第102話:帰路を焼く白
クラウスの命令を受け、帝国は吉継たちの帰路へ手を伸ばす。
そこに現れたのは、小柄な姿に冷たい殲滅の理を宿す将、ヴェイラ・バイゼンだった。
旧アルデン街道の西側には、白霧境へ戻る細い浅瀬があった。
荷車が二台並べば詰まるほどの狭い道。
右は低い林。左は乾いた土手。水は浅いが、馬と荷を通すには都合がよい。
その浅瀬の前に、灰白色の外套を着た小さな将が立っていた。
背は低い。
遠目には、従軍してきた貴族の子供にも見える。だが、周囲の帝国兵は誰一人として気安く近づかない。
灰白色の長い三つ編みが、小さな背中を越えて垂れている。
高い襟。大きめの肩飾り。白と黒の特注軍装。どれも身を大きく見せるために整えられていたが、それでも身体の小ささは隠しきれない。
若い帝国兵が、思わず息の中で笑った。
「子供みたいな――」
「聞こえたぞ」
小さな将は振り返らなかった。
声は低く、冷たかった。
兵の背筋が伸びる。笑いは一瞬で消えた。
「成人だ。次に間違えたら、貴様の判断力を処分対象に入れる」
「も、申し訳ありません、ヴェイラ将軍」
ヴェイラ・バイゼン。
ヴォルガノン軍事帝国、殲滅軍団長。
クラウスの盤面を、現実の死で完成させる女だった。
ヴェイラは浅瀬を見た。そこには、まだ王国兵はいない。避難民もいない。あるのは、帰るための道だけだ。
「馬小屋を焼け。飼葉も燃やせ。浅瀬の石は半分だけ崩せ」
命令は短い。
兵が動く。
だが、ケイス・サナリアだけは一歩遅れていた。
「避難民は?」
「いない」
「通りかかった者がいれば?」
「逃がせ。今日は殺す日ではない」
ヴェイラは、腰の白鞘へ指を添えた。
「今日は退路を壊し、生き殺しにする日だ」
彼女の足元から、白い乾いた魔力が地面へ染み込んだ。
白坑の軍令。
浅瀬の土が、音もなく白灰色へ変わっていく。
掘るのではない。
土そのものの結びつきがほどけ、粉末のように崩れていく。道も、建物の基礎も、城壁の根も、支える土を奪われれば形を保てない。
濡れていたはずの泥が乾き、踏み石の下だけが空洞を抱えたように沈んだ。
兵が槌を振るう。
石は派手に砕かれない。
だが、荷車の車輪が乗れば、必ず片側だけ落ちる形に崩された。
馬小屋へ火が入る。
黒い煙が、朝の空へ上った。
ケイスはその煙を見て、薄く息を吐いた。
「大谷吉継は、これで慌てるでしょうか」
「慌てねば、さらに焼く」
「逃げ道を焼けば、追い詰められた兵は強くなることもありますよ」
「その時は、兵糧を焼く」
ヴェイラは迷わない。
その小さな横顔には、怒りも得意げな色もなかった。
「帰る道を守る男なら、帰る道を失った時、必ず何かを守ろうと動く。動けば、次の手が見える」
ケイスは返事をしなかった。
煙だけが、高く昇っていく。
◇
旧アルデン街道関所跡の天幕にも、その煙は見えた。
最初に気づいたのは水汲みの兵だった。
「背後です! 西の浅瀬から煙が上がっています!」
声に、天幕の周りがざわつく。
荷車のそばにいた商人が、顔を青くした。
「あそこを潰されたら戻れませんぞ! 馬も荷も通れません!」
「騒ぐな」
吉継の声は静かだった。
白布の下の表情は見えない。だが、近くにいた兵は、その声で動きを止めた。
「まずは状況把握だ。敵の位置、燃えている場所、味方の被害。これをつぶさに報告させろ。動揺する兵は落ち着かせろ。勝手に動けば、被害が大きくなる」
「は、はい!」
兵が走る。
吉継は地面に膝をつき、街道の土へ指を置いた。
乾いた震えがある。
火の音ではない。土が、不自然に息を失っている。
しばらくして、チヨネが影から現れた。
手には、白く乾いた土の欠片が握られている。もう片方の手で、自分の頭の少し上に掌を置いた。
「ふん……」
「小柄な指揮官がいたか」
こくり。
チヨネは次に、胸の前で両手を小さく握った。可愛いと言いたいのではない。小さいが、兵が震えていた、と伝えている。
「見た目で侮れる相手ではない、ということだな」
「ふん」
今度は強い鼻鳴らしだった。
吉継は白い土を受け取り、指先で砕いた。
普通の焼け土ではない。
水気を奪われている。荷車を壊すため、全部ではなく一部だけを崩している。
嫌な壊し方だった。
道を完全に断てば、こちらは別の道を探す。
半分だけ壊せば、焦った者が通ろうとして事故を起こす。
「こちらの喉ではなく、踵を狙ったか」
アリスティが濃紺の外套を翻して近づいてきた。
「大谷殿、追いますか。傭兵なら、火をつけた連中の尻くらいは噛めます」
「追わぬ。あの指揮官もそれを見越して、撤退させたのだろう。挑発に乗れば、全滅の恐れがある」
「怒っていないのですか」
「怒っている。だから、無駄に走らせぬ」
アリスティは黙った。
その答えだけで、吉継が何を見ているのか察したらしい。
吉継は小石を三つ置いた。
一つは関所跡。
一つは焼かれた浅瀬。
もう一つは、林の内側にある小さな窪地。
「敵は、俺たちが帰れなくなったと思わせたい。兵が不安になれば、俺は退路を直すために人を割く。そうなれば、ここを守る手が薄くなる」
「つまり、こちらを動かして数を見たい?」
「それもある。もう一つは、ここを牢にするつもりだ」
商人が喉を鳴らした。
「牢、ですか」
「帰れないと思えば、人は内側で腐る。飯の減り方を見る。水の奪い合いを見る。逃げ出す者を見る。敵はそれを待つ」
吉継は立ち上がった。
「なら、そうはさせぬ。浅瀬は直すな。燃えた道は、しばらく燃えたままでよい」
「直さないのですか?」
若い兵が思わず聞き返す。
吉継は責めなかった。
「敵が見ている場所を直せば、直す人数も道具も見られる。今は見せない」
彼は林の窪地を指した。
「水を運べる者を十人。土を掘れる者を二十人。荷車の空樽を三つ持ってこい。林の内側に水溜めを作る」
「水溜め、ですか」
「そうだ。浅瀬が使えない間、馬と人の水をそこへ移す。敵には、こちらが水に困っているように見せる」
アリスティの口元が上がった。
「やられたふりですか。嫌な領主ですね」
「嫌な相手に合わせているだけだ」
吉継は土へ魔力を流した。
派手な光はない。
地面の窪みが、静かに深くなる。土を締め、水が逃げにくい底を作る。水魔法は細く、樽から流した水を内側へ導くだけに留めた。
大きな魔法は使わない。
今ここで力を見せれば、敵に手札を渡す。
チヨネが窪地の周りをすばやく回り、枝と枯草をどかしていく。小さな手が土で汚れたが、本人はむしろ得意げに鼻を鳴らした。
「ふんふん」
「助かる。だが、頭を撫でるのは後だ」
チヨネは一瞬だけ固まった。
それから、ものすごく真剣な顔で作業速度を上げた。
アリスティが横で吹き出しかける。
緊張が、少しだけ緩んだ。
吉継はその小さな緩みを見逃さなかった。
「兵に伝えろ。帰り道は焼かれたが、帰る手段は失っていない。飯は配る。水も作る。勝手に浅瀬へ向かう者だけが死ぬ」
「はい!」
「それと、焼けた浅瀬へ見張りを二人だけ置け。近づくな。見るだけでよい。敵が確認に来るなら、そこが次の入口になる」
アリスティの目が細くなった。
「入口?」
「敵は、こちらが困ったかどうか見に来る。なら、見に来た者から敵の目をたどる」
吉継は、白い土の欠片を布に包んだ。
「帰る道を焼く相手だ。次は、水か兵糧を狙う」
その声は穏やかだった。
だが、チヨネもアリスティも、そこに怒りが沈んでいるのを感じ取った。
◇
夕刻、ヴェイラのもとへ報告が戻った。
「王国兵は逃げませんでした。浅瀬の修繕もしていません。林の内側で何かを掘っています」
帝国兵は、失敗を告げる顔をしていた。
ヴェイラは怒らなかった。
小さな手で、白鞘の柄を一度だけ叩く。
「掘っている?」
「はい。水か、穴かまでは」
「ならば、困ってはいない」
ケイスが横で静かに目を伏せた。
ヴェイラは浅瀬の方角を見た。
「大谷吉継。帰らぬなら、飢えさせる」
小柄な将の背後で、灰白色の兵たちが一斉に動き出した。
次に狙われるのは、道ではない。
補給路だった。
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