第096話:赦免要求
早馬が運んできた黒印状には、もう一枚、薄い写しが挟まれていた。
帝国の募兵。
馬具、乾燥肉、矢羽、車輪の買い上げ。
そして、ヴォルガノン軍事帝国から王都へ届いた要求。
バルトロメウス・フォン・ガリアの蟄居処分を撤回せよ。
理由は一つ。
ガリア公爵は、王国と帝国の関係修復に尽くした功臣であり、その名誉を傷つけることは帝国への侮辱に等しい。
エルネは読み上げながら、眉を寄せた。
「……ずいぶん強い言い方ですね。ガリア公爵は王国の貴族なのに」
「だからこそだ」
吉継は黒印状を机に置いた。
北の宿場で殺された物乞いの男。
白い羽の封蝋。
そして、帝国の赦免要求。
別々の紙に書かれた情報が、同じ方角へ風を起こしている。
「帝国は、ガリア公爵を王国の貴族ではなく、自分たちの窓口として見ている」
「窓口」
「敵国と話す時、まず誰に話を通すか。その者が倒れれば、次の話し相手を作るまで時間がかかる」
エルネは古い写しをめくった。
ミセリアが同封した王国史の抜粋だった。
アルデン辺境領。
かつてはレガリア王国北東の豊かな領地だった。鉄鉱山と軍馬の牧地を持ち、王国にとって喉元の骨のような場所である。
そこを治めていたのは、先々代王レオンハルト・レガリアの腹違いの弟、ユリウス・レガリア=アルデン。
ユリウスの娘は、母方から帝国皇族の血を引いていた。帝国では皇女に準じる扱いを受け、王国と帝国をつなぐ血の橋でもあった。
だが、レオンハルト王が急死した。
跡を継いだ若き王子は、父の死に毒が使われたのではと疑った。
疑いの矛先は、王位に近い血を持つ叔父ユリウスへ向かう。
王宮へ来い。
その命令を、ユリウスは処刑の呼び出しと受け取った。
彼は娘と家臣を連れ、帝国へ逃げた。
帝国はそれを保護と呼び、王国は反逆と呼んだ。
争いは戦へ変わり、最後には帝国が勝った。
アルデン辺境領の大半は、帝国へ渡った。
吉継は読み終えて、目を閉じた。
「土地と血と疑心。よく燃える火種だ」
エルネは声を落とした。
「その関係を修復したのが、ガリア公爵なんですね」
「そう書いてある」
「だから帝国は怒っている」
「表向きはな」
吉継は指で地図をなぞった。
白霧境。
王都。
北東の旧アルデン領。
帝国国境。
点を結べば、王国の背骨を斜めに切る線になる。
「バルトロメウスが蟄居をあまりに素直に受けた理由が分かった」
「帝国が動くと知っていた?」
「少なくとも、動かせると思っていた」
吉継の声は静かだった。
「軽い罪を受け、被害者の顔をする。帝国は、王国が功臣を辱めたと怒る。王国内の旧貴族は、ミセリア殿が外交を壊したと騒ぐ。そうなれば、罪はいつの間にか薄まり、問題はミセリア殿の政務能力へすり替わる」
エルネは唇を噛んだ。
「ひどい。自分の罪を、国同士の問題にしている」
「上手い、と言うべきだな」
チヨネが低く鼻を鳴らした。
「ふん……」
不満らしい。
「褒めてはいない。敵の手を軽く見れば、こちらが死ぬ」
吉継は紙を畳んだ。
「ここでバルトロメウスを許せば、何が起きると思う」
「帝国との争いは、一旦避けられるかもしれません」
「その代わり、王国法が折れる」
エルネが顔を上げた。
「折れる?」
「公爵家が不正をしても、帝国が怒れば罪が消える。そう民が見れば、役人も商人も貴族も学ぶ。法は力のある者に曲げられる、と」
吉継は白布の下で息を吐く。
「一度折れた法は、次に民を守る時、盾にならぬ」
エルネは何も言えなかった。
チヨネが吉継の袖を掴む。
「ふん」
やるのだな、という確認。
「ああ。だが、怒って動くのではない」
吉継は新しい紙を取った。
「帝国が本当に戦を望んでいるのか。あるいは、バルトロメウスを助けるために兵を見せているだけか。それを見極める」
「どうやって」
「まず、どこに兵が集まっているかを見る」
吉継は地図を広げた。
王都、白霧境、北東の旧アルデン街道。
そして帝国国境へ続く細い道。
指先が、国境近くの三つの地点で止まる。
「旧アルデン街道の関所跡。黒馬原の牧地。鉄鞍峠の麓。この三つのどれかだ」
エルネは地図を覗き込んだ。
「なぜ、そこだと」
「兵を動かすには道がいる。馬を使うなら草と水がいる。荷車を通すなら坂が緩い場所を選ぶ。帝国が本気で攻めるなら、まずこの三つへ人と物を寄せる」
「一つではなく、三つ」
「一つだけなら脅しだ。三つとも動けば、戦の支度と見ていい」
チヨネが地図の端に身を乗り出し、黒馬原の名に小さな指を置いた。
「ふん?」
そこを見ればよいか、と聞いている。
「頼む。だが近づきすぎるな。数を知りたい。旗の色、馬の数、荷車の向き。それだけでいい」
チヨネは胸を張った。
「ふんふん」
任せろ、という得意げな音だった。
吉継は次にエルネを見た。
「エルネは倉を見ろ」
「白霧境の倉ですか」
「米、干し肉、矢羽、飼葉、銭。今こちらが何日動けるかを知りたい。敵を読むには、まずこちらの腹の中を知らねばならぬ」
エルネはすぐに紙を抱え直した。
「分かりました。兵を動かすなら、払う銭も要ります。雇える人数、食わせられる日数、今夜中に出します」
「助かる」
吉継は静かに頷いた。
戦は、まだ始まっていない。
だが地図の上では、もう敵味方が動いている。
帝国が旧アルデンを掲げるなら、王国の古傷をえぐるつもりだ。
バルトロメウスの赦免を叫ぶなら、王国法を試している。
もし二つを同時に使うなら。
北東へ兵を見せ、王都へ圧力をかけ、白霧境のような新しい領を不安に落とす。
民が揺れ、商人が逃げ、兵が疑えば、城は攻められる前に弱る。
「敵の狙いは、城を焼くことだけではない」
吉継は地図の上に置いた指を、白霧境で止めた。
「こちらを疑わせ、疲れさせ、勝手に崩れさせることだ」
エルネの顔が強張る。
「そんな戦い方もあるんですね」
「ある。刀を抜かずに、人の腹を裂くような戦だ」
チヨネが不快そうに鼻を鳴らした。
「ふん……」
「だから、こちらは先に見る。敵がどこに立ち、何を持ち、どの道を使うか。姿が見えれば、策は組める」
吉継は筆を置き、最後に一文を書いた。
バルトロメウスの赦免は、まだ出すべきではない。
その下に、もう一文。
法を曲げれば、王国は外敵より先に内側から崩れる。
チヨネが紙を覗き、こくりと頷いた。
「ふん」
今度は、納得の音だった。
吉継は窓の外を見る。
風が、北から吹いている。
まだ戦の匂いは薄い。
だが、兵糧が動き、馬具が動き、人が動けば、薄い匂いはすぐに濃くなる。
「戦は、剣を抜く前に始まる」
吉継は静かに言った。
「ならば、こちらも先に見る。敵が動く前に、敵の道を読む」




