魔女のいたずら 1
ジェラールはアーネストを残して先に物陰から立ち去っていた。
アーネストは後から戻り、先ほど解いた布を元の枝に結びつけることになっている。それがあの場所を利用した時のルール。
区画と区画の間にあり、人の行き来が少なく死角になっているあの場所は、いつからか秘密の逢瀬の場として利用されるようになった。ただ、不用意に近づくと先客と鉢合わせしてしまうことがありうるので、誰かが木に結びつけたあの布が目印として利用されるようになった。それはジェラールがこの城に来るより前、もう何十年も前からのルールだ。
とはいえ、人気のない所へわざわざ向かうのだから、まったくの秘密の場ではない。中でのやり取りが人に見られないだけであって、誰某の行き来を目撃したと噂になることはよくある。ジェラールとアーネストも目撃されている。
ある程度離れて、後から来るはずのアーネストを思い浮かべながら振り返ったジェラールは、細い通路の向こう、魔女の居住区から駆けて来る人物に気がついた。
人影は腰まで伸びた赤毛を踊らせながら、ジェラールへ向かって真っ直ぐに駆けてくる。
それが誰か気がついて、ジェラールは腰が引けた。
「ジェラール!」
「うわっ」
弾んだ声と共に飛びついてきた少女を、ジェラールは慌てて抱き留める。途端、ふわりと広がった燃えるような赤に視界が覆われた。
すぐに胸から顔を上げた彼女は、目の前に焦った表情を認めると面白そうに目を細めた。
「ミランダ。どうしてこちらに?」
「どうしてって、あなたの姿が見えたから顔見に来たのよ。それだけ」
無邪気な笑顔を浮かべる彼女は、宮廷魔女ミランダ。筆頭宮廷魔女ヴァネッサの一番弟子。
外見はジェラールより若く見えるが、彼女とヴァネッサがこの城に来たのは三代前の王の時だという。この城の歴史や逢瀬の場のルールを誰よりも詳しくジェラールに教えたのもミランダだった。
「ねえ、ジェラール。あなた今暇? 私暇なの。暇だったら私に付き合って」
「え? いや」
「……ミランダ。相変わらず元気そうでなにより」
飛びついてきた勢いのまま絡んでくるミランダにジェラールが困っていると、固い声が二人の間に割り込んで来た。
ミランダはつまらなそうに振り返る。
静かな表情のアーネストが二人の近くまで来ていた。その肩の向こうでは、枝に結びつけられた鮮やかな色が揺れている。
「あら、ご機嫌ようアーネスト様。いたのね。ジェラールを一人にしてどこへ行かれたのかと思ったわ」
「少し離れただけだ」
澄ました顔で嫌味を口にするミランダに、アーネストは苦虫を噛み潰したような顔になる。
「ミランダこそ一人か。ヴァネッサ殿は一緒じゃないのか」
「先生なら王様に呼び出されて行ってしまってるわ。……王様ってば先生ばっかり呼び出して。私だって先生と一緒にお役に立ちたいのに」
「ヴァネッサ殿だけで用が足りるなら、魔女の力を無駄に使うこともないだろう」
「減るものじゃないからそんなに大事にしなくてもいいのよ。それに二人でなら、先生の負担を一部でも私が負うこともできるのに。私のことも一緒に頼って欲しいわ」
「では、父上に進言しておこうか」
「そうしてくれるなら嬉しいわ」
話している間もミランダがジェラールに身を寄せたままなので、アーネストは眉をひそめる。
「あまりジェラールを困らせないでくれ、ミランダ」
「あなたがそれを言うのね、アーネスト様」
ミランダが窺うようにあの布へと視線を流すので、ジェラールは背筋がひやりとする。
アーネストの部屋での一件からしばらくの間、ジェラールはあれは一時の戯れだと信じていた。いや、信じたかった。
けれどアーネストは有言実行に移し、うっかり呼んでしまって狼狽するジェラールを、よりによって、恋人同士が身を隠す場所と認識されているあの場所へ連れ込んで、その手にキスを落とした。
こんな真似をこんな場所で。そのショックをすぐに受け流せなかったジェラールはひどい顔を人前に晒した。それを目撃した者から報告が上がり、アーネストが兄王子に咎められた。
——あまりおまえを困らせると怒られてしまったよ。
そう言って苦笑するアーネストに、ジェラールは恐縮した。奥で何をしていたかまでは目撃されていないのだから普通に振る舞えば、そもそもアーネストの行動を止めていれば問題にはならない。しかしそれができず、アーネストも撤回しないから、ジェラールは今日まで悩まされている。
追い詰められて戸惑う。
手を取られて体が震える。
上目遣いに見つめられて抗えない。
唇が触れた瞬間に全身を駆け抜ける痺れは、例えようもなく甘くて。
「……ジェラール?」
名前を呼ばれて、ジェラールはハッとした。
気がつけばアーネストの顔が間近に迫っており、意識するより先に顔が熱くなった。
「どうした、ぼうっとして」
「いえ……なんでもありません」
「顔色も優れないようだが」
考え事に囚われてしばし反応がなかったジェラールをアーネストが心配する。
「具合が悪いならおまえの部屋に行こう。連れて行ってやる」
「何言ってるの。アーネスト様は大公がお出ましなんだから早く行かないと」
「……大公が?」
アーネストの体越しにミランダの声が聞こえ、ジェラールが首を伸ばすと、呆れた様子のミランダの隣に遣い者の姿があった。どれぐらいの時間呆けていたのか、彼が来て用事を告げていたことにも気がつかなかった。
大公がこの城へ足を運び、アーネストを呼んでいる。その用事とはどんなものか想像し、頬へ上った熱が一瞬にして引いた。
ジェラールの顔色の変化をアーネストは敏感に読み取る。
「やっぱり駄目だ。おまえの部屋へ行こう」
気遣わしげに肩を抱かれ、思わずジェラールは身を捩った。
「具合なんて……いえ、すみません、少し優れないので下がります。王子は大公の許へ向かってください」
「おまえが一緒でないと俺はどこへも行けないぞ」
「何言っているんですか……」
「アーネスト様。早くお行きなさいな、この人も困ってるでしょ」
「しかし、ジェラールが」
「わたしが休ませておくわ。どう? ジェラール」
どうと呼ばれて、ジェラールはミランダの顔を見た。
口元がきれいに弧を描いて笑っている。まっすぐにジェラールを見つめる瞳は、わかっているわよと語っている。
「頼む、ミランダ」
今この場でアーネストから逃げるには、彼女を頼る他はない。
ジェラールはミランダに縋った。
「そういうわけだから、アーネスト様は行って行って。さあ」
肩に顔を伏せるジェラールの背に軽く片手を添えて、ミランダはまるで野犬を追い払うようにアーネストにもう片方の手を振った。
それでもアーネストはしばらくジェラールの背中を見つめていたが、ジェラールがミランダに縋ったままぴくりとも動かないので、中途半端に浮かせたままだった手を握り締め、下ろした。
「……ミランダ。ジェラールのことをくれぐれも頼んだぞ」
「任せて」
険しい表情のアーネストに、ミランダは明るく応える。
その間、ジェラールはずっと顔を伏せていた。
「仕方ない若様ね」
大股で歩くアーネストと、その後を慌てて追う遣いの者を見送って、ミランダはくすくすと笑う。
そして、ジェラールの背中を軽く叩いた。
「ジェラール、もう大丈夫よ。アーネスト様は行ったわ」
促されて、ジェラールはゆっくりと顔を上げた。
下を向いていたので少し頭が重い。
「ひどい顔。でも、具合は悪くないでしょう?」
下から覗き込まれて、ジェラールは問われるままに頷いた。
「ありがとう、ミランダ」
気分が優れないなんて嘘だ。ただ、大公の話を直接聞きたくはなかった。いずれ嫌でも知らされることになろうとも。そこまでミランダが察していたかどうかはわからないが、一緒に行かずに済むように仕向けてくれたことをジェラールは感謝した。
ミランダは頷いて、満面の笑みを浮かべた。
「じゃあ時間ができたということで、これからわたしに付き合って! ちょっと実験台になって欲しいの」
「実験台?」
「そう、実験台」
ミランダが腰に下げた革袋を撫でる。
膨らみから拳大の何かが入っていることがわかる革袋は、ミランダがいつも身につけているものだ。中身が何なのかジェラールは知らないが、他の魔女も見かける限りそれらしきものを持ち歩いていて、その何かが魔女の力に関係していることだけは想像がついた。
思わず腰が引けたジェラールを、ミランダが腕に腕をしっかり巻き付けて引き留めた。
「さ、行きましょう」
ミランダが強引にジェラールを引っ張って歩き出す。自分が先ほど来た方向——魔女の居住区の方へと。
当然、ジェラールは慌てた。
「俺はそっちへ行けない!」
魔女の居住区は彼女達の力を公にしないための囲いであるのと同時に、女性しかいない区画だ。男のジェラールが入り込んでいい場所ではない。王でさえ、ヴァネッサが居住区にいる時には女性を遣わしている。
「わたしが一緒なんだから平気よ。……そうね、どうしても行きたくないなら、あそこでも良いわよ」
ミランダが片手を上げた。
すると、木の枝に結びつけられたあの布が勝手に解けて宙を舞い、ミランダの手の中に収まった。
「風に飛ばされてきただけよ」
ミランダが魔法で布を呼び寄せたことは明らかだった。なのに、平然と言ってのける。
決まりを破って魔法を見せたミランダに対し、ジェラールは非難の眼差しを向けるが、驚いてはいなかった。
ミランダの魔法を見たことはないと以前にアランに言ったが、本当は何度も見せられている。
初めて見せられた魔法は、手折った枝についた蕾すべてを一瞬で咲かせるというものだった。蕾が開いた時、それがミランダの魔法によるものだと気がついた時、ジェラールはまるで自分が決まりを破ったかのように慌てた。困惑するジェラールの反応に大喜びするミランダを前にして、まだ浅かったこの城での暮らしの終わりを予感して暗澹たる気持ちにもなった。
結局、ジェラールは今もこの城におり、ミランダには顔を合わせる機会があると何かしら魔法を見せられている。
繰り返すミランダの魔法が問題にならないのは、ミランダがジェラール以外の前では魔法を使わないからだ。何故自分の前でだけという思いはあるものの、問題が大きくならないならと、今では顔を合わせた時は諦めて彼女に付き合っている。
おとなしく歩くジェラールに、上機嫌でミランダは口を開いた。
「ねえ、ジェラール。大公のご用事って、やっぱりあれかしらね」
「あれって……」
「大公の姫君とアーネスト様との婚姻。クローディア様だっけ」
「……っ」
「魔女の間じゃすごく噂されているわ。みんなそういう話が好きよね」
動揺したジェラールは、うまく相槌が打てない。
魔女の間だけじゃない。あちらこちらで噂になっている。大公が最近何度かこの城に足を運ばれたのは、姫婿にアーネスト様をと考えられているためだと。
「もし本当にそうなら、とてもありがたい話よね」
「え……」
「次の叙任式ではジェラールとアーネスト様と……テレンスね、三人が騎士に叙任される予定ね? このままだとアーネスト様は一介の騎士として誰かに仕える身になるわ。でも大公の姫様と結婚すれば、一国一城の主になれるわね」
「……」
そう。今のままならアーネストには継ぐ城がない。大公が噂通りのつもりなら、アーネストにとってはこれ以上にない話なのだ。
けれどジェラールは喜べなかった。敬愛する王子のめでたい話だというのに。
体調がすぐれないと嘘を吐いてアーネストの傍らを離れたのは、今頃大公がアーネストへ婚姻の話を持ち出しているのを、その場で聞きたくなかったからだった。想像するだけで胸の奥で痛みが渦巻いて体が強張るのに、直接聞くなんて無理だ。
共に訓練を重ね、いつか恥じるところのない騎士となったアーネストに、生涯尽くしていくつもりだった。仕える城は関係ない。アーネストこそが自分が仕える国だと思っていた。
それなのに。
騎士として誰かに名誉を捧げ忠誠を誓うアーネストの、その視線の先にいたい。そんな願望が形になるようになったのは、罰と称してキスを受けるようになってから。
アーネストの誓いが欲しいわけじゃない。けれど本当はキスを望んでいる。わざと王子と呼ぶわけではないが、口先ではアーネストを止めつつ、内心では触れる指先を欲し、真っ直ぐに見上げてくる眼差しに胸の奥をくすぐられる。
胸の奥底から湧いてくる彼への恋慕の情を止められない。
冗談のような罰を受けて、真に罪となる願望を抱くようになってしまった。
足が重くなったジェラールを連れて、ミランダは物陰へ入った。
ジェラールにとっては今日二度目の逢瀬の場所。アーネストの時と同じように奥へ背中を押しつけられた。
「ねえ、ジェラール」
追い詰めたミランダがジェラールの頬を撫でる。
「わたしはあなたの困った顔が大好き。……だから、あなたがわたし以外の誰かのせいでそんな顔をするのは楽しくないの。たとえそれがあなたの大好きなアーネスト様であってもね。すごく胸が妬けるわ」
アーネストから逃げた時よりももっとひどい顔をしているジェラールを見上げながら、ミランダが切ない声で囁く。
「ね、だからわたしを慰めて。……わたしを楽しませて?」
ミランダはジェラールの頬を撫でながら、革袋をくるりとひと撫でした。
途端にジェラールは衝撃に襲われた。
視界が赤と黒に点滅する。全身が引き裂かれるかのように痛み、思わず自分の体を抱き締めた。天と地が不明になり、自分が立っているのか地面に横になってしまったのかわからなくなる。
長いようで実際にはほんの数秒の時間の苦痛を堪えると、嘘のように体が軽くなり、ジェラールはゆっくりと目を開けた。
心配そうなミランダの顔が目の前にあった。
「大丈夫?」
今までに聞いたことのない彼女からの気遣う声にジェラールは頷く。
すると、ミランダがジェラールの体のあちらこちらを触り始めた。
ジェラールは先ほどの衝撃のために意識がぼんやりとしてされるがままでいたが、急に抱きつかれて飛び上がらんばかりに驚いた。
「ああ、成功したわ!」
はしゃいだ声を上げるミランダから慌てて離れようとして、ジェラールは違和感を覚えた。
ミランダの顔が目の前にある。
ジェラールはしゃがんだりしていないし、二人の身長差はミランダが背伸びをした程度で埋まるほどではない。
何気なく足下へ視線を落とせば、視界に入るのは二人の体。向かい側のミランダの体は変わっていない。もう一つの自分の首から下にある体はミランダと似た服を身につけ、前にせり出た胸で靴のつま先が見えなかった。
ジェラールは女になっていた。




