第10話:影縫の初陣
旧採石場を抜けた吉継とチヨネ。
しかし、追跡者の生き残りは二人の情報を東境神殿へ売ろうとしていました。
坑道の出口は、朝の白い光に沈んでいた。
旧採石場の内側にいた時は、石の壁と水の匂いばかりだった。
外へ出ると、風の流れが変わる。
草と土の匂いに、遠くの街道から流れてくる乾いた風。
その奥に、まだ血の匂いが混じっている。
吉継は足を止めた。
チヨネも同時に止まる。
「ふん……」
小さな鼻鳴らし。
警戒と不安が、短い鼻鳴らしに混じっていた。
彼女の影が、吉継の影にぴたりと寄り添う。
坑道の外は、低い丘になっていた。
崩れた採石場を背に、草地が西へ続いている。
その先には細い獣道。
さらに遠くには、朝靄の中に街道らしき線が見えた。
逃げ道はある。
だが、吉継はすぐには進まなかった。
耳を澄ます。
背後の採石場からは、まだ遠く争う音がしている。
岩皮狼の唸り。
追跡者たちの怒鳴り声。
石が崩れる音。
そして、その音とは別に、右手の斜面から草を踏む音が聞こえた。
一人だ。
足を引きずっているくせに、妙に急いでいる。
チヨネが吉継の袖を二度引いた。
危険。
「ああ、見えている。よく気づいた。お前の警戒が、俺より早かった」
吉継は低く答えた。
斜面の向こうから、一人の男が現れた。
革鎧は裂け、肩から血を流している。
旧採石場で吉継たちを待ち伏せしていた捕縛屋の一人だ。
男は吉継たちを見るなり、顔を歪めた。
「生きてやがったか」
その手には、折りたたまれた羊皮紙がある。
そこに、黒い煤で何かが書き込まれている。
吉継は男の手元を見た。
報告だ。
男は、吉継たちを振り切って東境神殿へ情報を売るつもりなのだろう。
「その手のものを置いていけ。これ以上、この子を売り物の名で書くな」
吉継は言った。
男は笑った。
「嫌だね。お前らの情報は金になる。神殿も闇市も欲しがる」
チヨネの影が震えた。
闇市。
その言葉を、彼女は知っている。
意味ではなく、身体で覚えている。
吉継は一歩前に出た。
右腕は使えない。
包帯の下で熱が戻っている。
だが、左手は動く。
足も動く。
刀はある。
「最後にもう一度言う。置いていけ。今なら、まだ足で帰れる」
「脅しか」
「忠告だ」
男は腰の短剣を抜いた。
短い。
だが、刃に薄紫の濡れた光がある。
毒。
旧採石場の水に滲んだものと同じだ。
「近づくなよ。かすれば動けなくなる毒だ」
吉継は刃を見た。
毒の種類は分からない。
だが、男の持ち方で用途は分かる。
殺す毒ではない。
動きを鈍らせる毒。
捕獲用。
男はチヨネを見た。
「そっちの小娘なら、片足を刺すだけで十分だ」
その瞬間、チヨネの影が膨れた。
影牙。
黒い牙の形が、草の上に広がる。
だが、吉継は左手を上げて制した。
「待て、チヨネ。怒りで影を走らせるな」
「ふん……!」
チヨネが抗議する。
自分で止めたい。
自分の影で、あの男を止めたい。
そう訴えている。
吉継は男から目を離さず、チヨネへ言った。
「殺すな。足を止めろ。お前の影で、お前自身を守ってみせろ」
チヨネの目が揺れた。
命令。
いや、役目。
彼女は唇を結び、こくりとうなずいた。
男が鼻で笑う。
「何をする気か知らねえが」
男は吉継へ突っ込んできた。
短剣は右。
身体は低い。
毒をかすらせるだけでいいという動き。
斬り合いではない。
捕まえるための刺し方だ。
吉継は刀を抜いた。
古びた刃が朝の光を受ける。
一足一刀で斬ることはできる。
だが、ここで殺せば、チヨネの役目を奪う。
この子は守られるだけではない。
守る力を、今まさに掴もうとしている。
吉継は半歩だけ退いた。
逃げではない。
誘い。
男の踏み込みが伸びる。
その足が、チヨネの影を踏んだ。
チヨネの目が細くなる。
影が、針のように細く伸びた。
「ふん」
短い鼻鳴らし。
恐怖ではない。
決意だった。
影縫。
男の足元の影が、黒い糸のように地面へ縫いとめられた。
「なっ」
男の身体が前へ出る。
だが、足だけが動かない。
踏み込みの力が自分の膝へ返る。
体勢が崩れた。
吉継は刀の峰で、男の手首を打った。
短剣が飛ぶ。
続けて、柄頭を鳩尾へ入れる。
男が息を吐いて膝をついた。
チヨネの影は、まだ男の足を縫い止めている。
震えている。
だが、解けていない。
「よくやった。怖くても、影を離さなかったな」
吉継は短く言った。
チヨネの肩が跳ねる。
その瞬間、影の糸が少し緩みかけた。
「まだだ。褒めるのは、終わってからにする」
「ふん」
チヨネは慌てて集中し直す。
男は苦しげに息をしながら、吉継を睨んだ。
「くそ……化け物どもが」
「その言葉は聞き飽きた。化け物と呼べば、罪が軽くなると思うな」
吉継は男の手から羊皮紙を取る。
文字は読めない。
この世界の文字だ。
だが、描かれた印はいくつか分かる。
聖印。
黒い染み。
小さな影の絵。
そして、東へ向かう矢印。
東境神殿へ売るための情報だ。
吉継は羊皮紙を折りたたみ、懐へ入れた。
「誰に渡すつもりだった。答えれば、痛みは増やさぬ」
「言うかよ」
「まあ、言わなくてもある程度は分かる。嘘を吐く手間は省いてやる」
吉継は男の装備を見る。
腰の袋。
神殿の印はない。
だが、白い糸で結ばれた小さな札がある。
光神教の正式なものではない。
だが、神殿へ出入りする者が目印として使う札かもしれない。
「神殿の正規兵ではない。だが、神殿へ情報を売る道はある」
男の目が一瞬揺れた。
「東境神殿に、買い手がいるな」
「……」
「名は聞かぬ。今は必要ない」
吉継は男の短剣を拾い、遠くへ投げた。
「命は取らぬ。だが、恩と思うな」
男が目を見開く。
「何だと」
「殺せば、この場で終わる。生かせば、お前は戻って伝える。白布の男は、追えば高くつくとな。恐怖は、首より遠くへ走る」
「脅してるつもりか」
「忠告だ」
吉継は膝を折り、男の目線に合わせた。
「次にこの子を狙えば、斬る。捕まえようとしても斬る。売ろうとしても斬る。今度は忠告で済ませぬ」
声は荒くない。
だからこそ、男の顔色が変わった。
「覚えておけ」
吉継は立ち上がる。
チヨネの影が、男の足から離れた。
男はすぐには動けなかった。
影に縫われた足が痺れているのだろう。
チヨネも息を切らしていた。
額に汗が浮かんでいる。
影縫は、まだ彼女には重い。
吉継は左手を差し出した。
「来い。よく耐えた、チヨネ」
チヨネはその手を取った。
指が冷たい。
だが、握り返す力はある。
二人は丘を下り始めた。
背後で、男が低く唸る。
「神殿が黙ってねえぞ」
吉継は振り返らなかった。
「ならば、教えてやろう。追う相手はちゃんと選ぶべきだとな。今日の授業料は、その足の痺れだ」
男は黙った。
チヨネが吉継を見上げる。
「ふん……?」
「大丈夫だ。今のは、もう近づくなと言っただけだ。お前を怖がらせるためではない」
チヨネは納得したように頷く。
それから、少しだけ胸を張った。
「ふん」
どう、役に立った。
そういう顔だった。
吉継は足を止める。
そして、左手でチヨネの頭を撫でた。
「初陣としては、上出来だ。怖くても逃げなかった。それだけで十分だ」
チヨネの目が大きく開く。
「ふんふん……」
甘えるような鼻鳴らし。
けれど、すぐに彼女は自分の影を見た。
さきほど男の足を縫い止めた影。
人を止めた力。
かつて自分を縛る理由にされた力。
その力で、今は吉継を守った。
チヨネの表情が、ほんの少しだけ変わる。
怯えではない。
まだ名のない誇りだった。
「お前の影は、奪うためのものではない。奴らが勝手にそう決めただけだ」
吉継は言った。
「守るためにも使える。今日、お前がそれを証明した」
チヨネの影が、吉継の影へそっと重なる。
影の抱擁。
言葉にならない返事。
分かった。
たぶん、そう言っている。
二人は西へ向かった。
旧採石場は背後に遠ざかる。
だが、危険が消えたわけではない。
捕縛屋の背後には、神殿へ情報を売る者がいる。
東境神殿には、いずれ正式な報告も届く。
追跡は強まる。
それでも、得たものはある。
報告の羊皮紙。
神殿へつながる札。
チヨネの新しい力。
そして、吉継自身の確認。
この世界であっても、自分は刀を抜ける。
人を斬る感触も、戦場の判断も、まだ身体に残っている。
その事実は、救いではない。
だが、守るための刃になる。
吉継は白布の下で息を吐いた。
次に必要なのは、文字を読むこと。
この羊皮紙に何が書かれているのか。
神殿の誰が情報を買うのか。
そして、どうすればミセリア・イシダのいる王都へ近づけるのか。
知らぬことばかりだ。
ならば、また学ぶ。
歩きながら。
戦いながら。
守りながら。
朝の光が、二人の背を照らしていた。
吉継の右腕は痛む。
チヨネの影はまだ少し震えている。
それでも、二人の足は止まらなかった。
お読みいただきありがとうございます。
今回はチヨネが初めて、吉継のために敵を止める回でした。
彼女の影は、奪われる理由だった力から、守るための力へ変わり始めています。




