きっかけ 3
「——どうしてあんな危ない真似をしたんですか!」
ジェラールは怒っていた。これ以上にないほどきつい表情を浮かべ、眉間に深く皺を刻んでいる。
怒鳴られて苦笑いを浮かべるアーネストは、自室のベッドに腰掛けて裸の上半身をジェラールに晒していた。その右肩は痛々しいほどに青黒く色を変え、声とは裏腹に慎重な手つきのジェラールに手当てを受けていた。
怪我は猟に出て負ったもの。森の中で馬がもぐら塚に足を引っかけたはずみに落馬し、肩を強打した。アーネストは治療のために即帰城となり、猟は今頃他の者達が続行している。果たしてなにを獲ってきてくれるだろうか。
「マガモが見えてからな」
「それで勝手に動いたって言うんですか。いつも先導は猟師に任せているのに、どうして今日に限って」
「俺の手で捕まえたかったんだ」
「躓いた馬のいななきに驚いてマガモも逃げたじゃないですか」
「結果的にな。残念だった」
落胆しているアーネストを見下ろしながら、ジェラールも内心ではかなり落胆していた。
獲物を逃したことそのものも残念だし、密かにマガモを好物としていたので余計に残念だった。
でも。
「……王子が大怪我しなくてよかったですよ」
「心配してくれたのか」
「当たり前じゃないですか」
バランスを崩した馬の背から彼が投げ出される瞬間、心臓が止まるかと思った。この程度の打ち身、擦り傷で済んで本当に良かった。
傷の具合を見ながら問われるままにジェラールが頷けば、アーネストが相好を崩した。
その瞬間、収まりかけたジェラールの怒りが一気に沸点まで達した。
「反省してます!?」
「してるしてる。すごくしているさ」
そんな締まらない顔で言われても信じられない。
「何がそんなに嬉しいんですか」
「おまえがすごく心配してくれているからな」
「俺を困らせたいんですか?」
「いやいやそんなことはない。だが、心配されるのは嬉しいものだろう?」
「……そこまで喜ばれると、普段の俺がまるで血も涙もない人間みたいじゃないですか」
「そうじゃない。おまえが俺を心配してくれることが嬉しいんだ」
どうしていつもこんなに言うことが大袈裟なのか。ジェラールは呆れつつも、自分の頬が熱くなるのを感じる。アーネストが喜んでくれるのはやはり嬉しいことだから。
「はあ、もう……それだけ余裕なら、怪我も大丈夫ですね」
「ああ。ジェラールが手当してくれたからもう大丈夫だ」
「もし熱が出たらすぐにおっしゃってくださいね」
主に打撲、多少の擦り傷もあったが服の上からの怪我なのでそこまでの心配はない。それでも念を押して、ジェラールは手当を終えた。
道具を片付け、アーネストが服を着るところまで手伝い、ジェラールは立ち上がる。
すると、アーネストがその手を取った。
「ジェラール」
「なんでしょう、アーネスト」
ベッドに腰かけたままのアーネストはジェラールを見上げていて。
妙な触れ方をしていると思った。掬い上げるように取られた手は、羽根を支えるかのように優しく触れられていて。
「やっぱり直らないんだな」
「? 何がですか?」
手を取られたまま首を傾げると、不意にアーネストが意地の悪い表情を見せ、すっと頭を下げた。
アーネストの頭で見えなくなった手の甲に何かが触れた。
骨張った手の甲の薄い皮膚越しにやわらかなぬくもりを感じる。それは小さな点なのに、触れた所からじわりと全身へと広がっていくような深い熱を帯びている。
その中央で、ふっと背筋が震えるようなひどい熱さを感じた。
手の甲に触れているそれは、アーネストの唇。
理解した瞬間、ジェラールは頭が真っ白になった。
しばし呆然として、いつのまにか顔を上げたアーネストが目を細めて満足げに自分を見上げていることに気がつくと、まだ取られたままだった手を急いで振り払った。
「な——何するんですかっ! 俺は貴婦人じゃないんですよ!?」
「うん、貴婦人? 俺は反省を信じてくれないジェラールへ誠意と気遣いへの感謝を表してみようかと思ったんだが……」
「どっちでもいいです! ——いやよくないです! 悪ふざけでも王子が俺にこんな真似をしてはいけません!!」
「ふざけてなんかないぞ。……まあ、本当は、おまえが俺を王子と呼び続けていることに対する罰だ」
「王子と呼んでいる罰……!?」
意味がわかりませんと叫びかけて、ジェラールは以前にそんな話題があったことを思い出した。
「どうして今のが俺への罰になるんですか!?」
「それだけ動揺しているんだ。これ以上にない罰になるだろう?」
「こっここ、これが罰だとか、悪ふざけにも程が……っ」
声が上擦ってうまく喋れない。いつものようにアーネストを怒ることができない。顔が熱く、体が小刻みに震える。そんな己を自覚できても、かえって動悸が高まるばかりで。
ジェラールはキスをされた手を無意識に胸に抱え込んでいた。
「おまえ、顔が真っ赤だぞ」
「っ……怒りのためです!」
「予想以上に効果的だな。よし、これで行こう。以降は俺を王子と呼ぶことがあったらキスをする」
「そんな……どうしてそんなことになるんですか」
「おまえのためでもあるだろう。聞かないと、手だけなく膝を折るぞ」
そう言ってアーネストがベッドから降りて片膝をつこうとするので、ジェラールは飛び上がった。
指先や服の裾へのキスなら敬意を示すものでもある。しかしそれも王族から従者へするものではないし、まして膝を折らせたりなどしたら。
「呼びます呼びます、これからは常に王……アーネストと呼ぶようにします、だからやめてください」
ジェラールは慌ててアーネストより更に低くなるように腰を落とした。
二人して床に座り、互いの顔の位置が近くなる。
「今また間違えそうにならなかったか?」
アーネストがまた手を取ろうとするので、ジェラールは胸に抱えた手をさらに上半身も丸めてアーネストから庇う。
「き、気のせいです」
「そうか?」
「そうです」
無理があると知りつつ言い張れば、頭上でふっと笑う気配がした。
「まあいい。では呼んでみようか」
「何を……」
「俺のことを名前でだ」
「今さら改めてすることじゃないでしょう」
「今後のための訓練だ」
訓練と言われ、闘争心に火が点く。
すぐにそういう問題ではないと首を振ると、肘に触れられ、ビクリと体が震えた。
促すように腕を撫でられて、恐る恐る上目遣いにアーネストの表情を窺って、一瞬呼吸を忘れた。
そこにあったのは、こんなバカバカしいやりとりをしている最中とは思えないほど穏やかな笑みだった。
鼓動が高鳴る。
気がつけば手を預けていた。
この人には逆らえない。それは主従関係だからというだけではなくて。
「ほら、ジェラール?」
「…………アーネスト」
舌の上に転がった、大切な人の名前。
今までにも数え切れないほど口にしてきた名前なのに、今までにないほど意識しながら呼びかけた瞬間、背筋を甘い疼きが駆け抜けた。
二人して床に腰を下ろしたまま繰り返し呼ばされて、やっと満足してもらえた頃にはジェラールは肩で息を吐き、視界が滲んでいた。
「よくやった」
名前を呼ばせていた間、ずっとジェラールの手の甲を指先で撫でていたアーネストが、ジェラールの肩を抱き寄せて優しい声で囁く。
熱かったジェラールの目元から、一筋の涙が流れた。
この日受けた衝撃と動揺と、そして罪悪感は一生忘れられないものとなった。




