついていくのをミリアンヌさんがどんな気持ちで見ているのか少しは考えなさい!」
ルインはこの戦いで死ぬつもりだ。蠟燭が最後の燃え上がりを見せるようにルインも命を燃やしながら戦うのだろう。すべてを失い、復讐に身を堕とした果てに辿り着いたのは一人孤独のままその生涯を終える。そんな結末はあまりにも、あまりにも報われない。
この時になってようやくそのことに思い至ったのか、締め上げられながらルインは首を動かしミリアンヌを見た。ミリアンヌはサーリャと同じようにとめどなく涙を流しながら祈るように両手を固く合わせている。
ルインの心情をすべて理解することはサーリャにはできない。自分の命を捨ててまで復習に燃えるような激情をサーリャは知らない。今も、そしてこれからも知ることは無いだろう。
それでも目の前でルインが傷ついていく姿はまるで自分の心が切られるかのように痛み、悲しく感じる。これまでが悲しみに彩られ過ぎたルインにはこれ以上悲しみを増やしてほしくない。
だからこそサーリャはもう一つの選択肢を作る。胸ぐらを掴んでいた手を離し、ポーチからいくつものポーションを掴むとルインの左手に乗せる。
「ルインが退けない事情は理解しているわ。だからこそこれは取引よ。このままここに残ってもかまわない、その代わり、私も残って一緒に戦うわ。それでもいいのならこの薬を使いなさい」
「サーリャ!あなたは何を勝手に——」
咎めるマリアナにサーリャは頭を下げて詫びた。
「すみませんマリアナ様。私はルインをこのままにしておけません。処分は後日如何様にも」
復讐は何も生まない——確かにそうなのかもしれないが、それはそれだけの経験をしたことのない者が安易に口にするのはただの綺麗事に過ぎない。どれだけ言葉を並べても所詮は上辺だけ。そんな言葉でルインのような過去を持つ人の心に何が届くというのだ。今のルインに必要なのはいつまでも過去に縛り付けている鎖を断ち切ることだ。
その結果どんな処罰が課されるなど些末なことだ。
「そんなことを言いたいのではありません。わたくしが言いたいのはどうしてサーリャだけが残るような発言をしているのかということです!」
「えっ?」
マリアナは杖を地面に突き刺し、腰に手を当てながら不満気にビシッとサーリャを指さした。
「わたくしは師匠の傷の手当てが最優先とは言いましたが、撤退などと言った覚えはありませんわよ。あなたばかりにいい格好をさせるわけにはいきませんからわたくしも残りますわ!」
「サーリャが残るならシオンも残る。みんなを守るのはシオンの役目だから」
「みんなが残るなら私だけ帰るわけにはいかないわね。ルインの無茶はこれまで嫌になるほど付き合わせられているから今更ね」
誰もがサーリャと同じように共に戦うと意思を示している。サーリャが最後にミリアンヌを見れば、彼女は涙に濡れたまま微笑みを浮かべながら小さく頷いた。
全員の想いは一つ。あとはルインが決めるだけだ。
ルインは納得できないように頭をガリガリとかく。
「お前たちはどうしてそう関係ないことに首を突っ込むんだ。民間人を危険から守るのがお前たちの仕事のはずだろう」
「あら。それならルインも民間人なのだから問題ないじゃない。あなたの傍にいること、そして支えると決めたのは私たちの意思よ」
ルインは全員を見渡し「いいんだな?」と問いかけ全員が頷いた。全員を見渡したあとルインは左手に乗せられたポーションの蓋を開け、一気に飲み干すと弱々しく立ち上がった。
「そこまで言うのならばお前たちの力を当てにさせてもらおう」
ルインを中心に全員が共通の敵へと対峙する。視線の先でブラッドベアがさらなる変化を起こしていた。両腕の筋肉が歪に盛り上がり、内側から外へと押し上げていく。盛り上がってきた筋肉は岩のように硬くなり、最終的にはまるで小手を着けたかのように両腕を覆った。尻尾が伸びてきた時から感じていたが、魔獣とはいえあまりにも生物として変異しすぎている。
「師匠、あんなに何度も短時間の内に変異することなど有り得るのですか?」
「……いや。おそらくはアイツ独自の変異だろう。毒を扱うところから見て自分自身に毒を用いて変異を促しているんだろう。どれだけの毒を扱えるのかわからんが、まともに受ければ何かしらの影響を受けるぞ」
「……ルインは大丈夫なの?」
不安が胸の中で大きくなるのを感じながらサーリャは心配そうにルインの顔を覗き込む。ポーションを飲んだとはいえあくまでも市販品。完全に傷を癒すほどの効果は無く出血が止まった程度の効果しかない。そんな状態で毒を受けているのだ。魔力への干渉以外の効果は無いと本人は言っているが、それでも気がかりなのは変わらない。
「問題ない。数分程度ならまだ動けるはずだ。とっとと終わらせるぞ」
短く返事を返すルインの左腕に魔力が集まっていき、先程と同じように獣の腕へと変化する。魔力操作に支障が出ているのでいつものように虚空から武器を取り出すことができないようだ。
「基本はルインに合わせるわ。各自周囲に気を配りながら攻撃を叩きこみなさい。前衛組は位置を変えながら全方位から仕掛けるように」
「当然ですわ。後方からの援護はわたくしに任せなさい。とっておきを撃ち込む際には合図を出すので聞き逃さぬように」
そうして全員が行動を起こした——すべてを終わらせるために。
「はぁ!」
「ふっ!」
左右に分かれ一気に距離を詰めたサーリャとミランが初撃から全力で剣を振るう。岩さえも断ち切るかのような斬撃はブラッドベアの両腕にぶつかると硬い音を発しながら弾かれた。
「硬い!」
あまりの硬さに思わずサーリャは呻く。岩というよりもこれは鋼鉄に近い硬さで、ぱっと見た限りではブラッドベアの両腕には目立ったような傷は見受けられない。
ブラッドベアはサーリャとミランの攻撃を弾くとすぐさま反撃に転じる。サーリャを喰い千切ろうと大きく裂けた口を開きながら迫り、ミランへは長い尻尾がしなりながら振るわれる。先端が音速を超え、破裂音を響かせながらミランへと迫る。
ミランは咄嗟に盾を構えることで防ぐことに成功するが、あまりの威力に大きく後ろへ吹き飛ばされ、サーリャは大きく身を捩りギリギリのところで鋭い牙から逃れた。
「お返しよ!」
距離を取りながら即座に作り出したボルクを鼻面へと叩き込む。ありったけの魔力を込めた魔法が直撃すると爆炎が相手の頭部を包み込むが、すぐさま煙の先から——多少の焦げ目はついているが——相手の姿が現れる。
両腕はすでに確認済みだが、他の部位も予想以上に打たれ強くなっている。
そんな中、爆炎で生まれた死角からルインが姿勢を低くして迫っていた。二本足で佇むその腹に左腕を振るおうとするが、ブラッドベアは前脚を地に着けるとその巨体全てを使ってルインへと突進する。
「ぐふっ!」
「ルイン‼」
正面からまともに受けてしまったルインは大きく後ろへ吹き飛ばされる。ブラッドベアは吹き飛んでいくルインを視界に捉えたまま左前脚を振るった、爪の先からまるで斬撃が飛ぶかのように赤黒い刃が三本ルインへと向かっていく。
「ルインはシオンが守る!」
シオンの制御のもと、二枚のフォートレスがルインへと急行し、両者の間に滑り込み刃を受け止めた。爪撃はフォートレスに阻まれ、まるで水の塊が壁にぶつかったかのように四散し効力を失うが、四散した一部が地面に触れるとジュっと音を発しながら煙が上がった。どうやらあの攻撃にも毒を混ぜているようだ。
「いやらしい攻撃ね」
「魔法を撃ちますわ。発動まで三秒‼」
マリアナの警告が響き渡り、攻撃を重ねていたサーリャはすぐさまその場から跳び下がる。
地面が揺れブラッドベアの足元が隆起し、まるで獲物を飲み込もうと大口を開けるかのように土壁が周囲を取り囲む。内側に向かって棘を無数に生やしている土壁はそのまま口を閉じるように中心へと勢いよく移動する。轟音と共に姿が見えなくなると僅かばかりの静寂が訪れるが、サーリャたちは警戒を決して解かない。
役割を終え、崩れ行く土壁の中で変わらずブラッドベアは立っていた。
「……本当にしぶといですわね。あれほどの強さならば王国の騎士団を複数動員するレベルですわよ」
「本当にそう思いますね。ここにいる全員で相手にしなければならないのならば、通常の騎士団ならば最低でも三つは欲しいところですね」
「……。」
マリアナとミランが言葉を交わす中、サーリャは話に加わることなくじっと相手を見ながらあることを考えていた。敵の防御力は想像以上。生半可な攻撃では到底太刀打ちできない。
しかしそんな相手にも必ず弱点はある。
「マリアナ様、数秒でいいので私が合図したら相手の動きを止めることはできますか?」
「……数秒くらいならば可能でしょう。でもそれでどうするつもりなのですか?いくらあなたでもあの守りはそうそう破れませんわよ」
「何か策があるのね?」
サーリャは静かに頷く。
「このまま長期戦になればこちらが不利です。一か八かになりますがやってみる価値はあると思います。仕掛けるタイミングがかなり絞られてしまいますが、何もしないよりかはマシでしょう」
うまくいく確証はない。失敗すれば戦線が崩壊する可能性だってある。それでもサーリャはあえて挑戦してみたい。
「そこまで言うならやってみろ。今は一つでも打てる手は打っておきたい」
「ありがとう——これまでとやることに大きな変更はありませんが、攻撃を絶えず与え続けて反撃の隙を与えないようにしてください」
前衛組が再度駆け出し、激しい攻防が再開され剣戟と魔法が絶え間なく撃ち込まれる。戦闘がより激しさを増し、相手の懐へもぐりこんだルインが左腕を振るおうとしたところで、突然力が抜けたかのように膝が曲がり、体勢が崩れた。
「ルイン⁉」
ミランが警告を発した時にはすでにブラッドベアはルインに左腕を振り下ろそうと腕を振り上げていた。
(今!)
「マリー!」
「任せなさい——アースガーデン!」
マリアナの魔法が発動し、ブラッドベアの足元の大地が縄のように形を変え、対象へと何本も巻き付いていく。無数に伸びてきた拘束魔法によって動きが僅かに止まった。
すぐさまサーリャも剣を一度鞘に戻してとっておきの魔法を発動させる。
薄い水の膜が全身を包み込むのと同時に爆発的な加速がサーリャに襲い掛かる。
「っ!」
かつて孤立した部隊を助ける為にルインがサーリャを砲弾に見立てて撃ち出した時と同等の加速にサーリャは歯を食いしばって耐える。一瞬でブラッドベアの眼前まで移動したサーリャは加速の勢いを利用し、剣を鞘から抜き放つ。
(狙うは一点。関節部分!)
いくら外皮を強固にしようともそのすべてを硬化することはできない。可動部である関節はそのままにしておく必要があり、その可動域を確保しなければならない。振り下ろすために伸ばしている腕は今、保護されていない肘関節があらわになっていた。
関節部分の隙間は狭い。僅かでも手元が狂えば剣は外皮によって弾かれてしまうだろう。
「これ以上は……縛れませんわ!」
左腕に巻き付いていた拘束魔法がブチブチと音を立てながら引き千切れ、腕がサーリャへと迫ってくる。
ブラッドベアの左腕がサーリャを包み込んでいた水の膜に触れると膜は破れることなくその形を変えた。液体を掴もうとするのと同じで、そこにあるのに手にすることができない。
そして変化はサーリャにも起こった。水の膜が巨腕の力で凹むのに連動して、その分だけサーリャは押し出されるように横へと移動する。
ブラッドベアは足元の地面に腕を叩きつけるが、その拳の下にサーリャはいない。仕留めたと思っていた獲物が無傷のままでいることに対する混乱と、腕を振り下ろした直後だというのが合わさりブラッドベアの動きが止まる。そこへサーリャはすかさず剣を振るった。剣は寸分違わず肘関節へと吸い込まれていき、相手の肘から先が宙を舞った。
「ギュアアアアァァ‼」
ブラッドベアの絶叫が周囲に響き渡る。まさか自分が傷つけられるとは思ってもいなかったようで、血が噴き出す自身の肘を見つめている。
「ナイスよサーリャ」
すかさずミランが距離を詰める。ミランの作り出した雷撃と彼女の魔力が混ざり合い、刀身に収束していきながらミランは刺突の構えを取る。
「穿つは万物。雷鳴は彼方の果てまでその存在を知らしめる——」
ピタリとミランの動きが一瞬止まる。そして狙いを無防備な腹に定めたミランは全力で剣を突き出した。
「エクリジア・サージ‼」
ミランの剣が相手の外皮を突き破り、刀身が半ばまで突き刺さる。さらにミランは刀身に集めていた力を解放させ、刀身から放たれた雷撃が周囲を焼きながら背中を突き破る。
内臓を焼かれブラッドベアは口から黒煙を吐き出しながらよろよろと後ずさるが、すぐさま何もないはずの場所で何かにぶつかりその動きを止めてしまった。シオンのフォートレスがブラッドベアの背後に移動し、背後から三方を囲んで退路を塞いでいる。
「逃がさない」
「あなたの舞台はここで幕切れですわ」
準備を整えていたマリアナの魔法陣が赤く輝く。ブラッドベアはすぐさまその場から逃げようとするが、正面以外の三方を塞がれ、雷撃で痺れて満足に動かない身体では何もできない。
「業火の花冠」
魔法陣から紅蓮の炎が放射された。炎はミランに貫かれた腹へと命中し、腹を焼きながら周囲へと拡散する。炎が拡散する姿はまるで咲き誇る花のように美しい。
しばらく放射されていた炎が役目を終えて消え去ると、その先ではボロボロに成り果て満身創痍なブラッドベアが立っている。炎を浴び続けた結果、腹の外皮は大きくめくれ上がり、その先には表面が炭となっているが柔らかな肉が見えている。
これで道はできた。
「「「「ルイン(師匠)‼」」」」」
全員の声を受けてルインは力を振り絞るかのように突進する。左腕に纏う魔力が輝きを増すのと同時に相手も最後の抵抗とばかりに残っている右腕をルインへと突き出す。大きさは違えど同じ腕が交差し、両者の影が重なった。
「……。」
全員が固唾を吞む中、ルインは腕を突き出した姿勢のまま目の前の存在を見上げていた。ルインの眉間には僅かコイン一枚分の隙間を残してブラッドベアの爪が止まっており、ルインの左腕は相手の腹に突き刺さり、肘近くまで埋まっている。
左腕を引き抜いたルインの前でブラッドベアの身体がゆっくりと傾き、派手な音を立てて地面へと倒れこんだ。
ようやく戦いに決着をつけることができた。その事実に安堵したサーリャたちだったが、遅れるようにしてルインの身体がふらりと傾いた。
「ルイン!」
「師匠!」
サーリャとマリアナがすぐさまルインへと駆け寄り、両側から身体を支える。
「っと……すまんな。少し気が抜けてしまったみたいだ」
取り繕う余裕もないのか、疲れ切ったルインの言葉にサーリャは苦笑する。
「気にしなくていいわよ。言っておくけれど本来なら絶対安静にしないといけないんだからね。ルインのわがままを聞いてあげたんだから、今度はこっちのわがままを聞きなさいよ」
「そうですわ。師匠はわたくしが治るまでの間離れることなく面倒を見て差し上げますわ。それと……どう言えばいいのかすぐに思いつかないのですが、ようやく終わったのですね」
「……ああ」
三人は傍に倒れている存在に目を向けた。長い間探し続け、ルインを過去に縛り付けていた存在とようやく決着をつけることができた。失ったものは戻ってくることは無い。それでも今回のことはルインにとって大きな意味を持つ。
「ルインさん……」
背後を振り返ればシオンと一緒にミリアンヌが少し離れた場所からこちらを見ていた。涙を浮かべルインの身を案じるその姿は彼に対し、特別な感情を持っているというのがはっきりとわかる。
心配するミリアンヌにルインはようやく安心させるように笑いかけた。
「心配かけたな。これでもう狙われることは無いだろう」
「彼女の表情を見て、もう少しマシな言葉は無いの?」
「何を言っているのですかサーリャ。どんな時でも変わらないのが師匠の良さではありませんか」
「二人は俺のことを何だと思っているんだ」
いつもの騒がしいやり取りにくすりと笑ったミリアンヌは自分もその輪の中に入ろうと一歩を踏み出したが、びくりと不自然にその身体が震えた。
「ミリアンヌさん?」
こちらの声が聞こえていないのかミリアンヌは踏み出した姿勢のまま固まっている。その様子に全員が怪訝な表情になり、シオンがミリアンヌの腕を引こうとしたところでそれは起こった。
「ああああああああぁぁぁ!」
ミリアンヌが絶叫し、自分の身体を抱きしめながら苦しみだした。
「「「「「なっ⁉」」」」」
突然の事態に全員が驚愕する。
(どうして⁉魔獣は確実に殺したはず)
改めてサーリャはブラッドベアを見るが、確かに生命活動は停止している。そんなサーリャの心情を裏切るかのようにミリアンヌの苦しみは止まることがない。そして白い神官服の隙間からわずかにモヤのようなものが漏れ出し始めた。清らかな神官服の色とは対照的な禍々しい色を持つあれは——。
「魔獣の魔力⁉」
「そんな⁉どうしてミリアンヌさんが魔獣の魔力を!」
苦しみ続けていたミリアンヌだったが、やがて限界が来たのか意識を失い地面へと倒れこもうとするが、直前にミランが駆けつけて抱き留めるとゆっくりとその場にしゃがみこむ。その間も神官服の隙間からモヤが出続けている。
「ミラン!」
「わかっているわ。すみませんミリアンヌさん。少し服をめくらせてもらいますね」
遅れてミリアンヌの元へ到着したルインは切羽詰まったようにすぐさまミランへと指示を出し、代わりに左腕でミリアンヌを抱き寄せることで役目を引き継ぐ。
ルインへと預けたミランはすぐさまミランの体の向きを変え、神官服をめくり上げると息をのんだ。
「これは!」
「酷い傷痕……。ミリアンヌさんはいつこんな怪我を」
ミランだけでなく傷痕を見た全員がミリアンヌの背中の状態に驚愕する。傷自体はつい最近にできたものではなく、相当前に付けられたのかすでに完治している。しかし背中に走る傷痕は彼女の白い滑らかな肌ではより一層目立ってしまい、痛々しく見える。
モヤはそんな背中の傷痕から漏れ出すように漂っている。
「くそっ。事前に何か仕込んでいたのか!」
「どういうことですか師匠。原因はすでに取り除いたはずです。にもかかわらずどうして今になってミリアンヌさんに影響が出てくるのですか?」
「おそらく過去に彼女はヤツと出会っていたんだ。どういう経緯でそうなったのかは知らんが、その際に背中に傷を付けられたが一緒に毒も仕込まれていたんだろう。即時効果が現れるものではなく遅延型。しかも自身が死亡してから発動したことから道連れを狙ったものだろう」
「……なんて悪趣味な」
死んでなお苦しめるなど、狩猟ではなくもはや悪意しかない。
「どうするのルイン。ありったけのポーションを使ってみる?」
「やめなさいサーリャ。そもそも体内に魔獣の魔力を宿している時点で異常よ。下手に手を出して状況を悪化させるのはまずいわ」
「ですが!」
ミランからの制止に納得できずサーリャはさらに言い募ろうとする。
確かに魔獣の魔力と人の魔力は相反するもの。水と油のように決して混ざることが無いのが常識だったのだ。それにも拘らずミリアンヌは体内に魔獣の魔力を宿していたのだ。ミランが警戒するのは至極当然の反応だ。
確かにミランの意見は正しいが、それでも何もせずただ見守ることなどできない。
誰もが対処法が分からず手をこまねいている中、ルインはゆっくりとミリアンヌの顔を見下ろした。ルインの腕の中でミリアンヌは意識を失っていながらも苦しんでいるのか表情は険しいままだ。
そしておもむろにルインは左手をミリアンヌの左手へと伸ばした。あと少しで触れようとしたところで突如横から伸びてきた手に手首を掴まれ、その動きが止まった。
「……いったい何のつもりだ?」
突如邪魔をされたことに嫌悪を隠すことなくルインは相手に殺気を込めながら睨みつける。
ルインの視線の先では、ミランが真剣な眼差しでルインを見ていた。
ミランの行動が理解できない中、ルインとミランの間には殺伐とした空気が出来上がっていた。
「もう一度問うぞミラン・リルコット。貴様は何をしている?返答によっては貴様でも今は容赦しないぞ」
「ルイン。あなたは何をしようとしているの?」
「くだらんことを聞くな。俺はミリアンヌさんを——」
「質問の仕方を変えましょうか。私たちでさえ対処法が分からないのに、彼女の中にある魔力をあなたはその左手でどうするつもりだったの?」
サーリャはハッとなりルインを見る。ルインは睨みつけたまま沈黙を貫いている。
「ミリアンヌさんの身に起こっていることは明らかに異常なことよ。騎士団のトップとして在籍している私でさえ彼女の症状は初めて見るわ。あなたが騎士団にいた時に同じような症状を見たことはないし、森で一人暮らしているあなたがそんな情報を持っているとは考えられないわ。分野は違えど、あなたと私が分からないのよ」
ルインの手を掴むミランの手にさらなる力が加わる。
「もう一度聞くわよ。あなたはその左手で何をしようとしているの?」
「……」
沈黙が周囲を包み込み、サーリャとマリアナはハラハラしながら二人を見守ることしかできない。やがてルインが溜息とともに沈黙を破った。
「彼女の身体に何故魔獣の魔力が悪影響を及ぼさずこれまで残り続けていたのか理由はわからん。だが、ヤツの特性から考えて毒に由来するものだと考えられるから、解毒の応用で対応できる可能性がある。ミリアンヌさんにその類の対応は不可能だから、俺と疑似的なパスを繋いで原因の魔力を俺の方で排除する」
「つまり魔獣の魔力をルインへと移して、移した先で解毒するのね」
「確かに今のミリアンヌさんには荷が重すぎるのは理解できますが、そんなことをして師匠は大丈夫なんですの?」
言葉にすれば単純だが、実際にはそう簡単なことではない。毒とは違って今回取り込もうとしているのは魔力なのだ。マリアナの懸念通り、取り込んだ際どんな悪影響が出るか分かったものではない。さすがにマリアナも不安になっている。
「解毒するからにはある程度影響を受け入れなければ効果はない。その辺の危険性は覚悟の上だ。……これで満足か?まさかリスク無しで何とかできるなどと思っていないだろうな?」
しばらく思案顔になっていたミランだったが、やがてルインを掴む手の力が緩まった。
「わかったわ。とりあえずあなたのやり方を試してみましょう。でも危険と判断したら無理矢理にでも止めさせてもらうわ。彼女が助かって、あなたが犠牲になるようなことはこの場にいる誰もが望んでいないことを忘れないで」
「くれぐれも早まって邪魔をするなよ。とりあえずどんな影響が出るかわからんから、俺と彼女に触れるな——始めるぞ」
ミリアンヌをしっかりと抱き寄せたルインは苦しむミリアンヌを優しげな目で見下ろし、静かに左手を重ねた。重ねられた手を包み込むかのように淡い青色の光が浮かび上がる。
「……なるほど。これがヤツらの魔力か。こんな状況でなければじっくりと研究してみたいところだな」
「ルイン、無理しないで」
「俺のことよりミランはミリアンヌさんの状態を監視していろ」
心配するミランにルインは集中の為に目を閉じながら短く言い返す。
ただ見ていることしかできない時間がしばらく流れるが、ようやく変化がミリアンヌに現れ始めた。背中の傷痕から漏れ出ていたモヤが少なくなり始め、心なしかミリアンヌの表情も和らぎ始めてきた。ルインの処置が効果的だったという事実に周囲で見守っていた四人は安堵と共に喜びの声を上げた。
しかしそんな空気もすぐさまミランの一言で打ち消された。
「ルイン、今すぐ中断しなさい!」
ミランの声に反応して慌ててルインの左手を見れば、ミリアンヌと触れている部分から黒ずんだ紫色の刺青のようなものがルインへと侵食している。ミランが袖を捲り、サーリャが襟を開くとすでに刺青は首にまで到達しようとしている。
「ルイン聞こえないの⁉今すぐ治療を中断して!」
サーリャが大声で呼びかけるがルインは目を閉じたままで、額には珠のような汗を浮かべながら微動だにしない。
「ルイン、無理矢理にでも引き離すわよ」
「待ってくださいミラン様。それは危険です」
どれだけ繋がりを深くしているのかわからないが、パスが繋がったままの二人を無理に引き離せばどんな影響が出るかわからない。
「このままこうしておく方が危険よ!」
そう言ってミランは勢いよくルインの腕を引いた。ミリアンヌに重ねられたルインの手が離れると同時に両者の手を包み込んでいた光が消失する。
二人の手が離れると首にまで迫っていた刺青が徐々に引いていき、最終的に左手の刺青まで消し去ったところでようやくルインがゆっくりと目を開けた。
「ルイン大丈夫?どこか違和感が残っていたりしてない?」
ルインは額の汗を袖で拭った。
「……問題ない。だが、まだ彼女の中には魔力が残留している。このまま作業を進めれば完全に取り除けるはずだ」
「待ちなさい。あなたは気づいていないのかもしれないけれど、ルインへ移った魔力が身体を侵食していたのよ。このまま続けるのは危険すぎるわ」
危機感の無いルインに不安を覚えたのかミランは口を挟むが、ルインは「何を言っているんだこいつは?」と言わんばかりにミランを見返している。
「解毒の前に体内に取り込む過程があるのだからそんなこと当たり前だろう。こうして俺に問題が出ていないのだから、ギリギリまで進めて今みたいにパスを切断すれば支障はないはずだ」
「それはそうだけど……」
綱渡りに近いがそれ以外に対処が思いつかないミランは次第に言葉が尻すぼみになる。普段とは比べ物にならないであろう精密な魔力操作が求められるので、その分野に相当な技術がなければ対処できない。その言葉にサーリャは引っ掛かりを覚えた。
(解毒とルインは言っているけれど正確には魔力に近いもの。自身の内側の深い所まで潜ることのできる精密な魔力操作は必須……ううん。それだけじゃダメ。分離した魔力を外に放出しないといけないから周囲の魔力の特性も理解する知識も必要になる)
そこまで考えたサーリャは一度思考を中断し、顔を上げた。もしかすると——。
「ねえルイン。ミリアンヌさんの解毒作業、私たちも手伝えないかしら?」
「なに?」
「ルインのしていることって簡単に言うなら魔力操作の一種でしょう?ここにいる全員魔力操作は長けているのだからやり方さえ教えてくれれば問題無いはずよ」
使い方に差はあるが、ここにいるのは魔力操作に関してはトップレベルに近い技術を持つ者ばかりだ。十分その役割を手伝えるはずだ。しかしサーリャの提案をルインは静かに拒絶する。
「危険だ。確かに魔力操作に関しては他の奴らよりも上だろうが、魔力を取り込んだ際にどんな結果になるか予想がつかん。相手の魔力に耐えられず精神が飲み込まれる可能性だってあるんだ」
「でも師匠。それをクリアすればわたくしたちも手伝えるのですよね?それなら是非とも試してみたいですわ」
手伝えるとわかるとマリアナは少しの躊躇いもなく名乗りを上げる。
「そうね。ルインにばかり負担をかけるわけにはいかないわね。ルインや姫様みたいに魔力特化ではないけれど、私だってそれなりに扱いには自信はあるつもりよ」
「ミラン、お前まで……」
本来マリアナの行動を止めるべきミランまでもが参加すると言い出したことにルインは困惑と呆れが混じった表情になる。
(ルインは本当に優しいわね)
ルインが頑なに助けを求めないのはひとえにサーリャやマリアナたちの身を案じてのこと。たとえ失敗しても犠牲は自分一人だけ済むからと考えているのだろう。そんな優しさに嬉しく感じながらも、同時に悲しさもある。
「ルイン、あなたは前に言ったわよね。一人でできることには限界があるって。足りないものは仲間に頼ればいいって。私たちは仲間として少しでもあなたの助けになりたいの」
マリアナやシオン、ミランが同意するように頷く。ここにいる誰もがルインに助けられている。今度は自分たちがルインを助けるのだ。
「わかった。とりあえずやり方は教えるが、シオンは参加させない」
「っ!どうして……」
自分だけ仲間外れされたことに大きくショックを受け、今にも泣き出してしまいそうになるシオンにルインは彼女の勘違いをすぐさま否定した。
「勘違いするな。別にシオンが役に立たないと言っているわけじゃない。確かに年齢的に幼いシオンは相手の魔力に飲み込まれる可能性が他の奴らよりも高いということもあるが、逆にシオンにしか任せられない役目があるから参加させないだけだ」
「シオンにしかできないこと?」
シオンはその役目が思い浮かばず首を傾げる。
「そうだ。解毒作業中の魔力操作はかなりの集中を必要とする。自身の内側に目を向けなければならないから外の変化に気を回す余裕がない。血の匂いをまき散らしたこの場所は獣にとって無視できない格好の餌場になっている。大抵のヤツは戦闘の余波で近づいてくることはないだろうが、それでも確実とは言えない。最低でも一人は俺たちを守る役目を務めなければならん」
確かにそれならばシオンが適任だ。あくまでもサーリャたちが復帰するまでの時間を稼ぐのが目的なので、向かって来る敵を殲滅する必要はない。シオンならば十分任せることができる。
「それでしたら確かにシオンが適任ですわね」
「シオン。私たちの命、あなたに預けるわ」
彼女を信頼しているからこその言葉。だからこそ全員が迷うことなく自分の命を預けることができる。
マリアナやミランからの言葉にシオンは先程までの悲しげな表情からやる気に満ちた表情へと変わり、フォートレスの輝きがより一層増す。
ルインから解毒に関するレクチャーを受けた三人は準備のためにルインの傍に寄り、地面へと座り込む。輪になるように座り込んだサーリャたちの周囲を守るようにシオンのフォートレスが取り囲んでいる。
「やり方は理解したな?俺が最初に彼女から魔力を呼び込むから、三人はそこから対応できるだけの量だけ自分の中に引き込むんだ。初めから大量に呼び込む必要はない。必ず対処できる範囲に留めろ」
ルインからの忠告に三人は真剣な面持ちで頷く。誰もが体内に魔獣の魔力を取り込むという経験したこともない作業を始めることに緊張を隠せないでいる。
「いいか。魔力を取り込み始めると相手の思念が流れ込んでくるだろうがすべて無視しろ。自我を強く持って必要以上に踏み込もうとするな。下手に踏み込めば最悪戻ってこられなくなる」
ルインは最後にそれだけ言うとミリアンヌの手に自分の左手を重ね、その上にサーリャたちの手が静かに置かれる。その際にマリアナが直接触れ合いたいが為に真っ先に動いたことにサーリャは思わず噴き出した。
「始めるぞ」
重ねられた手を包み込むように光が生まれ、ミリアンヌからルインへと魔力が移動し、さらに三人へと移動していく。重ねられた右手を通して入り込んでくる不快さにサーリャは表情を険しくした。
(これが魔獣の魔力なのね……)
まるで自分の身体の中を無数の何かが蠢いているかのようで、落ち着かない。自身とは違う魔力にサーリャはできる限り冷静さを失わないよう努める。ルインというフィルターを通しているのにこの不快さなのだ。それを身に宿していたミリアンヌはどれほどの負担があったのか想像もつかない。
目を閉じ自身の内側に目を向けたサーリャはゆっくりと着実に入り込んできた魔力を解毒し、体外へ放出していく。初めこそ戸惑いはしたが、コツさえわかればサーリャでも十分対応できる。
取り込む魔力の量を増やし始めた所でサーリャはあることに気づいた。
———————。
(ん?)
何かが聞こえたような気がして、サーリャは制御が甘くならないように注意しながら片目を開ける。
マリアナとミランはサーリャと同じように目を閉じたまま解毒作業に集中し、シオンは周囲を警戒しているので誰も言葉を発していない。気のせいだろうか?
(もう少し引き込んでも大丈夫よね)
開けていた片目を閉じ、解毒作業を再開するためにさらに魔力を自身へと呼び込んだところでサーリャの耳に大音量の音が飛び込んできた。あまりにも突然だった為、おもわずサーリャの身体がびくりと跳ね上がる。
(なんなの⁉)
それは無数とも言えるほどの獣の声だった。あまりにも数が多過ぎて個体の判別ができないほどではあるが、共通していたのはどの声も苦しみを孕んだ声だということ。そしてその声は頭の中に直接響いており、耳を塞いでもまったく変化がない。
(まさかこの声って今まで犠牲になってきた生き物の声なの?)
そう思ったところで、サーリャはいつの間にか頭の中に響く声に耳を傾けていることに気づいた。これはまずい。下手に興味を持ってしまえば飲み込まれる。
作業に集中しなければ!意識を無理矢理にでも引き戻そうとしたサーリャだったが、無数の獣の叫び声の合間をすり抜けて別の声がサーリャへと届いた。
「まってよ~」
「えっ⁉」
戦場では聞くことのない子供の声だ。予想外の声が聞こえてきたことに思わず目を開いたサーリャの視界に映ったのは仲間たちの姿ではなかった。
「ここって……どこなの?」
仲間の姿はなく瓦礫となってしまった砦が近くにあったはずだが、その痕跡すら消え去っており、代わりにいくつもの家屋が立ち並ぶ村の中にサーリャはいた。座っていたはずなのにいつの間にか立っている。
「幻覚?それとも何かの精神攻撃かしら?ルインはこんなこと言っていなかったはずだけど……」
周囲を見渡すが、まるで度の合っていない眼鏡をかけているように輪郭がぼやけ過ぎてはっきりと視認できない。なんにしても想定外のことが起きているのは間違いない。サーリャはいつ襲われても対処できるように全方位を警戒する。
そして背後から小さくではあるが足音が聞こえてきたのに気がつくと、勢いよく振り返った。
「……子供?」
村の子供だろうか。性別すら見分けられないほどにぼやけてしまっているが、一人の子供がこちらに向かって駆けてくる。身構えるサーリャだったが、あと少しというところで子供は足元の石に躓き、勢いのまま前へ倒れこむ。
「危ない!」
咄嗟にサーリャは子供を受け止めようと前へ踏み込んでしまった。踏み込んだ瞬間、まるで霧が晴れるかのようにぼやけていた視界が一気にクリアとなり、倒れこむ子供は幼い男の子だとわかる。
倒れこんでくる子供にサーリャ手を伸ばしたサーリャだったが、子供はサーリャの手をすり抜け地面へ倒れこむ。
「なっ⁉」
触れることなくすり抜けてしまった事実にサーリャは驚愕に目を見開いた。
「うわあああん!」
「もう。なにをしているのよ」
今しがた起きたことが信じられず手を伸ばした姿勢のまま固まってしまっているサーリャの目の前で男の子は大声で泣き出すが、さらにどこから現れたのか別の声がすぐ隣から発せられた。
目の前で倒れている男の子と同じ黒い髪をなびかせながら一人の少女が近づいてきて、少年を起き上がらせながら優しげな手つきで服に付いた土を払っていく。
「ほら。お姉ちゃんが手を繋いであげるから一緒に行きましょう」
「うん!」
先程まで泣いていたのが嘘のように一転して少年は笑顔になり、姉らしき少女に手を引かれてそのまま去っていった。その様子をサーリャは戸惑いながら見届けるしかできない。
——何か大切なことを忘れているような気がしたが、何を忘れているのか思い出せず、その疑問すら数秒後には霞のように消えてしまう。
姉弟が去っていくと周囲の景色が切り替わり、今度はどこかの家の中にサーリャは立たされていた。狭い部屋の中には一つのベッドが置かれており、その中で先程見た姉弟がピッタリとくっついて眠っている。
「これは……記憶?たぶん二人のどちらかだと思うけど、これを私に見せて何がしたいの?」
目の前で次々と見せられる光景は前後でまったく繋がりがなく時間も時期もデタラメで、適当に映像を継ぎ接ぎしたかのよう。共通しているのはどの場面でも姉弟が中心となっており、二人がその場を離れれば次の場面へと切り替わる。
どの場面でも仲の良い姉弟が楽しそうに笑っている。
干渉することのできないサーリャはただ見ていることしかできない。終わりはいつなのだろうかと思い始めた所で何度目かになる場面の切り替わりが起こるが、今度は少し様子が違った。
これまでのような村の中とは違い、今度は森の中にサーリャは立っていた。何かに襲われたのか、周囲には馬車らしき残骸と積み荷が散乱している。
(二人に何があったの⁉)
残骸の中に姉弟はいた。少年の身体の上にはいくつもの残骸が積み重なっており、気を失っているのか目を閉じたままピクリとも動かない。そしてその傍らで少女があちこち土に汚れながらも必死に弟の上に積み重なっている残骸をどかそうと必死になっていた。
「■■ちゃん目を覚まして!お姉ちゃんがすぐに助けてあげるからね」
しかし幼い少女の力では少年を助けるにはあまりにも弱すぎる。少女が全力で持ち上げようとするが、大きな残骸はわずかに持ち上がるだけで、助けるには至らない。
それでも少女は必死に残骸を取り除こうと力を振り絞っていた。そんな状況をただ見ていることしかできないサーリャは自分のことのように感じて思わず胸を押さえる。
グオオオォォォ
どこからか発せられた咆哮にサーリャと少女は同時に反応し、顔を上げた。咆哮の大きさからしてここからそう遠くない。
咆哮を聞いた少女は何か考える素振りを見せた後、すぐさま弟を助けようと取り除いた残骸を急いでかき集め弟の姿を隠すように積み上げていく。最後に弟の顔を隠すだけになったところで少女は慈しむようにそっと弟の頬に触れた。
「■■ちゃん・・・ごめんね」
未だ気を失ったままの弟の顔を目に焼き付けた少女はゆっくりと頬に触れていた手を離した。弟のものではない鮮やかな〝赤〟が頬に残る。
手早く弟の顔を残骸で隠した少女はふらつきながらも立ち上がり、ゆっくりとその場を離れ始めた。向かう先は開けた場所ではなく、見通しの悪い森の奥深くへと歩みを進める。自分の隣を通り過ぎていく少女にサーリャは叫び出したい気持ちだった。
(どうしてそっちへ行くの⁉そんな状態で森の奥に進んでしまったら……)
幼い少女が一人で森を突破できるほど自然は甘くない。この先に待ち受ける少女の未来は容易く想像できてしまう。
そう思っていたところでサーリャは気づいてしまった。これまで正面からしか少女を見ていなかったが、横を通り過ぎた少女の背中が見えたことで彼女がどういう状態かわかってしまった。
「背中が……」
少女の背中は切りつけられたかのように大きな傷を負っていた。相当深い傷なのか破れた服が真っ赤に染まっている。この状態で森へ向かうなど、それではまるで——。
これでいいの
サーリャの思考を読んだかのように少女の声がサーリャの頭の中に響いた。少女が喋ったわけではない。彼女の想いが絶え間なくサーリャへと流れ込んでくる。
このまま二人この場に残り続ければいずれ獣に見つかってしまうのは明らか。自分だけならばまだいい。しかし弟が犠牲になるなど断じて許容できるものではない。
血の匂いを纏う自分が離れれば獣は弟に気づかずこちらを追いかけてくるはずだ。
それに私はもう長くないから……
血を流し続ける痛みの中、傷口から得体のしれない何かが入り込んでくるのが分かる。次第に意識も遠くなり始めている。
それでも〝私〟は歩くのを止めない。サーリャはボロボロの身体を引きずるようにしてでも前へと進む。一歩進むごとに涙がとめどなく溢れ、頬を伝い視界が滲む。
(ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい)
もっと一緒にいたかった。喧嘩をした時もあったけれど、それでも〝私〟にとってはかけがえのない大切な思い出だ。今すぐにでも弟の傍へ駆け戻り抱きしめたい衝動に駆られるが、それに勝る想いで無理矢理抑えつける。
覚悟は決まっている。あとは行動するだけだ。
——!————‼
だから〝私〟は前へと進む。前が見えなくなっても感覚の残っている足だけは動かし続ける。この想いは決して塗り替えられることはない。
——ャ。き————のか!
弟のためなら……〝私〟の命など!
サーリャ!目を覚ませ‼
「サーリャ‼」
すぐ近くから大声で自分を呼ぶ声に気づき、サーリャは叩き起こされたかのように勢いよく目を開けた。目を開けるとわずかに遅れるようにして猛烈な頭痛と吐き気が襲い掛かり、おもわずサーリャは口元に手を当てた。ミランのハッキリとした声がすぐ近くで聞こえる。
「戻ってきたわ!サーリャ大丈夫?私たちがわかるかしら⁉」
心配そうなミランに返事を返せないままのサーリャだったが、ふわふわと視界が揺れているような感覚が落ち着いてきたところでサーリャは改めてゆっくりと目を開けながら周囲を見渡した。
「ここ、は……?」
座っていたはずなのにいつの間にかその場で寝かされていたようで、視界いっぱいに広がる青空に割り込むような形でミランとマリアナが心配そうにこちらを覗き込んでいる。
どうして自分は寝かされているのだろうか。問いかけようとしたところで横になっているサーリャに軽い衝撃と共に誰かが抱きついてきた。
「サーリャぁ。よかったよぉ!」
シオンが号泣しながらサーリャの胸に顔を埋めている。どうしてシオンが泣いているのかサーリャは思いつかず混乱した。
「私は——」
「相手の魔力に浸食されたんだ」
少し離れた場所で座ったままのルインがサーリャの疑問に答える。
「途中まで順調だったはずなのに、いきなり浸食が始まったんだ。異常に気付いたシオンが知らせてくれたが、処置を始める頃にはかなり深い所まで浸食されていたんだ。ミランとマリアナがサーリャの体内に残留している魔力を浄化していなければ精神が飲み込まれるところだったんだ——あれほど注意しろと言ったのに不用意に向こう側へ踏み込んだな?」
「……ごめんなさい」
心当たりがあるサーリャは素直に謝罪した。躓いた少年を助けようとしたあの一歩がきっかけだったのだろう。咄嗟のこととはいえ自身の迂闊な行動で仲間を心配させてしまったことが申し訳なく感じる。
「本当に迂闊だったわね。いろいろと言いたいところだけど無事に戻ってこられたから今は何も言わないわ」
「まったくですわ。シオンが泣き出した時は何事かと思いましたわよ。助ける者が助けられてどうするんですの」
未だ胸の中で泣き続けているシオンを安心させるように頭を優しく撫で続けるサーリャにマリアナが小言を言ってくるが、その表情には明らかな安堵が含まれていた。
「っ!ミリアンヌさんは⁉」
「落ち着け。一応浄化は成功した。……だが浸食がどこまで影響しているのかわからんが、呼びかけても目を覚まさない。もしかすると精神に何らかの悪影響が残っている可能性がある」
「そんな……」
悲し気に視線を落とすルインの腕の中では変わらずミリアンヌが目を閉じたままで、マリアナもミランも沈痛な面持ちだ。せっかく元凶を排除できたのに。
「とりあえず目を覚まさなければどうにもならん。彼女のことも心配だが、お前の状態も心配だ。混ざったことでどんな変調を起こしているのかわからん」
「サーリャはそのまま動かないでじっとしていなさい。シオン、少し調べるから離れてくれないかしら。サーリャが無事なのはあなたもわかるでしょう?」
「……うん」
涙を拭いながら離れるシオンと入れ替わるようにしてミランがサーリャへと顔を近づけ、些細なことも見逃すまいと瞳を覗き込む。少しでも動けば触れてしまいそうなほどの至近距離で見つめられることにサーリャはドギマギするが、そもそもの原因が自分の不注意なのでぐっと我慢する。
ミランに調べてもらっている最中、サーリャはあることを思い出していた。
(あの姉弟。もしかしてあの二人は——)
ミリアンヌとルインを通して見させられた幸せそうに笑い合っている黒髪の姉弟。自分の中に流れ込んできた記憶がもしもミリアンヌの記憶の一部だったのならば、彼女は——。
「ねえルイン。もしかしたらミリアンヌさんって——」
「ううっ……」
サーリャが最後まで言い終わらぬうちにミリアンヌが僅かに身じろぎしたことで話は中断し、全員がミリアンヌへと注目する。サーリャもミランとシオンに支えられてゆっくりと身体を起こす。
「ミリアンヌさん。俺の声が聞こえるか?」
全員が固唾を呑む中、瞼が震え、ゆっくりとミリアンヌが目を開いた。
「ミリアンヌさん!」
「よかった!意識を取り戻したのですね」
意識を取り戻したことに一同は喜ぶが、真っ先にルインとミランが違和感に気づき、遅れてサーリャたちもそれに気づいた。
「……。」
目を覚ましたミリアンヌは周囲の声には反応せず、まるで夢うつつかのようにぼんやりとした表情で首だけを動かして周囲を見渡している。やがて自分を抱き寄せているルインへと視線が止まり、何も言葉を発することなくじっとルインを見つめている。
「ミリアンヌさん俺が分かるか?何か身体に違和感とかは残っていないか?」
しかしミリアンヌはルインの呼びかけにも応えず、じっとルインを見つめている。
まさか精神に後遺症が残ってしまったのではないか。誰もが最悪の結果を予想し表情を強張らせ始めるが、ルインは認めたくないかのように何度も必死にミリアンヌへと呼びかける。
「ミリアンヌさん頼む……何か言ってくれ!」
「違うでしょ」
これまでよりも優しさが増したミリアンヌの言葉が紡がれる。抱かれたままの状態で愛おしそうに目を細める彼女の視線は、ルインから微塵も外れることはない。
「ダメじゃない私の名前を間違えるなんて。本当にるーちゃんはうっかりさんね」
ルインの目が大きく見開かれた。
(まさか⁉)
ありえないことに頭が理解できずルインは雷に打たれたかのように自分が抱き寄せている女性を見下ろす。
もう二度と聞くことはないはずの呼び方にルインの感情は大きく揺さぶられていた。その呼び名を誰かに教えたことはなく、自分のことをそう呼ぶ者は世界にたった一人しかいない。そしてその名を口にしたということは……。
「姉さん……なのか?」
動揺を抑えきれず震える声でルインはこれまで何度も聞きたいと思いながら言い出せなかった言葉を口にする。その言葉に成り行きを見守っていた四人に驚きの表情が浮かぶ。
「そうよ。るーちゃんのお姉ちゃんのルミアよ。お姉ちゃんのことを覚えていてくれて嬉しいわ」
「どう……して。だって目の前にいるのはミリアンヌさんのはずだ」
「そうね。確かに私はミリアンヌよ。でも、それと同時にルミアでもあるわ。うまく言葉にし難いのだけど、ミリアンヌとルミア、二人で一人の私を形作っているのよ。ミリアンヌだった時のことも私は覚えているわ」
言われなくてもわかっていたことだ。話し方も細かな仕草も、自分に見せるその笑い方も。すべてが記憶のままで、腕の中にいる女性が自分の姉だと証明している。
「ミリアンヌを通して、るーちゃんのことはある程度知っていたわ。るーちゃんのことを覚えていなくても、ルミアという一面がどこかに残っていたから無意識に興味を持ったのね。街でるーちゃんが騎士になっていたということを知った時は、お姉ちゃんとても誇らしかったわ」
「……今の俺を知って姉さんは失望しただろう」
騎士としての資格を失い、犯罪者として人目を避けて暮らす今の自分の姿に姉はさぞ落胆しただろう。自嘲するルインだったが、ルミアは微笑みながらゆっくりと首を横に動かす。
「そんなことないじゃない。お姉ちゃんの言ったことを忘れちゃったの?」
同じ澄んだ青い目が真っ直ぐ自分だけを映し出す。
「誰がどう思うと関係ない。世界中があなたを嫌っても私は何があってもあなたの味方よ。だってあなたは私にとって大切な——大切なかけがえのないたった一人の愛する弟よ」
ルインの中であの日の記憶が蘇る。姿が変われど、あの日と同じように姉は太陽のような温かい微笑みを浮かべている。そしてあの言葉の続きをようやく知ることができた。
「そうか。そうかっ!」
ルインは肩を震わせながら俯いた。しかしこみ上げてくるものを抑えることができず、零れ落ちたものがルミアの頬を濡らす。
「ごめんね、ダメなお姉ちゃんで。約束を守れなくて……あなたを一人ぼっちにして。寂しい思いをさせてこんな怪我までさせちゃったお姉ちゃんを許して」
ルミアの伸ばした手がルインの左頬に優しく触れた。ルミアの目から涙が溢れ、頬を濡らしていた雫と混じり合い一つになる。ルインは頬に触れる彼女の手を取り、謝り続ける姉の言葉を否定するように何度も横に首を振る。
謝る必要など、どこにもない。今触れ合っているこの温もりがあるだけで、満足なのだから。
サーリャは静かに立ち上がりその場を離れた。サーリャだけでない。ミランやマリアナ・シオンも示し合わせたかのように、何も言うことなく静かにその場を離れる。
少し離れた場所に移動した四人だったが、サーリャは隣を歩いていたマリアナの様子に気がつき小さく笑う。
「ちょっと。なんで号泣しているんですかマリアナ様」
サーリャの隣でマリアナは溢れ出る涙を止められず、何度も涙を拭っていた。
「だって……仕方ないじゃありませんか。こ、これが泣かずにいられるわけないでしょう!し、師匠のお姉様が生きていらっしゃって、師匠のことを思い出されたのですよ」
涙を流し続けるマリアナは咎めるようにサーリャへと視線を向けた。
「そういうサーリャだって、そんな顔で言っても説得力がありませんわよ」
「えっ?」
表情を確かめるように頬に触れたサーリャの指先は濡れている。いつからだったのだろうか。この時になってサーリャはようやく自分が涙を流していることに気がついた。
「な、泣いてなんかいませんよ。嬉しいに決まっているじゃないですか。姉弟がもう一度再開できたんですから……だからっ!」
誤魔化すように取り繕っていたサーリャだったが、取り繕うとすればするほど感情が大きく揺れ動き、最後は堪えきれず嗚咽を漏らす。ルミアの記憶に触れてしまったからなのか、二人が再開したことに対して悲しさと嬉しさがごちゃ混ぜになった感情が涙となってとめどなく溢れてしまう。ミランもそれを察しているのか何も言わず、落ち着かせるようにサーリャの肩に優しく手を置く。
そんなサーリャを見て僅かばかり感情が落ち着いたマリアナは「決めましたわ」と涙に濡れながらも覚悟を決めた表情になり、誰もがマリアナへと視線を向ける。
「王国に戻ればわたくしはこの件に関して専門の研究機関を設立しますわ。このような悲劇、もう二度と起こさせるわけにはいきません!ルイリアス王国王女であるマリアナ・ヘルオンスの名において、この場で宣言します!」
ルミアが助かったのは本当に運が良かっただけ。ルインやミランやマリアナといった魔力操作のエキスパートが揃っていたからこそ実現できたことであり、他の騎士では対処できなかった。今回はうまくいったが、次同じように助けられるかと問われても即答できないのは身をもって思い知っている。
「ルインが家族に会えて本当に良かった。シオンの家族はもういないから、会うことができるのならその方がずっといい。でも、ちょっと羨ましい」
「あら、シオンは何を言っているのですか。随分と悲しいことを言ってくれるのですね」
「えっ?」
キョトンとするシオンをマリアナは涙を拭いながら見下ろした。
「家族の在り方なんて様々ですわ。もちろん家族とは何かと聞けば多くの人がシオンのように血の繋がった間柄だと答えるでしょう。しかしそれは見方の一つでしかありません。一緒に喜びや悲しみを分かち合える関係ならばそれはもう『家族』と呼んでいいのではありませんか?」
「っ!」
シオンの目が大きく見開かれた。マリアナが何を言いたいのか理解して、翡翠色の瞳が大きく揺れ動く。
「か……ぞく?シオンにも家族がいるの?……シオンが家族でいいの?」
「なにを今更。わたくしはここにいる皆さんよりもあなたと関わった時間は短いですが、それでもそう思うだけの関係だと思っていましたよ。サーリャとミランはどうですの?」
「そうですね。私もマリアナ様と同じ思いですね」
「シオン、姫様の言う通りよ。あなたは過去の自分を気にしているみたいだけど、私からすればそれはもう済んだことで関係ないわ。それにね、シオンのことをなんだか可愛い妹みたいに思っているのよ」
身近な二人の言葉を聞いたシオンはくしゃりと表情を歪めると、そのままミランへと抱きついた。腰に手を回し、顔を埋めながらかすかに嗚咽を漏らすシオンの頭をミランは優しく撫で続ける。
「そういえばサーリャ。あなたどさくさに紛れてわたくしのことを『マリー』と呼びましたね?」
「あっ」
サーリャは気まずげに視線を彷徨わせる。確かに自分は口にした。あの時は咄嗟のことで気にしていなかったが、許可なく王女を愛称で呼んでしまったのだ。さすがに無かったことにはできない。
冷や汗を浮かべるサーリャをじっと見ていたマリアナだったが、ふっと真顔だった表情を緩めた。
「そんな顔をしなくても結構ですわ。公の場では許されませんが、それ以外の場ではわたくしのことをマリーと呼ぶことを許します。その代わりわたくしを王女のマリアナではなく、ただのマリーとして接しなさい!」
ビシッと指さすマリアナにサーリャはたじろぎながらも再度確認する。
「マリアナ様はそれでいいのですか?」
「あなたもわたくしも能力が一定方向に尖っているのだから他の部隊にいられないのはわかっているでしょう。わたくしもミランの部隊に入るつもりですから、背中を預ける相手とは対等でいなければなりませんわ!……それに、あなたをこのまま野放しにしていてはいつ取られてしまうか心配ですもの」
マリアナの言葉の最後は独り言のように呟いていたのでうまく聞き取ることはできなかったが、それでも彼女が自分を信頼していることは伝わった。
「わかったわ。それじゃあこれからよろしくねマリー」
「こちらこそ、よろしくですわ」
二人が自然と握手を交わす中ミランは「えっ!姫様、私の部隊に入るの⁉」とギョッとしているのが見えた。
やるべきことは終えたが、魔核は回収しておきたい。それぞれが動き出そうとしたところでサーリャは背後を振り返り、祝福の言葉を二人へと送った。
「良かったわねルイン」
雲の切れ間から漏れる陽光が大地に降り注いでいる。その中心で照らされている二人はまるで物語のような——長い眠りから覚めたお姫様と騎士のように輝いていた。
ある日の昼下がり。何度も経験してきた転移の光が消えると四人は魔法陣の消え去った地面から外へと足を踏み出す。向かう先は行き慣れた森の中に佇む一軒家だ。
「やっぱり便利な魔法ですわね。サーリャだけが自由に行き来できるのはやっぱり羨ましすぎますわ。今度師匠にお願いしてわたくしの部屋にも転移先を作ってもらいましょうか」
「さすがにダメでしょ。マリーが自由にルインの家に行けるようになったらずっと入り浸っちゃうじゃない。いきなり姿をくらましたらあちこち探し回る城の人が可哀想だわ」
「私からもお願いします。姫様がルインみたいに森に引き籠られては周囲からの非難が止められなくなります」
「言いたい者は勝手に言わせておけばいいのです。わたくしの行動を管理する権限など誰にもありませんわ!」
転移先から庭を突っ切る四人は雑談に花を咲かせるが、自然と話題は最近起きたあの一件に移ろう。
「それにしても、ルミアさんって意外にすんなりと村を離れられましたね。事情を知っていた司教様はわかりますけど、ルミアさんならもう少し村の人たちから引き留められると思っていました」
「何も言わずに出て行くわけじゃないから理由を説明すれば応援してくれるのは当然よ。子供たちもその辺りは理解していたと思うけど、やっぱりいなくなってしまうのは寂しかったのね」
あの戦いの後、無茶を重ねたルインはとうとう倒れてしまい、大慌てで村へと引き返すことになった。しばらく絶対安静と言い渡されたルインだったが、時間が必要だったのはルインだけではない。
記憶を取り戻したミリアンヌ改めルミアは村に戻ると今後どうするのかの選択を迫られることになった。すでにミリアンヌとして村に溶け込んでいるのだから村に残るべきだと主張するルインだったが、ルミアは即座に反対し自分の願いを口にした——弟と一緒に暮らしたいと。
ゴドウィンや村長を通じてその話が村人に広がると最初は寂しそうにしていたが、誰もがルミアの意思を尊重し盛大な送別会が執り行われることになった。それだけで彼女がいかに慕われていたのかがわかる。
孤児院の子供たちも全員が泣いていたが、それでも最後は笑顔でルミアを見送ってくれた。なぜかシオンは残ってほしいと最後まで駄々をこねていたが……。
「あの赤髪の子供——確かアレンだったかしら?あの子、今思えばルミアさんのことが好きだったのでしょうね。師匠にやたらと突っかかっていたのも記憶を失っていたルミアさんが無意識に師匠の傍にいたのが原因でしょうし」
「まぁこればかりはしかたないわね」
サーリャはアレンに同情するように当時のことを思い出す。
ルインとは血の繋がった実の姉弟であり、今後村を出て家族の元で暮らすと言われた時のアレンは言葉で言い表せないほどに衝撃的な表情になっていた。何かを堪えるように拳を握りしめながらしばらく俯いていたが、瞳を潤ませながら顔を上げたアレンはルインを睨みつけ、「泣かせるようなことをしたら俺が許さないからな!」と言い放っていたのは鮮明に覚えている。
彼にとっての初恋は終わってしまったのかもしれないが、まだまだこれから多くの出会いがあるのだ。頑張れアレン君。
「ルミアを大好きなのはルインも負けていない。ルミアのことを一番好きなのはルインだとシオンは思う」
あの一件以来、ミランにべったりになったシオンが甘えるようにミランを見上げる。
「シオンの言う通りかもしれないわね。家族ってこともあると思うけど、彼のお姉さんに対する気持ちは誰にも負けていないと思うわ」
姉の為に人の寄り付かない湖畔にあれほど幻想的な空間を一人で作り出したのだ。普段他人に対する反応が薄いルインを知っていれば、どれだけ彼女のことを想っているのかわかる。
そこでサーリャはあることを想像しニヤリとする。
「ねえ、あれだけルミアさんのことを大切にしているならルインの態度も変わっているかもしれないわよ。どうする?あのルインが『お姉ちゃん大好き~』とか言って甘えていたら」
「師匠が⁉そんな姿なんて全く想像できませんわ。でも、そんな師匠もちょっと見てみたいような……」
「……ありえない」
「さすがにあのルインがそんなことを言うとは思えないわね。むしろそうなっていたら、これからルインとどう接していいのか分からないわ」
サーリャの予想に三人はそれぞれ感じたことを口にするが、誰もが否定的な意見だ。提案したサーリャ自身もその可能性は無いと思っている。
「まぁそれももうすぐわかることですわ。久しぶりに師匠にお会いできるので楽しみですわ」
あの一件から二週間近くが経過しているが、その間誰もルインとは会っていない。
十年以上生き別れていた姉弟の再会なのだ。これまでの時間を取り戻すように傍にいたいし、話したいこともたくさんあるはず。そんな二人の邪魔をしたくないサーリャたちの配慮だ。
しかし、あれだけの怪我を負ったルインの容態も心配だったので、今日四人で訪れることになったのだ。
サーリャたちはルインの態度がどう変化しているのかで盛り上がりながら家へと歩みを進めるのだった。
勝手知ったるルインの家に入りリビングへと辿り着いた四人。
「「「「……」」」」
リビングに入ったところで四人は言葉を発することなく立ち尽くし、同じことを考えていた。——これはどういうことだ。
「ねぇる~ちゃ~ん。お姉ちゃんにかまってよ~。るーちゃんにかまってもらえなくてお姉ちゃんは寂しいわ」
「姉さん、さっきかまってやっただろう。今俺は本を読んでいるし、そうくっつかれるとページを捲れないんだが?」
「さっきはさっきでしょう。お姉ちゃんは今かまってほしいの!」
ルミアはぷくっと可愛らしく頬を膨らませる。しかしすぐさま何かを思いついたのかパッと表情が明るくなる。
「じゃあこうしましょう!お姉ちゃんもるーちゃんと一緒に同じ本を読むわ。ページが捲りたくなったらお姉ちゃんがやってあげるから、わからないところがあったらお姉ちゃんに教えてくれる?」
「仕方ないな」
「ありがとう!」
リビングでルインとルミアはソファーに座っていた。二人はラフな服装に身を包み、ルインは怪我の影響で右腕が吊られ、組んだ足の上に本を置いている。姉のルミアはそんなルインの左隣に座っているが、彼女のあらゆる所に突っ込み所がある。
まずルミアの態度がミリアンヌだった時と比較にならないほど変わってしまっている。甘えるような声で、ルインに自身の身体をこれ以上は無理だと言わんばかりに密着させており、ルインの左腕をぎゅっと抱き寄せながら肩に頭を乗せてうっとりとした表情を浮かべている。
ルインもそんな姉の態度を気にしていない。左腕がルミアの豊満な胸の谷間にすっぽりと埋まってしまっていても振り払うことはせず、されるがままになっている。
姉弟というよりも恋人、もしくは夫婦のような空間が出来上がっていた。
「ああ、四人とも来たのか」
「ルイン、その状態はいったい……気にならないの?」
変わらないルインの態度に再び衝撃を受けている四人の心情を代弁するかのようにサーリャは恐る恐る問いかける。
「ん?どれのことだ?姉さんのことなら前に言っていただろう。ちょっと俺にかまい過ぎる節があると。まぁいつものことだから姉さんらしいと言えば姉さんらしいな」
((((ちょっと?))))
四人の心の声が見事にシンクロする。二人にとってはこれが当たり前なのか⁉
サーリャが声をかけたことで後押しされたのかマリアナもおずおずと口を開いた。
「ミ……コホン。ルミアさん。少しくっつぎ過ぎなのではありませんか?姉弟でも過度な接触は羨ま……コホン。はしたなく思われますわよ」
ルミアはルインに密着したままの状態でマリアナへと視線を向けた。
「マリアナ様それは間違いです。姉弟だからこそここまでできるのです。仲の良い他人とは違って姉弟は血を分けた家族であって、いわばもう一人の私と言っても差し支えありません。自分を愛せない者が誰かを愛することなどありえません。だから私は全力で私の半身であるるーちゃんを愛するのです。姉弟ならばこの程度のスキンシップなど当たり前ですよ」
「そ、そうなのですか!姉弟なら当たり前のことなのですね。わたくしの勉強不足でしたわ」
「いやいやマリー、そんなわけないでしょう。なにコロッと騙されているのよ」
「違うのですか⁉」
少なくとも異性としての関係に見えるような姉弟が当たり前の光景など聞いたことがない。
「あら残念。でも私がるーちゃんのことを大切に想っているのは本当よ。るーちゃんが一緒なら私はそれだけで十分。この幸せが続くのなら、私はそれ以上望まないわ」
イタズラが成功したことにころころと笑うルミア。それでも弟であるルインに対する想いは誰にも負けないという自信が伝わってくる。
場を改め、姉弟と向かい合う形でサーリャたちは座った。ソファーにはマリアナとミランが。サーリャとシオンは空き部屋から持ってきた椅子に座っている。
今度はルインに抱きついたりはせず用意した紅茶を口にし、居ずまいを正したルミアがサーリャたちを見渡した。
「あの時はちゃんとした挨拶ができなくてごめんなさい。隣にいるルインの姉でルミアと言います。この度は私や村の人々を助けてくださりありがとうございます。ミリアンヌとしての一面を持っていて記憶もありますが、今はルミアとして生きていますので、こちらの名前で呼んでいただけると嬉しいです」
ミリアンヌと同じ、はっきりとした口調で話すルミアは軽く頭を下げる。互いに挨拶を済ませたところで話題は自然とルミア自身へと移る。
「ご無事な姿を見られて安心しました。お身体の方は大丈夫なのですか?」
「ふふ。ご心配なさらなくても見ての通り後遺症もなく過ごせています。逆に新しく手に入ったものもあるんですよ。えっと……こうかしら?」
そう言ってルミアが前へ手を伸ばすと、掌の上に澄んだ空を連想するかのような青い光球が生まれた。ルミアが魔法を行使したことにミランを含めた全員が驚きの表情になり、「魔法⁉」「使えなかったはずでは⁉」とシオンやマリアナが思わず口にする。
「ルイン、どうしてルミアさんが魔法を使えているの?ミリアンヌさんだった時は魔力が無くて使えなかったはずよね」
「そうだな。これは俺も予想していなかったことだったんだが、姉さん——ややこしくなるからここではそれぞれの名前で呼ばせてもらうが、ルミアの存在が大きく関わっていると俺は考えている」
そう言ってルインは少しずつ語り始めた。
幼い頃、ブラッドベアの凶爪により大怪我を負ったルミアは傷口から毒が全身へと回り始め、身体を蝕んでいた。こうなってしまえばやがて毒が全身へと回り命を落とすか、人ではない化け物へと成り果ててしまうかのどちらかしかない。
しかしルミアはそのどちらにも進まなかった。
ルミアの体内に入り込んだ毒は彼女の体内で活動が止まったのだ。
「ルミアと言う存在は体内の毒が溢れ、拡がらないように自身の魔力のすべてを使って蓋の役目を務めたんだ。しかし常に変化する毒に対応するにはそれ以外に気を配る余裕はなく、自身の内側と外を同時に観測することはできない。だから——」
「だから内側を視るルミアさんの代わりに外を視る存在を作り出したのね。それがミリアンヌさんだと?」
ミランの予測にルインは静かに頷く。
「そうだ。二重人格と似ているようだが、突き詰めればそこには明確な違いがある。精神を二つに分けるが、一方には不要となる情報は複製されない。あの日、ルミアと言う精神が内側へと向けられる際、これまでの記憶は不要と判断されて引き継がれなかったのだろう。そこまではルミアの思惑通り進んでいた」
しかしそれは問題を先送りにしただけ。いくら強く蓋をしたとしても進行は止まらない。「ここからは私が説明するわ」とルミアが続きを引き継いだ。
「るーちゃんが説明した通り私は暴れようとする毒を何とか抑えていたわ。それでも時間が経つにつれて限界が出てきて、わずかな隙間をかいくぐって漏れ出していたの。身体への影響はまだ出ていなかったけれど、その代わりに周囲の注目を集めやすくなっていたわ。あなたたちと出会ったのはその影響が出始めていた時だから本当にタイミングが良かったわ」
つまりサーリャたちが出会った時に二人が襲われていたのは偶然ではなく、体内から漏れ出していた毒が周囲の魔獣を呼び寄せていたということなのだろう。
「ルミアとしての私はミリアンヌの行動に干渉することはできないわ。せいぜい夢の中で注意を促すことぐらい。限界が近くなって今度こそお別れを覚悟していたけれど、るーちゃんや皆さんのおかげでこうして今も生きていられるの」
「元凶を討ち、俺たちが解毒したことで姉さんの魔力はそれまでの役目を終え、こうして自由に使えるようになったんだ」
ミリアンヌとして出会った際、彼女から魔力が感じられなかったのは魔力が無かったのではなく毒を抑え込んでいたから。そう言われると納得できる。
「常に魔力を使い続けている状態だったから、姉さんの成長と一緒に魔力も際限無く増え続けていたらしい。魔力量に関して言えばそこらの奴らよりも圧倒的に多いが、ミリアンヌの一面を強く引き継いでいるから神聖魔法の適性が突出して高くなっている」
「怪我をした時はお姉ちゃんが治してあげるからね」
そう言ってルミアは胸を張るのだった。
それからルインはこれからのことに関しても話せる範囲で話してくれた。
ルミアは今後もこの家で暮らすことになるが、ルインのように引き籠っていては何かと不便である。その為、ルミアが自由に外出できるように王都にある空き家を一つ買い上げる予定で、その中に転移先を設定しておけばわざわざ王都の外に出なくても行き来が可能になる。
ルミアもゴドウィンから一筆書いてもらっているので、王都の教会で働くことができる。聞いた限りでは生活面で不自由することはなさそうだ。
「難しい話はここまでね。るーちゃんお姉ちゃん頑張ったでしょ?褒めて褒めて~」
「ああ。姉さんはここまで一人で頑張ってきたんだ。誰にでもできることじゃないから誇っていいぞ」
「えへへ~」
清楚モードから再び甘えモードに変わったルミア。少し愛情が深過ぎる気もするが、これがルインに対する態度なのだと受け入れようとしたサーリャたちにすぐさま爆弾が投下された。
「それじゃあ頑張ったご褒美に今度こそるーちゃんはお姉ちゃんと一緒にお風呂に入りましょうね」
「「ぶっ‼」」
サーリャとマリアナが同時に噴き出した。咳き込む二人をそのままにシオンは「仲がいいのはいいこと」と少しズレたことを口にしている。
「姉さん何度も言っているだろう。もう俺たちは子供じゃないんだ。この歳で姉弟一緒に風呂など無理に決まっているだろう」
「いいじゃない。家族と一緒にお風呂に入るのに年齢なんて関係ないわ。それにるーちゃんはこの間私の肌を見ているのだから今更でしょ」
爆弾発言の熱が冷めやらぬ内にルミアは頬を赤らめながら次の爆弾をさらに投下する。
「し、師匠⁉」
「ルイン、あなたまさか……」
この二週間、二人はいったいどんな生活を送っていたのか。サーリャの頭の中でピンク色の光景が作り出され、顔が赤くなる。マリアナも熱くなった頬を冷ますかのように両手を頬に当てている。
「……何を勘違いしているのか知らんが、肌を見たと言っても姉さんの背中の傷を消すために見ただけだ。姉さんも何故そこを自慢しようとするんだ」
「それは当然よ。るーちゃんからしてもらったことはどんなことでも自慢せずにいられないわ。それにこれぐらいいいじゃない。るーちゃんが女の人の肌を見るなんて私ぐらいなんだから」
「「……」」
ルインはわずかな変化も見せることなく自然体のままルミアの話を聞き流しているが、サーリャはそうもいかなかった。当時は必要なことで不可抗力だったとはいえ、下着姿というあられもない自分の姿を見られてしまっている。その時のことを思い出してしまい、耳まで真っ赤になった顔を隠すようにサーリャは俯く。
しかし、ルインに対する想いが強い二人の目は誤魔化せなかった。
「えっ?違うの?サーリャさんの肌を見たってどういうことなのるーちゃん!二人はどういう関係なのかお姉ちゃんに詳しく説明しなさい!」
「どういうことですかサーリャ!あなた師匠に何をしたのですか!」
お互いガクガクと揺さぶられる中、ルインはされるがままになりながら大きな溜息をつくのだった。
ある日の王城。その中の一室である謁見の間は、窓の外に見える快晴とは真逆の重苦しい空気で満たされていた。謁見の間には王であるルシャーナや宰相のクレスをはじめ、各方面のトップとも言える者たちが一堂に会しており、今回ばかりはマリアナも王女としてこの場に立ち会っている。
サーリャはそんな謁見の間で騎士服に身を包んでマリアナの背後に控えている。本来ならばサーリャはこの場にいることすら許されないが、今回は近衛騎士とは別枠のマリアナ個人の護衛として参加が許されているが、なぜ今日この場にサーリャが呼び出されたのか説明されていない。
(なんで私がこんな集まりに参加しているのよ。ミラン様も朝から姿が見えないし……)
表情に出さないように努めながら、サーリャは不安気に周囲を観察していた。そもそもこの場の空気自体がどこかおかしい。
この場に集まる大半の者が緊張した面持ちなのに対し、一部の者は別の反応を見せている。
「それにしても今回の召集はいったい何の用件なのですかな?」
「まったくだ。貴公も知らないということは他の者も理由を知らされていないということだろう。つまり陛下に何かしらのお考えがあるということだろうな。もしかすると我らの功績を認められたが、他の貴族との軋轢を生まないための配慮なのかもしれん」
「おお!それならば納得できますな。下手に話してしまえばどこから漏れるかわかりませんからな」
周囲の状況が理解できないのか騒がしく雑談を交わす一団がある。どう見てもこの場にいるはふさわしくない。
やがて来客を知らせるノックが響くと誰もが話を切り上げて扉へと視線を向ける。様々な感情のこもった視線が集中する中、重厚な扉がゆっくりと開いていく。扉が開ききると二人の人物がゆっくりと入室してくる。一人はサーリャと同じように騎士服に身を包んだミラン。そしてもう一人の姿を認めた瞬間一部の者たちの顔色が変わった。
「っ!貴様は⁉」
「馬鹿な⁉なぜ生きている!」
ミラン続いて入ってきた者——ルインの存在に謁見の間は騒がしくなる。そしてその慌てぶりを見ていたサーリャはようやく察した。
(この人たちが元凶なのね)
ルインを罪人に仕立て上げ、彼からすべてを奪った者たち。
「わたくしがお呼びしました。師匠は騎士ミランの追撃を辛うじて生き延び、今日まで生きておられました」
騒ぐ貴族の疑問に答えるようにマリアナが一歩進み出て注目を集める。これまでサーリャが見てきた姿とは違い、自分よりも年上の者に対しても物怖じしない凛とした態度はまさに人の上に立つ覚悟を持っている。
「師匠は少し前に発生した魔獣の大侵攻での活躍やその他のことでも王国は感謝を述べなければならないほどの功績を残しております。その事についての感謝、そして王国が過去にしでかした過ちを謝罪するためにこの場を設けさせていただきました」
「謝罪、謝罪ですと?あの者が王国にどれほどの混乱をもたらしたのか、姫殿下はお忘れか⁉悪魔の手段に手を染め、その技術を広めるだけでなく罪もない多くの王国民を手にかけたのですぞ!」
「グルバーズ伯の仰る通り。いくら姫殿下のご意思であっても罪人を招き入れるなど見過ごすことはできません。そもそも功績と仰っていますが、それがかの者の自作自演なのではありませんか?功績のように見せかけて、その裏で暗躍していたとあれば大問題になります」
マリアナの言葉に多くの者が非難の声を上げ、捕縛せよだの処刑せよだの聞くに堪えない言葉を絶えず口にしている。その様子に眉を顰める者がいることにすら彼らは気づかない。
「まず初めに申しておきましょう。グルバーズ伯の仰る内容は事実無根ですわ。師匠は後ろ指さされるような手段に手を染めた事実はなく、また王国民を手にかけたというのも事実ではありません——そうですわね騎士ミラン?」
王女としての立場から問われたミランは胸に手を当て真実を口にする。
「はい。私が調べたところ、そのような事実は確認できませんでした。逆に彼は自分のせいで余計な疑いがかからぬよう偽りの証言をするよう村の者に頼み込んでいたと確認もとれております。同じ証言がいくつもあることから虚偽ではないと判断します」
「ば、バカな……。罪人の言うことを信じるなど本気ですか⁉」
未だ自らの過ちを認めず騒ぎ立てるその見苦しい姿にサーリャは嫌悪感を示す。
「彼のことよりもはっきりさせないといけないことがあなたたちにはありますね。随分と陛下に黙っていろいろとやらかしていますわね」
「……何のことですかな?我らは王国の為に尽力しているというのに、そのような疑いを向けられるなど心外ですぞ」
シワが深く刻まれた貴族の一人が不快感を隠そうとせず、険しい表情でよりシワを深くする。その様子をマリアナは冷めた目で見返す。
「あくまでもシラを切りますか。それならかまいません。わたくし自ら教えて差し上げましょう」
そう言ってマリアナは懐から一通の手紙を取り出した。
「貴方はパナエル男爵ですわね。あなたは王国で取引を認可していない毒草を秘密裏に仕入れていますがいったい何に使っているのですか?そしてグルバーズ伯は……禁じられている人身売買事業に手を染めているとはずいぶんと大胆ですわね。屋敷を調べればいろいろと余罪が見つかりそうですわね。次は——」
マリアナは淡々と表に出せないような情報を開示していく。開示されていく度にこれまで顔を赤くしながらマリアナに非難を浴びせていた者たちの顔が青くなっていく。
最後まで読み上げたマリアナは手紙をルシャーナへと渡し、自らも内容に目を通したルシャーナは不快そうに眉を寄せる。
「これは確かに見過ごすことのできぬ内容だ。そなたら、これについて申し開きはあるか?」
「お、お待ちください陛下!我らにそのような事実はございません。我らを陥れる偽りの情報にございます」
「そうです!そのような情報に惑わされてはなりません。姫殿下はどこでこのような情報を耳にしたのですか⁉」
「これはわたくしが個人的に調査したものです。すでにその道から足を洗い『元』が付きますが、裏の世界を知る者に情報を集めてもらいました」
必死に無実を訴える者たちだったが、マリアナの口にした内容に動揺が広がった。
「なんてことを。姫殿下はそれが何を意味しているのかわかっておられないのですか⁉王族が裏の者たちと接触するなど許されるものではありません!王国の名を汚すばかりか他国に弱みを握られることになるのですぞ。その者からもどんな対価を要求されるか……」
裏の人間に国境など存在しない。仕える国もなければ相手もいない。自分のことを第一に行動し、金次第でどんな汚れ仕事も請け負うことで知られている。つまり契約者よりも金を積まれれば情報が誰にでも知れ渡ってしまう。王族が関わったという情報は使い方次第で強力な交渉のカードとなり得る。
しかし相手はマリアナなのだ。その程度のことに気づかないわけがない。
「言ったはずですよ『元』が付くと。本人も公表する意思はありませんし、相手から契約書を書いてもいいと申し出があったくらいです。対価を心配しているそうですが、『王城の職人が作る最高のクロワッサンを好きなだけ食べさせる』など軽いものですわ」
「は?クロワッサン?」
貴族たちが理解できず目をぱちくりと瞬かせている。理解できなくてもいい。彼らにその先を知る術など今後訪れることはないのだから。
これ以上抵抗しても無駄だと悟ったのか、グルバーズやパナエルらが膝から崩れ落ち、それを見たルシャーナの指示によって入って来た衛兵によって連れ出されていった。
邪魔者がいなくなり静かになった室内でようやくルシャーナは本来相手をしなければならない者と向き合った。
「先程までの茶番につき合わせてすまなかった。そなたの来訪を我々は歓迎する。ミランもご苦労であった」
ルシャーナは玉座から立ち上がり二人に声をかける。ミランは言葉を発することなく軽く頭を下げることで応え、そのまま邪魔にならないよう一歩横に移動し自身の役割が終わったことを示す。
「歓迎?おかしなことを言うもんだな。あんたらがそんな殊勝なわけがないだろう。せいぜい面倒事増えた程度にしか感じていないはずだ」
礼節も敬意も微塵も感じられない棘のある言葉が叩きつけられる。にもかかわらず誰一人として叱責の言葉は挙がらず、逆に機嫌を損ねてしまったと感じて顔色を青くする。しかしルシャーナは気圧されることなく正面からルインを見据える。
「いや。そのようなことはない。本来であればこのような場を設けること自体が我らの間違いなのだ。責められるのは我らであって、そなたにそのような心情は持っておらぬ」
ルシャーナは一旦そこで言葉を切り、自ら闇に葬った言葉を再び自分の手で掴み取った。
「こうしてそなたと話せることができて嬉しく思う。英雄、ルインよ」
英雄と呼ばれたルインは感情を一切表情に出すことなく、探るように目を細めるのだった。
「それはあんたたちがゴミとして捨てたものだろう。今更そんなものを漁って無かったことにでもするつもりか?」
不機嫌さを感じさせるように吐き捨てるルインにルシャーナは首を静かに横へと振る。
「そのような非礼をするつもりはない。此度そなたを呼んだのは、わしらのこれからを聞いてもらいたかったからだ」
「こんなものをわざわざ人を使って送りつけてくるんだ。当然それだけの理由があるんだろうな?くだらん内容だと判断すればその時点で俺は帰らせてもらう」
(あれって……)
そう言いながらルインは懐から一通の封書を取り出して見せた。開封された中には一通の手紙が入っており、ルシャーナとマリアナとミランの名前が連なっている。少し前にルインの家を訪ねた際にミランが渡したものだ。緊張した面持ちでミランが手渡していることからよほどの内容だと察せられたが、まさか王国トップの名が連なっているとは思わなかった。
「当然だ。そのうえで聞いてほしい。かつて王国がそなたにしでかした数々の非礼とその所業を王国内外に向けて包み隠さず発表するつもりだ。もちろんそなたへ対する数々の罪状もすべて取り下げるよう手配するつもりだ」
ルインの眉がピクリと動いた。サーリャもルシャーナが口にした内容の重大さに耳を疑った。
「本気か?そんなことをすれば相当な非難が向けられるぞ。他国からの非難はこの際雑音だと無視すればいいが、王国内はそうもいかん。下手をすれば国が割れる」
騎士として多くの命を助け、第一次大侵攻の際はたった一人で魔獣の群れを足止めした英雄と呼ぶにふさわしい者を罪人に堕とし、国を挙げて命を狙ったなど信頼を木っ端微塵にするほどの大スキャンダルだ。
王国民からの信頼は地に堕ち、場合によっては暴動に発展して反乱へと繋がるかもしれない。
「その可能性はあるだろう。しかし、わしは最後まで民への説明を続け、今後そのようなことはしないと約束したうえで王国を正しい道へと進めようと思う。その果てに王の座を引き摺り下ろされても、それが民の意志ならば従うつもりだ。この場にいる者もわしの決定に納得している」
「意外だな。あんたなら責任を取って自分の首を差し出すと言うかと思ったぞ」
「それはあまりにも無責任というものだ。わしの間違いで引き起こしたことに対し、自分はその人生に幕を閉じてあとは残った者に託すなど王として許されるものではない」
「そうだ。死など結局は目の前の苦しみから逃げる為だけの言い訳にすぎん。王ならばその言動に対し生き恥を晒してでも責任を取らなくてはならん」
ルシャーナはゆっくりと階段を降り、ルインと同じ立ち位置へと移動する。
「すべてを無かったことにはできん。かつての弱いわしがそなたの王国を想う気持ちを踏み躙ったことは紛れもない事実。言葉で言い尽くせないかもしれんが、言わせてほしい——本当にすまなかった」
ルシャーナはルインへ深々と頭を下げた。ルシャーナだけではない。マリアナやクレス、ミランも同じように深々とルインへ頭を下げる。
サーリャ以外の全員が頭を下げていた。仕方なく頭を下げているのではない。誰もが過去の過ちを反省し、心の底からルインへと謝罪をしている。
(ルイン……)
マリアナから事前に頭を下げるなと言われていたサーリャは複雑な思いでルインを見ていた。
過去をやり直すことはできない。失った時間を取り戻すこともできない。ただ謝罪の意思を示すことのできない彼らにルインは何を思うのだろうか。
「……ひとつ聞かせろ。なぜ俺を罪人として殺そうとした。悪魔と契約を交わしたなどと何故そんな荒唐無稽な話を信じた?」
「荒唐無稽な話を信じて罪人にしたのではない。罪人にしたいが為にあの話を頼ったのだ」
「……説明しろ」
ルインに促されルシャーナは話し始めた。これまで明らかにされなかった真実がようやく語られることになる。
「無詠唱魔法。それをそなたが使っている話はわしの耳にも入っていた。誰にも扱うことのできない魔法技術を駆使するそなたは非常に有能な存在だった。解明できないものであっても十分王国の戦力として使える……初めはそう思っていた」
しかしそうはならなかった。
「わしは怖くなったのだ。ミランと共に着実に戦果を挙げ英雄と持て囃されるだけでなく、娘もそなたに懐いておった。このまま進めば婚約話も持ち上がっていただろう」
しかし人は弱い。どれだけ有能な力であっても理解の及ばないものには自然と恐怖を覚えるものだ。かつてサーリャがルインに抱いたものと同じように。
「そなたにもわかってほしい。無詠唱魔法はあまりにも規格外過ぎるのだ。詠唱を必要とせず、胸の内で思い描けば強力な魔法を周囲に悟られることなく放つことができる。人の胸の内など知りようがない。信じていたものが突然牙をむくやもしれんと考えると、そなたを信じていいのかわからなくなった」
「だから解明されていない俺の力を排除しようとした。根拠もない話をしていた貴族どもに同調する形で王であるお前があたかもそれが真実だと吹聴することで、俺の反論の場を潰した。そうだな?」
「その通りだ」
真実が王の口から語られ、サーリャはその内容に強い憤りを覚えながらその怒りを拳を強く握ることで抑え込む。
(なんて自分勝手な!)
ルシャーナの言い分もわからなくはない。王という立場は常に命の危険が付きまとう。事が起こる前にその可能性を排除するという動きも理解できなくはない。
しかし相手の言い分すら聞かずいきなり排除を命じるなど、とてもこれまで王国に仕えてきた騎士に対する仕打ちではない。
そしてサーリャは気づいてしまった。目の前で深く頭を下げるマリアナの身体が小刻みに震えていることに。口を固く引き結び、指の関節が白くなるほど強く握られた拳からは今にも血が滴りそうに見える。
愚かな選択をした父に対する怒りなのか、それとも当時それを止めることのできなかった己の不甲斐無さなのか、あるいはその両方。少なくともこれが公の場でなければマリアナは怒りの感情に任せて暴れているのは容易に想像できる。
そして今この場の決定権はルインに委ねられている。報復をするもしないもルインの意思次第だ。
ルインは何も言わず頭を下げ続けるルシャーナを見下ろしていたが、「頭を上げろ」と端的に言い全員が頭を上げた。
「お前たちの言いたいことは理解した。だが、その過程でお前たちは俺に協力しようとした存在すら排除の対象にしたのは許されることではない。一歩間違えば大量虐殺に繋がる命令を出したのだからそれ相応の罰が必要だ——と言いたいところだが、今はそんなことをするつもりはない」
なぜ罰を言い渡さないのか疑問を浮かべるルシャーナたちをそのままに、ルインはマリアナとその後ろにいるサーリャへとさり気なく視線を向ける。
「ミランからは個人的に謝罪は受け取っているし、他にも俺個人として恩を返さないといけない奴がいる。そいつらに免じて俺が動くことは今回だけは止めておいてやる」
報復が無いことに安堵を浮かべる一同だったが、「しかし」とルインが被せることで緩み始めていた緊張感が再び戻ってくる。
「あくまでも今回だけだということを忘れるな。今後俺を利用しようと俺や、俺の親しい人たちに危害を加えようとするならば今度こそ容赦はしない。たとえ王国相手であろうと徹底的に潰させてもらう——それを肝に銘じておけ」
周囲の魔力にルインの感情が乗り、それらが室内にいる者たちへ重力として襲い掛かる。真上から降りかかる重さに誰もが立っていられず膝を地につけるが、サーリャ・マリアナ・ミランの三人は意図的に外されていたので影響を受けずに立ち続けている。
「俺からの用件はここまでだ。しばらくは今の場所で静かに過ごさせてもらう。基本的にそちらからの要請に応じるつもりはないが、何か用があるなら俺と繋がりのある誰かに伝えておくことだな」
時間にしてわずか数秒。ルインの周囲に向けられていた威圧が霧散すると、返事を待たずしてさっさと出て行ってしまった。
嵐が通り過ぎたような出来事に誰もが呆然とする中、威圧を受けなかった三人はルインが歩き去った扉に向けて静かに頭を下げるのだった。
人が容易に立ち入ることを許さないルクドの大森林。そんな森の奥深くにポツンと家が建っている。外の世界と切り離されたかのような寂しそうな外見とは裏腹に、家の中からは楽しげな声が外へと漏れている。
「るーちゃん、右腕が使えなくて不便でしょう?困ったことがあったらお姉ちゃんに任せてね」
「師匠。もう一度わたくしの師匠になってください!お義姉様にはわたくしと師匠のこれからについて相談がありますの」
「ミラン。このクロワッサンをミルス領にいる子供たちに送りたいのだけどできる?」
「そうね……そっち方面の仕事があるか明日確認してみるわ。でも、距離があるからあとでルインに跳べるかどうか聞いてみましょうか」
リビングではサーリャの良く知る人たちが楽しげに過ごしている。ソファーに座るルインを背後から抱きしめているルミアと必死に傍で訴えかけるマリアナ。少し離れた所でクロワッサンをどっさりと抱えたシオンと思案顔になるミラン。
そんな様子をキッチンから窺っていたサーリャは時間を確認すると、備え付けのオーブンに手をかけゆっくりと開けた。オーブンの隙間から漏れ出していた料理の匂いが一気にキッチンへと溢れ出し、リビングへと流れていく。
料理を覗き込み、文句のない出来栄えに笑みを浮かべると最後の盛り付けを済ませていく。
「みんな出来上がったわよ。運ぶのを手伝ってちょうだい」
ルインと二人きりだった時とは違い、テーブルにはサーリャの自信作の熱々なグラタンとサラダが並べられ、食卓をこれ以上ないほどに飾る。
そして席につくと全員の声が揃った。
「「「「「「いただきます」」」」」」
以前のような寂しい食卓ではなく、それを本人がどう感じているのかわからない。それでもルインはこれまでと違い、柔らかな表情を浮かべているのだった。




