第9話:崩れる石の戦場
旧採石場で追跡者に見つかった吉継とチヨネ。
負傷した吉継は、正面から戦わず、崖と水路と魔物の動きを読みます。
頭上の男は、短弓を引き絞っていた。
革鎧に毒矢、石粉に汚れた靴。
どれも、この場所で人を待ち伏せることに慣れた者の印だった。
山賊というには装備が整っている。
傭兵というには動きが浅い。
捕縛屋。
吉継は、そう見た。
殺すより、捕まえて売ることに慣れた者の目だった。
「影使いの小娘を渡せ。男の方は、神殿に売る」
男はそう言い、矢の先を吉継の胸へ向ける。
チヨネの影が、足元で牙を剥いた。
影牙。
黒い輪郭が水面へ広がり、石喰い鼠たちが一斉に動きを止める。
だが、チヨネの肩は震えていた。
怒りと恐怖が混じり、その奥には吉継の右腕への心配がある。
「下がっていろ。お前を売り物の目で見る者に、近づかせたくない」
「ふん……!」
抗議。
置いていかない。
そう言っている。
「なら、私の影から離れるな。怖くても、ここだけは俺に預けろ」
チヨネはすぐに頷いた。
頭上の男が笑う。
「相談は終わったか」
「一つ聞く」
吉継は白布の奥から男を見上げた。
「お前たちは何人だ。答え次第で、こちらの怒り方が変わる」
「答えると思うか」
「答えなくてよい。その目で十分だ」
吉継は、男の背後へ視線をずらした。
男の眉がわずかに動く。
その反応だけで、吉継には十分だった。
背後に仲間がいる。少なくとも二人。
吉継は足元の水面を見た。
石喰い鼠は、血のついた布を奪い合っている。
その周囲の水が濁り、石粉が舞っている。
頭上の崖は白い。
乾いた石が層になり、ところどころに亀裂が走っていた。
崩れやすい。
グレンがそう言っていた。
戦場識。
崖。
矢の角度。
男の足場。
水路。
石喰い鼠。
チヨネの影。
背後から来る二人の足音。
吉継の頭の中で、採石場が一枚の図になる。
勝つ必要はない。
逃げ道を作ればよい。
「チヨネ」
「ふん」
「あの男の足元を見ろ。石の色が違う。怯えるな、あそこが崩れる」
チヨネは目を細めた。
崖の上、男の右足の下。
そこだけ白い石粉が厚い。
下に空洞がある。
古い採石場で、石を抜いた跡かもしれない。
「触れるな。揺らすだけでいい」
チヨネの影が、水面を滑る。
男はそれに気づき、矢を放った。
吉継はチヨネを抱き寄せ、半歩横へずれる。
矢が水を叩いた。
毒が広がったのか、水面に薄い紫が滲む。
「毒矢か」
「動くな。次は当てる」
「当てる気なら、最初から放っている」
男の顔が歪む。
図星だった。
殺せば価値が落ちる。
だから、脅している。
その欲が、隙になる。
だが、すべての敵が生かして捕るとは限らない。
背後の水音が変わった。
ばしゃり、ではない。
踏み込みの音。
吉継は振り返らず、チヨネの肩を押した。
「伏せろ、チヨネ! 頭を上げるな!」
チヨネが水面すれすれに身を沈める。
直後、背後から曲刀が振り下ろされた。
狙いはチヨネだった。
小さく、軽く、売り物になる影使い。
傷をつけずに捕る気などない。
足を斬って動きを止めるつもりだ。
吉継の目が冷えた。
交渉の余地は消えた。
刀が抜ける。
古びた刃だった。
刃こぼれもある。
名刀ではない。
だが、刀は刀だ。
人を斬るには足りる。
吉継は右腕を使わなかった。
左手で柄を取り、身体ごと半歩だけ沈む。
一足一刀。
前世で学んだ、最短の理。
かつて敦賀にいた頃、吉継は一人の剣客と向き合ったことがある。
伊藤一刀斎。
諸国を渡り、剣の理を極めんとした男。
その眼は、武芸者というより、刃そのものに近かった。
ある日、一刀斎は吉継の前で、木剣を二本、地面に置いた。
一つは長く。
一つは短い。
「大谷殿。長き剣を前にして、まだ勝てる顔をしておられるな」
吉継は答えた。
「間合いを取れば、長き剣が有利でしょう。理の上では」
「左様。では、その理を一歩で踏み潰せば?」
一刀斎は短い木剣を拾った。
次の瞬間、吉継の目の前からその姿が消えた。
いや、消えたのではない。
こちらの視線が追う前に、半歩だけ内側へ入っていた。
長い剣が力を持つ前の懐。
腕が伸び切る前の死角。
人が「斬る」と思った瞬間に生まれる、ほんのわずかな空白。
そこに、一刀斎は立っていた。
木剣の先は、吉継の喉元に添えられている。
「剣とは、速さではござらん。焦った足ほど、よく死にまする」
一刀斎は静かに言った。
「相手より先に動くことでもない。相手が勝ったと思い込んだ間合いを、一歩で殺すこと。それができれば、長さも力も一瞬だけ黙りまする」
吉継は、その一歩を忘れなかった。
病に蝕まれ、戦場では輿に乗る身となっても。
采配を握ることが増え、刀を抜く機会が減っても。
一刀斎の半歩だけは、身体の奥に残っていた。
敵の曲刀が振り下ろされる前に、その内側へ入る。
相手の刃が力を得る前の、もっとも脆い間合い。
吉継の刀が、男の脇腹を斜めに抜けた。
水音が止まる。
男は何が起きたか分からない顔で、吉継を見た。
「お、まえ……」
言葉は最後まで続かなかった。
男が水路へ倒れる。
赤が広がる。
チヨネが息を呑んだ。
吉継は刀を構えたまま、倒れた男から目を逸らさなかった。
人を斬る感触は、忘れていない。
忘れられるものではない。
だが、震えている暇もない。
「チヨネ。見るな」
「ふ……」
「これは戦だ。お前を奪う刃に、遠慮は要らぬ」
吉継は静かに言った。
「お前を奪うために刃を向けた者を、私は斬る。怖いなら、俺の背だけ見ていろ」
チヨネの影が、吉継の影へ強く寄り添った。
恐怖。
それでも、離れないという意思。
頭上の男の顔から、笑みが消えていた。
「こいつ、ただの病人じゃねえ」
「病人であることは否定しない。だが、病で刀まで錆びた覚えはない」
吉継は血のついた刃を水面で払った。
「だが、武士だ。守ると決めた相手の前で、膝は折らぬ」
この世界の者に、その言葉の意味は通じないかもしれない。
それでも、今だけは言い換える気になれなかった。
関ヶ原で死んだ男の、最後に残った名乗りだった。
チヨネの影が、崖下の亀裂に触れた。
ほんの少し。
揺らす。
男の足元で、石粉がさらりと落ちた。
「何を」
男が下を見る。
その瞬間、吉継は足元の水を蹴った。
水しぶきが上がる。
石喰い鼠たちが驚き、血の匂いを追って暴れる。
水路の奥から、さらに数匹が飛び出した。
吉継は血のついた布切れを、崖の下へ蹴り飛ばす。
石喰い鼠が一斉にそちらへ走った。
崖の下。
男の足場の真下。
「くそっ、鼠どもが」
頭上の男が舌打ちする。
背後から、別の男の声がした。
「下へ回れ! 水路の出口を塞げ!」
やはり二人。
いや、足音は三つ。
上に一人。
回り込む者が二人。
吉継はチヨネを見た。
「出口まで走れるか。走れぬなら、俺が抱えてでも行く」
チヨネは強く頷いた。
「ふん」
「よし」
吉継は走り出した。
右腕が軋む。
包帯の下で、傷が熱を持つ。
だが、ここで止まれば囲まれる。
水路の出口は狭い。
大人が一人ずつしか通れない。
待ち伏せる側には有利。
だからこそ、出口へ向かうだけでは駄目だ。
吉継は走りながら、左手で刀の鞘を抜いた。
刃ではなく、鞘。
出口の手前。
崩れた木の支柱が一本、水路の壁にもたれている。
古い。
腐っている。
だが、まだ石を支えている。
吉継は鞘で、その支柱を打った。
鞘打。
人ではない。
木の継ぎ目。
一点だけ。
乾いた音と共に、支柱が割れた。
頭上で、石が鳴る。
「チヨネ、右へ」
チヨネが右の岩棚へ飛び移る。
吉継も続こうとした。
だが、右腕の痛みで一瞬だけ足が遅れた。
石が落ちる。
チヨネの影が伸びた。
影纏。
黒い影が吉継の腰へ巻きつき、強引に引いた。
次の瞬間、落石が水路を塞ぐ。
水しぶき。
石粉。
追ってきた男たちの怒鳴り声。
「道が!」
「回り込め!」
出口の手前に、低い石の壁ができた。
完全ではない。
だが、数分は稼げる。
吉継は膝をついた。
右腕が熱い。
息が浅い。
チヨネが駆け寄る。
「ふん……!」
怒っている。
心配している。
泣きそうでもある。
「助かった。今の一引きがなければ、石の下だった」
吉継は左手でチヨネの頭を撫でた。
「今の影は見事だ」
「ふん……」
チヨネは嬉しそうにしかけて、すぐに吉継の右腕を見た。
無言のプルプル。
「分かっている」
吉継は立ち上がる。
チヨネのプルプルが強くなる。
「ここでは休めぬ。悔しいが、まだ追われている」
チヨネは抗議したまま、吉継の外套の裾を掴んだ。
離さない、という意思。
「置いていかぬ。お前を置いて進む道など、俺にはない」
その言葉で、チヨネの震えが少しだけ収まった。
二人は岩棚を進む。
水路の出口から外へ出ると、旧採石場の低い谷に出た。
朝日が崖の上を照らしている。
白い石肌が光を反射し、目に痛い。
吉継は白布の端を押さえた。
強い光ではない。
魔法でもない。
それでも、光に焼かれた傷は反応する。
この身体は面倒だ。
だが、文句を言っても治らない。
背後で、崩れた石を乗り越える音がした。
追跡者が早い。
石喰い鼠と落石で稼いだ時間は、思ったより短い。
吉継は谷を見渡す。
左は崖。
右は古い運搬路。
正面に、倒れた石柱。
その先に、低い坑道口。
坑道の中は暗い。
チヨネには有利。
だが、崩落の危険もある。
「坑道へ入る」
チヨネは一瞬不安そうにしたが、すぐ頷いた。
暗がりの方が、彼女の影は落ち着く。
二人が坑道口へ向かった瞬間、崖の上から声がした。
「止まれ!」
頭上の男だ。
さきほどの弓兵。
だが、今は足元が危うい。
チヨネが揺らした亀裂が、まだ崖に残っている。
吉継は振り返る。
「追ってくるなら、足元を見ることだ」
「脅しか」
「忠告だ」
男は笑い、踏み出した。
その足元で、石が崩れた。
「なっ」
崖の一部が、ざらりと滑る。
大きな崩落ではない。
だが、人一人の体勢を崩すには十分だった。
男が膝をつく。
放たれた矢は、狙いを外れて石柱に当たった。
その音に、坑道の奥で何かが動いた。
低い唸り。
チヨネの影が硬直する。
「ふ……」
吉継も足を止めた。
坑道の奥。
暗闇の中で、黄色い目が二つ光る。
狼。
いや、皮膚が岩のように硬い。
岩皮狼。
グレンが言っていた魔物。
初めて見る。
吉継は刀へ手をかけた。
右腕ではなく、左手で。
前方に魔物。
後方に追跡者。
頭上に弓兵。
悪い形だ。
だが、悪い形は、敵にとっても同じだ。
岩皮狼が、こちらを見ている。
血の匂い。
音。
動く獲物。
それをどう選ぶか。
吉継は呼吸を殺した。
チヨネの肩に手を置く。
「動くな」
チヨネは震えながら頷いた。
背後の追跡者たちが、落石を越えて谷へ出てくる。
「いたぞ!」
その声に、岩皮狼の耳が動いた。
吉継は白布の奥で、静かに告げる。
「声を出した方が、獲物になる。騒ぐ者から喰われるぞ」
次の瞬間、岩皮狼が吉継たちを越えて駆けた。
狙いは、谷へ飛び出してきた追跡者たち。
「うわっ、なんだこいつ!」
悲鳴。
剣を抜く音。
岩の爪が石を叩く音。
谷が混乱に包まれた。
チヨネが吉継を見上げる。
「ふん……?」
「魔物は知らぬ。だが、獣の習性なら少しは読める」
吉継は坑道の壁に手をつき、奥ではなく横道を探す。
風がわずかに流れている。
出口がある。
「今のうちに抜ける」
二人は坑道へ入った。
背後では、追跡者たちの怒号と岩皮狼の唸りが響いている。
吉継は振り返らなかった。
殺すために仕掛けたわけではない。
だが、追う者は、自分の足で危地へ入った。
その結果までは背負えない。
坑道の中は冷たかった。
チヨネの影が、ようやく落ち着きを取り戻す。
暗がりの中で、彼女は吉継の裾を掴んだまま歩いた。
しばらく進むと、横穴の先に薄い光が見えた。
魔法ではない。
朝の光だ。
出口。
吉継はそこで足を止め、壁に背を預けた。
息が荒い。
右腕の包帯に血が滲んでいる。
チヨネがすぐに革袋から予備の包帯を出した。
「ふん」
座れ。
そう言っている。
「少しだけだ。お前が怒る前に座る」
チヨネは首を横に振る。
「ふん」
ちゃんと座れ。
吉継は、抵抗を諦めた。
岩壁に腰を下ろす。
チヨネは不器用に包帯を替えようとした。
手つきはぎこちない。
けれど、必死だった。
吉継はその手を見つめる。
かつて鎖に繋がれていた手。
今は、自分の傷を押さえようとしている。
「上手い。不器用でも、逃げずに触れている」
チヨネが目を丸くする。
どう見ても上手くはない。
だが、吉継は続けた。
「丁寧だ。痛みより、その手つきの方がありがたい」
チヨネは、少しだけ頬を赤くした。
「ふん……」
照れ。
そして、もっと役に立ちたいという願い。
吉継は左手で彼女の頭を撫でる。
「助かっている。お前はもう、守られるだけの子ではない」
「ふんふん……」
小さく甘えるような音。
その時、坑道の外から遠い声が聞こえた。
「こっちだ! 東境神殿へ報告を送れ!」
神殿の者ではない。
追跡者の一人だ。
生き残ったか。
吉継は目を開いた。
情報が渡る。
旧採石場。
影使い。
病毒の男。
岩皮狼。
東境神殿への報告が、さらに濃くなる。
長くは留まれない。
それでも今は、数呼吸だけ休む。
動くために。
守るために。
吉継は出口の光を見た。
旧採石場の向こうに、まだ知らない道が続いている。
この世界は敵意ばかりではない。
だが、敵意は確実に追ってくる。
ならば、追いつかれる前に学ばねばならない。
魔法を。
気力を。
この国の制度を。
そして、三成の魂へ至る道を。
吉継は立ち上がった。
今度は、チヨネも止めなかった。
ただ、裾を掴む手に力を込める。
離れない。
そう言っている。
「行くぞ。痛みは置いていく。足だけ前へ出せ」
「ふん」
白布の軍師と影の少女は、坑道の出口へ歩き出した。
背後で崩れる石の音を聞きながら。
まだ見ぬ王都へ続く、遠い道へ。
お読みいただきありがとうございます。
今回は吉継らしく、相手を直接倒すのではなく、地形と習性を利用して切り抜ける回でした。
ただし、チヨネへ刃を向けた敵に対して、吉継が武士として刀を抜く場面も入っています。
チヨネも少しずつ、吉継を守る動きが増えてきています。




