第104話:空の関所
夜明け前、南の古道を長い列が進んでいた。
荷車の間から槍穂が揺れ、兜を抱えた兵が何度も後ろを振り返っている。丘の上から眺めれば、退路と飼葉を失い、慌てて逃げ出した軍勢にしか見えない。
だが、ヴェイラ・バイゼンは笑わなかった。
「逃げる者にしては、列が整いすぎている」
小柄な体を覆う灰白色の外套が、朝風に揺れる。隣に立つ帝国副官が遠眼鏡を下ろした。
「先頭はアリスティ・フォン・バルシュタインです。団長まで退いているなら、本隊で間違いないでしょう」
「そう思わせるために、目立つ女を先頭へ置いたのかもしれない。関所へ何人残った?」
「火も人影もありません。門も開いたままです」
あまりにも奪いやすい。
ヴェイラは白鞘の柄を、指先で二度叩いた。
「先行隊百二十を入れる。井戸にも倉にも触るな。別の六十は北の林道へ回し、退路を確保しなさい」
「残りは?」
「ここで待つ。空なら取れる。罠なら、何を隠したか見せてもらう」
◇
関所跡の櫓には、誰の姿もなかった。
盾兵が門をくぐり、左右の土塀へ目を走らせる。中庭には火の消えた竈と、口を開けた飼葉桶だけが残されていた。
「もぬけの殻だ」
隊長が片手を上げる。三十、五十、八十。最後尾まで門を越えた時、土塀の内側を覆っていた黒い布が落ちた。
吉継は伏せていた兵の中央で、軍配を開く。
太鼓が一度、鳴った。
壁際の筵が剥がれ、弓兵が立ち上がる。放たれた矢は兵の体ではなく、盾の縁と足元へ突き立った。
「敵襲! 盾を上げろ!」
帝国兵は即座に円陣を組んだ。盾が重なり、頭上まで覆う。驚きはあっても、恐慌はない。
吉継はその動きを見届けてから、軍配を伏せた。
「水を流せ」
兵が樋の栓を抜く。土へ埋めてあった壺の水が、一斉に中庭へ流れ込んだ。
乾いた白灰色の土が水を吸い、粉から泥へ変わる。重い盾と鎧を支えきれず、帝国兵の足が沈み始めた。
それでも、隊長の判断は速かった。
「火術兵、前へ! 泥を焼け! 盾兵は板を足元へ敷け!」
三人の魔術師が杖を突き出す。赤い炎が泥の上を走り、水分を激しい蒸気へ変えた。
白煙が中庭を覆う。帝国兵は飼葉桶を砕き、板を泥へ並べて足場を作り始めた。
「さすがに、沈んで待つほど素直ではないか」
吉継は軍配を閉じ、腰の刀を抜いた。
帝国の弓兵が白煙の奥から撃ち返す。矢が土塀を越え、王国兵の肩を貫いた。別の兵が倒れた仲間を引き下げる間にも、火の弾が壁際の筵を燃やしていく。
「二列目、負傷者を下げろ。三列目が穴を埋めよ。弓兵は火術兵だけを狙え」
命じながら、吉継は土塀を下りた。
「大谷様、前へ出るのですか!」
「ここで押し返されれば、旧倉の伏兵が孤立する。俺も戦う」
白布の下で、右腕の病毒が脈打った。
「腐蝕糸」
五指から黒く湿った糸が伸びる。糸は網のように広がり、盾の革紐、弓弦、鎧を留める帯へ絡みついた。
引き絞られた弓弦が腐り落ちる。盾の取っ手が外れ、帝国兵の円陣に幾つもの穴が開いた。
代わりに、吉継の指先へ焼けた針を刺すような痛みが走る。
構わず踏み込んだ。
槍の穂先が胸を狙う。吉継は半歩だけ身をずらし、柄へ刀を滑らせた。穂先を外へ弾き、そのまま敵兵の喉を斬る。
横から迫った剣は、刃の腹で受けた。
「返刃一閃」
受け流した勢いを返す一刀が、敵の脇腹を裂く。血が泥へ落ちるより先に、吉継は次の槍の内側へ入った。
戦場で刃を向けた者に、甘さは要らない。
ただし、敵だけを見てもいなかった。右では王国兵が盾に押され、左では火術兵が二度目の詠唱へ入っている。
軍師である前に武士として斬り、武士として斬りながら、全体を見続ける。
「太鼓、二度!」
ドン、ドン、と腹に響く音が鳴った。
閉ざされていた旧倉の戸が、内側から砕け飛ぶ。
「待ちくたびれたぞ!」
黒い甲冑のカドゥが、二十四人を率いて飛び出した。円盾へ黒い圧をまとわせ、帝国兵の横腹へ突っ込む。
「怨鎧気!」
槍が胸甲を打つ。カドゥは笑いながら受け止め、円盾を押し返した。
「よい一撃だ! だが、私の後ろには通さん!」
怨盾返し(カース・リバウンド)が発動する。盾に蓄えられた衝撃が黒い波となって返り、前列の帝国兵をまとめて泥へ転がした。
二十四人は崩れた敵を深追いしなかった。二人一組で左右へ回り、カドゥが開けた穴だけを確実に広げていく。
吉継はわずかに目を細めた。
カドゥは命令通り、一人で暴れてはいない。二十四人を生かすために、自分が最も重い場所へ立っていた。
「敵陣が割れた! 左右から押せ!」
王国兵が声を上げた、その時だった。
丘の上で、白い光が地面へ落ちる。
「白坑の軍令」
ヴェイラの魔法が、関所東側の土塀を白灰色へ変えた。石と土が粉末のように崩れ、壁の一部が轟音とともに外へ倒れる。
帝国隊長が叫んだ。
「東が開いた! 陣を割るな! 負傷者を中央へ入れ、順に抜けろ!」
罠へ落ちても、まだ統制を失っていない。
さらに門外から、別の足音が迫ってきた。南へ退いたはずのアリスティたちが戻ってきたのだ。
門、旧倉、崩れた東壁。
三つの場所で兵がぶつかり、火と矢と泥が入り乱れる。
吉継は刀についた血を払い、崩れた東壁を見据えた。
「ここからが本当の戦だ。カドゥ、中央を離すな!」
「承知した、吉継!」
空だった関所は、逃げ道を奪い合う死地へ変わった。




