第11話:読めぬ羊皮紙
吉継は追跡者から奪った羊皮紙を手に入れた。
しかし、彼はこの世界の文字を読めない。
そこで、チヨネとともに小さな市で代書屋を探すことになる。
旧採石場を抜けた先の道は、細く、乾いていた。
背後からは、もう岩皮狼の唸りも、捕縛屋の怒鳴り声も聞こえない。
かわりに、風が草を揺らす音と、チヨネの小さな鼻鳴らしだけがついてくる。
「ふん……」
心配。
また右腕を見ている。
吉継は歩きながら、包帯の上から腕を押さえた。
「痛みはある。だが、歩ける。お前を不安にさせるほどではない」
チヨネはじっと見上げる。
「ふん」
信用していない。
吉継は少しだけ目を伏せた。
「倒れる前には言う。黙って倒れれば、お前が怒るだろう」
チヨネの目がさらに細くなる。
「……倒れる前に休む」
それでようやく、チヨネは小さく頷いた。
吉継は懐から羊皮紙を取り出した。
捕縛屋から奪ったものだ。
薄い革に黒い文字が並び、いくつかの印と矢印が書き込まれている。
聖印。
影を示す絵。
黒い染み。
そこまでは分かる。
だが、肝心の文字が読めない。
この世界へ来てから、言葉は不思議と理解できた。
耳に届く声は意味を持ち、こちらの言葉も相手に通じる。
だが、文字は別だった。
記号の形が、意味へ結びつかない。
読めぬ文は、読めぬ敵と同じだ。
何を隠し、どこへ向かい、誰につながっているのか。
それが分からなければ、次の策を誤る。
「文字を読める者が要る。読めぬ紙を抱えて歩くのは、抜けぬ刀を差すようなものだ」
チヨネが首を傾げる。
「ふん?」
「この紙に、私たちを追う手がかりがある。だが、私は読めぬ。悔しいが、ここでは目が足りぬ」
チヨネは羊皮紙を覗き込んだ。
しばらく真剣に見ていたが、やがて首を横に振る。
「ふん……」
私も読めない。
そう言っている。
「構わぬ。読める者を探す。知らぬまま歩くより、危うい相手に聞く方がまだましだ」
道はやがて、古い石橋へ出た。
橋の石は灰色で、ところどころ欠けている。
その周囲には荷馬車がいくつか止まり、露店が並んでいた。
小さな市だ。
干し果物。
粗い布。
刃物の研ぎ。
古靴の修理。
旅人相手の安いスープ。
光神教の大きな聖印は見当たらない。
だが、橋の向こうに白い巡礼服の者が二人いる。
完全に安全ではない。
吉継は人の流れを見た。
商人。
旅人。
荷運び。
傭兵らしき者。
子供。
誰に紙を見せるか。
間違えれば、情報ごと売られる。
「ふん」
チヨネが裾を一度引いた。
危険ではない。
見て、という合図。
彼女の視線の先に、小さな露店があった。
机。
インク壺。
束ねた紙。
木札に書かれた文字。
その前に、若い女が座っている。
栗色の髪を短く切り、丸眼鏡をかけ、指先にインクの跡がある。
商人らしい男から何かを聞き取り、紙へすらすらと書きつけていた。
代書屋か。
吉継は少し離れた場所で足を止める。
女の客が去る。
すると女は顔を上げ、吉継とチヨネを見た。
白布。
包帯。
外套に隠れた少女。
足元の影。
女の目が、一瞬だけ警戒に変わった。
だが、叫ばない。
逃げもしない。
商売人の目だった。
「読むだけなら銅貨三枚。書くなら五枚。契約書なら内容次第」
女は先に言った。
吉継は机の前に立つ。
「文字を読んでほしい」
「銅貨三枚」
「今は持ち合わせがない」
「じゃあ読まない。私の胃袋は善意で動かないの」
即答だった。
チヨネが少しだけ影を膨らませる。
吉継は左手で制した。
「対価は別に用意する」
「物々交換? 薬草? 魔物素材? 盗品は嫌よ」
「情報だ。危険な紙を読む者には、危険から逃げる道も要るだろう」
女の眉が上がる。
「情報を読むために、情報を払うの?」
「そうだ」
「面白いけど、危険そうね」
「危険ではある」
「正直すぎる。詐欺師なら三流、客なら少し面白いわね」
「嘘をつくには、相手を知らなすぎる。それに、ここで嘘を重ねれば後が崩れる」
女はしばらく吉継を見た。
それから、チヨネを見る。
チヨネは吉継の後ろに半分隠れたまま、女をじっと見返している。
「その子、影使い?」
チヨネの肩が跳ねる。
吉継は静かに答えた。
「そうだ」
「隠さないの?」
「隠しても、貴殿は見抜いた」
「見抜くわよ。影が私のインク壺を警戒してるもの」
チヨネの影が、ぴくりと震えた。
図星らしい。
女は少し笑った。
「私はエルネ・フォリオ。代書屋。危険な文書ほど値が上がるし、寿命は縮む。最悪の商売ね」
「大谷吉継」
「変わった名前」
「よく言われる」
「その子は?」
「チヨネ」
チヨネは、小さく鼻を鳴らした。
「ふん」
警戒の挨拶。
たぶん。
エルネは軽く手を振った。
「よろしく。噛まないでね」
チヨネは困惑のプルプルをした。
影は噛むかもしれない。
そう思っている顔だった。
吉継は羊皮紙を机の上へ置く。
エルネの表情が変わった。
商売人の軽さが消える。
彼女は紙面を指先で押さえ、折り目、煤の色、端の印を順に見た。
「これ、どこで手に入れたの」
「追跡者から」
「でしょうね」
「読めるか」
「読める。でも、読みたくない種類の文書。読んだ時点で、私まで巻き込まれるやつ」
「理由は」
「神殿系の略号がある。正式文書じゃないけど、神殿へ情報を売るための控えね」
吉継は黙って聞いた。
エルネは紙面を指でなぞる。
「白布の男。病毒反応。魔力量は測定石の上限を超過。影使いの少女を同行。旧採石場を西へ抜ける可能性あり」
チヨネの影が縮んだ。
吉継はチヨネの頭に手を置く。
「続けてくれ。ここで止めれば、敵の輪郭だけが残る」
「買い手は、東境神殿の下働きじゃない。もっと外側。神殿の正式な窓口に出す前に、情報を集めている仲介人がいる」
「神殿そのものではないのか」
「直接じゃない。少なくとも、この紙を書いた人間は正式な神官じゃない。略号の位置が雑。けど、内情を知らないと書けない記号もある」
「内通者か」
「その可能性が高い」
吉継は思考を巡らせた。
正式な神殿報告とは別に、闇の情報網がある。
捕縛屋はそこへ売る。
神殿の誰か、あるいは神殿周辺の者が買う。
目的は、捕縛か、研究か、手柄か。
いずれにせよ、放置すれば追跡は早まる。
「貴殿は、この情報を売るか」
エルネは目を細めた。
「質問が怖いわね。白布の奥から、こっちの値段まで測られてる気がする」
「必要な確認だ。信じたい相手ほど、先に疑う」
「売らない、と言えば信じる?」
「信じる材料を探す」
「じゃあ材料をあげる。私は代書屋。情報屋じゃない。危ない文書を売って稼ぐより、危ない客から離れて長生きしたい」
その答えに、嘘は薄い。
だが、完全ではない。
人は恐怖で考えを変える。
吉継は懐から、捕縛屋から奪った白い糸の札を出した。
「これは」
エルネは札を見るなり、顔をしかめた。
「灰羽の札」
「何だ」
「神殿の外で汚れ仕事を請け負う連中が使う目印。正式名称じゃないわ。みんな陰でそう呼んでる」
「捕縛屋とつながるか」
「つながる。孤児、影使い、珍しい魔力持ち。そういうのを拾って、神殿の外側へ流す」
チヨネの手が、吉継の裾を強く掴んだ。
吉継はその手を見た。
震えている。
言葉はなくても、恐怖は十分に伝わった。
「チヨネ」
「ふん……」
「今ここで、誰にも渡さぬ。お前を値札で呼ぶ者には、二度と触れさせない」
チヨネは吉継を見上げる。
その目に、少しだけ光が戻る。
エルネは二人を見て、ため息をついた。
「分かった。追加料金は取らない。関わりたくないけど、子供を売る連中はもっと嫌い」
「礼を言う」
「礼より、早くここを離れた方がいい」
その時だった。
チヨネの影が、机の下で跳ねた。
裾を二度引く。
危険。
吉継は動かなかった。
ただ、視線だけを右へ流す。
露店の並び。
干し果物の店。
巡礼服の男。
先ほど橋の向こうにいた者の一人だ。
歩き方が変わっている。
巡礼者ではない。
腰に短い棍。
袖の中に刃。
エルネが小声で言った。
「知り合い?」
「いや」
「じゃあ、客じゃないわね」
男は真っ直ぐこちらへ来る。
騒ぎを起こせば、市全体の目が集まる。
逃げるだけなら、チヨネの影で抜けられる。
だが、エルネを置けば、この女が巻き込まれる。
吉継は机の上のインク壺を見た。
黒いインク。
白い紙束。
木札。
紐。
使える。
「エルネ。インク壺を倒せ。紙ではなく、今は目を潰す」
「は?」
「今だ」
エルネは迷ったが、商売道具より命を選んだ。
肘でインク壺を倒す。
黒い液が机から流れ、地面へ落ちる。
同時に、チヨネの影がインクの黒へ溶けるように伸びた。
影縫。
巡礼服の男の足元に、黒い線が走る。
だが、市場は朝の光が強い。
影が薄い。
拘束が浅い。
男は足を取られながらも、袖から刃を抜いた。
狙いはエルネ。
文書を読んだ者を消すつもりか。
吉継の刀が抜けた。
市の中で人を斬れば、騒ぎは避けられない。
だから、刃ではなく鞘。
鞘打。
吉継は一歩で机を回り込み、男の手首を打った。
刃が落ちる。
続けて膝。
男の身体が崩れたところで、チヨネの影がもう一度足を縫う。
今度はインクの黒が影を助けた。
男の両足が止まる。
「ぐっ」
吉継は刀の柄頭を男の喉元へ当てた。
「騒ぐな」
男の目が、怒りに揺れる。
「影使いを渡せ」
「断る」
「神殿に逆らう気か」
「貴殿が神殿そのものかは、まだ分からぬ」
男の目がわずかに動いた。
図星。
正式な神殿兵ではない。
灰羽。
エルネが震えた声で言う。
「その袖の内側、灰色の羽印。灰羽よ」
周囲がざわめき始める。
まずい。
人目が集まりすぎる。
吉継は男を突き飛ばし、エルネの手首を掴んだ。
「来い」
「私も!?」
「文書を読んだ。ここで置いていけば、次に狙われるのは貴殿だ」
「最悪!」
エルネは叫びながらも、紙束と小さな鞄だけは掴んだ。
チヨネがインクに伸びた影を引き戻す。
吉継、チヨネ、エルネ。
三人は露店の裏へ走った。
背後で男が叫ぶ。
「逃がすな! 病毒の男と影使いだ!」
市が一気に混乱する。
だが、その混乱こそが隠れ蓑になる。
吉継は息を整えながら、路地へ入った。
右腕が痛む。
しかし、足は止めない。
チヨネは半歩後ろ。
エルネは息を切らしながら文句を言っている。
「危険な客すぎる! 銅貨三枚どころじゃ命が安すぎる!」
「対価は払う」
「何で!?」
「生き延びる策で」
「それ、今すぐ必要なやつ!」
吉継は白布の奥で、ほんの少しだけ目を細めた。
新しい協力者。
追手。
読めぬ文字。
灰羽。
戦場は、また形を変えた。
今度は市そのものが、逃げ道であり、罠であり、盾になる。
吉継は走りながら、頭の中で路地の線を組み替えた。
守るべき者が、一人増えた。
お読みいただきありがとうございます。
今回は代書屋エルネの登場回です。
吉継は言葉は通じても文字は読めないため、情報を得るにも協力者が必要になります。




