第8話:旧採石場の策
夜明け前、吉継とチヨネは境の町リュカを出る。
向かう先は、神殿の巡礼道を避けるための旧採石場でした。
夜明け前の町は、眠りと警戒のあいだに沈んでいた。
境の町リュカの路地には、まだ朝の市場の声はない。
代わりに、犬の短い鳴き声と、遠くの小神殿から聞こえる鈴の音だけが細く響いている。
吉継は物置の戸を静かに開けた。
右腕の痛みは引いていない。
マーヤの薬で熱は抑えられているが、包帯の下では病毒の呪痕がまだ鈍く脈打っている。
動ける。
だが、戦える状態ではない。
その判断を間違えれば、チヨネを巻き込む。
「ふん……」
足元で、チヨネが小さく鼻を鳴らした。
眠っていない顔だった。
いや、眠れなかったのだろう。
影は戸口の隙間に薄く伸び、外の気配を探っている。
「数は」
吉継が小声で問う。
チヨネは指を二本立てた。
昨日と同じ見張り。
だが、すぐにもう片方の手で、さらに三本。
吉継は目を細める。
「別口か」
チヨネはこくりとうなずく。
二人は神殿の見張りだろう。
三人は別の気配で、殺意は薄い。
だが、獲物を探すような粘りがある。
奴隷狩りの残りか、あるいは測定石の噂を聞いた者か。
いずれにせよ、町を出るには今しかない。
グレンは裏口に立っていた。
片手には古びた外套、もう片方の手には小さな革袋があった。
「起きてたか」
「眠りは浅い。深く眠れる身分ではない」
「だろうな」
グレンは革袋を渡した。
「干し肉、黒パン、薬草包み。マーヤからだ。包帯は昼前に一度替えろ」
「礼を言う」
「礼なら生きて言え。死なれたら、マーヤに俺が怒られる」
グレンは路地の奥を顎で示した。
「北の裏門は俺の部下が見る。口の堅いやつだ。そこから出て旧採石場へ向かえ」
「旧採石場」
「昔、石を切り出してた場所だ。今は崩れてる。正規の巡礼道を避けられるが、足場が悪い。魔物も出る」
魔物。
吉継はその言葉を聞いて、すぐに尋ねた。
「どのようなものだ」
グレンは一瞬、意外そうな顔をした。
それから、すぐに思い直したように説明する。
「この辺なら石喰い鼠、崖蜘蛛、たまに岩皮狼。人を見れば襲う。特に血の匂いには寄る」
チヨネが吉継の右腕を見る。
無言のプルプル。
「気をつける」
「ふん」
不満。
信じていない。
グレンが口元を緩めた。
「あんた、本当にその子に信用されてないな」
「信用はされている。無茶をしないという点だけ疑われている」
「そこが一番大事だろ」
「そうとも言う」
グレンは低く笑い、すぐに真顔へ戻った。
「神殿の見張りは、まだ様子見だ。だが別の連中がいる。たぶん、黒森の奴隷狩りの仲間か、噂を聞いたごろつきだ」
「チヨネを狙うか」
「影使いは高く売れる。あんたも、病毒持ちで魔力量が多いとなれば、欲しがるやつはいる」
「私を?」
「研究材料、見世物、処刑の手柄。世の中、嫌な使い道には困らん」
吉継は黙った。
前世でも、人は人を道具にした。
この世界だけが特別に残酷なわけではない。
「分かった」
吉継はチヨネを見る。
「町を出る。見張りは倒さぬ。気づかせずに抜ける。恩を受けた町に血は残さぬ」
チヨネは頷いた。
「ふん」
任せて。
そう聞こえた。
裏路地は狭かった。
グレンが先導し、吉継とチヨネが続く。
チヨネの影は、壁際の暗がりを滑るように伸びていた。
神殿の見張りは、マーヤの家の表側にいた。
正面を見ている。
裏口は見ていない。
グレンの読みどおり、彼らは捕縛ではなく所在確認が目的らしい。
問題は、別の三人だった。
路地の奥。
井戸のそば。
荷車の陰。
町人のふりをしているが、立ち方が違う。
朝を待つ商人ではない。
人を追う者の重心だ。
吉継は歩きながら町の地形を頭に入れた。
細い路地。
積まれた木箱。
水路。
犬。
井戸。
北の裏門。
見張りの視線。
チヨネの影。
戦場識。
町の一角が、頭の中で小さな戦場になる。
倒す必要はない。
遅らせればよい。
「チヨネ」
吉継は小声で言う。
「井戸の影から、荷車の車輪へ。音は立てるな。留め具だけ外せるか」
チヨネは一瞬だけ目を丸くした。
それから、影が細く伸びる。
影渡。
まだ未完成。
だが、身体ではなく影だけなら、かなり遠くまで届くようになっていた。
黒い指先が、荷車の車輪に触れる。
小さな金具が、かちりと外れた。
吉継は道端の犬へ視線を向ける。
犬は眠っていた。
吉継は足元の小石を拾い、水路の縁へ投げる。
乾いた音。
犬が跳ね起き、吠えた。
見張りの三人が、そちらを見る。
その瞬間、荷車が傾いた。
積まれていた空樽が路地へ転がり出す。
「なんだ!?」
「おい、押さえろ!」
ごろつきたちが反射的に動く。
人は、目の前で物が崩れればそちらを見る。
敵意より、反射が勝つ。
吉継たちは、その隙に角を曲がった。
グレンが小声で言う。
「今の、あんたの策か」
「犬と荷車が勝手に働いた。少し手伝っただけだ」
「便利な偶然だな。俺はそういう偶然を嫌いじゃない」
「兵法では、偶然も準備しておく。転がる石にも役目はある」
グレンは笑いを噛み殺した。
チヨネは胸を張っている。
「ふん」
ドヤふんふん。
「お前もよくやった。今の影は、誰にも見えない槍だった」
「ふんふん」
小さな喜び。
北の裏門は、町の外れにあった。
門というより、石壁の切れ目に木戸をつけただけの場所だ。
そこに、若い警備兵が一人立っている。
彼はグレンを見ると、黙って木戸を開けた。
「見ていないことにします。……見たら、たぶん胃が痛くなります」
「助かる」
グレンが短く答える。
吉継は若い兵へ頭を下げた。
「迷惑をかける。だが、助かった」
若い兵は驚いた顔をした。
「い、いえ」
その一瞬で、吉継はこの兵の立場を読んだ。
グレンに恩がある。
神殿は怖い。
だが、命令に背くほどの覚悟はまだない。
だから、見ていないことにする。
人は強さだけで動かない。
弱さでも動く。
吉継は、その弱さを責めなかった。
町の外へ出ると、東の空が少しだけ白み始めていた。
グレンは木戸の外までついてきた。
「ここから北へ半刻。崩れた石柱が見えたら、旧採石場だ。運搬路を西へ抜けろ。途中で二股に分かれるが、低い方は行くな。水が溜まってる」
「高い方か」
「そうだ。だが、崖蜘蛛がいるかもしれん」
「蜘蛛か」
チヨネが困惑のプルプルをした。
どうやら虫は得意ではないらしい。
「無理に戦うな。音を立てずに抜けろ。命を拾うのが目的だ」
グレンは吉継の右腕を見た。
「それと、本当に無茶をするな」
「努力する。約束と言うには、少し自信がない」
「努力じゃなくて約束しろ。あんたの努力は、どうせ無茶の別名だ」
チヨネも吉継を見る。
じっと。
二人分の圧。
吉継は少しだけ沈黙した。
「……無茶は、最後の手段にする。これで、かなり譲った」
グレンは渋い顔をした。
「譲歩したつもりか」
「かなり」
チヨネは納得していない。
だが、完全に否定もしなかった。
吉継にとって、守るための無茶を捨てることはできない。
それを、チヨネも少しずつ理解し始めているのかもしれない。
グレンは革袋をもう一つ投げた。
「予備の包帯だ。マーヤから」
「重ねて礼を」
「礼はいい。次に会ったら、オーラの基礎を教えてやる」
「期待している」
「その前に死ぬな。教える相手が墓では、俺の気分が悪い」
「善処する」
「そこは約束しろ」
吉継は答えず、白布の奥でわずかに目を細めた。
グレンは呆れたように手を振る。
「行け」
吉継とチヨネは、北へ向かった。
町の石壁が背後へ遠ざかる。
朝の光が、ゆっくりと地平を染めていく。
光は美しい。
だが、吉継にとっては危険でもある。
この世界では、救いと敵意が同じ色をしている。
やがて、崩れた石柱が見えた。
旧採石場。
地面は白っぽい石粉で覆われ、低い崖が段々に続いている。
古い運搬路は草に呑まれ、錆びた車輪の残骸が転がっていた。
人の気配は薄い。
だが、完全にないわけではない。
「ふん……」
チヨネが裾を二度引いた。
危険。
吉継は足を止める。
風が、石粉を運ぶ。
足跡があった。
新しい。
三人分。
町で撒いたはずのごろつきたちか。
いや、早すぎる。
別働隊。
あらかじめ、この抜け道を読んでいた者がいる。
吉継は周囲を見た。
崖。
石段。
崩れた斜面。
古い坑道。
足場の悪い白い石粉。
相手は道を塞ぐつもりだ。
ならば、こちらは道を道として使わなければよい。
「チヨネ」
「ふん」
「高い方の運搬路へは行かぬ」
チヨネが首を傾げる。
「行けと言われた道は、待たれている」
吉継は崩れた斜面を見る。
「低い方へ入る」
グレンは水が溜まっていると言っていた。
だからこそ、普通は避ける。
待ち伏せる側も、そこを軽く見る。
チヨネは不安そうに鼻を鳴らす。
「ふん……」
「無理はしない。水の深さを見て、駄目なら戻る」
チヨネが疑いの目を向ける。
「本当だ」
まだ見る。
「今度は、本当だ」
チヨネはようやく頷いた。
二人は、低い運搬路へ入った。
石壁の間を進むと、空気がひんやりと湿った。
足元には浅い水が溜まり、古い車輪の跡が水底に沈んでいる。
吉継は水面を見る。
濁り。
深さ。
流れ。
足跡。
最近、人が通った形跡はない。
少なくとも待ち伏せはない。
だが、別のものはいた。
水面が、かすかに揺れる。
チヨネの影が、吉継の影へしがみつくように寄った。
「何かいるな」
水の奥で、小さな目が光った。
鼠。
ただし、普通の鼠ではない。
背中に石のような殻を持ち、前歯が黒く鋭い。
石喰い鼠。
グレンが言っていた魔物だろう。
吉継は初めて見る魔物を前に、すぐには動かなかった。
大きさ。
数。
動き。
こちらへの反応。
十。
いや、十五。
血の匂いに寄っている。
右腕の傷だ。
チヨネが影を膨らませる。
影牙。
だが、吉継は左手で制した。
「待て」
鼠たちは近づいてくる。
吉継は水面に視線を落とす。
自分には、まだ水魔法は使えない。
火も、土も、風も使えない。
ならば、使えるものを使う。
地形。
音。
血の匂い。
敵の習性。
吉継は右腕の包帯を少しだけ緩めた。
血の匂いが濃くなる。
チヨネが目を見開き、無言でプルプル震えた。
「大丈夫だ。傷を開くつもりはない」
半分だけ本当だった。
吉継は包帯の外側についた血を、古い布切れに移す。
それを水路の奥、崩れた坑道の方へ投げた。
石喰い鼠たちの目が、一斉にそちらを向く。
血の匂い。
獲物。
鼠たちは水を跳ねさせ、布切れへ群がった。
「今だ」
吉継はチヨネの手を取り、反対側の岩棚へ移る。
鼠たちは布切れを奪い合っている。
その騒ぎが、上の運搬路へ響いた。
頭上で声がする。
「下だ! 下にいるぞ!」
待ち伏せの者たちが気づいた。
だが、もう遅い。
彼らが下りるには崩れた石段を回り込む必要がある。
その間に、吉継たちは水路を抜けられる。
チヨネが吉継を見上げた。
「ふん……?」
「鼠に道を開けてもらった」
チヨネは少しだけ困惑し、それから小さく胸を張った。
「ふん」
「お前は何もしていないだろう」
チヨネは、吉継の裾を掴んだままドヤ顔をした。
どうやら、同行しているだけで作戦参加のつもりらしい。
「……そうだな。よくついてきた」
「ふんふん」
嬉しそうだった。
水路の出口が見える。
だが、その手前で、上から石が落ちた。
大きな石ではない。
狙って落とされた小石。
吉継はチヨネを引き寄せる。
直後、頭上の崖に男が一人現れた。
黒森で見た奴隷狩りとは違う。
装備が整っている。
革鎧、短弓、毒矢。
「影使いの小娘を渡せ。男の方は、神殿に売る」
吉継は男を見上げた。
「商いの相手を間違えている」
「交渉する気か?」
「ない」
男が矢をつがえる。
チヨネの影が牙を剥く。
吉継は刀の柄へ手を置いた。
戦える状態ではない。
だが、策ならある。
崖。
水。
石粉。
鼠。
頭上の男。
背後から来る足音。
吉継は、白布の奥で静かに息を吐いた。
戦場は整った。
あとは、相手に自分の足で負けてもらうだけだ。
お読みいただきありがとうございます。
今回は町からの脱出と、旧採石場での地形利用回です。
吉継はまだ魔法を使えないので、観察、地形、相手の習性を使って切り抜けています。




