第103話:死兵の値
夜が明ける前に、各所へ放った兵が戻ってきた。浅瀬の向こうには帝国の斥候が三人。焼けたのは馬小屋一棟と飼葉の一部で、幸い負傷者はいなかった。
吉継は報告を聞き終えると、浅瀬の方角へ目を向けた。敵はまだ、こちらが混乱して退路の修繕へ人を割くのを待っている。
「火は広がっていない。負傷者もいない。ならば、今すべきは退路の修繕ではない。兵に飯を配り、持ち場を離れさせるな」
吉継の声は、いつもより静かだった。怒鳴りも焦りもしない。その落ち着きが伝わるにつれ、強張っていた兵たちの肩から力が抜けていった。
アリスティが焼けた馬小屋を見て、低く舌打ちした。
「退路を焼き、補給まで狙う。実にいやらしい手だな。まともな兵なら震えるぞ」
「震えるだけならよい」
「よいのか?」
アリスティが眉を寄せる。吉継は浅瀬に近づき、崩れた踏み石を一つ拾い上げた。白灰色に変わった土は、指で押すだけで粉のように割れた。
「愚将だな。恐怖を剥ぎ取った『死兵』の恐ろしさを知らぬか。退く道も、食う物も奪われた兵は、もう怯えぬ。総大将が率先して兵を獣に墜すなど、自ら勝機をドブに捨てるに等しい」
兵の何人かが、はっと顔を上げた。
逃げられないなら、守るしかない。食えないなら、奪われる前に戦うしかない。人は追い詰められれば弱くなることもあるが、弱さの底を抜かれた兵は、ときに命の勘定を捨てる。
吉継はそれを知っていた。
前世の戦場で、何度も見た。退路を失った兵が、名のある武者へ飛びかかる姿を。勝てぬと知りながら、仲間の屍を踏み越えて刃を向ける姿を。
「だが、こちらの兵を本当の死兵にしてはならぬ」
吉継は石を戻した。
「死ぬために戦うのではなく、生きて帰るために戦う。獣に落とすのではない。人間として動かす」
「なら、どうする」
アリスティの声に、傭兵たちも耳を傾けた。
吉継は関所跡の土間に戻り、地図を広げた。焼けた浅瀬。北の林道。南の古道。さらに、旧倉へつながる細い抜け道。
「敵は、我らが退路を直すと思っている。ならば直さぬ」
「直さない?」
「ああ。焼けた道は、そのまま敵に見せる。代わりに、南の古道から撤退するように見せかける」
ロウエンが息を飲んだ。
「見せかける、ですか」
「民と荷車を動かす。兵二百をつける。空の槍、予備の兜、布を詰めた荷を混ぜろ。遠目には三百以上の軍勢が逃げているように見える」
アリスティが目を細めた。
「私がその列を率いれば、敵は本隊が逃げたと思うわけか」
「貴殿が見えるから、敵は信じる」
「ひどい使い方だな。女心を少しは考えろ」
「傭兵団長の価値を正しく使っている」
アリスティは一瞬だけ黙り、それから小さく笑った。
「そう言われると、文句が言いにくい。いいだろう。私が派手に逃げてやる」
チヨネが吉継の袖を引いた。
「ふん……?」
「ああ。お前には二つ頼む」
チヨネの目がきらりと光る。鼻が小さく鳴った。
「ふんふん」
「南の古道に、わざと足跡を残せ。ただし、残しすぎるな。敵が見つけて喜ぶ程度でよい。それから、北の林道へは逆に何も残すな」
チヨネは頷いたあと、なぜか自分の影で小さな丸を作った。丸は二つに分かれ、片方だけぴょこぴょこと逃げる真似をする。
「……遊ぶな」
「ふん」
怒られたような顔をしたが、影の丸はまだ逃げていた。兵の一人が思わず笑い、緊張が少しだけほどけた。
吉継はそれを見て、止めなかった。
兵が笑えるうちは、まだ獣ではない。
「残る者は百。火は炊くな。水は壺ごと土に埋めろ。矢は外壁の内側へ分けて置け。門は開けておく」
「門を?」
ロウエンの声が裏返った。
「敵が欲しいのは、焼け跡ではない。使える関所だ。空に見えるなら、壊さず入ってくる」
「そこを閉じ込めるのですね」
「そうだ。だが、閉じ込めるだけでは足りぬ。逃げる道も選ばせる」
吉継は旧倉の印へ指を移した。
「カドゥ。二十四人を預ける。旧倉へ潜み、太鼓が二度鳴るまで動くな。合図の後は、中庭の中央を割れ」
壁際で黒い甲冑が揺れた。カドゥは声を抑えていたものの、赤紫の瞳は隠しきれないほど輝いている。
「待つのは苦手だが、吉継の命なら耐えよう。二度鳴れば、存分に暴れてよいのだな?」
「敵の隊列を二つに割れ。追い回すな。お前は一人で戦うのではない。二十四人を率いる将として動け」
喜びに緩んでいたカドゥの顔が引き締まった。
「承知した。全員、生きて旧倉から出してみせる」
吉継は北の林道と旧倉の抜け道を指で叩いた。
「敵は、突入に失敗すればこちらへ逃げる。だから先に潰しておく。完全に塞ぐな。少し通れそうに見せて、馬と荷だけ詰まる形にする」
アリスティの目が、そこで鋭くなった。
「逃げ道を増やしたように見せて、逃げる者を遅くするのか」
「ああ。逃げ道は、逃げるためだけにあるのではない。追う側が、敵をどこへ流すか決めるためにもある」
チヨネがこくこく頷いた。
アリスティは腕を組み、焼けた浅瀬の方を見た。
「帝国が食いつけば、私の二百が戻って背中を刺す。残った百は内側から押す。挟む形になる」
「その通りだ」
「食いつかなければ?」
「その時は、民を逃がせる。損はない」
吉継は地図をたたんだ。
どちらへ転んでも、こちらの生きる道を残す。それが戦だった。
夜が深くなる頃、南の古道へ荷車が動き始めた。泣く子の口を母親が押さえ、商人は震える手で荷紐を握る。兵二百はあえて足音を隠さず、草を踏み、車輪の跡を残していく。
その先頭に、アリスティがいた。
「派手に逃げるのも、案外難しいものだな」
彼女はそう言いながら、部下へ目だけで合図を送った。傭兵たちは怯えた兵のふりをし、だが手元の武器だけは一瞬も緩めない。
チヨネは最後に吉継の前へ戻り、頭を差し出した。
「ふん……」
「よくやった」
吉継が頭を撫でると、チヨネは目を細めた。だが、すぐに影へ沈む。次の仕事が待っているからだ。
関所跡には、百の兵と吉継だけが残った。
火はない。声もない。焼けた浅瀬の匂いだけが、夜気に混じって漂っている。
しばらくして、林の奥で鳥が一羽だけ飛び立った。
帝国の斥候が、撤退の列を見た合図だった。
吉継は白布の奥で、静かに息を吐いた。
「来るぞ。空に見える関所ほど、腹に刃を隠す」
闇の向こうで、帝国兵の足音が動き始めた。




