第100話:鉄の軍師
王国が打った第三の道。
その噂は、帝国最前線の作戦室へ届く。
帝国最高頭脳クラウス・フォン・ベルンシュタインが、ついに吉継を盤面へ置く。
鉄血の砦の作戦室には、砂ひとつ落ちていなかった。
壁は黒い鉄板で覆われ、床には磨かれた石が敷かれている。長卓の上には、ヴォルガノン軍事帝国の北東戦線地図が広げられていた。
黒馬原。
鉄鞍峠。
旧アルデン街道。
北鎖砦。
そのすべてに、小さな鉄駒が置かれている。
クラウス・フォン・ベルンシュタインは、駒を見下ろしていた。
銀髪は後ろへ撫でつけられ、細い眼鏡の奥にある灰色の瞳は冷たい。帝国軍服には皺ひとつない。戦場の泥も、血の匂いも、彼の周囲だけ避けて通るようだった。
「報告を」
声は低く、乱れがない。
副官リーヴェ・アルトマイヤーが一歩前へ出た。黒髪を短く切りそろえた若い女士官で、片耳に魔導通信石をつけている。声は硬いが、紙を持つ指先だけが少し強張っていた。
「王都で噂が出ています。王国はすでに北鎖砦へフェイ・チャン将軍を入れた。こちらの策は読まれている、と」
室内の空気がざわついた。
先に舌打ちしたのは、前線指揮官グスタフ・ラウゼンだった。赤銅色の短髪、分厚い首、鎧の上からでも分かる大柄な男である。
「噂だろう。砦ごと踏み潰せばいい」
「黙れ、グスタフ」
クラウスは顔を上げない。
それだけで、グスタフの喉が止まった。
「噂で兵は死なぬ。だが、噂で兵は迷う。迷う兵は、死ぬ兵より高くつく」
クラウスは北鎖砦の鉄駒に指を置いた。
「前城主からの返答は」
リーヴェは一瞬、目を伏せた。
「途絶えました。砦の門鍵と印章は、王国側に押さえられた可能性が高いです」
「可能性では足りぬ。数字で言え」
「七割以上です」
「低い。八割五分と見ろ」
クラウスは鉄駒を半歩だけ下げた。
たったそれだけで、帝国軍の予定していた進路が変わる。王都を脅すための見せ兵。黒馬原の馬。鉄鞍峠の荷車。北鎖砦に仕込んだ手。
どれも単独では戦ではない。
だが、同時に動かせば、王国は二つの道しか選べないはずだった。
バルトロメウスを赦す。
それが嫌なら、先に兵を出す。
どちらでもよかった。帝国は、王国が自分で選んだ失策を名目にできる。
それが、崩れた。
「旧アルデン街道の関所跡は」
「王国側が再稼働を宣言。避難民保護、商人検問、街道治安維持が名目です。指揮官は、大谷吉継」
リーヴェがその名を読むと、グスタフが鼻で笑った。
「病毒持ちの辺境領主だろう。三百程度なら、俺の騎兵で散らせる」
「散らした後で、何と報告する」
「何?」
クラウスは初めてグスタフを見た。
「王国領内で避難民を守る兵を、帝国騎兵が踏み潰した。そう報告するか」
グスタフの顔が赤くなる。
「だが、奴らは実質、兵を置いている」
「実質で外交文は書けぬ」
短い一言だった。
リーヴェが小さく息を呑む。
クラウスは黒馬原の赤旗を二つ下げ、鉄鞍峠の荷車を三つ右へずらした。
「鋼の盤面を開く」
彼の眼鏡の奥で、薄い鉄色の光が走った。
作戦室の壁に、前線兵の視界がいくつも浮かぶ。馬の耳。荷車の車輪。焚き火の煙。山道の霧。兵たちの視界と魔導通信が、巨大な盤面のように重なっていく。
帝国軍は、ひとつの生き物になる。
普通なら、奇襲も伏兵も通らない。
普通なら。
「大谷吉継は、こちらの二手目まで読んだ」
リーヴェが顔を上げた。
「二手目、ですか」
「一手目はバルトロメウス赦免要求。二手目は王国の先制を誘う見せ兵。そこまでは読まれてよい。読ませるために置いた」
「では、問題は」
「三手目を消された」
クラウスは北鎖砦を指した。
「前城主を使い、王国側の内側から門を開かせる予定だった。そこを先に断たれた。しかも、断ったことを隠さず、噂にして返してきた」
グスタフが唸る。
「つまり、挑発か」
「違う。こちらに確認させたいのだ」
クラウスの声は冷えたままだった。
「確認すれば時間を失う。無視すれば北鎖砦の背後を疑う。攻めれば王国側の防衛名目に乗る。面白い」
最後の一語だけ、ほんのわずかに温度があった。
リーヴェは、その変化を聞き逃さなかった。クラウスが敵を面白いと言う時、それは評価ではない。
処理対象の格が上がった、という意味だ。
「では、どう動かしますか」
「黒馬原は後退させるな。旗は残せ。鉄鞍峠の荷車は二割を空にし、車輪音だけを増やせ」
「北鎖砦は」
「触るな」
グスタフが目を剥いた。
「触らない?」
「触れば、奴の用意した場へ入る。まずは旧アルデン街道関所跡を見る。大谷吉継が三百で何を守り、何を隠すのか。それを知る」
クラウスは、関所跡の鉄駒へ新しい駒を置いた。
白い駒だった。
帝国の地図に、王国の白がひとつ置かれる。
「100の兵を殺してでも、101の兵で目標を焼き尽くせば勝利だ。だが、焼く場所を誤れば、ただの浪費になる」
リーヴェが筆を構える。
「命令を」
「偵察隊を三つ出せ。一つは商人に化けろ。一つは避難民に混じれ。一つは、王国の兵が水を取る場所を探れ」
「交戦は」
「許可しない。今はまだ、殺すより見る」
グスタフが不満そうに唇を曲げた。
「帝国が、たかが三百を見に行くのか」
「たかが三百で、こちらの盤面を一手遅らせた」
クラウスは眼鏡を押し上げた。
「ならば、それは三百ではない。駒の形をした罠だ」
作戦室の壁に映る兵たちの視界が、いっせいに旧アルデン街道へ向いた。
吉継はまだ、帝国の砦にいない。
だが、クラウスの盤面には、すでに白い布の男が立っていた。
鉄の軍師は、静かに告げる。
「大谷吉継。まずは、貴様の三手目を見る」
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