第090話:夜に戻る手
青獅子印の空箱を見つけた吉継。
証拠を消したい者は、必ず戻ってくる。そう読んだ彼は、白蝶城の倉で静かに待ち構えます。
しかし、戻ってきた手を狙う別の影もまた、闇の中に潜んでいました。
空箱を見つけた夜、吉継は倉の戸を閉めなかった。
鍵をかけ忘れたわけではない。
古びた錠前をいつもより少しだけ斜めに掛け、戸板の下に細い木屑を挟んでおいた。開ければ、木屑が落ちる。
証拠を消したい者なら、必ず戻る。
そう読んだからだ。
「本当に来ると思いますか」
エルネが声をひそめた。手には写しを取った鉛板の番号表がある。目は眠そうなのに、指だけは紙を離さない。
「来ぬなら、それでよい。箱は残る」
「来たら?」
「来た者の顔と手を見る」
カドゥが壁際で首を傾げた。鎧の黒が夜に溶け、頭のない姿は、初めて見る者なら叫び出してもおかしくない。
「斬らぬのか」
「先に聞く。誰の命で来たか。何を持ち出すつもりか。答えられるなら、それでよい」
「答えられないなら?」
カドゥが、楽しげに肩を鳴らした。
「まあ、私に任せろ。逃げ道を塞ぐのは得意だ」
「知っている。だから今夜は門ではなく、倉の裏に立て」
カドゥは少しだけ嬉しそうに胸を張った。首がないのに、なぜ得意げだと分かるのか。吉継はもう深く考えないことにした。
チヨネは梁の上にいた。
影で小さな木屑をつまみ、落としては拾い、落としては拾う。
ふん。
遊んでいるようで、倉の戸と窓と屋根裏をすべて見ている。
「チヨネ。音が鳴る前に、手だけ止めろ」
ふんふん。
分かった。褒めろ。
「終わったらな」
チヨネの影が、少しだけ丸く弾んだ。
夜半。
白蝶城の外郭に、風とは違う音が混じった。
砂を踏む足。
息を殺しすぎた息。
慣れた盗人なら、足音より衣擦れを消す。だが、今近づいている者は盗人ではない。紙と印には慣れているが、夜の土には慣れていない足だった。
戸が、細く開く。
木屑が落ちた。
同時に、チヨネの影が手首を縫った。
「うっ」
男が短く呻いた。
吉継は灯りを掲げる。
そこにいたのは、細い体の文官風の男だった。灰色の外套。泥の付いた靴。手袋はしていない。だが、袖口に白い硝子粉が薄く残っていた。
「名は」
「な、何のことだ。私はただ、忘れ物を」
「忘れ物なら、夜に錠前を外す必要はない」
男の喉が鳴った。
カドゥが倉の裏口に立つ。逃げ道が一つ消える。さらにアリスティの部下二人が外の小道を押さえた。
「叫ぶなら構わぬ。ここは俺の倉だ。困るのは、夜に入った貴殿だ」
「わ、私は王都倉庫局の臨時書記、セヴラン・モルトだ。正式な確認命令を受けている」
エルネが半歩前へ出た。
「確認命令なら、文書を出してください。口だけなら、町の酔っ払いでも言えます」
「ある。あるとも」
セヴランは懐へ手を入れようとした。
チヨネの影が、その指をぴたりと止める。
ふん。
怪しい。
「エルネ。貴殿が取れ」
「はい」
エルネが懐から折り畳まれた紙を抜き取った。封はある。だが、印の位置が少し低い。
「王都倉庫局の印に見えます。でも、日付が抜けています」
「急ぎの命令だったのだ!」
「急ぎなら、なおさら日付は抜けません。あと、この紙、王都の紙ではありません。白霧境の市で売っている安い紙です」
セヴランの顔から血の気が引いた。
吉継は箱の前へ歩いた。
「貴殿が欲しいのは、この二重底か」
「知らない。私は、空箱を確認しろと」
「誰に」
沈黙。
吉継は一歩、セヴランへ近づいた。
白布の下で、病毒魔力が静かに脈を打つ。
指先に黒い筋が浮いた。
病毒魔法の技、病刃封脈。
血と喉の動きを鈍らせ、嘘を吐く余裕を奪うための細い毒。
「答えぬなら、舌ではなく脈に聞く」
「ひっ」
「殺しはせぬ。だが、嘘をつく手と喉を鈍らせる。楽ではないぞ」
カドゥが一歩踏み出す。
床板が、ぎしりと鳴った。
「答えた方がよいぞ。私は加減が下手だ。吉継の方が、まだ話を聞いてくれる」
脅しではなく、本人の正直な申告だった。
セヴランは唇を震わせる。
「が、ガリア公爵家の」
そこまでだった。
倉の影が、音もなく裂けた。
女だった。
細い藍色の布で口元を覆い、髪を低く結んだ、しなやかな影。
チヨネの影が反応するより早く、銀の線がセヴランの喉元を横切った。
「チヨネ!」
吉継の声と同時に、チヨネの影が床を走る。
だが、女はもう戸口にいなかった。
梁。
窓枠。
外の闇。
一瞬ごとに居場所が変わる。
カドゥが裏口を塞ぐより早く、女の姿は夜へ溶けた。
セヴランが膝をつく。
吉継は駆け寄り、喉へ布を押し当てた。
血は多くない。
だが、呼吸が浅い。
刃に毒がある。
「治療布を」
エルネが震えながら布を差し出す。
セヴランの唇が動いた。
「家、令……室……白い、鳥の、封……」
声はそこで途切れた。
吉継は目を細めた。
今の女を見た瞬間、頭の奥で何かが鳴りかけた。
偉人転生体を見る時の、あの感覚。
だが、一瞬すぎた。
名は掴めない。
ただ、喉を裂くためだけに生まれたような鋭さと、誰かに縛られているような冷たさだけが残った。
「吉継。追うか」
カドゥの声が低い。
「追わぬ。あれは追わせるための影だ」
「逃がすのか」
「逃げた方角を追えば、こちらの守りが空く。今は、死んだ者の口を紙に残す」
吉継はセヴランの袖口についた白い硝子粉を見た。
白い手袋の男。
三日月亭。
青獅子の箱。
そして、ガリア家令室。
白い鳥の封。
線はまだ一本の縄ではない。だが、敵は証人を殺してまで、その線を切りに来た。
「ミセリア殿へ送る。王都側で、ガリア家令室の出入り記録と、白い鳥の封を洗ってもらう」
「今夜のうちにですか」
エルネが目を丸くする。
「敵は今夜動いた。こちらも今夜動く」
吉継は窓の外を見た。
白蝶城の闇は静かだった。
だが、その静けさの下で、王都へ続く線が音もなく引かれていく。
敵が証拠を消しに来た。
そして、証人を殺して逃げた。
それは、こちらが踏んだ場所に急所があったという、何よりの返事だった。
今回は、証拠を消しに来た手を捕まえるはずが、さらに奥の暗殺者が現れる回です。
ガリア家令室、白い鳥の封、そして一瞬だけ現れた女刺客。
王都側の闇が、少しずつ刃を持ち始めました。
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