第106話 簪を握る指
王都の戦況室へ、北東の見張り塔から早馬が駆け込んだ。
「旧アルデン街道に火の手! 関所西側の浅瀬と馬小屋が燃えています。さらに、南の古道へ向かう荷車と兵の列を確認しました!」
机上の地図を囲んでいた文官たちが騒めく。帝国に退路を断たれ、大谷吉継が撤退を始めた。誰もがそう受け取る報告だった。
ミセリアだけは表情を変えなかった。
「列の先頭は」
「バルシュタイン傭兵団の旗です。アリスティ・フォン・バルシュタイン本人も確認されています」
「関所に残った兵数は」
「煙に遮られ、確認できません」
ミセリアは地図へ視線を落とした。右手は机の端に置かれている。左手だけが、髪に挿した青い硝子の簪へ触れていた。
吉継が白蝶城の店で買い、自らつけたものだ。
隣に立つトモエリアは、その指先が震えていることに気づいた。
「ミセリア」
「何だ」
「簪が折れるぞ」
ミセリアは手を離した。いつもと同じ無表情だったが、握り込んだ掌には青い硝子の跡が残っている。
白蝶城の小さな店先で、吉継はこの簪を手に取った。政務に必要な品ではないと断ったミセリアへ、彼は店の信用になると理由をつけた。
あの時も、贈り物だとは言わなかった。感情を合理性で包むところは、ミセリア自身とよく似ている。
だからこそ、今は簪の冷たさが気になった。吉継が傷ついているのか、策の途中なのか、報告だけでは分からない。分からないものを待つ時間は、どれほど複雑な政務より扱いにくかった。
「援軍を出す」
ジゼリアが真っ先に口を開いた。赤を差した白銀の鎧が鳴り、胸元の十字飾りが揺れる。
「兵が退いているなら、負傷者もいるはずだ。私の隊なら街道まで半日で着く」
「待て」
「なぜだ。火が出ているんだぞ」
ジゼリアの声には焦りがあった。以前なら、病毒を使う男が追い詰められたと聞いても、これほど顔色を変えなかっただろう。
「貴殿が進めば、帝国は王国が増援を出したと判断する。局地戦が全面衝突へ変わる」
「それでも、見捨てる理由にはならない」
「見捨てない。だから確認する」
ミセリアは南の古道を指した。
「吉継は、民を兵の後ろへ置かない。退くなら護衛をつけ、先に民を逃がす。それなのに、アリスティ本人を敵から見える先頭へ置いている」
トモエリアが地図を覗き込み、口元をわずかに上げた。
「見てほしい撤退、ということか」
「その可能性がある。今こちらが兵を動かせば、吉継が敵へ見せているものを壊す」
答えを出したミセリアの声は冷静だった。だが、机の下では右手が固く握られている。
ジゼリアは唇を噛んだ。
「なら、待っている間に助けを求められたらどうする」
「救援隊は準備する。出発命令だけを待たせる」
「私も行く」
「光を使えば、吉継を傷つける」
その一言に、ジゼリアの肩が止まった。善意の光で彼の皮膚を焼いた感触は、まだ手に残っている。
「……全軍への加護は使わない。負傷者を一人ずつ診る。あの人を助けられなくても、あの人が守ろうとした兵なら助けられる」
真っ直ぐな声だった。
ミセリアは短く頷く。
「準備を許可する。ただし、命令前に門を出るな」
「分かった。今度は、待つことも覚える」
ジゼリアが踵を返す。扉へ向かう足は速かったが、勝手に飛び出すことはなかった。
トモエリアはその背を見送り、再びミセリアの隣へ戻った。
その後、戦況室には報告のない時間が続いた。ミセリアは北東へ通じる街道、代わりに使える橋、治療隊の到着時刻を順に確認する。命令を出している間だけは、指の震えを止められた。
それでも、地図の上に置いた駒へ手が伸びる。王都の予備兵を一隊動かせば、吉継を助けられるかもしれない。反対に、帝国の待つ道へ兵を足し、彼の策ごと潰すかもしれない。
ミセリアは駒を動かさなかった。
「待つのも命令か」
トモエリアが壁へ背を預けたまま尋ねる。
「私が動きたいから兵を動かすのは、命令ではない。私情だ」
「私情があることは認めるのだな」
「言葉を増やすな」
いつも通りの短い返答だった。トモエリアは笑わず、それ以上は追及しなかった。
「ずいぶん信じているな。あの白頭巾を」
「状況から判断しただけだ」
「では、その手は何だ」
ミセリアは答えなかった。
沈黙の中、廊下から靴音が近づく。伝令が扉を開け、黒印の押された書状を両手で差し出した。
「旧アルデン街道より、第二報です!」
ミセリアは封を切った。
関所は保持。王国側の被害は軽微。帝国兵七十余を捕虜とし、敵の主力は北東へ後退した。ただし敵将は健在であり、追撃は行わない。
簡潔な文だった。最後に、避難した民と荷車も無事だと添えられている。
ミセリアの握っていた手が、ゆっくりと開いた。
「救援隊を治療隊へ変更。食料と薬を優先し、捕虜にも必要な処置を行え。帝国軍の動きを監視しながら、国境は越えるな」
「了解」
トモエリアが笑う。
「今度は状況だけの判断か?」
ミセリアは書状を胸元へ寄せた。青い簪が、窓から差す光を受ける。
「違う」
ほんのわずかに間を置き、言い直した。
「信じていた」
その声は、戦況室にいた誰にも聞こえないほど小さかった。




