第092話:風が証人を守る
ローデン・ヴァイス確保へ動くミセリア。
だが、証人を生かして捕らえる前に、口封じの刃が王都の路地へ迫ります。
王都の朝は、鐘より先に荷車の音で始まる。
石畳を車輪が叩き、パンを焼く匂いが路地へ流れ、眠そうな水売りが桶を担いで歩く。
その人混みの端を、黒革の書類鞄を抱えた男が急いでいた。
ローデン・ヴァイス。
ガリア家令室の外回り補佐官。
普段なら、誰の目にも残らない文官である。だが、この朝だけは違った。
彼は何度も背後を振り返り、ガリア家の門へ続く大通りを避け、職人街の細い道へ入った。
待っていた女騎士が、壁にもたれて口の端を上げる。
「遅い。臆病者は足だけ速いと思っていたが、そうでもないらしい」
トモエリア・ラングレイス。
深い緑の髪を高く結び、銀の軽鎧の上から灰色の外套を羽織っていた。剣の柄には布を巻き、遠目には護衛騎士に見えない。
ローデンは足を止めた。
「な、何のことです。私は家令室へ急ぐ身で」
「急ぐなら正面を通れ。逃げる者ほど、道を選びすぎる」
路地の反対側から、政務院の外記官が二人現れる。
そのさらに後ろに、ミセリアが立っていた。
表情はいつも通り変わらない。だが、視線だけは紙より冷たい。
「ローデン・ヴァイス。王都倉庫局の臨時雇い記録、白蝋購入の保証記録、セヴラン・モルトの推薦状について聞く」
ローデンの顔から血の気が引いた。
「私は知りません。家令室の雑務を運んだだけです。中身までは」
「その言い訳は早い。用意していたな」
ミセリアが一歩進む。
その瞬間、屋根の上で乾いた音がした。
弩の弦。
「ミセリア!」
トモエリアが叫ぶより速く動いた。
気力身体強化。
足元の空気が低く鳴り、彼女の姿が一瞬だけぶれる。放たれた短矢はミセリアの肩を狙っていたが、横から伸びた鞘に弾かれ、壁へ突き刺さった。
同時に、左右の路地から男たちが飛び出す。
顔を布で隠した四人。
狙いはミセリアではない。
ローデンだ。
「口封じか。分かりやすくて助かる」
トモエリアは笑った。
だが、目は笑っていない。
「親友の前で証人を殺すなら、まず私を通れ」
男の一人が短剣を突き出す。
トモエリアは半歩だけ沈み、旋風踏破で横へ消えた。踏み込んだ場所に、丸い砂跡だけが残る。
次の瞬間、男の背後に立っていた。
長刀は抜かない。
鞘で肘を叩き、膝裏を蹴り、男を石畳へ叩きつける。
「生きていろ。喋れる仲間が多いほど、こちらは楽だ」
二人目が斧を振る。
トモエリアの長刀が半分だけ抜けた。
風刃纏。
刀身の周囲で空気が白く震える。刃は斧の柄だけを裂き、勢いを失った男の喉元に鞘尻が入った。
男は声も出せず、膝から崩れる。
三人目はローデンへ飛びかかった。
ローデンは情けない声を上げ、鞄を抱えて腰を抜かす。
トモエリアは舌打ちした。
「証人なら、もう少し役に立て!」
風が走る。
彼女の外套が翻り、刃より先に足が届いた。三人目の足首を払い、倒れたところを外記官が縄で押さえる。
最後の一人は屋根へ逃げようとした。
「逃がすな」
ミセリアの声は短い。
「親友の命令だ。破る理由がない」
トモエリアは長刀を納めたまま壁を蹴った。
屋根瓦が鳴る。逃げる男の足元へ先回りし、鞘を腹に入れる。
男は屋根から落ちた。
下では兵が布を広げていた。落下の衝撃で気を失うが、命は残る。
路地が静まった。
ローデンだけが、荒い息を吐いている。
「私は、私は何も」
「鞄を置け」
ミセリアが言った。
「嫌なら、この場でガリア公爵家の命令だったと叫べ。そうすれば、貴殿を守る者が本当にいるか分かる」
ローデンは口を開いた。
だが、誰も来ない。
ガリア家の門は遠い。
朝の人混みは、ただこちらを見ている。
トモエリアが鞄を奪い、二重底を指で探った。
「あったぞ。白い蝋。羽の型。あと、削った紙片だ」
ミセリアは紙片を受け取った。
そこには、薄く残った文字がある。
倉庫局。
青獅子。
家令室。
そして、白い鳥。
「ローデン。貴殿はまだ公爵を守れると思っているか」
「私は……命じられただけです」
「誰に」
ローデンの唇が震えた。
「家令室長です。公爵閣下へ、直接つながる書類ではありません。だから、私なら軽い罪で済むと」
ミセリアは紙片を畳んだ。
「よい。今の一言で十分だ」
「助けて、くださるのですか」
「貴殿を助けるとは言っていない。だが、殺されるより先に裁く」
トモエリアが肩をすくめる。
「冷たいようで、案外優しいな」
「優しさではない。証人は死ぬと使えない」
「そういうところだぞ、ミセリア」
ミセリアは答えなかった。
ただ、白い封蝋片を見つめる。
ガリア公爵家を一撃で落とす証拠ではない。
だが、一番軽い罪で呼び出せる。
未登録封蝋の使用。
家令室の不正記録。
証人隠し。
小さな罪ほど、相手は軽く見る。
だから逃げ道を残したまま、法廷へ出てくる。
「バルトロメウス・フォン・ガリアへ召喚状を出す」
ミセリアは静かに言った。
「最初に問うのは、最も軽い罪だ」
トモエリアは血のついていない鞘を肩に担ぎ、にやりと笑った。
「軽い罪で呼んで、重い顔を見に行くわけか。貴女もなかなか悪い」
「吉継ほどではない」
その言葉だけ、ミセリアの声がわずかに柔らかかった。
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