第099話:第三の道
帝国の圧力を前に、王宮の軍議は揺れる。
赦免か、開戦か。
吉継が組み、ミセリアが示すのは、そのどちらでもない第三の道だった。
軍議の間は、王宮の中でもっとも広い石造りの部屋だった。
長い卓の上には、王国北東の地図が広げられている。
黒馬原。
鉄鞍峠。
旧アルデン街道。
北鎖砦。
そして王都。
地図の周囲には、貴族、軍務官、文官、神殿関係者が並んでいた。誰も大声では話していない。だが、空気だけがざわついている。
帝国が動いた。
バルトロメウスを赦すのか。
戦うのか。
答えを間違えれば、王国が裂ける。
ミセリア・イシダは卓の正面に立った。
「帝国は、ガリア公爵の蟄居処分撤回を要求している。併せて、黒馬原と鉄鞍峠の麓で兵と荷車の動きが確認された」
淡々とした声だった。
だが、その一文で部屋の温度が下がる。
最初に口を開いたのは、灰色の髭を整えた老貴族だった。
「宰相殿。ここは一度、ガリア公爵の処分を見直すべきではないか。帝国との関係修復に尽くした人物を辱めたと受け取られれば、無用な戦を招く」
「処分は法に基づく」
「法も国あってのものだ。国が焼ければ、法など紙に過ぎぬ」
別の文官がうなずいた。
「帝国との全面戦争は避けねばなりません。公爵の罪を問う時期を誤った、と説明すればよろしいのでは」
ミセリアは動かない。
「誤っていない」
短い。
だからこそ、反発が強くなる。
「では戦か」
声を荒げたのは、第一王子リシャール・レガリアだった。
彼は卓の横で腕を組み、吉継を見下すように笑った。
「病毒持ちの軍師殿は、さぞ見事な戦をするのだろうな。辺境の兵三百で、帝国を追い払うつもりか」
控えめな笑いが漏れた。
吉継は反応しない。
今、この場で自分が前に出るべきではない。
それは、軍議の前に決めていた。
ミセリアの執務室。
軍議開始の鐘が鳴る少し前、吉継は畳んだ偵察紙を机へ置いていた。
「この策は、ミセリア殿が提案してほしい」
ミセリアは筆を置いた。
「なぜだ。貴殿の策だろう」
「私は王家の直臣に選ばれたが、どこの馬の骨かも分からぬ者だ。病毒魔法持ちでもある。この策を成就させるには、納得させられる者が発言する方がよい」
「私なら通ると」
「通すべき立場にいる」
ミセリアは、しばらく黙った。
表情は変わらない。
けれど、青い硝子の髪飾りへ伸びかけた指が、途中で止まった。
「私は大軍を率いたことがない」
「知っている」
「それでも、私が言うべきだと」
「法を曲げぬと決めたのは、貴殿だ。なら、その法を守る策も貴殿の口から出るべきだ」
ミセリアは、偵察紙を開いた。
チヨネが描いた旗、馬、荷車、焚き火。
その横には、チヨネが敵の間者から抜き取った密書の写しがある。
北鎖砦。
そして、帝国側の調略。
「分かった」
ミセリアは短く言った。
「私が言う」
軍議の間へ意識が戻る。
リシャールの嘲笑が、まだ空気に残っていた。
ミセリアは吉継ではなく、卓上の地図へ手を置いた。
「第三の道を取る」
ざわめきが走った。
老貴族が眉をひそめる。
「第三の道?」
「ガリア公爵は赦免しない。処分は王国法に基づくものとして維持する。だが、帝国へこちらから攻め込むこともしない」
「ならば何を」
ミセリアは、チヨネの偵察紙を卓へ置いた。
旗、馬、荷車、焚き火。
文字より絵の多いその紙を見て、何人かが眉をひそめた。
「これは何だ」
「偵察結果だ。黒馬原には赤い三角旗が六つ。馬は五十を超える。だが荷車の積み荷は高さがばらばらで、兵糧の積み方ではない。見せるために集めた馬と旗だ」
ミセリアは次に、鉄鞍峠を指した。
「鉄鞍峠の麓には青い輪の旗が二つ。荷車は十二。焚き火は少ない。兵より荷守りが多い。主力ではない」
軍務官の一人が身を乗り出した。
「では、帝国は攻める気がないと?」
「違う。帝国は、攻める気があるように見せている。こちらに先に間違えさせるためだ」
「間違えさせる?」
「赦すか、戦うか。その二つしかないと思わせる。ガリア公爵を赦せば、王国法が折れる。こちらから国境へ兵をぶつければ、帝国は王国が先に軍を動かしたと主張できる」
リシャールが卓を叩いた。
「なら、何もしないのか」
「何もしなければ、民が不安で崩れる」
ミセリアは旧アルデン街道の関所跡を指した。
「旧アルデン街道の王国側関所跡を再稼働させる」
ざわめきが大きくなった。
「名目は、避難民の保護、商人の検問、街道の治安維持。国境へ攻めるのではなく、王国側の道を守る。大谷吉継の指揮下に、白霧境の兵と契約傭兵を合わせた三百を置く」
「それは出兵ではないか」
リシャールの声が鋭くなる。
今度は吉継が答えた。
「王国の街道を守る兵です。帝国領へ踏み込まぬ。先に剣を抜く形にはなりません」
「言い逃れだ」
「戦とは勝たなければ意味を持たないのです。そこに卑怯もない。敵に口実を渡さず、こちらが守る場所を先に決める。それも戦のうちでしょう」
リシャールの顔が赤くなる。
だが、軍務官たちの何人かは地図を見ていた。
感情ではなく、道を見ている。
それでよい。
ミセリアは続けた。
「さらにもう一手打つ」
彼女は北鎖砦を指した。
「王国はすでに、北鎖砦をフェイ・チャン将軍に守らせた。そちらの策は読まれている。この噂を、今日中に王都と北東街道へ流す」
軍議の間が、一瞬、静まり返った。
「北鎖砦だと」
老貴族の声が低くなる。
北鎖砦は、旧アルデン街道へ入る手前にある小砦だった。
大軍を受け止める城ではない。
だが、通る者の喉元に手をかける位置にある。
そこを、フェイ・チャンが守る。
それは、帝国にとって面白くない噂になる。
ミセリアは密書の写しを卓へ置いた。
「帝国側は、北鎖砦の前城主を調略していた。前城主はガリア派の貴族だ」
「ならば、その砦は危ういではないか」
「すでに反意ありとして処分した。トモエリア・ラングレイスが砦へ入り、印章と門鍵を確認している」
ミセリアの声は変わらない。
「帝国は、北鎖砦に通じる手がまだ生きていると思っている。だからこそ、そこへフェイ将軍の名を立てる」
吉継は黙っていた。
その密書を奪ったのはチヨネだ。
敵の間者が、王都の酒場裏で別の男へ渡そうとした紙片。チヨネが、封を開けずに中身の写しだけを取って戻った。
北鎖砦の前城主を闇に沈めたのは、カドゥだ。
吉継が命じた。首を取るな、騒がせるな、反意の証だけ残せ、と。
その後で、トモエリアが王国の確認使者として砦へ入った。
あの小さな手が、軍議の流れを変えている。
「フェイ将軍が北鎖砦にいるという噂が流れれば、帝国は困る」
軍務官がうなずいた。
「実際にいるかどうかより、敵が確認する時間を奪える」
「その通りだ」
ミセリアは言った。
「帝国が本当に攻めるつもりなら、北鎖砦の確認に人を割く。脅しだけなら、兵を引く理由を作れる。どちらにせよ、相手の動きが出る」
リシャールが歯を食いしばった。
「噂で戦をするつもりか」
ミセリアは彼を見た。
「兵を殺すより安い」
短い言葉だった。
けれど、その場の誰も笑わなかった。
吉継は白布の下で、わずかに息を吐く。
よい。
ミセリアの言葉として、通った。
彼女の策として、王宮が受け止めた。
最後に、ミセリアは卓上の地図へ手を置いた。
「王国法は曲げない。帝国へ先に攻め込まない。旧アルデン街道の関所跡を再稼働する。北鎖砦にはフェイ・チャン将軍の名を立てる」
淡々としていた。
だが、揺れてはいなかった。
「大谷吉継。貴殿に、旧アルデン街道関所跡再稼働の任を命じる」
吉継は深く頭を下げる。
「拝命する」
軍議の間に、またざわめきが戻った。
今度のざわめきは、嘲笑ではない。
恐れと、計算と、怒り。
そして、ごくわずかな安堵だった。
吉継は地図を見た。
旧アルデン街道。
北鎖砦。
王国と帝国の古傷が、まだ乾ききらぬ道。
戦は、まだ始めない。
だが、敵が動く場所と、敵が怯える名は決まった。
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