前編
王都リンガル。その中心部に位置する場所に建っている騎士団本部から出てきたサーリャは大きく伸びをしながら空を見上げ、降り注ぐ太陽の眩しさに目を細める。
「ようやく終わった~。早く家に帰ってシャワーを浴びたいわ」
「サーリャ」
自分を呼ぶ声にサーリャは振り向く。
「あら、シオンじゃない。おはよう」
振り返った先ではシオンがこちらへと歩いて来るのが見えた。短く切り揃えられた青い髪が動きに合わせてぴょこぴょこと動いている。普段騎士団本部に立ち寄ることのないシオンがここにいるということは、偶然ではなくサーリャを待っていたのだろう。
「シオンはこれから奉仕活動かしら?」
「そう。今日は託児所の護衛と子供たちのお世話。サーリャは夜警の仕事は終わったの?」
「そうよ。やっと畑を荒らしていた盗賊たちを捕まえることができたの。帰ったら仮眠をとるつもりよ」
当たり障りのないことを話す二人。毎日仕事があるとはいえ、のんびりとした日常をサーリャとシオンは楽しんでいた。
シオンは人質を取られていたとはいえ、裏の仕事に携わっていた代償として王都での奉仕活動を命じられているが、選択権の無かった時とは違いシオンの望む仕事を受けることができるので本人は積極的に活動している。そのおかげで彼女と関わった王国民からは好印象である。
サーリャは騎士としての仕事があるとはいえ、ここ最近は比較的平和に過ごせている。
(これまでの忙しかった日々が嘘のようね)
ルクドの大森林でルインと出会ったことをきっかけに、サーリャは激動の日々を送っていた。無詠唱魔法の習得から始まり、騎士学校を卒業したと思えばすぐさま封印都市ルルミラからの大侵攻防衛戦に参加。領主護衛の任務に就いたと思えば、突発的な魔獣の大軍を相手にしたりと、あまりにも濃い日々だった。
それらを考えれば今のように何事もなく依頼をこなすだけの日々は貴重とも言える。
「今日はルインの家に行くの?」
そうね。あまり長くは居られないけど顔は出すつもりよ。夕方だったらシオンも仕事が終わっていると思うから一緒に行ってみる?向こうでお菓子ぐらいは作れるわよ」
「行く!」
お菓子という単語に目を輝かせながら強く反応するシオンに思わず噴き出すサーリャだった。
サーリャがシオンと会っているのと同時刻、ブルリンド商会の一室で会長であるルジーは一人の客と会っていた。
「こちらが新しく商会で取り扱いを始めた調味料ですね。以前お渡ししたのと同じ物もありますが、あれから改良を重ねたものがありますので一度使っていただければと思います」
「随分と手間をかけているな。昔のやつでも十分客の期待に応えられているだろう。少なくとも俺はそう思っていたぞ」
そう言ってテーブルに並べられているいくつもの調味料を手に取ったのは、森に引き籠っているはずのルインだった。嘘偽りの無い感想を口にするルインの言葉にルジーは笑みを深くする。
「貴方にそう言ってもらえるならば、これまでの努力が報われたような気がします。ですが、料理とは新しい発見の繰り返しです。レシピや調理法が新たに見つかる度、より高みを目指したくなるのが料理人です。私たちの提供する料理で相手を笑顔にできるのなら料理人にとってこの上ない幸せなのですよ」
「そういえばサーリャも似たようなことを言っていたな。もっとも、あいつの場合はお前ほど高い目標を持っていなさそうだがな」
似たようなセリフを聞いたことがあるルインは自宅に何度も訪れている女性を思い浮かべた。彼女も美味しさに関しては特別こだわりを持っていた気がする。
「サーリャさん……もしかすると前回お越しいただいた際に同行されていた女性の方ですか?」
「ああ。訳あって何度か食事を作ってもらっている。アイツも何度か同じメニューにも拘らず味を変えたりして試行錯誤しているな。——なんだその顔は?」
途中でルジーが表情を和らげていたことに気づいたルインはそれを指摘するが、ルジーは笑みを絶やすことなく小さく首を横に振った。
「なんでもありません。今の貴方様の隣にそのような方がいらっしゃることが嬉しく思っただけです」
ルジーの反応にルインは昔読んだことのある小説に似ていると気づき、呆れたように息を大きく吐く。
「なにを勘違いしているようだから言っておくが、俺とサーリャはお前が思っているような関係じゃないぞ。アイツとは契約の上で接しているだけで、あいつの目的が果たされればそれまでの関係にすぎん」
サーリャが訪ねて来るのは無詠唱魔法の技術を学ぶためだ。その対価としてサーリャが食事を用意しているだけなので、その契約が果たされればもう自分は用済みだ。
実際サーリャの魔法技術はまだ未熟な部分が多いが、ある程度の水準にまで達している。今この瞬間契約を打ち切ってもあとは実戦で学べばいいだけだ。そう考えると、思っているよりも残された時間はわずかなのかもしれない。
そうなれば今後サーリャと関わることはないだろうとルインは考えている。
しかしルジーは「そうでしょうか?」とルインとは違う反応を示す。
「一度結んだ縁はそう簡単に切れるものではありません。私が貴方様への恩義を忘れないように、貴方様と関わった人もその想いは忘れないと思います。契約があろうとなかろうと貴方様が助けを必要とするのならば、きっと力になってくれるはずです。もちろん私もその一人です」
今の自分にそんな価値はあるのだろうか?そんなことを考えながら「そんなものなのか?」と言いながら用意された茶に手を伸ばすと、「そんなものです」と答えがすぐさま返ってくるのだった。
その日の夕方、サーリャはルインの家でオーブンと睨めっこをしていた。しきりにオーブンの中を覗き込んでは進捗を確認する。
あらかじめセットしていたタイマーが焼き上がりを知らせる音を響かせ、サーリャは緊張した面持ちでオーブンをゆっくりと開けた。閉じ込められていた熱気と共に甘い香りがキッチンへと流れ込んでくる。
「よし!」
出来上がりに満足したサーリャはさっそく準備に取り掛かった。
「二人ともお待たせ。さっそくだけど感想を聞かせてちょうだい」
大皿を持ちながらサーリャはソファーに座っている二人に声をかけた。サーリャの声に勢いよく振り返るシオンに続いてルインがゆっくりと顔を上げる。
「待ちくたびれた。早く食べよう!」
「ふふ。慌てなくてもいいからシオンはキッチンから小皿を持ってきてくれないかしら」
「何を作っているのかと思えばパイを作っていたのか。それにしても今回のは随分と小さいんだな」
シオンがキッチンへいそいそと小皿を取りに向かう中、ルインは大皿に乗っている物を見て意外そうな顔をした。大皿には片手で食べられるような小さなパイがいくつも並べられている。
シオンが持ってきた小皿にそれぞれ手近なパイを取り、二人が食べる様子をサーリャは緊張した面持ちで見守っていた。
「これは……柑橘系か?」
「シオンはベリーのパイだった。もしかして中身が違うの?」
興奮するシオンがアピールするようにパイ生地に包まれている中身をルインに見せている。
「シオンの言う通りよ。中身を変えてバリエーションを増やしてみたの。パイとして合いそうな果物をいくつか選んでみて、食べ比べしやすいように一つ一つを小さくしてみたわ。これならシオンもたくさんの味を楽しめるでしょう?どんどん味見をして感想を聞かせてね」
いくつかのパイを食べ終え、食後の茶を楽しんでいたサーリャは不意にルインから声をかけられた。シオンは未だパイに夢中だ。
「それで、今回は訪ねて来るなりどうしたんだ?また俺に頼みたいことでもあるのか?」
「え?そんなのないわよ?」
ルインの言っていることが分からずサーリャは首を傾げた。ルインに頼みたいことなど無いし、そもそもどうしてパイを作ったらルインに頼みごとがあると思われるのか。
「サーリャは今日魔法の訓練をしていないだろう。それだと俺が一方的に施しを受けることになるから、それはサーリャとの契約に反することになるはずだ」
ここでようやくサーリャはルインが何故頼みごとがあるのかと聞いてきたのか理解し、その考えを心の底から呆れた。
(まったく。いきなり何を言い出すのかと思ったら……)
「あのねルイン。確かに私とあなたはそういう契約を結んでいることに違いはないわ。でもね、契約なんて堅苦しいものを抜きにして私は作りたいと思ったから作っているのよ。だって友達にお菓子を作ってあげるなんて普通のことじゃない」
「……友達?」
ルインは初めて聞いた言葉かのように目を丸くしている。サーリャからすればここまで関わってきたのだから今更である。
「そうよ。これだけ関わってきてタダノ他人なんて寂しいじゃない。それにいいでしょ?こうやって気楽に過ごせる日があったって」
そう言いながらサーリャは余っていたパイを一つ差し出した。ルインはサーリャからパイを受け取ると「そうだな」と言って口にするのだった。
「はぁはぁ……」
鬱蒼とした森の中で彼は力なくへたり込んでいた。危険な獣や魔獣がはこびる森の中に幼い子供だけなど常識ある大人がその場にいたのならば全力で連れて帰る状況だ。
お気に入りだった服はすっかり泥にまみれ、身体のあちこちには無数の傷があり痛みと恐怖で彼は動けない。周囲には大量の破片と荷物が散乱しており、とてもではないがその中に隠れることも何か役に立てそうな物も無い。
恐怖で見開かれた目に映る大量の破片の中からゆっくりと黒い塊が起き上がった。自分と黒い塊との距離はそれなりに離れているのにもかかわらず、あまりの大きさにその場にいながら見上げなければならないほどだ。黒い塊はしばらく破片の山を漁っていたが、しばらくするとそれとばっちり目が合ってしまいおもわず「ひっ」と、恐怖で悲鳴を上げてしまった。
ソレはこちらに興味を持ったのか二本の足でゆっくりとこちらへ向かって近づいてきている。
今すぐにでもその場から逃げなければならないのに身体が意思に反して動いてくれず、ただ座り込んだまま。そんな情けない自分の姿に彼はどうしようもないほどに怒りを覚えた。
なぜ動かないんだ!ただ立ち上がり目の前の存在から逃げるだけ——ただそれだけのはずなのにっ!
その間にも黒い塊は近づいてくる。相手はこちらが逃げ出すことを全く想定していないのか一切急ぐ素振りを見せず、そのゆっくりとした動きを彼はただ目を見開いて見続けるしかできなかった。寒いわけではないはずなのに身体が小刻みに震え始め、止めたいと思っても止め方が分からない。
そんな彼の身体をふわりと柔らかな感触が包み込んだ。自分を包み込む感触と一緒に感じる温もりはこんな状況でも安心させられるだけの力があり、身体の震えも次第に治まってくる。
「あっ……」
この時になってようやく自分が正面から少女に抱きしめられていることに気がついた。自分よりもいくつか年上の彼女はまるで赤子をあやすかのように優しく、回した腕で自分の背中を叩いている。
「大丈夫。何も心配しなくてもいいのよ」
これまで何度も聞き慣れた声が耳元で囁かれる。ようやくこの時になって視線が脅威から自分を抱きしめる存在へと向いた。顔は見えないが艶やかな黒髪が視界に映る。
——そんなわけがない。お願いだからそんなことを言わないでくれ!
口に出せなくても心の中で彼は叫んだ。それ以上彼女に言わせてはならない。自分の事のはずなのにまるで映像を見せられているかのようにどこか俯瞰じみている。
「これだけは覚えていてちょうだい。喧嘩をした時もあったけど、この気持ちはこれまでも、そしてこれからも変わることは無いわ」
黒い塊が彼女の背後で立ち止まった。その存在に彼女も気づいているはずなのにまるで眼中にないかのように振り返ることすらしない。
抱きしめる力をわずかに緩めて僅かに身を離したことで彼女の顔をようやく見ることができた。彼女も自分と同じように傷だらけで泥が頬についているが、自分を見返すその表情は今の状況とは合わないほどに優しげだ。
何もできない自分の頬を涙が伝っていく中、彼女は両手で優しく自分の頬に手を添える。綺麗な青い目に自分の情けない顔が映り込む。
黒い塊の巨大な腕が大きく振り上げられた。
「世界中があなたを嫌っても私は何があってもあなたの味方よ。だってあなたは私にとって大切な——」
巨腕が振り下ろされ、その鋭利な爪が彼女を切り裂こうと迫って——
「やめろおおぉぉぉ‼」
すべての脅威を跡形も無く消し飛ばすかのように手加減無しの攻撃魔法を瞬時に構成し、ルインは全力でそれを放つ。
しかし先程まで見えていた光景は欠片も無く、代わりに目の前に広がっていたのは見慣れた自身の部屋の天井だった。
「っ!」
消し飛ばすべき相手がいないと理解したルインは即座に放った魔法を強制解除する。強制解除はなんとか間に合い、撃ち出された攻撃魔法は天井に直撃する直前で掻き消え大穴を空けてしまうことは回避できた。しかし無理矢理魔法を解除した影響でそのエネルギーが部屋中に広がり、ハリケーンと思うほどの暴風が部屋の中で巻き起こった。
部屋の中にあった数少ない私物が暴風で容赦なく舞い上がりあちこちの壁にぶつかっては床へと落下していき、窓はこのままでは割れるのではと心配になるほど軋む。
「はぁはぁはぁ」
真っ青な顔色のルインはしばらくの間起き上がることすらせず荒くなった呼吸を繰り返す。呼吸だけではない。嫌な汗で全身びっしょりになりながらルインは額に浮かんだ汗を拭うと脱力したように腕を下ろす。
ようやく呼吸が落ち着いてきたと感じたところで緩慢な動きのまま身体を起こす。
「……」
部屋の中は凄惨たる有様で、部屋にあったほぼ全ての物が吹き飛ばされて床に散乱しているが、ルインの意識はそんなことに一切向けられていない。
汗で張り付いた前髪をかき上げようとしてその動きが止まり、自身の手を見つめる。視線の先ではいまだ震えの止まらない手があり、思わず震えを止めようともう片方の手で押さえるが押さえた手も震えてしまう。
(まったく、忌々しいな)
自分の反応に思わず悪態をつく。これまで何度も見てきたはずなのに、この夢はどうあっても慣れることは無い。
そしてこの夢を見た理由もルインは当然わかっている。そろそろあの日が近づいてきているのだ。一度として忘れたことは無いが、今回はそれだけが理由ではないだろうとルインは考えている。
これまでと違い自分の周囲で大きな変化があった。なんだかんだルイン自身がそれを受け入れてきたが、それが原因の一つなのは言うまでもない。
——このままではダメだ。それは己に課した覚悟を無意味なものにしかねない。
「ぬるま湯に浸かり過ぎたな」
そう一言零すルインの目は先程とは違い鋭いものへと変わった。瞳の奥に僅かだが暗く濁っていることに本人は気づくことは無かった。
「さてと、そろそろ行こうかしら」
騎士寮にある自分の部屋でサーリャはベッドに広げていた荷物を大きめのカバンに詰め込んでいた。今日はルインの家へ向かう日だ。食材の類は補充したばかりなので買い足す必要は無い。カバンの中に詰め込まれているのはルインの家に用意されているサーリャの部屋に持ち込む化粧品や着替えの数々だ。
いつもと変わらない日々の一つ。しかし今日はその変わらない日々に変化が生じていた。
「あれ?」
王都を出ていつもの転移場所へとやって来たサーリャは首を傾げた。転移用のキーとなるプレートを持っているにもかかわらず、いつまで経っても転移が始まらない。いつもならすぐさま転移用の魔方陣が現れるはずなのに。
「壊れちゃったのかしら?それとも何か間違っている?」
転移場所に出たり入ったりを何度か繰り返し、プレートも持ち替えたりその場で飛び跳ねたりするがどれだけ試してみても転移が始まることは無い。
もしかするとルインの都合が悪いのかもしれない。ルインにだって予定はあるのだろう。……あんな自由気ままに暮らしていることを知っているサーリャとしてはあまり信じられないことだが。
転移できない以上。仕方なくサーリャはルインの家へ向かうのを諦め来た道を引き返した。日を改めれば行くことはできるだろうとこの時サーリャは深く考えていなかった。
しかしそんなサーリャの予想を裏切るかのようにその日を境に転移魔法は一度も発動することは無く、ルインと連絡が取れなくなるのであった。
「やっぱりおかしいわ」
「……なにが?」
騎士団では部隊ごとに専用の部屋が与えられ、その中で今後携わる任務や外部に聞かせてはならない内容を話し合うことができる。ミランはこれまで一人で活動していたためにその部屋を与えられることは無かったが、サーリャが加入し正規では無いとは言えシオンも部隊に加わったことで専用の部屋を与えられることになった。
その部屋の中で真剣な口調で呟くサーリャの傍らでシオンが相槌をうつ。シオンは部屋に用意されているお菓子に手を伸ばしては次々と口へと放り込んでいく。
「だってルインの家に行けなくなってもう半月よ。これまでこんなこと一度も無かったのに急に連絡がつかなくなるなんておかしいじゃない」
そう。ルインの家へ転移できなかった最初に日からサーリャは何度かルインの元へ向かおうとしたのだが、その全てが無駄に終わってしまっている。日を変え、時間帯を変えても転移魔法が起動しないのである。最初は気にしていなかったサーリャもさすがに心配になってくる。
「サーリャは心配し過ぎよ。どうせ彼のことだから研究に集中したいとか素材を集めに行っていたとかくだらない理由だと思うわよ。——あっ、シオン私にもそのクッキーをちょうだい」
「ミラン様まで……」
特に気にした様子もないミランが書類をまとめる姿をサーリャ釈然としない気持ちで見る。そんなサーリャの表情に気づいたミランは僅かに呆れ顔になった。
「確かにサーリャが心配する気持ちになるのは分からないわけではないわ。でもだからと言って騒ぎ立てて事を大きくし過ぎるのは違うわ。子供じゃないのだから彼が助けを求めていないのであればそれは一人で対応できる範疇ということよ。なんでもかんでも私たちが介入するようなものではないわ。しばらくすればまた行けるようになるわよ……それよりも私たちの所にも依頼書が何件か回ってきているわ。見た限りだと一件一件の内容は大したことは無さそうだけど、中には他の騎士団では対処できないものが回ってきているから一応二人の希望は聞いておくわ」
そう言ってミランはいくつかの依頼書を全員に見えるようにテーブルに広げ、それをサーリャとシオンは二人して覗き込んだ。
魔獣の討伐や犯罪者への対応などが主な内容となっているが、他には夜間の警備や捜索依頼なども含まれている。
そんな中真っ先に依頼書を手に取ったのはシオンだった。
「……シオンはこれを受けてみたい」
「子供たちの遠足の付き添いと護衛……ね。たしかに厳つい強面の騎士団連中だと子供たちが怯えてしまうものね。いいわ。私も同行するから日時はまた連絡するわね。……サーリャ、あなたはどうするの?」
しばらく広げられた依頼書を眺めていたサーリャは一枚の依頼書の内容が目に留まり手に取った。じっくりと内容を読み込んだサーリャは小さく頷くとミランへと持っていた依頼書を差し出した。
「私はこれにします」
しばらく時は過ぎ、サーリャは一人ルクドの大森林の入口に立っていた。ルインの転移魔法で気軽に行き来できるようになってから久しぶりに馬車で訪れることになる。
初めてこの森に訪れた時のことを思い出すと理由が理由なだけに素直に喜ぶことはできないが、何とも言えない懐かしさが込み上げてくる。
サーリャが大森林を訪れたのは依頼を受けたからではない。依頼はそもそも大森林から離れた別の街で、大森林に行かなければならないような内容でもなかった。
すでに依頼は達成し終えており、サーリャからすれば特に苦になるような内容でもなかった。それでもわざわざその依頼を受けたのは行き先が比較的大森林に近いというのが理由である。依頼を終えたついでにルインの家に立ち寄る。それがサーリャの一連の予定である。
ルインの家に転移できなくなり連絡が取れなくなってすでに一か月を超えてしまった。ミランやシオンは特に不安視していなかったが、サーリャとしてはどうしてもそのことが気になって心配になってしまう。一目様子を確認できればさっさと帰るつもりなのだが、その前に解決しなければならない問題がある。
(無事にルインの家を見つけられればいいけど……)
サーリャはルインの家の正確な場所を知らない。これまで転移魔法で途中過程をすっ飛ばしているし、初めて出会った時も気絶したサーリャをルインが運んでいるので気絶した場所からどれだけの距離があったのかもわからない。とりあえず森の奥深くにあるらしいという参考になるかわからないような情報だけである。
依頼を終え万全でない状態の装備と消耗したままの物資のままで広大な森のどこかにある目的地を目指す。その道のプロが聞けば激怒しながら拳が飛んできそうなものだが、あいにくとこの場にはサーリャの他には誰もいない。
気合を入れるかのように自分の頬をぴしゃりと叩いたサーリャは一人大森林へと足を踏み入れるのだった。
外部と生態系が一変している森の中をサーリャは警戒を怠らずに森の奥へと進んでいく。物資に限りがあるので戦闘は極力避け、森を騒がせる可能性を消していく。
時折木に登っては周囲を確認し方向を見失わないように注意を払うが、見えるのはどこまでも続いているのではと思えるほどの大森林で、ルインの家らしきものは一切見つからない。
そもそもこのまま真っ直ぐ進んだ先にルインの家があるという確証も無いのだ。気がつかない内に通り過ぎてしまう可能性もある。
進む方向を少し変えてみようか——そう考えていたサーリャの正面から目に見えない力の奔流が駆け抜けてきた。
「なんなの⁉」
どうすればいいかわからずその場で身構えるしかできない中、奔流はサーリャの身体の中を通過し、そのまま背後へと流れていく。特にサーリャの身体に変調は見られないが、圧倒的な力の奔流が周囲へと放たれた影響で危険を察知した魔獣や獣が自身に害を向けられないようにできる限りその場から離れようと動き出す。
その場で立ち止まったサーリャは先程自分の身体に入り込んできた感覚を確かめるように自身の胸に思わず手を当てた。魔境とも言えるルクドの大森林だが、これほどの力を放つような存在に心当たりがある。この魔力の感覚は——
「そっちにいるのねルイン」
確信に近い予感を胸にサーリャは痕跡を辿るように森の奥へとさらに歩みを進めた。
方向さえわかれば進む速度も速くなる。一直線に進んだ先にあったのは途切れた森と開けた土地。目的地であり見慣れたルインの家があった。サーリャが出て来れたのは普段転移で現れる広い庭ではなくその反対側——家の裏側に出て来れたようだ。
(さっきの力ってルインよね?)
こうして痕跡を辿ってきたことで目的地に着けたのだから先程の力の発生源はルインのはず。そのはずなのだがキョロキョロと周囲を見渡してもその本人がいない。草地を踏み進みながら反対側の庭にも顔を出してみるがそちらにもルインの姿はない。聞こえるのは鳥の鳴き声だけだ。
鍵のかかっていない玄関の扉を開けて中に入ってみると家の中はしんと静まり返っている。いったいルインはどこにいるのか。いるはずの家主がいないことに心細さを感じながらリビングにやって来ると、サーリャはその場に立ち尽くしてしまった。
「なんなのよ、これは……」
サーリャは辛うじてそれだけを絞り出すように呟く。
別に家の中が荒らされていたとか何者かの襲撃を受けていたとかそんな物騒なものではない。その点に関しては安心するべきところなのだが、それとは別にサーリャを戦慄させる光景が目の前には広がっていた。
紙。紙。紙——どこに視線を向けても必ずそれが目に飛び込んでくる。リビングのありとあらゆるところに大量の紙が散らばり、整理整頓という言葉が消し飛んだ惨状が広がっていた。一か月の間にここまで悲惨な状態にするなどサーリャからすれば信じられない状態だ。
「いったいルインは何をしていたのよ」
足元に落ちている紙束の一つを拾い上げてみるが、何かのメモなのだろうか。一面びっしりと書き込みがされているが、サーリャでは内容を理解することはできない。他の紙も似たようなものばかりだ。
びっしりと書き込まれた紙面は文字の上からさらに文字を書き込んだりしているせいで何も書かれていない白い部分がほとんどない。鬼気迫るかのような黒い紙面が辺り一帯に散らばっている光景は見慣れた家のはずなのに、言い知れぬ恐怖がサーリャの身体を震わせる。
手元のメモに意識を向けていたサーリャの背後から何かが近づき、肩を掴まれた。
「ひゃあああああぁぁ!!」
突然のことに飛び上がるほど驚いたサーリャは出したことも無いような悲鳴を上げ慌てて背後を振り返った。振り返った先にはサーリャのよく知る人物が驚きの表情で手を伸ばした状態のままで固まっていた。
「人の家でお前はいったい何をやっているんだ」
どこかへ出かけていたのかローブを羽織ったルインが立っていた。
「驚かせないでよ!いえ、そのことに関して今は後回しでいいわ。今までいったい何をしていたのよ。ルインの家に跳ぼうと思ったら転移魔法が全く反応しないし、一か月もの間連絡が無いから心配したじゃない!」
「やるべきことがあったからそれに集中していただけだ。別にどうしようが俺の勝手だろう。それよりもよくここまで辿り着けたな。この家の正確な場所なんて教えていなかったはずだろう?」
「そうよ。だからここに来るのも大変だったのよ。途中でとんでもない力の波が流れて来たからそれを辿ってここまで来たけど、あれはルインなのでしょう?」
「ほう。思っていたよりも余波が外に出ていたみたいだな。このままだと実用には不向きだな。改良するなら……」
「私を放置して勝手に自分の世界に入らないでもらえるかしら?」
顎に手を当てぶつぶつと言いながら考え始めるルインをサーリャは苦笑しながらすかさず中断させる。久しぶりの来客であってもまったく気にする素振りも見せず放置するのはいかにもルインらしい。
「それよりわざわざ森を抜けてきてまで何の用だ。俺は見ての通りやることがあるから忙しい」
「え?」
「どうした」
サーリャは僅かな引っ掛かりを感じて首を傾げた。何がサーリャの中で引っかかったのかよくわかっておらずうまく言い表すことはできないが、いつもと何かが違う。
しかしいくら首を傾げても目の前にルインがいるだけで答えを見つけることができない。釈然としない面持ちのままとりあえずサーリャは一旦そのことを自分の胸の内にしまった。
「……なんでもないわ。とりあえず——コレを何とかするのが先ね」
そう言ってサーリャは腰に手を当てながら周囲に散らばっているメモ紙の数々を見渡すのだった。
凄惨たる有様だったリビングをルインと二人で見慣れた光景に戻すと、サーリャは両手に持っていたカップの一つをルインへと渡すと対面ではなくルインの隣へと腰を下ろす。
「それじゃあ、今まで何をしていたのか全て白状してもらいましょうか」
「まて。どうして俺がこんな尋問まがいの対応をされなければならないんだ」
「それはあなたがそうされるほどのことをしたからに決まっているでしょう。さっきも言ったけど何かあったんじゃないかと心配したんだからね」
責めるような表情と共にずいっとルインへと顔を近づけたサーリャはあることに気がついた。
「ルイン、あなたちゃんと寝ているの?」
よく見ればルインの目元にはクマが色濃く出ており、僅かに目も赤い。普段好きな時に起きて好きな時に寝ているルインにしては珍しい。
「別に問題ない。今は作業を進める方が重要だ」
「もう、そんなこと言って無茶をするでしょ——ほら、特別だからね」
サーリャは呆れ顔になりながらルインの身体を自分の方へと引き寄せた。いきなり身体を引っ張られたことでルインは抵抗できないまま横に倒れ、サーリャの太ももにルインの頭が乗りルインを膝枕したような形になる。
「……なんのつもりだ?」
「少し休みなさい。何をしているのか知らないけれど、そんな状態じゃ進むものも進まないわよ」
サーリャはルインのボサボサな髪を軽く撫でる。サーリャからはルインの後頭部しか見えないので今ルインがどんな表情をしているのかはわからない。それでもルインはサーリャのされるがままになっており、サーリャの太ももに頭を乗せたままだ。
僅かにルインが笑う。
「よくこんな恥ずかしいことを平気でできるな」
「い、言わないでよ。言われたら余計に意識しちゃうから!」
膝枕を誰かにするなど今回が初めてで、しかも相手は異性であるルインだ。ルインの身体を引き寄せた時は全く意識すらしていなかったが、指摘されてしまうと途端にどれだけ自分が大胆な行動をしていたのか理解して恥ずかしさが込み上げてくる。言い返すサーリャの顔は今や真っ赤になっている。
サーリャ自身どうしてこんな大胆なことをしてしまったのかわからない。普段のサーリャならば決してしないであろう行動もルインになら比較的許せてしまうこの気持ちはいったい何なのだろう。
「だが……そうだな。せっかくだから少しその言葉に従ってみるか」
サーリャの太ももに乗せられた重みが僅かに増え、しばらくするとルインから穏やかな寝息が聞こえてきた……やはり疲れが溜まっていたのだろう。
寝ているルインを起こさないようにサーリャは優しく何度もルインの頭を撫で続ける。サーリャを信頼して眠るルインに微笑みを浮かべるサーリャだったが、不意にその表情が曇った。
「ルイン。あなたはいったい何を焦っているの?」
ぽつりと呟くサーリャの言葉にルインは反応することは無かった。
翌朝、サーリャは手慣れた様子で朝食の準備を進めていた。フライパンの上で焼いているベーコンと卵の香ばしい香りが空腹感を促す。僅かな空き時間で盛り付けを進めていき無駄な時間を作らない。
家主よりもキッチンを使いこなせている事実にそれでいいのかと苦笑したくもなるが、もはや今更である。この家のキッチンは今やサーリャのテリトリーになっている。
(そろそろかしら?)
そう思ったところでリビングの外で扉が開いた音が聞こえ、その後ルインがのんびりとリビングに姿を現した。
「……おはよう」
「おはよう。今日も時間ピッタリね。さぁ、朝食にしましょうか」
挨拶を交わし終えたタイミングでトースターにセットしていたパンが焼きあがり、小さなベルが鳴る。
ルインと出会ってから何度も繰り返し慣れてしまった日常の一幕。朝食を二人で食べながらサーリャが話題を出してはルインがそれに反応を返す。
「ん?いつもとジャムの味が違うな。もしかして手作りなのか?」
「そうよ。いつも行っているお店の人からレシピを教えてもらって、せっかくだから挑戦してみたの。どう?少し煮詰め過ぎて甘みが抜けてしまった感じなのだけど」
「俺はこれぐらいの甘さでも問題無いと思うぞ。必要以上に甘すぎるのは好きじゃないからな。だが、サーリャが納得できないのならもう一度挑戦しても構わんぞ。サーリャがどんなジャムを作りたかったのかも気になるしな」
「ふふ。それなら次に期待してもらおうかしら」
サーリャが新しいことに挑戦すればそれに対してルインは必ず感想を伝えてくれる。それだけでも作り甲斐があるというもので、サーリャ自身もそんなルインの反応が見たくて積極的に料理を作ろうとするので、今のサーリャは作れる料理の幅がかなり広がっている。これも二人で食事をするようになったことによる良い効果だ。
朝食を済ませた二人は外の広い庭へと出る。ここ一か月以上もの間ルインが外との連絡を絶った理由を教えてくれるということだ。
「それじゃあその辺で見ておけ」
サーリャから少し離れた位置まで移動したルインから高密度の魔力が溢れ出した。
高密度でありながら周囲の空気に溶け込むように霧散するような魔力は今のところ一切見られない。魔力が霧散しないのはそうならないように末端にまでルインの魔力制御が行き届いている証だ。溢れ出した魔力のすべてを制御下に置くなど並大抵の集中力では済まない。
(これを見せつけられると私もまだまだって思い知らされるわね)
そんなサーリャの視線の先でルインの魔力が一気にドーム状に広がり、離れていたサーリャをも包み込む。ドーム状に広がった魔力の中はまるで宝石の中に入り込んだように明るく、朝の日差しを乱反射させて全体がキラキラと輝いている。
「綺麗……」
これまで見たことも無い輝きに心奪われそうになる中、ルインがゆっくりと右腕を前へと突き出す。突き出された腕の先にはあらかじめ用意されていた的が設置されている。
距離にして五十メートル程度。人型の的を前にルインの魔力がさらに高まっていく。
些細なことも見逃すまいと集中していたサーリャの目の前でルインと的の両方の姿が消えた。
「は?」
見失っていた時間は一瞬。目の前の事象が信じられず思わず瞬きをしたサーリャだったが、その瞬きをしている間に見失っていた両者は再びその姿を現していた。的があった場所にルインが、ルインの立っていた場所に的が出現しており互いの位置が入れ替わっている。
互いの位置が入れ替わっているとサーリャが理解したと同時にサーリャたちを包み込んでいた魔力のドームが消失し、ドーム内に閉じ込められていた魔力が津波のように周囲へと拡散していった。——サーリャが昨日感じた力の波はおそらくこの魔力の波だろう。
「とりあえず発動はしたか。これだけ余剰魔力があるのならばもう少し消費魔力は減らすことができそうだな」
位置が変わった場所から動くことなくルインは何かを確かめるように自身の手を握ったり開いたりを繰り返している。そんなルインへとサーリャは小走りで近づいた。
「ルイン、さっきの魔法はいったい何なの⁉見た感じだとお互いの立ち位置を入れ替える魔法に見えたけど」
「位置を入れ替える、とは少し違うな。まだ未完成だが、これは特定の相手を自分の傍に引き寄せる魔法だ」
「引き寄せる?でもルインだって動いているじゃない」
ルインは引き寄せると言ってはいるが実際にはルインも移動してしまっており、引き寄せるとは遠い結果になってしまっている。そもそもなぜ相手を引き寄せるような魔法など開発しているのだろう。それを必要としないほどの力をルインは持っているというのに。
サーリャの指摘にルインは痛い所を突かれたといったように困った表情になった。
「そこが問題なんだ。サーリャ、仮に俺とお前が互いに一本のロープの端を握っていたとする。相手を自分の元へ引き寄せるにはどうしたらいい?」
「そんなのロープを思いっきり引っ張ればいいのよ」
「しかしそれは俺も同じことを考えている。サーリャを引き寄せようとこちらもロープを引っ張るが、サーリャはどうやってその力に抗う?」
「そんなの引っ張られないように足に力を入れて踏ん張るのよ。当たり前の事でしょ」
ルインからの質問にサーリャは深く考えることなく当たり前の事実を次々と答えていく。この問答に一体何の意味があるのだろう。
ルインはサーリャの回答に頷く。
「そうだな。普通ならそれが正解だ。ならばお互いが水の中で浮かんでいる状態で引っ張った場合はどうなるんだ?」
ようやくサーリャはルインが何を言いたいのかを察しハッとした表情になった。ルインもサーリャの表情からようやく先へ進めると思ったのかわかりやすくサーリャへ解説を始めた。
物体に力を加えれば必ず力を加えた方向とは違う力——反作用が生まれる。それは物理法則などをある程度無視することのできる魔法の世界であっても完全に消すことはできない。押せば押し返され、引けば逆に引っ張られる。
今この場で無抵抗なルインをロープで引っ張ればサーリャはその場に留まったままルインを自分の元へ引き寄せることができるだろう。それはサーリャが地に足をつけ反作用に抗えるからだ。
しかし踏ん張りの利かない水の中で浮いている状態では反作用に抗えず相手側へと引っ張られてしまう。魔法はまさにその水に浮いた状態に近いらしく、相手だけを引き寄せるにはこちら側の位置を固定する何かが必要らしい。
「問題はそれだけじゃない。今のところ引き寄せる対象には目印となる物を持たせておかないと正確な座標固定ができない。そして反対側に俺が飛ばされると位置が変わってしまった影響なのか、それとも魔法による影響なのか一時的にではあるが俺も魔法が使えなくなる」
「ダメじゃない」
問題だらけの魔法に流石のサーリャもそう言わざるを得ない。引き寄せる対象はその辺にある物ではなく人になるので座標の指定は注意を払わなければならない。引き寄せてみたら身体の一部が無くなっていましたなどただのホラーでしかない。
しかし引き寄せたい相手に目印となる物を持たせておかなければならないなど使い勝手が悪い。これではあまりにも使用条件が厳しすぎる。
「だから言っただろう未完成だと。だからこそ完成にはできる限り多くの時間が必要だったんだ」
「へぇ。でもなんでこの魔法を作ろうと思ったの?」
「……」
ルインはサーリャの質問に答えることなく的を片付けていたが、ふと何かを思い出したのかその手が止まる。
「そういえばサーリャ。俺の様子を知りたい為だけにわざわざここまで来たのか?」
「そんなわけないでしょう。ここから比較的近い場所で仕事の依頼があったから依頼を終えた後こっちに来たのよ」
「そうか。それはミランに伝えているのか?」
「伝えているわけないでしょう。伝えていたらこっち方面の依頼を受けさせてもらえないかもしれないじゃない」
いくら受ける依頼の決定権がサーリャたちにあったとしても公私混同が許されていいわけじゃない。その辺に関してミランは厳しいだろうと判断したからの行動だ。深く考えずに依頼を選んだように振舞っていたのでまだミランには気づかれていないはずだ。
「つまりここに来ていることがバレたらサーリャにとってかなりまずいわけだな」
「大丈夫よ。依頼の期日は決められているわけじゃないし、バレなければ多少帰るのが遅くなっても問題無いわ」
「……そうね。だとしてもやることが終わればすぐに戻るのが常識じゃないかしら?」
「だから、そんなことしたらここに来れないって——」
もっともな指摘にサーリャはすぐさま反論したが、途中でその言葉が途切れてしまった。今、ルインとは別の声が聞こえなかっただろうか。
——それもサーリャのすぐ後ろから。
全身から嫌な汗が一気に噴き出し、ギギギと音が鳴りそうなほどゆっくりとサーリャは背後へと振り返った。そこにはいるはずのない人物が腕を組み、仁王立ちしながらサーリャに険しい視線を向けていた。
「ミ、ミラン様!どうしてここに⁉」
「昨夜ルインから連絡があったのよ。依頼の行き先からもしかしてとは思っていたけど、まさか本当にここに向かうとは思っていなかったわ」
じりじりと後退りするサーリャにミランは近づくと、サーリャの襟首を掴み転移魔法のある場所へとズルズル引き摺っていく。
「迷惑をかけたわねルイン。——さぁ、私たちは帰るわよ。随分と余裕そうだから他の依頼もどんどん受けてもらうから覚悟しなさい」
「う、裏切り者~!」
サーリャの情けない叫び声が森に響き渡るのだった。
「はぁ……」
王都にある飲食店の一つ。屋外に設置されたテラスでサーリャはテーブルに肘を付けながら溜息を吐いた。澄み渡った青空の下で気持ちの良い風が吹いているが、サーリャの心の中は曇り空になっている。
「どうしたのサーリャ。ご飯美味しくなかった?」
「あ、ごめんね。そうじゃないの。料理はとても美味しいわ。ちょっと別のことを考えていたの」
今日は久しぶりの休日で、サーリャとシオンは少し遅めの昼食をとっていた。すでに料理は食べ終えてウエイターが皿を下げており、今は食後のお茶を楽しんでいるところだ。
「私ってちゃんと強くなっているのかなぁって……ちょっと考えちゃってね」
サーリャは手元にあるティーカップに淹れられた紅茶をスプーンで混ぜながら僅かに表情を曇らせた。
「サーリャは強い。詠唱せずに魔法が使えて剣の腕も十分ある」
シオンからの励ましにサーリャは僅かに微笑む。
「ありがとう。でもね、ここ最近ずっと誰かに助けられてばかりだと思うのよ。それって私の実力がまだまだってことでしょう?」
魔獣の大侵攻やミルス領での一件。どれもサーリャは関わってはいたが最終的にルインやミランに助けられる形で事態は終わりを迎えている。サーリャが一人で解決したものは何一つない。
無詠唱魔法が使えるというアドバンテージばかりに気を取られて、実は何一つ自分は成長していないのではないだろうか。
それに加え、最近ようやく会えたルインもどこかよそよそしく感じてしまう。結局ルインはなぜあの魔法を完成させようと躍起になっていたのかわからずじまいだ。
「つまりサーリャは強くなっているのか自信が無い……そういうこと?」
「まぁ……そうなるのかな」
少し冷めてしまった紅茶を飲むサーリャは一息つく。冷めてはいるがそれでも美味しいことに変わりはない。
「じゃあサーリャは直接ルインに聞けばいい」
「わざわざそれを聞くためにルインの家に行けないわよ」
わざわざルインの家まで訪ねてそんな悩みを聞くのはなんだか気恥ずかしさがある。シオンらしい真っ直ぐな答えに苦笑するサーリャだったが、シオンの反応は少し違った。
「ルイン……いるよ?」
「は?」
この時になってようやくサーリャは手元のカップから視線を外し、シオンへと向けた。シオンはサーリャを見ておらず、テラスから大通りを見下ろしている。
「ほら、あそこ」
シオンが指さす先を見れば大通りを何人もの人が行き交っており、活気にあふれている。そんな人々の中に一人——移動用のローブを身に着けフードを目深にかぶって顔を隠した人物が歩いているのを見つけた。
見覚えのある服装に加え、目を凝らせば僅かにフードの奥に見える顔は確かにルインだ。
森から滅多なことで出ることの無いルインがこの王都にわざわざやって来るなど一体何事なのか。
「歩き方の特徴がルインと一緒だったからわかりやすい。どう、すごい?」
「凄いわねシオン。あれだけの人ごみの中から見つけるなんて——ってそうじゃないわ。何しているのよアイツは。シオン、すぐに追いかけるわよ」
サーリャは残っていた紅茶を一気の飲み干すと急いでテラスを後にするのだった。
大通りを迷いなく進んでいくルイン。そんな彼を見失わない程度の離れた位置からサーリャとシオンは周囲に紛れるようにして追いかけていた。
「ルインはどこに行くのかな?」
「う~ん。この先は商業区のはずだけど何か欲しいものでもあるのかしら」
「きっとルインもお菓子が食べたくなったからたくさん買いに来たのかも」
「……それはルインじゃなくてシオンの願望でしょ」
普段食材管理をサーリャに丸投げしているルインがわざわざ食材を求めて動くなど到底考えられない。ならば別のようで王都を訪れたのだろうが、何の目的でわざわざ王都まで出向いたのか見当もつかず興味が湧いてきた。
商業区に入るとこれまで進んでいた通りとは比べて賑やかさが増した。通りを歩けば様々な店が軒を連ね、店先で店員が行き交う人々に自分の店の商品をアピールしている。
開けたスペースでは王都の外からやって来た行商人が簡素な売り場を設営し、普段目にしないような珍しい品を並べている。
そんな商業区をルインはサーリャと一緒にかつて訪れたことがあるので目的の店まで一直線に歩いていく——わけではなく今日は少し様子が違った。キョロキョロと周囲を常に見渡しており、店先の商品を確認し、時には店の中にまで入って商品をじっくりと眺めている。
「ルインは何をやっているの?」
「……何かを探しているっぽい?」
一般客に紛れるように近くの屋台でクレープを食べながら様子を窺っていた二人だったが、ルインの行動の真意がわからず二人の頭の上に「?」が浮かんでしまう。今のところルインは何も買うことなくただ商品を眺めるばかりだ。本当にルインは王都まで何をしに来たのだろう。
しばらくそんなルインだったが、やがてある店を見つけると他の店には視線もくれず真っ直ぐ店内に入ってしまった。遅れて到着した二人は意外な場所に思わず店の前で足を止めて看板を見上げた。
「ここって……」
「花屋?」
ルインが入っていったのは王都でも比較的大きな店を構える花屋だ。各地から取り寄せられた様々な花が店内だけでなく店の外にも並べられており、花の香りが大通りの空気までをも染め上げていく。
窓に近寄りこっそりと中の様子を窺うと、店内に客はルインだけのようだ。店内ではさすがにフードは外しており、ルインの顔がはっきりと見える。
ルインに花などまったく似合わなさそうな組み合わせなのでそれだけでも驚きなのだが、そのルインはこれもまた珍しいことに近くの店員をつかまえて花を指さしながら言葉を交わしている。
店員と話を終えると店内に並べられている花の一つ一つをじっくりと真剣な表情でルインは見て回っている。やがて気になったものが見つかったのか再び女性の店員を呼んで何か伝えると、呼ばれた店員は笑顔を浮かべて店の奥に引っ込んでしまった。
しばらくすると奥に引っ込んでいった店員が戻ってきた。その手には先程ルインが興味を示した雪のように真っ白な花束が抱えられている。
「誰かへの贈り物?」
「……そうかもしれないわね」
ルインは自宅に花を飾る趣味はない。ならばあの花束は誰かに贈るために用意したのだろう。
(いったい誰に贈るつもりなのかしら)
そんな疑問を浮かべる中、サーリャは息をのんだ。女性から花束を受け取った瞬間、普段表情を変えることの無いルインが微笑みを浮かべたのだ。
ただ微笑みを浮かべたのではない。僅かに目を細め、まるで受け取る相手のことを想像するかのようにこれまで見たことが無いほどの優しげな表情を見せている。それだけの表情を見せることのできる相手がいるのだ。
思わずサーリャは窓から離れると、まるでルインから隠れるようにその場にしゃがみこんだ。胸のあたりに僅かな痛みが走り、思わず胸に手を当てる。
「どうしたのサーリャ。どこか調子が悪いの?」
「ごめんね。少しだけこのままにさせてもらえないかしら」
心配するシオンに申し訳なく感じながらもサーリャはただそれだけしか言うことができなかった。
花屋を出た後もルインはしばらく商業区内をうろうろしていたが、結局買ったのは花束と一本のワインだけで用が済んだのか王都の外へ歩き出してしまった。
花束とワインは人目が無くなった頃合いに剣を収納した時と同じように虚空の中へと入れてしまい手ぶらだ。
誰もいない平原まで進んだところで先を歩くルインの足が不意に止まり、自然な動きで後ろから追いかけていたサーリャたちへと振り返った。
「おい。いつまで下手な尾行を続けるつもりなんだ?」
「ば、バレてたの?」
「当たり前だ。逆にそんな子供騙しのようなことをしていてバレない方がおかしいだろう」
せめてものカモフラージュだと思って持っていた木の枝を見て憐みの視線を向けられていることに気がつくと、サーリャは慌ててその辺に投げ捨て誤魔化すように笑う。
ルインは特に指摘するわけでもなくサーリャの隣にいるシオンへと視線を動かした。
「おそらくよくわからん自信を持ちながらここまでこそこそとついて来たんだとは思うが、サーリャの尾行はシオンから見てどんな評価なんだ?」
「……まったくダメ。尾行するのだとしても引き時がある。こんな隠れることもできない場所まで追いかけたらバレるのは当然の結果」
「うぐっ」
僅かに躊躇ったようにチラリとサーリャの顔色を窺ったシオンだったが、結局は質問に答える。遠慮のない事実を話すシオンの言葉がサーリャに容赦なく突き刺さり、思わずよろめいてしまう。
自分としては多少程度のつもりではあったのだが、もしかしたら二人からすれば自分の姿はかなり間抜けに映っていたのでは……。
「こ……こほん。私のことは今はどうでもいいでしょ。ルインこそわざわざ王都にまで何をしに来たのよ」
「俺は必要な物があったからそれを買いに来ただけだ。そっちこそ俺に何の用だ。俺を追いかけるのが目的ではないんだろう?」
ルインを追いかけていたのはただの興味本位。特に理由は無いと返答しようとしたサーリャよりも先に隣から反応があった。
「サーリャの元気がない。サーリャの悩みを聞いてあげて」
「ほう」
「ちょっとシオン⁉」
サーリャとしてはあくまでも愚痴程度で終わらすつもりだったのに、まさかシオンが暴露するとは思わず、反射的にサーリャは咎めるようにシオンを見た。シオンは「ほら、早く」と促すだけで特に悪びれた様子はなく、ルインも早く話せと言わんばかりに聞く態勢に入ってしまっている。ここまでくると話さないわけにはいかない。
「実は……」
広い平原の真っただ中でサーリャの悩みをルインは途中で口を挟まず、ルインは黙って最後まで聞いていた。悩みを聞いてどう感じているのかはわからないが、話し終えた後もルインはしばらく口を開かず黙ったままだ。
「ルインから見て私はどうなの?やっぱりまだまだ半人前だと思う?」
僅かに上目遣いになりながらサーリャはそれとなくルインの顔色を窺う。不安に揺れるサーリャの態度にルインはようやく口を開くが、出てきた言葉はサーリャが期待していたものではなかった。
「ひとつ聞くが、サーリャはどうなりたいんだ?」
「どうなりたいか?」
「そうだ。どれだけ強大な相手であっても退くことなく渡り合うことのできる存在になりたいのか、一人で多くの命を守れるような存在になりたいのか。まずサーリャの思い描く自分自身の将来を聞かせてみろ」
そう言われてサーリャは心の中で自分自身へと問いかける。——自分はどうありたいのだろう。
多くの命を助けたい。その想いはサーリャのこれまでを形作る大きな原動力となっており、騎士になった今でもその想いは消えることは無い。しかし、どのように守りたいのかと言われれば少し返答に詰まってしまう。
守ると一言で言ってもその方法は一つではない。敵から大切な存在を奪われる前に相手を殲滅する攻めの姿勢であるべきなのか、かすり傷すら通さないような鉄壁の守りを持つべきなのか。他にも治療に特化する後衛型の騎士になるなど目指す方向は多岐にわたる。
サーリャの脳裏に理想とする人物の姿が思い浮かんだ。どんな相手であっても一歩も退くことなく立ち向かえるほどの力を持つオフゴールドの髪と黒髪の男女。
思い悩むサーリャの姿にルインは自身の予想が当たっていたと言わんばかりに困ったような表情で顔の半分を手で覆った。
「そこなんだ。魔法の時もそうだがサーリャは大まかな目標は持っているが、その先を考えがまとまっていなくて曖昧だからそんな悩みを持つんだ。おおかた今のサーリャが想像しているのは今の自分に足りない要素をすべてかき集めた超人みたいなイメージしか持っていないんだろう。いいか?先に言っておくがそんな万能みたいなやつなど存在しない。」
「そうは言ってもルインは何でもできるじゃない。ミラン様だって一人で大勢を助けることができるぐらいの力は持っているわ」
ルインの正論にサーリャはむっとした表情になり、すぐさまムキになって言い返した。
少なくともサーリャの知る限り二人が対処できなくなるような窮地に陥ったところなど今まで見たことが無い。そんな人物が否定の言葉を口にしても何の説得力もない。
しかしそんなサーリャの言葉にルインは心外だと言わんばかりの態度で応じる。
「俺やアイツが何でもできる?それこそサーリャの勘違いだし、俺たちを都合よく見過ぎている。そうだな……シオン。お前は俺のように無詠唱魔法を使うことができるか?無詠唱でなくても一人で広範囲殲滅魔法を連発して大軍を相手できるか?」
ルインの問いに対し、シオンは即答する。
「それは不可能。シオンはそれだけの技術も魔力も持っていない。シオンは攻めるよりも守る方が向いている」
「そうだな。ではサーリャ。お前はシオンのように守りに専念しろと言われて同じよう事ができるか?数の力で攻められてもこちら側に被害を出さずに戦うことができると?」
「そ、それは……」
ルインの指摘に言い返すことができずサーリャは口を噤む。ルインから求められたことをやり遂げることができないとサーリャ自身が理解しているからだ。
サーリャにはシオンの持つフォートレスのような鉄壁の守りを持っているわけでもなく、シオン自身の小さい身体を活かした一撃離脱を主とした戦闘スタイルでもない。時間をかけて訓練すれば近づけることはできるかもしれないが、あくまでも近づくだけで全く同じことができるというわけではない。
「理解したか?すべてを完璧にこなせるなんて一人でできるわけがないんだ。サーリャとシオンそれぞれに得手不得手があるように、俺だって何でもできるわけじゃない。一応剣の心得はあるが、それは魔法が使えない状況になった際に何もできないのは困るから習得しているだけの話で、魔法無しで斬り合えば俺はミランに負けるだろう。それはミランも同じで、魔法戦だと俺は負けるつもりは無いと自負している」
あっさりと自身の弱さを話すルインをサーリャは意外な気持ちで受け止めていた。ルインのことだからてっきりその辺りの情報は隠すと思っていたのに。
だとしてもルインの言葉を「はいそうですか」と簡単に受け止められるかは別問題だ。たとえミランに劣るのだとしてもその剣の腕は王国全体から見ると上から数えた方が早いくらいのレベルだ。
「まだ納得していないって顔だな。さて、どうするか——」
唐突にルインは言葉を切り、上を見上げた。サーリャとシオンもつられるように上を見上げる。見上げた先にあるのは雲一つ無い澄んだ青い空が広がっているだけ。
しばらく三人揃って空を見上げていたが特に何かあるわけでもなく時間だけが過ぎていく。
「二人に騎士としての常識が備わっているか少し確認してやる。騎士とは魔獣の討伐や野盗・ゴロツキの相手だけでなく、市民同士の喧嘩などの収拾や街の治安維持なども任されている。しかし喧嘩程度のトラブルなどその辺にいる腕っぷしの強い奴が収めればいいだけの話なのに、わざわざ騎士に任せる理由は何故だ?」
唐突な話題変換にサーリャは戸惑いながらも、ルインからの質問にサーリャはすぐさま答えた。
「それは間違った秩序が広がらないようにするためよ。その場にいる人が勝手に仕切ってしまったら市民は大混乱に陥るわ」
力のある者がその場を収めてしまえば確かにその場のトラブルは迅速に処理できるかもしれない。しかしそれは逆に言えば力があれば何をしてもいいと捉えられかねない状況を作り出すきっかけにも繋がってしまう。そうなってしまえばたとえどんな理不尽な結果になったとしても力の弱い者は力のある者に従うしかなくなり、最悪街の中で実力者同士の対立にも発展してしまう。
そんな実力主義の社会にならないために、騎士はたとえ小さな諍いであってもその場を収める役目を追っている。
だからこそ騎士には力だけでなく公平に状況を把握し、適切に対処する力も求められるのである。
サーリャの回答が望んでいたものだったのだろう。ルインはサーリャの言葉に頷く。
「その通りだ。つまり何らかのトラブルが発生してしまった場合、か弱い一般市民である俺はなす術が無いということになる」
「ルインが……か弱い?」
「……ありえない」
サーリャとシオンは「何を言っているんだこいつは?」と言わんばかりの表情でそれぞれルインの主張を否定する。
たしかにルインの言っていることは間違ってはいないが、ルインがか弱いなどサーリャとシオンからすれば到底納得できないことで、そうなってしまうと人類の大半が評価に値する土俵にすら上がることができない。
そんな二人の反応をルインは最初から聞こえていないかのように無視する。
「サーリャにはその権利が当然発生するが、シオンは立場上かなりグレーな立ち位置ではある。一人の時はその権利は使うことはできないが、サーリャかミランのどちらかが同行している場合に限って騎士と同じく事態の鎮静化に参加することができるだろう」
公に王国民に公表されているわけではないが、シオンは罪人だ。人質を取られていたとはいえ、暗殺者として裏の世界で生き、未遂とに終わったとはいえ領主の暗殺にも関わっている。そんな人間が場を取り仕切ってしまえば必ず揉め事になる。
シオンがサーリャやミランと行動を共にしているのは王より言い渡された奉仕活動のためであり、騎士ではないのでルインが言ったようにシオン一人の場合は騎士としての責務は発生しない。
「さっきからルインは何を言っているのよ。そんな当たり前のことを今ここで確認するようなことじゃないでしょう」
騎士としての役割を確認するためだと言うがどうも釈然としない。どうしてそのことを今ここで確認する必要があるのだろうか。ルインの意図が分からず、どことなく遠回しな言い方に焦れったくなったサーリャは僅かに不機嫌さを滲ませながらルインへ言葉を投げかける。
——結局ルインは何が言いたいのだ。
「つまりだな——任せたぞ?」
ルインが言い終えるのとほぼ同じタイミングで首筋にゾクッと冷たい感覚が走る。
殺気⁉
振り返ったサーリャの目の前に視界を覆い尽くすかのような巨大な火球が迫っている。火球に込められた魔力量を素早く読み取ったサーリャは戦慄した。
(この威力は!)
全力で防がないとまずい。そう判断したサーリャの隣でシオンのひっ迫した声が発せられる。
「フォートレス‼」
シオンから魔力が溢れ出し、瞬時に形を形成してサーリャたちの目の前に壁のように割り込んできた。間一髪のタイミングでシオンの展開した盾が正面から火球を受け止める。盾に衝突した火球はその場で大爆発を起こし、受け止めきれなかった炎が盾の両側に回り込みサーリャたちの後方へと流れていく。
「助かったわシオン」
「……油断はできない。威力が強すぎる」
シオンのこめかみを汗が一筋流れていく姿を見てようやく気がついた。シオンの鉄壁の魔法であるフォートレス。これまでただの一枚も破られたことの無いその盾の一枚にヒビが入っている。それだけで相手の魔法がどれだけ脅威なのか嫌でも理解させられる。
少なくとも人間相手に放つような威力の魔法ではない。
サーリャはシオンを庇うように前へ一歩進み出て険しい目つきで相手を睨む。攻撃が飛んできた先には一人の人物が立っていた。
見た感じ年齢はサーリャとほぼ同じくらい。燃えるような赤い髪をツインテールにまとめた少女で、自身の身長とほぼ同じ長さの杖の先端をこちらに向けて構えており、気の強そうな顔立ちでこちらを睨んできている。少なくともサーリャは少女の顔に覚えはない。
「見たことがないわね。シオン、昔の職場で彼女は見たことある?」
三人の誰かに差し向けられた刺客なのではないか。そう考えたサーリャは視線を外すことなくシオンへと尋ねる。相手のことが少しでもわかればという気持ちだったのだが、シオンからの返答は否定だった。
「……それはない。でも驚き……あの人がここにいるなんて」
「シオン?」
シオンの様子がおかしい。少女を見て何故か戸惑った反応を見せることから裏の人間ではないことは確かで、そのうえで少なからず相手を知っているのだろう。しかし、シオンは戸惑うばかりでそれ以上行動を起こそうとはせずその場で動かないままだ。
相手の正体を知るためにより詳しい説明を求めようとする前によく通る声がサーリャたちへと届いた。
「そこの二人。死にたくなければ大人しくこの場から去りなさい。わたくしはあなたたちの後ろにいる人物に用があります」
「ルインに?」
つまり相手はルインの正体を知っている人物ということになる。王国を追われ、一人静かに暮らしているルインをわざわざ探しているということはつまり——
「一応聞いておくけれど、彼に何の用なのかしら?」
「あなたが知る必要のないことです」
「なら、私たちもこのまま帰るわけにはいかないわね」
話は平行線。ルインを狙っていることからしてこのまま見過ごすことはできないし、なによりもいきなりあれほどの火力を持つ攻撃魔法を撃ち込んでくるような相手を野放しにすることはできない。
「……そう。ならば少し痛い目を見てもらって無理矢理にでも大人しくしてもらいますわ」
話はここまでと言わんばかりに少女の魔力が高まってくるのを感じ取り、サーリャも腰に下げていた剣を鞘から抜き放つ。念のために持ち歩いていて良かった。
「シオン、迎撃するわよ。あなたは前に出ずに私のフォローに回ってちょうだい」
「サーリャ……でも」
「大丈夫よ。どれだけ威力が高くても最低限の守りは私にだってできるわ」
何か言いたげなシオンにサーリャは心配させないようにと余裕があるように言う。鉄壁のフォートレスが破られそうになったのだ。今回ばかりはシオンも確実に守りきれるかどうか不安なのだろう。
しかしサーリャとてこれまでいくつもの戦闘を経験しているので相手の動きはある程度予測できる。無詠唱魔法ならばギリギリまでは対処ができるはずだ。
シオンをその場に残しサーリャは片手に剣を持ち少女へ向かって駆け出した。そんなサーリャを見て少女は嘲るように笑う。
「たった一人突っ込んでくるなんてわたくしも相当舐められたものですわね。後悔しても知りませんわよ!」
素早く詠唱を済ませた少女の持つ杖の先端に一抱えありそうな火球が生み出され、サーリャへと放たれる。サーリャも応戦とばかりに走りながら同じ大きさの火球を数個飛ばす。
サーリャの放った火球は少女の火球にぶつかると一個目は容易く消し飛び、さらに数発命中したところでようやく勢いが落ちて最後は相殺するかのようにかき消えた。
(一発にどれだけの魔力を込めているのよ。明らかに人に向ける威力じゃないでしょう)
同じ大きさの火球をぶつけたはずなのにサーリャの魔法は撃ち負けた。つまりそれだけ込めた魔力量に差があったということになる。
「わたくしの魔法を止めるとはやりますわね。ですがその余裕がいつまで続くのか見せてもらいましょうか」
自身の魔法が消し飛ばされたことに最初は驚きの表情を見せていた少女だったが、すぐに高揚とした表情に変わり次々と火球を作り出してはサーリャへと撃ち込んでいく。
見た限り少女が放っているのはボルク。初歩魔法のはずなのだが、威力が桁違いに跳ね上がっている。詠唱を間に挟むためルインやサーリャほどの連射性はないが、一発一発の威力が高いので油断はできない。
まるで爆撃の中をかいくぐるかのようにサーリャはジグザグに動き回りながら相手との距離を詰めていく。
「ちょこまかと動き回って鬱陶しいですわね。さっさとその辺に転がりなさい」
なかなか魔法が当たらないことに憤りを感じているのか少女は地団駄をし始める中、その間にもサーリャは状況をしっかりと観察する。
(彼女はおそらく後衛から圧倒的な火力で制圧するタイプね。持ち前の火力で相手を近づけさせないことに固執し過ぎている)
サーリャが少しずつ距離を詰めているのに対して少女はサーリャから距離を取ることなくその場に留まり続けて攻撃魔法を展開することに固執し過ぎている。威力も相まって、その姿はまるで意思を持った固定砲台のようだ。
ようやく剣の間合いに入った。すぐさまサーリャは剣を横に一閃するが、すぐさま硬い感触にその動きは途中で止められた。
「わたくしが魔法しか撃てないようなその辺の騎士と一緒にしないでほしいですわね」
サーリャの剣は少女の持つ杖によって阻まれ、至近距離で互いの視線がぶつかる。
少女は剣を押し戻すと慣れた手つきで杖術のように杖をくるりと回転させるとお返しとばかりにサーリャの横っ腹を殴りつけてくる。向かってくる杖をサーリャも剣で受け止め、杖と剣が何度もぶつかり激しい応酬が重ねられる。
相手を無力化するためにサーリャは至近距離で魔法を展開させる。少女は現れた魔方陣に驚愕の表情を浮かべてすぐさまバックステップでサーリャから離れようとする。その前にサーリャの魔法が発動する。
雷撃魔法「ラジエノ」——紫電がまるで蛇のように地面、そして空中から少女へと襲い掛かる。距離を取ろうとした少女は防御魔法を展開する暇すら与えられず、ラジエノが身体へと巻き付いていく。
「このっ!」
構成が雷なため迂闊に掴むことができず、激しく身体を動かすことでラジエノから逃れようともがく少女。
「しばらく痺れていなさい」
ラジエノはそこそこの威力を持つ攻撃魔法だが、サーリャ自身が威力を調整しているので死ぬようなことは無いが、それでもしばらくは全身が痺れて動けなるだけの威力は残してある。
巻き付いたラジエノの先端が蛇の頭のように一瞬獲物に狙いを定め動きを止めた後、少女へと襲い掛かった。
「舐めるんじゃありませんわぁ!」
少女の叫びと共にガラスの割れるような音が響き渡り、巻き付いていたラジエノがまるで吹き消される蝋燭の火のように突然消し飛ばされた。なぜ?魔法の詠唱はしていなかったはずなのに⁉
困惑するサーリャだったが、少女の服の内側から地面へとパラパラと何かが零れ落ちていく。僅かに光を反射することからガラスか宝石の類だ。
おそらく防御系の魔道具か何かを持っており、それが発動したのだろう。
(ルインが目的ならそれぐらいの対策はしているのね。でも数には限りがあるはず)
さすがに至近距離で自身を巻き込んだ魔法を撃つようなことは今のところしてこない。威力が高すぎるが故に近距離では使いにくいのかもしれないし、魔法よりも杖で殴った方が早いと判断しているからなのかもしれない。
そんなサーリャの思考を読んだのか少女が突如ニヤリと小さく笑う。
「終幕は唐突に。優雅に派手に——燃え上がれ!」
まるで演者が舞台幕を下ろすかのように杖を持っていない少女の左腕が大きく振られ、その動きに合わせてこちらに向かって扇状に炎が大きな幕のように広がり頭上から迫ってきた。
「くっ」
サーリャは頭上から迫ってくる炎の範囲から逃れようと少女から離れるようにその場から離れようと駆け出す。しかし炎の範囲が広すぎてこのままでは範囲から出るよりも先に炎の幕がサーリャを包み込んでしまう。
サーリャは走りながら自分のすぐ傍に大きな水の塊を生み出す。自分の上半身がすっぽりと入ってしまいそうなほどの水がふわふわと浮かぶ中、サーリャはその水を自身が走る先——炎の終端に向けて勢いよく撃ち出した。
炎とぶつかることで水が瞬時に蒸気へと変わり周囲を白く染め上げていくが、水が接触した部分の落下速度が僅かに遅くなった。サーリャはその場所にためらいも無く身を投げ出した。
ゴロゴロとサーリャが転がる背後で炎が地面へと覆いかぶさり、その下にあった緑あふれる平原が黒い焼け野原へと変わってしまった。
距離を取るのは危険すぎる。素早く立ち上がり再び距離を詰めようとしたところで再び少女の身体から魔力が溢れ始めた。しかし先程とは違って少女の魔力は周囲に漂うことなく足元の地面へと吸い込まれていく。
「シオン、私が合図したらフォートレスを一枚私の足元にお願い!」
「っ。わかった」
「何を考えているのか知りませんが、これで終幕ですわ」
少女は大きく振りかぶると、持っていた杖を地面へ突き立てるために力を込めて振り下ろす。
杖の先が地面に触れる直前でサーリャは合図を出すのと少女の言葉が重なった。
「大地の葬送花!」
「今!」
杖が地面へと突き立てられ、静寂は一瞬。
次の瞬間には地面が無数の槍へと変化し、範囲内にいる全ての存在を容赦なく下から串刺しにする。先程まで平地だった場所が今は完全に様変わりしてしまい、まるで針山のような光景が広がっている。
「さすがに少々やり過ぎてしまいましたわね」
少女は目の前に広がる惨状を見渡しながら独りごちる。しかし言葉とは裏腹に少女の表情には反省の色は微塵も感じられない。
確かにやり過ぎだった感は否めないが、それでも相手は自分の魔法を止めるほどの力を持っていたのだ。生半可な対応をすればやられていたのはこちらだ。
止めるためとはいえ随分威力の高い魔法を使ってしまったが、あれほどの実力者なら死ぬことは無いだろうが少なくとも重症で動けなくなっているだろう。
僅かに顔を顰めながら服に付いた土埃を払いながらゆっくりとした足取りで歩みを進める。
「とりあえず一人はこれで退場ですわね。あとはもう一人を——」
「勝手に終わらせないでくれるかしら?」
「っ⁉」
力のある凛とした声に少女は驚愕し、周囲を見渡す。針山の上にも魔法が及ばなかった平原にも相手の姿はない。
だからこそ気づくのが遅れてしまった。方向は上——見上げた少女の瞳に遥か高い場所からこちらに向かって剣を振りかぶりながら落ちてくるサーリャが映るのだった。
落下の浮遊感を全身で感じながらサーリャは眼下で驚きの表情を隠せないでいる少女の反応に思わず笑みを浮かべずにはいられなかった。
サーリャを串刺しにするはずだった攻撃魔法。それが発動する前にサーリャは合図によって自身の元へと移動してきたフォートレスを足場にし、風魔法を使って大きく飛び上がったのだった。大きく飛び上がったことで足元から迫りくる攻撃魔法の効果範囲から逃れることができ、こちらが攻撃に巻き込まれたと誤認させることができたので効果は十分だ。
「わたくしの魔法を避けただけで何を粋がっているのですか!」
少女は杖を構え直してその先端をサーリャへ向け詠唱を開始する。詠唱が進むにつれて杖の先に巨大な火球が徐々に形成されていくのが見えた。
少女の言う通り、避けただけで現状は何も変わっていない。だからこそサーリャも次の行動を起こす。剣に纏わせている魔力の量を増やし、より強固・鋭さを底上げしていく。
二人とも攻撃する態勢に入っている中、お互いに相手の攻撃を避ける意思はない。どちらも自分の攻撃が先に出ると確信して次の攻撃にすべてを賭けている。だからこそお互いから勝利を確信した同じ言葉が放たれた。
「「終わりよ‼」」
サーリャの剣戟と少女の火球が同時に放たれる。そして——
「双方そこまで!」
その後に待っていた決着。しかし突如として割り込んできた存在によって遮られた。振り抜こうとしていたサーリャの剣は少女を守るように掲げられたものとぶつかり、金属の音を響かせながらその動きが止まってしまった。
余計な邪魔を!苛立ちと困惑が入り混じった感情のまま突如として割り込んできた存在に目を向けたサーリャは驚きの声を上げた。
「ミラン様⁉」
騎士服に身を包み、完全武装したミランが自分の盾を掲げてサーリャと剣を防いでいた。ミランがどうしてこの少女を庇うのか。
しかし攻撃を阻まれたのはサーリャだけではない。少女が撃ち出そうとした火球は弾丸のように飛んできた攻撃魔法で正確に撃ち抜かれて消し飛んでしまった。背後を振り返ればルインがやるべきことをやり終えたかのように伸ばしていた腕を下ろしている姿が映った。
ミランだけでなくルインまでもが介入する状況に今度こそサーリャは混乱し始める。
サーリャの剣を受け止めたミランは安堵したように一息つき盾を下ろすと今度はサーリャに背を向けて少女へと向き直った。
「姫様、突然姿をくらませたと思ったらこんなところで何をしているのですか!危ないことはお止めください」
「黙りなさい。危険のない戦いなどあるはずないでしょう。わたくしはその程度のことなど覚悟の上です。なにより、あなたからそのようなことを言われる筋合いなどありませんわ」
ピシャリとミランを黙らせた少女はこちらに向かって歩いてくる。おもわず身構えるサーリャだったが、少女はサーリャを軽くひと睨みするだけで、そのまま横を通り過ぎ背後にいるルインの目の前で立ち止まった。
「やっと……やっとお会いすることができましたわ」
肩を震わせる少女の背中越しにかすかな声が聞こえてくると、少女は大きく腕を広げながらルインの胸へと飛び込んだ。
「信じておりましたわ。師匠はきっと生きていらっしゃると。今、こうして触れられることがなによりの証拠ですわ!」
震え声から泣き声に変わり、まるで確かめるかのように力強くルインを抱きしめる少女は顔をルインの胸に埋めたまま離れようとしない。抱きしめられているルインは抱きしめ返すようなこともせず、されるがままになっているが拒絶はしていない。
先程まで命のやり取りをしていた相手が目の前でルインを抱きしめている光景は衝撃的だが、それよりもサーリャは気になることがある。……姫様?
ミランに事情を聞こうと口を開こうとするが、その前に少女が埋めていた顔を離してサーリャへと振り返った。赤くなった目元でビシッとサーリャを指さしてくる。
そしてまたしても爆弾級の情報をサーリャへと投下した。
「あなた!先程から見ていれば何故当たり前のように師匠の隣で楽しそうにいるのですか。わたくしの未来の夫であるこの方に近づかないでくださいな」
その場の時間が止まったような気がした。
オット……夫。誰が……誰の?
こちらを変わらず睨みつけながらもルインから離れようとせず、ルインの腕を自身の胸に抱き寄せて離れようとしない少女とされるがままになっているルイン。
何度も何度も交互に二人を見比べ理解がようやく追いついてくると、くわっと目を見開いた。
「夫ぉぉぉぉぉぉぉぉぉ⁉」
サーリャの叫びが周囲へと響き渡るのだった。
「ここが師匠の家なのですね。王都の騒がしい所とは違って落ち着いた雰囲気で師匠にピッタリですわ!」
「何を興奮しているのか知らんが、勝手に歩き回って部屋に入ったりするなよ」
「わかっておりますわ。そんなはしたない真似をわたくしはするつもりはありませんわ」
キラキラとした目で周囲を見渡す少女に釘を刺すルイン。
とりあえずお互いの説明が必要だということでサーリャたちは場所を移すことになったのだが、周囲に安易に聞かせられないということでなぜかルインの家が選ばれてしまった。今回はサーリャやミランだけでなくあの平原にいる全員がついて来ているので、今回はシオンも一緒だ。シオンも初めて訪れるルインの家に興味があるのか、少女ほどではないにしても周囲に興味を示している。
サーリャが飲み物を用意してリビングへ戻ってくると各々がソファーへと腰を下ろす。サーリャ・ミラン・シオンの三人が大きなソファーに並んで座る中、少女はさも当たり前かのようにルインの隣——二つ並べられた一人掛けのソファーに腰を下ろした。
「まず初めにお二人の紹介をしておきます。彼女はサーリャ・ブロリアス。今年なったばかりの新人騎士で今は私の部隊に所属しています。そしてこちらがシオン。彼女は事情により私の部隊に所属しておりますが、騎士ではなくあくまでも一般人という扱いになります」
初めにミランがサーリャとシオンの二人を少女に紹介し、二人は軽く頭を下げることで挨拶をする。
「二人とも。こちらの方は——」
「待ちなさい。ここからはわたくしが話しますわ」
続いてミランが少女を紹介しようとしたところでその少女から待ったがかかる。人に命令することに慣れた凛とした声だ。
「わたくしはルイリアス王国第一王女、マリアナ・ヘルオンスですわ。どうぞお見知りおきを」
「お、王女殿下⁉そうとは知らず数々の無礼失礼しました!」
ミランの対応からそこそこ身分の高い相手なのだというのは想像がついていたが、まさかの王族。サーリャは真っ青になりながらも慌ててソファーから飛び降り片膝をついて臣下の礼をとる。王族にぞんざいな言葉をかけただけでなく、剣を向けて命のやり取りをしたなど許されることではない。
「なんだ。サーリャはマリアナの正体を知ったうえで戦っていたのではなかったのか?相手が王族であろうとも立ち塞がるのであれば容赦しないというその姿勢に俺は感心したのだがな」
「ルインじゃないんだからそんなことはしないわよ!王女殿下だと知っていればすぐにでも道は譲っていたわ」
少し残念そうなルインにサーリャは即座に噛みつく。ルインは私のことを何だと思っているのだ。
「だがシオンはマリアナの正体に気づいていたぞ」
「そんな⁉」
嘘でしょう⁉信じられないといった表情で振り返ったサーリャにシオンは静かに頷く。
「本当。前の職場で姿絵だけど見せられたことがあるからよく覚えている。だからサーリャが戦うと言った時には本当に驚いた……何でサーリャが知らないの?」
「うぐっ……」
嫌味ではなく純粋なシオンの問いにサーリャは雷に打たれたかのような衝撃を受け、思わず床に両手をついた。
サーリャとて貴族の一人だ。王族への忠誠を持っていないわけではないし、遠目ではあるが王族を目にする機会は何度かあったが、その中にマリアナがいた記憶はない。
そう考えるとサーリャの反応はある意味当然と言えば当然なのだが、自分より幼いシオンが知っていて自分が知らなかったその事実にサーリャは大きなダメージを受けてしまう。
「仕方ありませんわ。幼い頃のわたくしは人前に出ることが難しかったですし、ここ数年は王都から離れていましたもの。——それより、師匠はどうしてそんな他人行儀ですの。わたくしのことは昔のようにマリーと呼んでくださいまし」
「いや、他人だろう」
ルインへの好意を隠そうともしないマリアナとそんな彼女を当たり前のように呼び捨てにするルインに目を丸くしながらもサーリャは恐る恐る手を挙げた。
「恐れながらマリアナ王女殿下。いくつかご質問させていただいてよろしいでしょうか?」
「許します。それと王女殿下などと長ったらしい呼び方は不要です。周囲の目がある場では仕方ありませんが、今この場にいる者たちだけならば必要ありませんわ」
「それではマリアナ王女——」
「王女も不要ですわ」
「え?いえ、しかし……」
いくらなんでもそれは失礼過ぎるのではないだろうか。しかしマリアナの対応は変わらない。
「不要ですわ」
「えっと……マリアナ様?」
「まぁ、それで許すとしましょう」
納得したマリアナを前にサーリャは心の中でホッと胸を撫で下ろした。まさか王族を身近な人のように呼ばなければならないなど誰が予想できるだろうか。
「マリアナ様はルインとどのような関係なのですか?それにミラン様が護衛をされていましたが、他の付き人はいらっしゃらないのでしょうか」
相手は一国の王女。護衛にはそれなりの人数を割くはずなのだが、あの平原で現れたのは結局ミランだけで他の護衛をサーリャは見ていない。ミランと合流した時点で城に戻ったのだろうか。
「まず先に後者の質問に答えてさしあげますわ。サーリャ、あなたも貴族の一人でありますが、戦場で身の回りのことを他人に任せなければ何もできないのですか?そのような者など足手まとい——いえ、邪魔にしかなりませんわ。そのような存在になるなどわたくしが許しませんわ」
「な、なるほど」
マリアナの言っていることは正しい。正しいことではあるのだが、まさかそんな言葉が王女の口から出てくるとは思わなかった。本当に目の前にいる人物は王女なのだろうか。
そんなサーリャの心情を察したのかミランがすかさず補足を入れてくる。
「サーリャ、言っておくけれど姫様が特殊なだけで王族全員が同じ価値観を持っているわけではないわ。むしろサーリャと同じ認識を持つ貴族の方が一般的よ。姫様は騎士としての教育を受けることになったのだけど、その教育係を引き受けたのがルインなのよ」
「あ、それなら納得できますね」
マリアナの言動や価値観がどことなく似ているなと思っていたが、どうやら勘違いではなくルインが原因らしい。
そうなるとますますルインがどういう経緯で王族の指導役に抜擢されたのかが気になる。こういうのは王族お抱えの指導役がいるのではないだろうか。
「マリアナは他と違って特殊な事情を抱えていたからな。城にいる指導役では手に余るということで俺にその役が回って来たんだ」
「特殊な事情?」
ルインはマリアナへと視線を向け「いいのか?」と確認をとり、マリアナもそれに頷くことで答える。
ここからはマリアナ自身の問題に踏み込むことになる。自然とサーリャは背筋を伸ばして居住まいを正す。
「マリアナは体内で生成される魔力純度が高く、魔法を行使すれば通常とは比べ物にならないほどの効果を発揮してしまうんだ。つまり個人レベルでこの土地と似たような効果を常時発揮しているということになる。下手に魔法を使えば本人にその気がなくても周囲を吹き飛ばす可能性を持っているということだな」
つまりマリアナとの戦闘で見せたあのでたらめな魔法の威力は彼女の持つ能力故の影響なのだろう。ならばあの規格外すぎる威力も納得できる。
そしてあの戦闘でシオンのフォートレスにヒビが入ったのはマリアナの魔力が強すぎたからというわけではなく、シオンの盾がその変化に対応できなかった影響らしい。
相手の魔力量を感知して込められた魔力の強さに合わせて盾の強度を自動調節するフォートレス。しかし鉄壁とも言える盾にも弱点があったらしい。
フォートレスを展開させておくには当然だが継続的に魔力を供給させておかなければならない。しかし、幼いシオンの保有魔力だけでは当然だが長時間展開させ続けることは難しい。ましてやそれが四枚となれば一瞬で魔力が尽きてしまう。
だからこそフォートレスは術者が魔力切れで倒れないために盾自身が周囲から魔力を吸い上げる効果を持っているらしい。
普段の戦闘であるならば問題はなかったのだが、今回はマリアナという特異点が相手だったのとフォートレスが展開するまでの時間的余裕が少なかったのが影響してしまった。
マリアナの攻撃魔法を耐えきるだけの魔力を周囲から吸い上げきれないまま受け止めてしまったことでヒビが入ったという結果に繋がったというわけだ。
「その体質?はマリアナ様だけに起こっていることなの?」
「いや。調べてみてわかったことだが、どうやら過去に似たような体質を持つ者は王族の中に何人かいたらしい。おそらく血筋の中に突出して魔力が高い奴がいたんだろうな。それが代を重ねていく中で変質し、先祖返りという形で発現したんだと俺は考えている」
「なるほど」
王国全ての貴族がそうだとは言わないが、血筋を重要視する者は一定数いる。より優れた血筋と交わることで自分の存在に箔を付け、価値を高めて武器にする。
政略結婚が当たり前の貴族社会だが、王族ともなればその思想は強かったのだろう。まさかその結果、子孫たちにそんな影響が出るなど当時の者たちは誰も予想できなかっただろう。
魔法が日常生活で当たり前のように使われている現代でこの環境はマリアナには危険過ぎた。
周囲の魔法に影響を受け、何がきっかけで魔法が暴発するかわからないのでマリアナや周囲の人間に危険が及ばないように幼いマリアナは王城に用意された部屋に半ば軟禁するような形で毎日を過ごす日々だったらしい。
しかしいつまでもその状態を続けるわけにもいかず、王城関係者が頭を悩ませていた時に白羽の矢が立ったのがルインだったらしい。まぁルインならば多少の危険があっても無詠唱で対応できるからという判断だったのだろう。
ルインの説明はかなりざっくりとしていたが、気軽に外へ出ることが叶わなかった当時のマリアナは相当荒れていたらしい。
「あの時のマリアナは相当だったな。初めてサーリャと会った時の騒がしさとは比べ物にならなかったぞ。挙句の果てには自分を『王族扱いするな。そこらの人間と同じように扱ってみろ』と言い出す始末だからな」
「わ、忘れてください!あの時のわたくしは何も知らない子供だったんです」
「だからと言って城の外で寝泊まりしたことの無い姫様をいきなり廃墟の床で寝させるのはいくら私でも真似できないわよルイン」
恥ずかしさで顔を覆うマリアナとそんな彼女に同情するミランの反応から当時ルインがどんな教育をしていたのかが嫌でも察せられる。
……いくら何でもやり過ぎでしょ。
いくら本人が望んだこととはいえ、王族をそこまで雑に扱えるのはルインぐらいなものだろう。その間に恥ずかしさで沈んでしまっていたマリアナが浮上してきた。
「同じことを師匠以外にも言ってはいましたが、他の者は言葉では対等と言っておきながらどこか遠慮があって少し距離が遠かったですわ。そんな中でもわたくしを王女としてではなくただのマリアナとして見てくれる人は師匠しかおりませんでしたわ。だからこそ感じたのですわ!わたくしの夫となるのはこの方だと!」
話しながら熱を帯び始めたマリアナは頬をわずかに赤く染めながらルインの腕を抱き寄せる。
「わたくしの想いはあの時から変わってはいませんわ。いえ、こうしてお会いできたことでその想いはさらに強くなりましたわ。師匠が受け入れてくださるなら今からでも結婚の手続きを準備いたしますわ」
「やめろ。面倒ごとに巻き込まれるなんて御免だ。なにより周囲がそんなことを簡単に許すわけがないだろう」
「問題ありません。恋に障害はつきものです。どれだけ時間がかかっても認めさせてみせますわ!」
頑として聞き入れないマリアナに呆れながらルインはサーリャとして聞き捨てならない言葉を口にした。
「なんだかんだで二人は似た者同士だな」
「はぁ⁉ちょっとそれはどういうことよルイン」
「そうですわ!この女と同類扱いされるのは納得できませんわ。わたくしとどこが同じですの」
「自覚なしか……ならば教えてやる」
異議ありとほぼ同時に腰を浮かせて抗議する二人にルインは呆れ顔になりながらまずサーリャを指さす。
「まずサーリャ。当時のお前は騎士ですらない学生で単独での行動にもかかわらず周囲へ気を配ることを怠り、勢いのまま森中を動き回って大規模な連鎖暴走トレインを引き起こした愚か者だ。剣の腕があるかどうか以前の問題だ」
「はぅ!」
痛い所を突かれ思わずサーリャは胸を押さえる。そんなサーリャをそのままに、向けられていた矛先が次へと移る。
「次にマリアナ。お前は『王族扱いするな』『周囲と同じ扱いにしろ』と騒いだにもかかわらず、泊りがけの依頼で食事の際にシェフを呼べなどとどういう感性をしているんだ。言葉と行動が全く合っていない滅茶苦茶な振舞いだ」
「あぅ!」
こちらもサーリャと同じくダメージを受けて大きく仰け反る。
マリアナの暴露内容も大概だが、それ以上に自分の失態暴露をされたのが恥ずかしい。穴があったら入りたい気分だ。そんなサーリャを慰めるかのようにシオンが優しげに肩に手を置いたのが余計に心にくる。
「これで互いの顔合わせは終わっただろう。あとはそっちで勝手にやっていろ。俺はしばらくここを離れる」
「ルインどこかに出かけるの?」
「まぁ、そうだな。少しな……」
「?」
少し言いよどむルインの反応にサーリャは首を傾げるのだった。
ルイリアス王国王城。その一つに割り当てられた自分の部屋に帰ってきたマリアナはベッドに大きくダイブしながら枕に顔を埋めた。しばらく何も言わずにうつ伏せになっていたマリアナだったが、わずかに身体を震わせ始める
「ふふふ」
枕に顔を埋めたまま堪えきれない感情が声となって漏れ出す。嬉しさが徐々に大きくなり、パタパタと足を動かす。
「ようやく、ようやく師匠を見つけることができましたわ」
時間が空いても忘れることはない。自分よりも大きな彼の身体を抱きしめた時の感触。彼の匂い。数年前に別れた時と何一つ変わっていない。
彼が生きている。直接触れ、話すことのできる今がどれだけ幸せなことか。ゴロゴロとベッドの上で転がっていたマリアナは枕から顔を離し、壁へと視線を向けた。
壁には使い古された一本の杖と折れた生き物の角が掛けられている。あの杖は初めてルインと出会った時に使っていた杖で、角は自分が初めて討伐した魔獣の記念として持ち帰ったものだ。
彼と出会うまでの自分の生活はあまりにも狭く、自由でありながら不自由な毎日だった。そんな世界を一気に広げるきっかけをくれたルインはまさに白馬の王子様と言っても過言ではない。そんな彼に対して恋心を抱くのは自然なことだ。
彼ならば自分のすべてを捧げてもいい。王族というフィルターを通してではなく一個人として接してくれるルインは生涯の伴侶としてふさわしく思える。だからこそ、今の状況に一つだけ不満がある。
(あのサーリャという女性は気に入りませんわね)
自分の知らぬところで彼と親密な関係になっているという事実はマリアナからすれば当然見過ごすことはできない。報告も兼ねて王城に戻って来はしたが、このままだといろいろと理由をつけて自分を王城内に引き留めようと父であるあの男は動くだろう。
(わたくしはそう簡単に従うつもりはありませんわよ)
マリアナは勢いよく起き上がると、部屋に備え付けられてあるハンドベルを鳴らして侍女を呼んだ。
「わたくしが処理しなければならない仕事をすべて持って来なさい」
穏やかな日差しが降り注ぐ中、一台の馬車が川の傍で停車している。それまで馬車を引いていた馬は川で水を飲んで疲れを癒している。広いとは言い難い荷台の中からルインの声が漏れ聞こえていた。
「つまりフォートレスと感覚の一部を共有させるんだ。ほとんどの制御はオートで行われるだろうが、周囲の状況把握は決して疎かにするな。最初は流れてくる情報の波に苦しむかもしれないが、時間をかければシオンなら適応できるはずだ」
「わかった。他には?」
「そうだな……」
自身の背後から聞こえる二人の会話を聞きながらミランは御者台に座りながら束の間の休息を取っていた。数か月前まで戦場から戦場へと移動ばかりを繰り返していた毎日から考えれば、戦うことを考えず穏やかに過ごせるこの時間はミランにとっては貴重だ。
そんなことを考えていたミランだったが、背後の幌が開いてルインが荷台からミランの隣へと移動してきた。
「……ルイン本当に大丈夫なの?」
「問題ないだろう。聞こえていたと思うが慣れるまでが辛いだけで、ものにできればあいつの助けになるだろう」
「いえ、そうじゃなくて。私が気にしているのは、あっちなのだけど……」
そう言ってミランはある方向を指さしたのだった。
「だから何度言わせるのですか!私が巻き込まれるような範囲攻撃魔法は使わないでくださいと言いましたよね。マリアナ様は味方ごと吹き飛ばすおつもりですか⁉」
「無事だから何の問題もないでしょう。一体ずつ処理するよりもこっちの方が一気に数を減らせるのだから効率がいいでしょう。あなたこそ討ち漏らしが多いのですからわたくしに余計な手間をかけさせないでくださいな」
「なんですって!」
「なによ!」
ミランが指さす先ではサーリャとマリアナがお互い怒鳴り合っており、ヒートアップしている。あまりの剣幕具合に互いの距離がかなり近く、放っておけばそのまま掴み合いになるのではと思うほどだ。
ルインが少しばかり家を離れると言ったその日、当たり前のようにマリアナはルインに同行すると言い出し、ミランがしばらく王城で過ごすようにと長い時間をかけて説得していたがすべて無駄に終わった。一度は王城に戻ったマリアナだったが、なんと部屋にあったロープをベランダに括り付けて抜け出してきたらしい。
ルインがいるとはいえ流石に王女だけで行動させるわけにはいかないので、結局はミランたちが同行するという流れになって今に至る。
同行に難色を示していたルインだったが、マリアナが離れようとしないので同行する際にある条件を出した。
「いくらなんでもあの二人に連携なんてできるわけないじゃない。戦闘スタイルは違うけど、どっちも自分から仕掛けるバリバリのアタッカーよ?どう考えても喧嘩になるのは分かりきっていたじゃない」
ミランの心配とは裏腹にルインの反応は実にあっさりしたものだ。
「だからこそだ。どちらも火力としては申し分ないが、結局は自身の強みを活かして力でごり押ししているだけだ。事情があったとはいえ二人ともこれまで一人ですべてをこなしてきたから特に目立っていなかっただけだろう。いつまでも一人で戦えるわけじゃないからこの辺りで連携を学んでもいいだろう」
「それでも相性は最悪みたいね」
最初こそマリアナに遠慮していたサーリャだったが、何度も二人で戦場に出ていると彼女の性格に慣れてきたのか次第に思ったことを言えるようになってきて、本気で喧嘩ができるほどにお互いの間にあった壁が無くなって今に至る。
無詠唱魔法が使えながら剣による近接戦闘を主体にした乱戦に強いサーリャと自身の特異体質を最大限に利用し、遠距離からド派手な広範囲魔法による殲滅戦を好むマリアナ。……あまりにも合わなさすぎる。
「どうせ二人ともそこら辺の騎士とは組めないんだ。だったら訳あり者同士でうまくやってもらうしかないだろ」
「……前途多難ね」
頭を抱えるミランに気づかず、しばらくの間二人は激しい舌戦を繰り広げるのだった。
馬車に揺られてのんびりと目的地へ進むこと数日。時折遭遇する魔獣を撃退しながら進んでいく馬車の周囲はいつの間にか広い平野から滅多に人が通らなさそうな細道へと場所を移し、大森林と似たような景色へと変えていた。
目的地までもうすぐだと言うルインへサーリャはこれまでずっと聞きそびれていたことを思い出した。
「そういえばここまでついて来ておいて今更なんだけど、ルインの目的っていったい何なの?」
「本当に今更だな。普通はもう少し早めに聞いてくるものだろ」
「いろいろあって聞きそびれていたのよ。この感じだと何かを買いに行くわけじゃなさそうだから、誰かに会うつもりなの?」
「……まぁそうだな」
外の景色を眺めるルインは表情を変えることなくただ短く返す。その言葉にそれまで黙って話を聞いていたマリアナやシオンたちも興味を惹かれて耳を傾ける。
引きこもりなルインがわざわざ馬車で数日かけてでも会うような人物。相手はどんな人なのだろうと想像していたサーリャだったが、ルインが口にしたのは予想にもしない人物だった。
「少し姉に会いに行くだけだ」
「「お姉さん⁉(ですって⁉)」」
驚きの声がサーリャだけでなくマリアナからも上がった。突然の大声に驚いた馬をミランが必死に宥めている姿にサーリャは申し訳なさそうに謝罪しながらも、今気になるのはルインが口にした内容だ。
「ルインってお姉さんがいたの?」
「お義姉さまがいらっしゃるなんてわたくし初耳ですわよ」
顔は見えないが御者台にいるミランの声からして彼女も驚きを隠せないでいるのがありありとわかる。
どうやらミランだけでなくマリアナもルインに姉がいることを知らなかったらしい。二人とも驚きを隠せないでおり、マリアナに関しては詳しく聞かせろと言わんばかりにルインに詰め寄っている。
サーリャもこの話には驚きを隠せない。ルインと出会ってからこれまで何度もルインの家に泊まっていたサーリャだが、これまで家族に関する話はその片鱗すら聞いたことも無い。てっきり一人っ子だと思っていた。
「まぁ話すことではないからな。……会うのも一年に一度くらいと滅多に会っているわけじゃない」
「それでも毎年会っているなんてルインにしてはマメな所があるじゃない」
「そういえばルインって騎士の時から毎年何日かまとまった休みを出していたわね。あれってお姉さんに会う為だったのね」
御者台からミランが思い出したかのように呟く。一年に一度とはいえわざわざ何日もかけて姉に会いに行く時間を作っているとはサーリャからすればルインは意外にも姉想いなのだと感心する。
家族だからいつでも会えると思って何年も会わないような人もいるが、ルインはそんなことは無いようだ。
馬車一台がギリギリ通れるぐらいの細い道をルインの指示で進んでいくとやがて開けた空間に出た。陽の光が遮られていた森の中から突如として眩しいほどの光が馬車を照らす。光の先に現れた光景にルインを除いた全員が感嘆の声を漏らした。
開けた場所の中央には大きな湖があり、その周囲は手入れの行き届いた土地が広がっている。陽の光が降り注いでいる湖面はキラキラと輝いており、まるでおとぎ話の中にいるかのような神秘的な光景だ。
そんな綺麗な湖の近くには周囲の景色に溶け込むかのような小さな家がひっそりと建っている。
「こんな綺麗な所があるなんて知らなかったわ」
「シオンもこの場所が好き。子供たちと一日のんびりと過ごしてみたい」
「幻想的な光景ですわね。王国でもこれに匹敵するような場所なんてこれまで見たことがありませんわ。このような所に住めるお義姉さまが羨ましいです。わたくしも同じような場所が欲しいくらいですわ」
馬車から降りるとミランたちは周囲を見渡しながらくるくると見る位置を変えては興奮したようにはしゃいでいる。
「こんな場所を一人で管理するなんて大変じゃない?」
「そんなことは無い。全てとは言わないがここも保存魔法をある程度かけてある。何年も放置しているならともかく、一年ぐらいならそこまで荒れたりしない」
どうやらこの景色を維持するためにルインはそこそこ手を加えているらしい。ルインのこれまで培ってきた魔法の知識を最大限に取り入れた結果なのだろう。
全員がしばらくその場で景色を堪能すると馬車を適当な所に繋いで次の目的地へとルインが歩き出す。先導するかのように少し先をルインが歩く中、その後ろをついて行きながらサーリャたちは思い思いの感想を口にしながら賑やかに話を続ける。
「まさかお義姉さまにお会いできるなんて予想外ですわ。将来家族となるのですから、こんなことならドレスの一着でも持ってくれば良かったですわ」
「いえ、まだルインは結婚するとは言っていませんよ。姫様だけで勝手に話を進めると後で陛下が何と仰られるか……」
「あんなクソ親父の言うことなんて知りませんわ」
「クソ親父って……」
マリアナに突っ込みを入れながらもサーリャは自分が思っている以上に浮かれていることに気がついていた。
(ルインのお姉さんってどんな人なのかしら)
マリアナ程では無いにしてもサーリャはさりげなく自分の身だしなみを確認する。これまでいろいろあったが、ルインには感謝しても感謝しきれないぐらい世話になっている。ルインの家族にもサーリャは感謝を伝えておきたい。
鳥のさえずりを聞きながらサーリャたちは期待を膨らませながらルインの後をついて行くのだった。
ルインの案内する場所は湖畔からそれほど離れていない場所だった。湖全体が見渡せることのできる緩やかな丘の頂上にそれはあった。
簡素ではあるが小さなテーブルと椅子の用意された東屋が建っており、そのすぐ近くにはサーリャがこれまで見たことも無いような花畑が広がっていた。花畑には色とりどりの花が植えられており、色も品種もすべてがバラバラで、まるで世界中の花が一カ所で咲き乱れているかのようだ。丘の上を風が駆け抜け、花の香りと色とりどりの花弁が風に乗って舞い上がる。
「……久しぶりだな姉さん。今年もうまく花が咲いて安心したぞ。前に持ってきた花は環境の変化に弱いと聞いていたから咲くかどうか心配だったんだ」
ルインは穏やかな口調で話し続ける。
「土産になるかどうかわからんがワインを持ってきたぞ——って言っても俺は酒があまり強くないからかなり弱めのやつだな。あと、今年は俺だけじゃないから少し騒がしいのは勘弁してくれ」
少し前にルインが王都で購入していたワインと花束を虚空から取り出すと、ゆっくりとそれらを置いた。穏やかな風でルインの黒髪がなびく。
しばらく花束を見つめていたルインだったが、用が済んだとばかりにサーリャたちへと振り返った。振り返ったルインはサーリャたちのいる場所に気がつき、おかしそうに微笑する。
「そんなところで何を突っ立っているんだ。早くこっちに来い」
色鮮やかな花に囲まれながらたった一人で立っているルインは穏やかな口調でサーリャたちへと声をかけた。
サーリャたちは花畑から離れた位置で立ち止まっていた。特に誰が最初というわけでもなく、誰もが自然と歩みを止めてしまっていた。先程までの賑やかさは完全になりを潜め、今は誰もがどうルインと接すればいいのかわからず、ただ立ち尽くすことしかできないでいる。
「どうした。そんな所には何も無いぞ」
「あの……えっと……その……」
ルインの態度は変わらない。変わらないどころか普段よりも少し優しげな反応にどう返せばいいのかわからず、でも何か言わなければという感情が前へ出てきてしまって言葉にならない声がサーリャの口から漏れる。
サーリャだけでない。ミランや騒がしかったマリアナもどう声をかければいいのかわからずその場で立ち尽くすしかできないでいる。
「ほら、さっさとこっちへ来い」
「……いいの?」
「そんなに離れていたら大声で話さないといけないだろう。俺が疲れるからこっちへ来てくれると助かるんだがな」
そこまで言われてしまえば行かないわけにはいかない。気後れしながらもルインの言葉に後押しされるようにゆっくりとサーリャたちはルインのいる場所へと移動する。花畑の中に決して足を踏み入れないギリギリの場所まで近づくとルインは背後を振り返った。
振り返ったその先——花畑の中心には一つの石碑が鎮座していた。
石碑は決して大きいわけでもなく豪華でもない。何も刻まれていない磨かれた石がただ立っているだけだ。それでもそれが何を意味しているのか分からないほど、ここにいる者たちはバカではない。
「……姉のルミアだ」
「ルイン……ごめんなさい。私……こんなことだと知らなくて」
「わたくしも謝罪しますわ。師匠の気持ちも考えずに無神経に騒いでしまいましたわ」
ルインからすればこの場所は誰にも踏み込んでほしくはない大切な場所だったはず。そんな場所に無遠慮に土足で踏み込んだのだ。知らなかったとはいえ許されることではない。
ルインに対する申し訳なさで沈痛な表情を浮かべるサーリャたちとは裏腹にルインは優しげな表情を崩さない。しかしその表情の裏に悲しさが見えたような気がして、よりサーリャの胸を締め付ける。
「お前たちが気にするようなことじゃない。ここに連れて来ると判断したのは俺だから普段通りにしてくれればいい。それにそろそろ俺一人で手入れをするには些か広くなりすぎたからな、少し人手が欲しかったのもある」
ルインは磨かれた石の縁をゆっくりと優しく撫でる。
「さて——どこから話そうか」
ルインとルミアはどこにでも存在する村で暮らしているありふれた姉弟だった。早くに両親を亡くしてしまったが、唯一残された家族が互いにいることで寂しさを感じることは無かった。
二人はどこに行くにしても何をするにしても一緒で、仲の良い二人の姿は村の中では特に珍しくもない光景になっており、周囲の者たちもそんな二人を温かい目で見守っていた。
幼い二人では村の外で狩りや採取はできないため村の者たちに交じって農作業を手伝い、それらを売ることで生計を立て、ルインもそんな生活に特に不満を感じることなく姉との生活を満喫していた。
二人をまるで孫のように可愛がっていた村長はルインたちが成長するにつれて様々なことを教え始め、街へ作物を売りに行くのにも二人を同行させるようになった。将来二人だけでも生きていけるようにと村長が考えた結果だ。
基本的に村長がやり取りしているのをルインたちは後ろで見ているだけだったが、ルミアは元々興味があったのか隣で熱心に聞き入っていたのをルインははっきりと覚えている。
農作業をしながら時折街に出ては知識と経験を積んでいく。覚えることが膨大で大変な日々ではあったが充実した毎日を送っていた。
——あの日を迎えるまでは。
「村長、今回もたくさん収穫できたね!」
「そうだのぉ。これだけあればかなりの額になるじゃろうなぁ。不安はあったが思い切って畑を広げて正解じゃったな」
「もう、広げるのはいいけど村長はいっきに広げ過ぎなのよ。畑を耕すのも収穫するのも大変で腰が痛いってラトのおばあちゃんが言っていたわよ……るーちゃんは大丈夫?何かあったらすぐにお姉ちゃんに言うのよ」
「僕は大丈夫だけどさすがに量が多すぎるよ。馬車に全部積むのに何回往復したのかわからないよ」
御者台に三人並んで座りながら雑談に花を咲かせる中、ルインは背後の荷台へと振り返った。荷台には村で採れた野菜や村で作られた染料や工芸品などがどっさりと積み込まれており、その中にはルインとルミアが直接収穫した野菜も含まれている。
大人たちが手伝ってくれてはいるが、それでも拡張した畑の分収穫量が増えてしまいルインとルミアもその分忙しく篭を持って畑を動き回っていた。全てを収穫し終えるにはそれなりに時間がかかってしまい、しばらくルミアと一緒にへばってしまったのは言うまでもない。
「それにしてもルミアはそうでもないんじゃが、ルインは勘定になると物凄く弱くなるのぉ」
「そうよね。るーちゃんはもう少しお金の計算が早くなってもらわないとね~」
「僕が遅いんじゃなくて村長やお姉ちゃんが早すぎるんだよ。あんなにポンポンと数字を言われてもわからないよ」
のほほんとした表情で二人から指摘されたルインはぷくっと頬を膨らませた。
村長のやり取りをルミアと一緒に後ろから見させてもらっているが、ルインはこのお金のやり取りが苦手だった。別に全くできないというわけではなく、時間をかければルインも計算することはできる。しかし相手との会話の中で行き交う様々な数字に対してルインは即座に計算して答えを出すことができない。
じっくりと時間をかけて数字の意味を理解してから次へと進むのがルインのやり方だ。村長に同行して街へと連れられるようになってしばらく経ったが、ここで二人の間で能力の差ができ始めていた。
金銭のやり取りや在庫の管理・運用に関してはルミアが秀でており、ルインは物作りに関してある程度の才能を持っている。
「はっはっはっ。何事も向き不向きがあるからのぉ。別にルミアと同じくらいにできるようになれとは言わぬが、それでもできるようになっておけばそれに越したことはないぞ」
「そんなことは分かっているよ。僕が大きくなったらお姉ちゃんには家で僕が稼いだお金を任せるつもりなんだから」
今は村長がすべてをこなしているがいつまでも頼っていられるわけではない。いずれはその全てを自分たちがやらなければならないのだが、ルインとしてはお金の管理などはルミアにしてもらおうと考えている。
ルインが外で稼いできてルミアがそれを管理する。それがルインの思い描いている将来の生き方だ。たった一人の家族であるルミアには危険の無い場所で過ごしてもらいたい。
今まで話したことの無かったルインの夢を聞いたルミアはぱぁっと花が咲くかのように満面の笑みを浮かべ、ルインの腕にぎゅっと抱きついた。
「るーちゃんがそこまで考えてくれているなんてお姉ちゃんは嬉しいわ!それならお姉ちゃんがしっかり管理してあげるからこっちのことは任せなさい!」
「……いや、それだと意味がないじゃろう」
賑やかに街へと馬車が進んでいく中、ルインはふとあることに気がついた。これまでお喋りに夢中で気がつかなかったほんの些細な変化。
(今日は森が静かだな……)
人里から離れているとはいえ森の中に生き物が全くいないというわけではない。これまでなら聞こえていたはずの虫や鳥の声が全くなく、ルインの耳に入ってくるのは風で揺れる木々のざわめきと馬車の音だけ……いくらなんでも静かすぎるのでは?
「……ねぇ、村長」
「ん?どうしたんじゃルイン」
言い知れぬ不安を感じたルインは手綱を握る村長の袖を引っ張った時にそれは訪れた。
身体の奥にまで響いてくるかのような地響きがどこからか聞こえ始め、徐々にその音が大きくなってくる。この時になってようやく村長とルミアも異変を感じ取り、音の出所を探すように周囲を見渡し始める。
念のために移動するように村長に言われたルインとルミアは御者台から荷台へと場所を移し、村長が馬車の速度を上げようとした矢先に左に広がる森の中から獣が飛び出してきた。
見た目は鹿だが、ルインの知る鹿とは大きくその姿がかけ離れていた。まず初めに大きさが違う。大きさは二メートルを軽く超え、普段村の大人たちが獲ってくる鹿とは大きさが明らかに違う。
そしてそんな巨体の頭に付いている角はまるで槍のように鋭く頑丈で、その角と頭を支える首は丸太と思えるほどに太い。鹿の変異型魔獣であるスピアディアが群れで現れたのだ。
「っ⁉いかん!」
突然の遭遇に驚愕は一瞬。はっと我に返ってすぐさま回避しようと村長は手綱を操ろうとしたが、あまりにも許された時間は短すぎた。
何体かのスピアディアは馬車と接触しないように迂回する動きを見せたが、接触が免れないと判断したスピアディアの動きは早かった。
速度を一切緩めることなく迫ってきたスピアディアは道を開けろと言わんばかりに頭を少し下げ角を突き出してきているが、だからと言って馬車が簡単に道を開けられるはずも無く、スピアディアの突き出された角が馬車の横っ腹に深々と突き刺さった。そしてそのまま掬い上げるように首を振り障害物を排除する。
馬車は容易く宙を舞い、やがて重力に引かれて落下し始め激しい音と共に地面へと叩きつけられた。
「——。——。」
暗闇の中自分の身体が激しく揺さぶられていることに気がついたルインはゆっくりと目を開けた。眩しそうに目を細めるルインの視界いっぱいには今にも泣きだしそうなくらいに表情を歪めるルミアが映った。
「おねえ……ちゃん?」
「るーちゃん!良かった、気がついたのね」
先程までの悲しげな表情などまるで無かったかのように嬉しさを爆発させながらルミアはルインを力強く抱きしめる。抱きしめられることでルミアの体温を全身で感じながらルインはようやく自分が地面に横たわっていることに気がつき、何があったかを思い出していた。
森の異変を感じ取りルミアと荷台に移動したことは覚えている。手を繋ぎながら荷台の隅で座っていたところで大きな衝撃が馬車を襲い、姉弟揃って浮き上がったところで一度記憶が途切れている。
「お姉ちゃん、何があったの?」
「そうだわ。るーちゃん動ける?すぐに逃げるわよ」
「逃げる……って何があったの?……村長は?」
「詳しいことはあと。今すぐここを離れないと——」
ルミアに支えられながら上半身を起こしたルインの目に映ったのは、これは現実なのかと思えるような惨状だった。
先程まで三人が乗っていたはずの馬車はひしゃげて完全に破壊されており、辺りには馬車の一部だったはずの木片や荷台に積まれていた荷物が散乱している。染料の瓶が割れてしまったのか周囲には鼻につくような強い匂いが漂っている。
——いったい何があったのだろうか。
ルミアに引かれながら立ち上がろうとしたルインの視界の先で動きがあった。瓦礫の中からゆっくりと何かが起き上がった。鋭い牙と爪を持つ巨大な獣とルインの目がばっちりと合い——恐怖に震えた。
こちらを人とは思わず、それでいて対等な相手ではなくただ純粋な獲物と見定めているその視線を正面から受け止めてしまったルインの心は簡単に折れてしまった。立ち上がろうとしていた足から一気に力が抜けてしまい糸の切れた人形のようにその場に座り込んでしまう。隣のルミアも同じ恐怖を感じてしまったのかルインを引く手の力が弱まった。
幼いながらも自身に迫ってきている事実が嫌でも理解させられてしまう——アレからは逃げられない。
こちらに逃げる意思が無いと理解しているのかゆっくりとこちらに近づいてくる獣から視線を外すことができず、迫りくる恐怖から涙を零しそうになったルインの身体をふわりと温かなものが包み込んだ。
いつの間にかルミアがルインを正面から抱きしめていた。
「……お姉ちゃん?」
「大丈夫。何も心配しなくてもいいのよ」
ルインの耳元で姉の優しげな声が囁かれる。
こちらが苦しく感じてしまうほどにぎゅっと強く抱きしめたルミアは身体を離してルインを正面から見つめる。その表情はこんな状況にもかかわらず信じられないほどに優しく、こちらに微笑みかけている。
「これだけは覚えていてちょうだい。喧嘩をした時もあったけど、この気持ちはこれまでも——そしてこれからも変わることはないわ」
ルミアの手がルインの頬に優しく添えられる。そして姉弟の元に獣が辿り着いた。背後にその存在は感じているはずなのにルミアは一度として振り返ることはせず微笑みながらルインを見つめ続けている。
「たとえ世界中があなたを嫌ってしまっても私はあなたの味方よ。だってあなたは私の大切な——」
鋭利な爪を持つ巨腕が振り下ろされる直前、強く押されたような気がした。咄嗟のことでルインは思わずルミアと繋いでいた手を離してしまった。
地面を大きく削り取りながらルインは衝撃とともに再び宙を舞った。
(お姉ちゃん……)
吹き飛ばされ浮遊感が襲う中、再びルインの意識が暗い闇の中へと沈んでしまった。
「こいつはひでぇ……そっちはどうだ?」
「……ダメだ。もう死んでいる。ここまでの惨状からすれば仕方ないが……残念だ」
真っ暗な闇の中、遠くで誰かが話している声が聞こえる。聞いたことの無い男性の声が複数だ。
「足跡からしてスピアディアか……しかしなんだってこんな街道に魔獣どもが出てくるんだ。ここはあいつらの縄張りじゃなかったはずだし、こんな積極的に襲うことはなかったはずだぞ」
「間違いなく異常事態だな——おい、お前ら!周囲を確認したらすぐに本部まで戻るぞ」
何人かの大人の話し声が聞こえてくるが、まだ声が遠くしっかりと内容が把握できない。暗闇の中ルインは何を話しているのか気になり動こうとしたが、全身が何かに押さえつけられたかのように重く、ピクリとも動くことができない。胸も押さえつけられているせいか呼吸ができないほどではなくても苦しくある。
ぼんやりとした意識の中で辛うじて動く指先を理由も無く動かしていたルインの耳に誰かが斜面を滑り降りてくる音が聞こえ、しばらくすると木片がぶつかるような軽い音が何度か聞こえてくる。
「こっちもダメか……って、おい!お前らすぐにこっちへ来てくれ。生存者だ!まだ息があるぞ」
すぐ近くで男性が大声で叫ぶ声が聞こえ、すぐさま周囲が騒がしくなり始めた。あちこちから「頑張れ」とか「すぐに助けるぞ」などの声が聞こえてくる。少しずつ身体を押さえていた重みが無くなっていき、やがてふわりと抱き上げられたところでようやくルインは目を開いた。
視界の先には鎧を身に着けた見知らぬ中年の男性が気遣わしげにこちらを見下ろしている。
「待っていろ坊主。すぐに医者の所に連れて行ってやる——撤収だ!」
壊れものを扱うかのように優しくルインを抱きあげている男性はそのままゆっくりと斜面を登ろうとする中、その時になってようやく気がついた。
ルミアは——姉はどこに行った?
大人たちはルインの事ばかり気にして姉のことは一度も口にすらしていない。もしかしたらまだ姉は見つかっていないのかもしれない。
「お姉ちゃん……お姉ちゃんがまだいる。お姉ちゃんを助けて……」
弱々しくではあるがルインは必死に姉を探すように訴える。このままではルミアを置いたままこの場を離れてしまう。
「……」
すぐに周囲を捜索してくれるものだと思っていたが、大人たちの反応はルインが思っていたものとは違った。全員が顔を見合わせ、やがて何かを堪えるかのように辛そうな表情をルインへと向けた。
「早く……お姉ちゃんを——」
「坊主。落ち着いて聞いてくれ」
ルインを抱きかかえている男性はルインの言葉を遮るように口を開いた。
「見つかった子供は坊主だけだ。お前さんの近くには瓦礫以外には何も無かったし……坊主の言う姉は——少なくともここにはいない」
ルインは男性の言葉を理解できなかった。ルミアがいない?そんなはずはない。意識を失う直前までたしかにルミアはルインの傍にいた。抱きしめられた時の苦しさも全身を包み込む温もりもしっかり覚えている。少なくともあれが夢でないとルインは断言できる。
ルミアを求めるかのようにルインはルミアが触れた自身の頬をおもわず撫で——そして気づいた。
「……え?」
頬に触れた自分の指先が赤く染まっている。指先に付いている〝ソレ〟は僅かに乾き始めているところもあるが、その赤が何なのかは見間違えようがない。
ぎこちなくルインは自分の身体を見る。大小様々ではあるが、擦り傷や切り傷はあるものの深刻になるほどの出血はしていない。
姉との絆を引き裂いたあの獣。自分の前から姿を消した姉と自分のものではない血。つまり、つまりルミアは……。
「あ、ああ……」
幼いルインの身体が痙攣したかのように震え始める。大人たちが焦ったように何かを言っているが、一つとしてルインの耳に入ることはない。限界まで見開かれた目からはとめどなく涙が溢れ、見開かれた目に映るのは血にまみれた自身の手。
守る。そう心に決めていたはずなのに……。
「あああああああああぁぁぁぁぁぁ‼」
言葉にならないルインの慟哭が森に響き渡るのだった。
「それからは特にたいしたことはない。あらゆる手を尽くして騎士になっただけだ」
東屋に移動した一同は淡々と話すルインの話に息をすることすら忘れたかのように聞き入っていた。あまりにも壮絶なルインの過去を聞かされたサーリャたちに何が言えるだろうか。
ルインが生き残れたのは偶然が重なった結果だとルインは言う。
一つは吹き飛ばされた先でルインは上から降ってきた馬車の瓦礫に埋まってしまい姿が隠れていたこと。そしてもう一つが馬車の積荷だ。
馬車に積まれていた農作物が辺りに散らばっていたのでわざわざルインを狙わなくても食料はいくらでも手に入れることができた。そして匂いの強い染料の入った瓶が割れたことでルイン自身の匂いが消えてしまい、追うことができなくなった。どれか一つでも欠けていたら結果がどうなっていたかなど分かるはずもない。
誰もがルインの話に衝撃を受ける中、真っ先に沈黙を破ったのはミランだった。
「ルインが騎士になったのはもしかして……」
「もちろん姉の行方を捜すためではあるが、それだけが理由じゃない。姉——姉さんとの約束を守るためでもある」
グラスに満たされたワインを飲むことなく軽く揺らしながらルインは静かに答える。
「『俺の力はいずれ大きな助けになる。この力で多くの人を助けてあげなさい。それができると信じている』姉さんはことあるごとにそう言っていた。俺は俺を信じ続けていた姉さんのその言葉だけは違えたくはなかった」
その言葉でようやくサーリャは腑に落ちた。
これまでずっと疑問に思っていた。どうしてルインは無詠唱魔法を隠そうとしなかったのだろうかと。
ルインならば無詠唱魔法が周囲からすれば異質な力だと気づくのは容易だったはず。騎士になるためだとしても普通ならば隠そうとするはずなのにルインは隠すことなくその力を振るった。
それはひとえにお姉さんとの約束を守りたかったのだというルインの想いがあったのだろう。そして隠さないことで得られるメリットはもう一つある。
無詠唱で魔法を使える存在はいろいろな意味で目立つ。隠すことなく功績を挙げ続ければ自然と王国中に広くルインの存在が知れ渡ることになる。噂をあえて広めることで探していたのだろう——姉の行方を。
「……笑って構わんぞ」
「えっ?」
ルインの発言の意味が分からずサーリャは思わず聞き返した。僅かに遠い目をするルインは自嘲気味に笑う。
「これまで俺はお前たちに散々偉そうなことを言ってきたが、その俺がこんなザマだ。多くの命を奪ってきた俺が、たった一人の死すら受け止めきれずにいつまでも過去に囚われているんだ。笑うしかないだろう」
「そんなことはないわ」
ルインの言葉にかぶせるかのように誰よりも真っ先に反応したのはミランだ。意外そうな顔をするルインにミランは真っ直ぐ正面から見据え、凛とした表情で言葉を紡ぐ。
「ルイン。あなたはお姉さんとの約束を果たすために多くの努力をしてきたわ。私があなたと出会う前と後でも決して楽な道のりではなかった。それでもあなたは約束を守り抜いて多くの人の命を救ってきたことを私は知っているわ。私はそんなあなたを尊敬するわ」
「シオンも笑うことなんてできない」
ミランに後押しされるかのようにシオンも手を握りしめてルインへと言葉をかける。
「シオンはみんなの敵だった。本当ならこうして一緒にいられないはずなのにみんなはシオンを許してくれた。それだけでも驚きなのにルインはシオンの大切な家族を助けてくれた。そんなこと誰にでもできることじゃない」
「シオン……」
シオンはどうやらまだそのことを気にしているらしい。何度かサーリャとミランはその件は気にしなくてもいいと言ってはいるが、本人はまだ折り合いがつけられずにいるらしい。
「わたくしも笑うことなどできませんわ。ひとつの約束を守り続けるその意志の強さと覚悟は誰からも否定されるものではありません。師匠はお義姉さまが亡くなられたことを引き摺っていると仰いましたが、師匠の心の中でお義姉さまは今も生きていらっしゃるのです。それを笑うなど誰であろうとわたくしが許しませんわ」
ルインの過去を聞いたうえでそれを笑う者など一人としていない。いや、どうして笑えようか。
姉との約束を守るために騎士となり、これまでルインは多くの命を救ってきたのだ。救われた誰もがルインに感謝しているのは間違いない。だからこそ、そのままにしておけないことがある。
サーリャはルインの手にそっと自分の手を重ねた。今の自分の想いが少しでも伝わるように優しく、それでいてしっかりと。
「ルイン、あなたがこれまで積み重ねてきた努力は素晴らしいことで誇るべきことなのよ。だからそんな言葉で自分自身を傷つけるようなことはしないで」
もしかしたら先程の発言はルインの胸の内に押し込めていた思いが漏れてしまったのではないだろうか。いつまでも癒えぬ傷に心が悲鳴を上げているのだとしたらルインにはこれ以上傷ついてほしくない。
過去を知った四人からの言葉がどれだけルインの心に届いたのかはわからない。それでもわずかにルインの表情が柔らかくなったのは気のせいではないはず。
「ねぇ、ルインのお姉さんがどんな人だったのか教えてよ。やっぱりルインと同じで本を読むのが好きだったのかしら?」
「それはわたくしも知りたいですわ!お義姉さまはきっと素敵な方だったのでしょう?」
「そうだな……。姉さんは俺と違ってとにかく動き回るのが好きでよく俺を連れ出していたな。たった一人の家族というのもあるが、いつも理由をつけては俺と一緒にいたがっていたな。あとは——」
それからしばらくサーリャたちはルミアの話を楽しげに聞いていた。姉の話をするルインの声は心なしか嬉しそうに思えた。
その日の夜、サーリャは一人眠れずに暗闇の中で天井を眺め続けていた。湖畔にある家は元々独り暮らしを想定していたこともあり、広い間取りとはいえベッドが人数分あるわけではない。
そのためサーリャたちはリビングに寝袋を広げて全員が並んで眠っている。
身体を起こして隣を見れば、シオンがミランを抱き枕のように腰に抱きつきながら眠っている。普段あまり甘えることに遠慮がちなシオンの無防備な姿にサーリャは表情を綻ばせる。
(いつもこれぐらい甘えてくれてもいいのにね)
皆が起きないように静かに月明かりが差し込む窓まで移動したサーリャは外の景色を眺めた。
窓の外には大きな湖が広がっており、月の光が湖全体を照らすかのように降り注いで、まるで月が目の前にあるかのように輝いている。
この眺めもルインが試行錯誤を繰り返した結果の果てに生まれたものだろう。家の中にはいくつもの書物が残されており、内容も普段ルインが好みそうな魔法関係ではなく建築や園芸関係ばかり。毎年数日だけとはいえ、この家に訪れた際には勉強をしていたのだと察せられる。
それでもその努力の結晶であるこの場所を見せたい相手に一度も見せることができないのはどうしようもなく悲しく思えてしまう。
僅かに表情が曇ってしまったサーリャは気持ちを切り替えるように視線を湖からその先にある丘の上へと変えた。月明かりの中でぼんやりと見える東屋。その建物の間で影が動いた。
「ルイン?」
こっそりと身なりを整えて丘の上へと向かった先でサーリャが見たのはやはり見間違いではなかった。月明かりの下でルインは何をするわけでもなく、ただ座って月を見上げていた。
「サーリャか。こんな時間まで起きているなんてどうしたんだ?」
ルインはこの時になってようやくサーリャに気がついたようで、僅かに驚いたような表情でサーリャを見た。
「それはこっちのセリフよ。ルインこそこんな時間にここで何をしていたのよ」
「俺か?俺はただここで月を見ていただけだ」
「それならせっかくここまで来たんだから、私も少しだけ同席させてもらおうかしら」
ルインの隣に腰かけ、二人は並んで同じように月を見上げる。同じ月のはずなのに王都で見るよりもはるかに美しく、心奪われたかのようにサーリャは見続ける。陰りの無い丸い月を見る間は互いに何も話さない。
少し冷たい風が二人のいる空間を吹き抜ける中、不意にルインが口を開いた。
「ここに来て、こうして月を見上げるたびにどうしても考えてしまう」
独り言を口にするかのように話すルインにサーリャは相槌を返すことなく、ただルインの言葉に耳を傾ける。
「あの日、俺は姉さんの為に何かできたんじゃないかと……俺が無様に気を失わなければ姉さんが助かる可能性が残っていたんじゃないかと、そう思わずにはいられない。——もちろんただのガキでしかない俺にできることなどたかが知れているだろう。だが……」
言葉を一旦途切れさせたルインは月から視線を外し、サーリャがこれまで見たことも無いほどの悲しげな表情を浮かべながら僅かに俯く。
「せめて姉さんの最期の言葉だけは聞きたかった。恨み言や罵倒でも感謝でも何でもいい。姉さんが何を言いたかったのか知ることができなかったのが心残りで……今でもあの瞬間が夢に出てくる。最後まで見届けることができずに気を失った自分自身がどうしても許すことができない」
「ルイン……」
「……少し話しすぎたな。あまり夜風に当たるのは良くない。戻るぞ」
そう言って立ち上がったルインはサーリャを待たずに先に家へ向かって歩き出してしまった。ゆっくりとした足取りで丘を下りていくルインの背中を見ながらサーリャは一人思う。
ルインはこれまでルミアとの約束を守るために動いて来た。姉の生存を信じ、そのうえで騎士として各地を巡っていたのは間違いない。それがルインの生きる理由だったのだろう。
しかし今は騎士としての資格を剝奪され、その命を国から狙われたルインは人間社会から隔絶された土地でたった一人暮らしている。きっと姉の墓参りでこの場所を訪れる以外では外に出ることは今後も無いのだろう。
唯一の家族を失い、姉との約束すら守ることも叶わなくなったルイン。それでは——。
(ルイン……今のあなたは何を糧に生きているの?)
湖畔の家での滞在は三日だけだった。滞在中は家の大掃除や土地全体の雑草取り、ルインが持ち込んだ新しい花の種を植えたりなどこれまでルインが一人で進めていた作業を全員で分担してこなす日々だった。
湖をあとにする時には全員が墓標の前に並んで祈りを捧げ、静かに馬車を出した。
やるべきことを終えた馬車はそのまま王都へ戻った——わけではなく、ゆっくりと王都とは別方向へと馬車を走らせていた。
整備された街道を進む中、荷台で寝転がっていたルインはアイマスク代わりに乗せていた本をわずかに持ち上げた。
「なぁ、用事はもう済んだんだから、俺はさっさと家に帰りたいんだが?」
「ダメよ。せっかく皆で遠出しているんだからもうちょっと楽しみましょうよ。ルインだってあの家にずっと引きこもってばかりじゃ身体に良くないわ。このままだとルインがボールみたいに丸くなっちゃう」
「そうですわ!せっかく師匠とのデートなのですから、もう少しわたくしも一緒にいたいですわ」
「……これってデートって言えるのかしら?」
「みんなでデート。楽しいことは皆で楽しむのにシオンは賛成」
楽しげな女性陣からの言葉に味方は一人もいないと悟ったルインは面倒そうに眉を顰めるが、特に何かを言い返すことも無く再び本を顔にかぶせてしまった。
湖畔の家を出発してからサーリャたちは周辺の村々の視察ということで各地を巡っている。あくまでも建前上なので、実際サーリャたちは行く先々の村や街で食事を楽しんだり観光名所を巡ったりとただの息抜き旅行となっている。
馬車でのんびりと移動しながら道中で遭遇した魔獣を狩り、それらの素材や魔核を売ることで旅費の足しにしている。過剰戦力とも言えるメンバーなので、魔獣の数を減らすどころか周辺を狩り尽くす勢いなので毎回買い取ってもらうのが相当な量になる。
そんな中、サーリャとマリアナの戦闘を何度か見守ってきたミランは困ったような表情を浮かべた。
「それにしても、あなたたち二人は本当に連携がうまくいかないわね。二人が協力すればそこら辺の魔獣なんて相手にもならないんだから、もう少し歩み寄るぐらいはした方がいいわよ」
「そんなこと言ってもミラン様、後ろから遠慮なしにポンポンと攻撃魔法を撃ち込んでくる相手にどう連携をとれと言うんですか?私ではなくマリアナ様がその辺りをもう少し考えてほしいです」
「あら、何を言っているんですの?」
サーリャからの不満を当のマリアナは反省の色を一切見せることなく緩んだ髪のリボンを結び直していた。
「わたくしはちゃんと自分の仕事はしていますわ。あなたはわたくしの魔法を警戒しているようですが、これまであなたに害が出るようなことはしていません」
「だからって私のいる場所に撃ち込まなくてもいいでしょう」
確かにマリアナの言う通り、サーリャを巻き込むような魔法は撃たれてはいない。撃たれてはいないのだが、その代わりにこちらがヒヤッとするほどの近さで魔法が通過していくのは何度経験しても生きた心地がしない。
あまりにも近くを通過するので反射的に背後に向けて防御魔法を展開させたのは一度や二度ではない。
「まったくあなたは心配性ですわね——あら?」
やや呆れ顔になっていたマリアナだったが、不意に何かに気づいたかのように顔を上げ、馬車の外へと意識を向けた。異常に気づいたのはマリアナだけでない。馬車にいる誰もが異変に気がつき緩んでいた空気が張り詰める。
風に乗ってどこからか悲鳴が馬車へと届けられた。声からして女性の声だ。
「……方向からして街道の先ね。サーリャ、近くまで移動するからあなたは先行しなさい。馬車を安全な所に停めたら私たちもあとから向かうわ」
「わかりました」
ミランが手綱を一振りすると馬車の速度が上がり、悲鳴が聞こえてくる方へと急行する。先程までの快適さとはうって変わり、ガタガタと揺れる荷台の中で各々が自分の装備をチェックしている様子を相変わらず寝ころんだままのルインは「騒がしいな」と本を少しだけずらしただけで動こうとはしない。
「見えたわよ」
ミランの言葉に御者台へと顔を出したサーリャは前方へと目を凝らす。遥か先に馬車らしきものが見えるが、よく見るとわずかに傾いている。馬車は見えるがその他は小さすぎて今はよく見えない。
「行きます!」
サーリャはそう言うや否や御者台から大きく前方へと飛び上がった。風魔法の力を借りて本来では到達できない高さまで飛び上がったサーリャはスカートをひらめかせながら状況を空から睥睨する。
(いた!)
馬車の近くに二人ほど座り込んでおり、そんな二人を取り囲むかのように人の身長ほどもあるトカゲが五、六体ほど集まっていた。追い詰めた得物を逃がさないようにとじりじりと近づきながらその包囲網を狭めていく。
サーリャは自由落下に変わりつつある自身の態勢を整えると、圧縮した空気の塊を背後へと開放する。砲弾のように加速したサーリャは一直線に馬車へと向かった。
サーリャが馬車へと駆けつけたのはギリギリのタイミングだった。怯える二人に襲い掛かろうと一匹が飛び掛かったところでサーリャが飛来し、勢いのまま剣で串刺しにすると二人から無理矢理引き剥がす。大きく剣を振った勢いで串刺しにされたトカゲが剣から抜け、その亡骸が別の個体の方へと飛んでいき勢いよくぶつかる。
「ルイリアス王国騎士です。助けに来ました。お二人ともお怪我はありませんか?」
「は、はい!私たちは大丈夫です」
背後を振り返ることなく自身の身元を明かすと若い女性の声が返ってきた。声からして深刻な怪我などは無さそうだ。
仲間が討たれたことで周囲のトカゲの注目が自分へと変わったのを確認したサーリャは幸いとばかりにすぐさま殲滅するために駆け出す。
トカゲの舌がまるで鞭のようにサーリャへと伸びてくるが、サーリャはすかさず剣で斬り落とす。
魔獣ではないただの獣にさほど時間はかからなかった。
「ふぅ。こんなところね」
軽く剣を振り刀身に纏わせていた魔力と血を飛ばしたサーリャは周囲に危険が無いことを確認すると馬車へと戻り始める。
生存者二人の内一人は先程サーリャと会話を交わした女性で、教会のシスターなのだろうかゆったりとした白い神官服に身を包み、頭にも白いベールで覆われている。
そんな彼女は傍らにいる子供は幼い男の子で、シオンと同年代かもしくは少し年下ぐらいだ。女性は幼い男の子の様子を心配そうに見ていたが、サーリャが戻ってくるのに気がつくと立ち上がって深々と頭を下げた。
「このたびは助けてくださりありがとうございます。貴女様が来てくださらなければ私たちはここで命を落としていました」
まるで聞く者の心を包み込むかのような優しげな声だ。
「間に合って良かったです。先程名乗りましたが、ルイリアス王国騎士のサーリャ・ブロリアスです。もうすぐ仲間もここに到着しますので安心してください」
「それはそれは。なんと私たちは幸運なのでしょう。——ほら、アレン君。騎士の皆様が助けてくださるようですよ。もう不安がることはないですよ」
「お、俺だって武器があればあんなトカゲくらい一人で倒せるんだからな。本当なんだからな!」
アレンと呼ばれた男の子は虚勢を張りながら立ち上がるが、声は震えているし足元もふらついていておぼつかない。まったく言葉と噛み合ってはいないが、彼なりのプライドがあるのだろう。
少し微笑ましい気持ちになりながらもそれを口には出さずにサーリャは二人の後ろで傾いている馬車の状態を確認した。
「……馬車はもう使えそうにありませんね。お二人の怪我の治療もありますし私たちの馬車で目的地までお送りしますね」
「なにからなにまで本当にありがとうございます。——きゃっ!」
馬車の荷物を運び出そうとしたところで三人のいる場所に一陣の風が吹き込んできた。サーリャは咄嗟に手で髪を押さえたが、女性は押さえるのが僅かに遅れベールが風で飛ばされてしまった。
小さな悲鳴と共にベールが飛ばされたことで彼女の隠れていた髪があらわになり、彼女の姿がはっきりと見えるとサーリャは思わず目を見開いた。
艶やかな長い黒髪がふわりと風で舞い上がり、細めていた目がゆっくりと開き、澄んだような青い瞳がはっきりと見える。
性格も印象も比べてみれば正反対。それでもその黒髪と青い瞳を持つ彼女はサーリャがよく知る人物と面影が重なって見えた。
「サーリャ、大丈夫かしら?」
「彼女がそこら辺の相手に後れを取ることなんて無いでしょう。わたくしが代わりに行っても同じ結果になるはずですわ」
驚きでサーリャが固まっている内に二人の背後からゆっくりとミランたちが歩いてくるのが見え、一番後ろには面倒くさそうにルインもいる。
歩いてくるミランに気がついた神官服の彼女が背後を振り返り、彼女の素顔を見るとミランたちもサーリャと同じように驚きの表情でその場で立ち尽くしてしまった。
そしてルインは信じられないものを——ありえない存在を見るかのように目を見開き彼女を凝視している。
声が聞こえたわけではない。それでも唇の動きからルインが何を口にしたのかサーリャは理解できてしまった。
「……姉さん?」




