第098話:策を告げる前に
王宮外苑の一角に、白霧境の陣幕が張られていた。
王宮の石壁を背に、白と青の布が風を受ける。
王都の兵から見れば、辺境領主の控え所にすぎない。だが、幕の内側には地図が広げられ、白霧境から運ばせた木札がいくつも置かれていた。
黒馬原。
鉄鞍峠。
旧アルデン街道。
王都。
吉継は、その四つを黙って見ていた。
ミセリアの言葉が、耳に残っている。
帝国側が出発した。
黒馬原。鉄鞍峠の麓にも荷車が入った。
三つのうち、二つが動いた。
一つなら脅し。
二つなら圧力。
三つなら、戦支度。
では、二つは何か。
吉継は指先で黒馬原の木札を動かした。
馬が集まる場所。
鉄鞍峠は、荷車が越えるには遅いが、守るには強い。
帝国が本気で王都を狙うなら、旧アルデン街道へ主力を寄せる。だが、黒馬原と鉄鞍峠だけを動かしたなら、王都に見せたいのは「攻める力」ではなく「攻められるかもしれない恐怖」だ。
「なるほど」
吉継は小さく息を吐いた。
敵はまだ斬り込んできていない。
こちらの手を、先に狂わせようとしている。
幕の端が、音もなく揺れた。
吉継は顔を上げる。
「戻ったか」
影の中から、チヨネが現れた。
頬に少し泥がつき、髪には乾いた草の欠片が絡んでいる。だが、目はきらきらしていた。
「首尾よくいったか」
チヨネは、にこりと笑った。
普段は表情の小さな彼女にしては、珍しいほど誇らしげな笑みだった。
「ふんふん」
できた、と言っている。
チヨネは胸元から折り畳んだ紙を取り出し、両手で差し出した。
文字は少ない。
代わりに、旗の形、馬の数、荷車の列、焚き火の位置が小さな絵で描かれていた。
黒馬原には、帝国の赤い三角旗が六つ。
馬は五十を超える。
荷車は多いが、積み荷の高さがばらばらだった。
鉄鞍峠の麓には、青い輪を描いた旗が二つ。
荷車は十二。
焚き火は少なく、兵よりも荷守りが多い。
「よく見た」
吉継は紙から目を離し、チヨネの頭へ手を置いた。
ゆっくり撫でる。
チヨネの肩が、目に見えて緩んだ。
「ふん……」
甘えるような音だった。
「黒馬原は見せ兵だ。馬を並べて、数を多く見せている。鉄鞍峠は荷を守っている。主力ではない」
チヨネが首を傾げる。
「ふん?」
「戦の本体が、別にある」
吉継は旧アルデン街道の木札を見た。
そこには、まだ何の印も置かれていない。
何もない場所ほど、見落とされる。
敵が本当に進むなら、音のする場所ではない。
音を立てさせた場所の、少し外だ。
吉継は紙を畳み、懐へ入れた。
「チヨネ。少し休め」
チヨネは即座に首を振る。
「ふん」
まだ働ける、と言っている。
「なら、幕の影で休みながら見張れ。休むのも任務だ」
チヨネは少し不満そうに頬を膨らませたが、頭を撫でられた余韻には勝てなかったらしい。幕の影へ沈む直前、小さく胸を張った。
吉継は立ち上がる。
軍議の前に、会わねばならぬ者がいる。
ミセリア・イシダは、王宮の小さな執務室にいた。
机の上には、帝国からの抗議文、王国軍務局の兵籍表、国境諸領からの報告、ガリア公爵赦免を求める貴族たちの連名書が積まれている。
紙の山は、白い。
だが、どれも刃に見えた。
バルトロメウスを赦すか。
帝国と一戦交えるか。
正確には、その二つしか選択肢がないように見せられている。
ミセリアは大軍を指揮したことがない。
兵糧を動かす計算はできる。
徴発の限界も、国庫の残りも、街道の輸送日数も分かる。
だが、数千、数万の兵が死ぬかもしれない決断は、紙の上の数字だけでは重さを量れない。
彼女は筆を取ったまま、しばらく動かなかった。
扉が叩かれる。
「入って」
吉継が入ってきた。
白布、白と青の陣羽織。
王宮の中にあっても、その姿だけは戦の外から来たように見える。
「何をしに来た」
ミセリアの声は、いつも通りだった。
顔も変わらない。
目も揺れない。
だが、吉継には分かった。
筆を持つ指が、ほんの少しだけ強い。
机の端に置かれた青い硝子の髪飾りが、いつもより近くにある。
不安なのだ。
それを不安と名づける術を、彼女が持たないだけで。
前世で、石田三成を長く見てきた。
正しさを曲げず、道理を信じ、だからこそ孤立する男だった。
あの時も、三成は顔に出さなかった。
それでも吉継には分かった。
強い者ほど、自分の弱さを人に渡せない。
ミセリアにも、同じ面影がある。
「策を持ってきた」
吉継は短く言った。
ミセリアは筆を置く。
「帝国と戦う策か」
「違う」
「バルトロメウスを赦さずに済む策か」
「それもある。だが、それだけでは足りぬ」
ミセリアは沈黙した。
吉継は机の上の紙を見た。
どれも王国を守るための紙だ。
だが、紙だけでは兵は止まらない。
剣だけでも、法は守れない。
「ミセリア殿」
吉継は静かに告げた。
「帝国は、こちらに二つの道しかないと思わせている。赦すか、戦うか。そのどちらを選んでも、王国は傷つく」
「では、第三の道があると」
「ある」
ミセリアの目が、まっすぐ吉継を見た。
感情は出ない。
けれど、求めていた。
答えを。
吉継は一歩、机へ近づいた。
「軍議で話す前に、貴殿へ先に伝えておく」
そこで、廊下の向こうから軍議開始を告げる鐘が鳴った。
ミセリアは席を立つ。
吉継は、畳んだ偵察紙を机の上へ置いた。
「策は、ここから始める」




