第097話:王宮の嘲笑
三百の兵を連れ、吉継は王宮へ向かう。
そこに待っていたのは、帝国より先に王国の内側から向けられる冷たい視線だった。
白霧境を発つ時、吉継は二百の兵を連れていた。
槍を持つ者、弓を背負う者、荷車を押す者。
そこへアリスティ・フォン・バルシュタインの傭兵百が加わる。
総勢三百。
王宮へ向かうには、多すぎる。
戦へ向かうには、少なすぎる。
「王都の連中は、これをどう見るでしょうね」
馬上のアリスティが、肩越しに列を見た。
くすんだ銀灰色の髪が、風に細く揺れる。いつもの皮肉げな目だが、その奥には傭兵団長の勘が沈んでいた。
「護衛には大げさ。出陣には足りない。つまり、面倒な数です」
「ちょうどよい」
吉継は白布の奥で静かに答えた。
「兵は数だけそろえても意味が薄い。大切なのは練度と、指揮に従う速さだ。今の白霧境の兵には、その二つがある」
「帝国と全面戦争になると思いますか」
アリスティの声から、軽口が消えた。
傭兵は戦で飯を食う。
だが、全面戦争は飯だけで済まない。契約も、仲間も、逃げ道も、一度に燃える。
「すぐにはならぬ」
「妙に言い切りますね」
「帝国が本当に攻めるなら、今の段階で赦免要求を先に出さぬ。先に兵を動かし、王都が混乱してから文を出す」
吉継は前方の街道を見た。
「今の帝国は、剣を抜く前に鞘を鳴らしている。こちらが怖がって法を曲げるか、試しているのだろう」
「なるほど。なら、あちらは脅し。こちらは返事を間違えたら本当に戦になる、と」
「そういうことだ」
アリスティは小さく笑った。
「嫌ですねえ。傭兵としては、戦う前から胃が重い戦が一番嫌いです」
「ならば、胃を軽くするためにも、王宮で敵の顔を見る」
王都の門をくぐった時、空気は白霧境のそれとは違っていた。
石畳は磨かれ、門兵の鎧はよく光る。
だが、視線は冷たい。
病毒持ちの白布の男。
辺境から兵を連れてきた新参の直臣。
公爵家へ傷をつけ、帝国を怒らせた厄介者。
そう言葉にしなくても、廊下に並ぶ貴族や文官たちの目が語っていた。
王宮の広い控えの間で、吉継はミセリア・イシダと会った。
彼女はいつものように表情を変えない。
青い硝子の髪飾りだけが、黒髪のそばで静かに光っていた。
「到着を確認した」
「お招きにより参上した」
「軍議まで少し時間がある。余計な者には反応しないでほしい」
「承知した」
ミセリアの隣には、トモエリア・ラングレイスが立っていた。
深い緑の髪を高く結び、長刀の柄に片手を添えている。
「白蝶城の主殿。王宮は戦場より面倒だぞ。腹が立つ相手ほど身分に守られている。こちらが剣を抜けば、こちらが悪者にされる」
「よく知っている」
「なら安心だ。いや、安心ではないな。貴殿は斬らずに倒す方も上手そうだ」
その時、控えの間の奥がざわついた。
金糸の上着。
赤い宝石を散らした襟。
若い男が、従者を引き連れて歩いてくる。
年は二十を少し越えたほど。顔立ちは整っているが、目つきが相手を人として見ていない。
第一王子リシャール・レガリア。
現国王エドワードの嫡男であり、母はバルトロメウスの娘。
つまり、王家の血とガリアの血を同じ身に持つ男だった。
「宰相殿」
リシャールはわざとらしく笑った。
「父上の寝所に隠れて国を動かし、今度は病毒持ちを連れて王宮を汚すのか。ずいぶん立派な政務だな」
控えの間に、薄い笑いが広がった。
ミセリアは揺れない。
「大谷吉継は王家直臣。王命に基づき、軍議へ参加する資格がある」
「資格?」
リシャールの顔から笑みが消えた。
「その資格とやらで、ガリア公爵を蟄居にしたのか。帝国を怒らせた責任も、紙に書けば消えるとでも思っているのか」
「ガリア公爵の処分は、確認された違反に基づく。帝国の抗議とは別件だ」
「口だけは達者だな」
リシャールが一歩、ミセリアへ近づいた。
従者が止めるより早く、彼の右手が上がる。
吉継は、前に出た。
音も荒さもない。
ただ、ミセリアと王子の間に立った。
「王子殿下」
吉継の声は低かった。
「その手は、下ろされる方がよろしい」
リシャールの眉が跳ねた。
「貴様、誰に口を利いている」
「王国の第一王子に」
「なら、退け。私は宰相を叱っている」
「叱責に手は要りませぬ」
控えの間の空気が凍った。
リシャールの腰の剣が、半ば抜ける。
「病毒持ちが、王族の前に立つな。貴様のような得体の知れぬ者が、父上の国に入り込んだからこうなったのだ」
吉継は動かない。
怒りはあった。
だが、ここで怒れば、相手の欲しい形になる。
病毒持ちが王子へ刃を向けた。
それだけで、ミセリアは追い詰められる。
「俺を罰したいなら、正式な場で命じればよい」
吉継は静かに言った。
「だが、ここで宰相へ手を上げれば、殿下自身が王国法を軽く見たことになる」
「黙れ!」
剣がさらに抜けた。
その瞬間、白と赤の外套が間に入った。
「リシャール殿下」
ジゼリア・ルミエールだった。
胸元の十字架が揺れ、赤い装甲が窓の光を受ける。
彼女は剣を抜いていない。
ただ、まっすぐ王子を見ていた。
「ここで剣を抜けば、殿下の怒りではなく、殿下の弱さとして記録されます」
「ジゼリア……」
リシャールの声がわずかに鈍る。
「君まで、その病毒持ちの肩を持つのか」
「私は民を守る者の肩を持ちます。今は、剣を納める殿下を守りたい」
嘘のない声だった。
だからこそ、リシャールは返しに詰まった。
彼は舌打ちし、剣を鞘へ戻す。
「軍議で分かる。誰が王国を危うくしているか、な」
そう吐き捨て、従者を連れて去っていった。
控えの間の嘲笑も、いつの間にか消えていた。
「助かった。礼を言う」
吉継が頭を下げると、ジゼリアは少しだけ胸を張った。
「当然です。私は聖騎将ですから。それに……あなたが誰かをかばう時の顔は、見覚えがあります」
まんざらでもなさそうな声だった。
ミセリアが、すっと二人の間に入る。
「軍議前に確認することがある。吉継、来て」
「承知した」
ジゼリアが不思議そうに瞬く。
トモエリアは口元だけで笑った。
「宰相殿、歩幅が少し速いぞ」
「問題ない」
問題はありそうだった。
誰もいない廊下まで来ると、ミセリアは足を止めた。
青い硝子の髪飾りが、わずかに揺れる。
「帝国側が出発した」
吉継は目を細めた。
「どこから」
「黒馬原。鉄鞍峠の麓にも荷車が入った。貴殿が挙げた三点のうち、二つが動いた」
脅しではない。
少なくとも、脅しだけでは終わらせないつもりだ。
ミセリアは淡々と続けた。
「軍議は、荒れる」
「分かっている」
「私は、法を曲げない」
その言葉だけ、少しだけ強かった。
吉継は静かに頷く。
「ならば、俺はその法が折られぬよう、戦の道を読む」
遠くで、軍議の鐘が鳴った。
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