第101話:薄明の使者
旧アルデン街道の関所跡に、白い杭が三十本打ち込まれていた。
避難民が通る道。
商人を止める場所。
兵が水を取る場所。
そして、敵がこちらを見に来た時、必ず目に入る場所。
吉継は白と青の陣羽織を風に揺らしながら、土の上へ線を引いた。刀は腰にあるが、抜いてはいない。
「荷車はここで止める。水桶は奥へ置け。手前に置けば、相手に数を読まれる」
「はい!」
白霧境の兵が返事をする。
声はまだ若い。だが、動きは以前よりそろっている。
吉継はそれを見て、満足はしなかった。
兵は人だ。
だが、戦になれば駒でもある。
囮に置くこともある。死地に立たせることもある。守るために、誰かを先に傷つく場所へ置く。それを否定して軍は動かぬ。
だからこそ、ただ捨ててはならない。
役目を与え、退く道を残し、生きて戻った者が次に戦えるようにする。
それが、吉継の知る戦だった。
「大谷殿」
アリスティが、関所跡の石段から声をかけた。濃紺の外套を肩にかけ、琥珀色の目だけで街道の先を見ている。
「帝国の旗です。数は少ない。使者団でしょう」
「来たか」
「歓迎しますか」
「席は用意する。腹までは許さぬ」
アリスティは小さく笑った。
「分かりやすい歓迎ですね」
街道の向こうから、黒鉄の馬車が近づいてくる。
先頭には帝国旗。黒地に赤い剣。馬車の横には、文官らしき男が乗っていた。細い顔に整えた口髭。名乗る前から、相手を下に見る目をしている。
その後ろに、薄灰色の軍服を着た女がいた。
吉継の目が、わずかに細くなる。
淡い藤紫を帯びた黒髪。腰の上まで届く髪を低く束ね、右目にかかる前髪が風で揺れている。華奢に見える肩。だが、足運びだけが異様に軽い。
薄幸の文官のようでいて、踏み込み一つで首を取れる者の足だ。
魂が、名を告げた。
山南敬助。
吉継の知らぬ時代の名だった。
だが、魂の奥に流れ込むものがある。遠い京。組織の理想と現実の狭間に立ち、知と剣を抱えたまま散った者。
この世界では、ケイス・サナリア。
前世の記憶はない。
だが、背負うものの形だけは、似ていた。
文官が馬車を降りる。
「ヴォルガノン軍事帝国、外務監察官エルマー・ヴァイトである。王国側が旧アルデン街道へ兵を置いた件につき、確認に来た」
吉継は頭を下げた。
「サンクトゥス・レガリア王国、王家直臣末席、大谷吉継。ここは王国領内の旧関所跡だ。避難民の保護、商人の検問、街道の治安維持を行っている」
「兵三百を置いて、治安維持と?」
エルマーが薄く笑う。
「帝国へ圧をかける意図はない、と?」
「帝国が王国の民を脅かさぬなら、困る理由はない」
周囲の兵が息を止める。
エルマーの目尻が動いた。
「言葉を選ぶ男だ」
「選ばぬ言葉は、たいてい人を殺す」
ケイスが、そこで初めて笑った。
柔らかい笑みだった。敵地にいるというのに、まるで月明かりの下で香を焚いているような静けさがある。
「噂より、ずっと静かな方ですね。病毒の軍師殿」
「噂は、語る者の都合で太る」
「ふふ、困りましたね。では、私も細く見ておきましょう」
ケイスの視線が、兵の配置を流れる。
前に立つ兵。
荷車の陰に置かれた弓兵。
水場へ続く細い道。
逃げ道に見せた、実は退却路。
彼女はすぐに気づいた。
この男は、兵を安全な場所へ置いていない。
死ぬかもしれない場所へ置いている。
だが、捨ててはいない。
どの位置にも、戻る道が一本ずつ残っている。
ケイスの笑みが、ほんの少しだけ薄くなった。
「見てよいか」
エルマーが言った。
「検問場、水場、避難民の天幕。帝国として確認したい」
「構わぬ。ただし、兵の後ろへは行かせない。水桶の数も触らせない。避難民へ直接話しかけるなら、こちらの記録役を同席させる」
「信用がないな」
「あるなら、使者を出さぬだろう」
アリスティが横で肩を揺らした。笑いをこらえたらしい。
エルマーは顔を固くしたが、ケイスが一歩だけ前へ出た。
「その条件で結構です。使者団の安全は、私が保証します」
「貴殿は」
「ケイス・サナリア。帝国薄明機動隊を預かっています。護衛ですので、ひとまず怖がらないでくださいね」
怖がるなと言う者ほど、怖い。
吉継はそう思ったが、口には出さなかった。
その日の確認は、刃を抜かずに終わった。
帝国使者団は、検問場を見て、水場を遠くから見て、避難民の天幕を外から数えた。
ケイスは一度も余計な場所へ踏み込まなかった。
ただ、見るべきものはすべて見ていた。
夕刻、鉄血の砦へ戻ったケイスは、クラウスの作戦室で報告した。
「大谷吉継は、優しいだけの男ではありません。兵を死地に置く覚悟があります」
クラウスは地図を見たまま問う。
「ならば、我々と同じか」
「いいえ」
ケイスは少しだけ目を伏せた。
「兵を駒として見ていないわけではありません。けれど、捨て駒としては置いていません。死地に置いた兵にも、帰る道を残しています」
作戦室が静かになる。
クラウスは、関所跡の白い駒を指で押さえた。
「ならば、その帰る道を焼け」
ケイスの指先が、ほんのわずかに動いた。
「……承知しました」
声は揺れなかった。
だが、薄明の瞳だけが、少しだけ暗くなった。




