第105話:黒騎士の挟撃
崩れた東壁へ、帝国兵が殺到した。
先頭の盾兵が泥を踏み越え、その後ろを負傷者が進む。丘の上にいるヴェイラは、罠の内側へさらに兵を投じず、閉じ込められた百二十人だけを逃がそうとしていた。
「吉継、東へ行かせるな!」
カドゥが叫ぶ。黒い甲冑には槍傷が幾つも走っていたが、声にはまだ笑みが混じっていた。
「中央を守れ。東は俺が止める」
「一人で抱えるな。私にも寄越せ!」
「ならば十人だけ連れてこい。残りは旧倉の道を塞げ。一人も通すな」
カドゥは一瞬、倒れた味方へ目を向けた。すぐに二十四人を二つへ分け、十四人を旧倉の前へ残す。
「聞いたな! ここを一人でも抜かせれば、吉継たちの挟撃が崩れる。十四人で道を塞げ!」
先ほどまでの彼女なら、真っ先に敵へ飛び込んでいただろう。
今は違う。誰を連れ、誰を残すか、自分で決めている。
吉継は東壁へ走った。
帝国の火術兵が杖を掲げる。放たれた炎が横一列に広がり、崩れた壁の上へ火の道を作った。
「これ以上、近づけさせるな!」
熱に押され、王国兵の足が止まる。
吉継は白布の隙間から息を吐いた。肺の奥へ、鉄錆に似た痛みが広がっていく。
「腐霧帳」
足元から黒灰色の霧が噴き出した。霧は炎を消せない。だが、火術兵の視界から人の輪郭を奪い、次の狙いを定めさせなかった。
「煙に惑うな! 壁の切れ目へ撃て!」
命令に従い、火弾が霧の中へ飛び込む。
吉継は着弾する場所を読み、兵の肩を押した。直後、足元の土が爆ぜる。熱風が白と青の陣羽織を焦がした。
「大谷様!」
「止まるな。敵も見えていない」
霧へ身を隠し、吉継は火術兵との間合いを詰める。
護衛の剣が右上から落ちてきた。一足一刀の間合いへ入り、手首を斬る。返す刀で、二人目の胸を貫いた。
火術兵が杖を向ける。
「病鎖絡み(びょうさがらみ)」
地を這った黒い鎖が、杖を持つ腕へ巻きついた。血の気が失せ、詠唱のために開いた指が固まる。
吉継の右腕にも、同じ痺れが返ってきた。
刀を左手へ持ち替え、敵の肩口を斬り下ろす。火術兵が倒れたことで、東壁を覆っていた火が弱まった。
「今だ、カドゥ!」
「待っていた!」
カドゥが十人とともに霧を抜ける。長剣を横へ振るい、盾兵の列を崩した。
敵の槍が彼女の脇腹へ突き刺さる。
「痛い! 実によい!」
「喜ぶのは後にしろ!」
「分かっている!」
笑いながらも、カドゥは槍を追わなかった。円盾で敵の押し込みを受け、十人が並び直す時間を作る。
そこへ、門外から怒声が響いた。
「逃げる芝居に付き合わせた礼だ。今度はこちらが追い込むぞ!」
アリスティが百八十人を率いて戻ってきた。残る二十人は、民と荷車を安全な窪地へ導いている。
帝国兵は門と東壁へ二手に分かれた。どちらか一方を突破できれば、丘の本隊へ戻れる。
アリスティは門前へ短刀を投げた。
「重力不変の土」
小さな短刀へ数十倍の重さが集まる。石畳が砕け、門前の足場が沈んだ。
走り込んだ帝国兵が転倒し、その後ろの列まで巻き込まれる。アリスティの傭兵たちは武器を持つ敵へ刃を振るい、立ち上がる暇を与えなかった。
「隊長! 東から十九人が抜けました!」
帝国兵の声が飛ぶ。
吉継は追撃を命じなかった。丘の上にはヴェイラの本隊がいる。逃げた十九人を追えば、関所の陣が薄くなる。
「残った者を二つに割れ。丘へは出るな!」
軍配を振る。
太鼓が短く三度鳴り、王国兵が門と東壁から同時に押した。中央ではカドゥが盾となり、逃げ場を失った帝国兵を二群へ分断する。
それでも、帝国隊長は剣を捨てなかった。
「密集しろ! 一点だけ破る!」
残った兵が隊長の背へ集まる。盾を重ね、カドゥの正面へ突進した。
黒い甲冑が、泥の上を半歩滑る。
「重いな。だが、この程度で倒れると思うな!」
「怨盾返し(カース・リバウンド)!」
受け止めた衝撃が、遅れて黒い波となる。前列の盾が跳ね上がり、密集した帝国兵の姿勢が一斉に崩れた。
吉継は、その一瞬へ踏み込んだ。
隊長の剣と吉継の刀がぶつかる。力では相手が上だった。吉継は正面から押し返さず、刃を滑らせて剣先を泥へ流す。
隊長が踏み直そうとした足へ、吉継は痺れる右手を向けた。
「病鎖絡み(びょうさがらみ)」
黒い鎖が泥から這い上がり、隊長の足首へ絡みつく。二度目の術に右腕の痛みが増したが、吉継は構えを崩さなかった。
「貴様……!」
「戦は、己の力だけで決まらぬ」
吉継の刀が脇を裂く。隊長は膝をついたが、まだ剣を離さない。
周囲では二十八人が倒れ、残った兵には壁上の弓とアリスティの兵が狙いを定めていた。旧倉の前では、カドゥの部下十四人が抜け道を塞ぎ続けている。
これ以上戦えば、全員が死ぬ。
隊長は歯を食いしばり、ようやく剣を泥へ落とした。
「……降伏する。武器を捨てろ!」
剣と槍が、次々に落ちていく。
七十三人が、その場で膝をついた。
◇
北の林道へ回った六十人も、チヨネの仕掛けた丸太と矢に足を止められていた。
三人を失い、十一人が傷を負ったところで、丘から撤退の信号が上がる。残る兵は負傷者を支え、追撃を警戒しながら後退した。
ヴェイラは関所から戻った十九人を数えた。救援を出せば、吉継は次の伏兵を動かす。そう判断し、白鞘を収める。
「全軍、退く。捕らわれた者を見捨てるのではない。今ここで兵を足せば、捕虜が増えるだけだ」
副官が悔しげに関所を振り返った。
「この敗北を、どう報告しますか」
「見たままを伝える」
ヴェイラは、泥と煙の向こうに立つ白頭巾を見た。
「大谷吉継を、辺境の領主として数えるな。私と同じく、軍を食う者として盤上へ置け、と」
朝日が昇る。
関所は守られた。だが吉継の白布の下では、二つの病毒魔法を重ねた反動が、右腕から胸へ広がっていた。
刀を納めるまで、それを誰にも悟らせなかった。




