第081話:白杯会の印
川下へ消えたもう一つの灯を追うケイブとカドゥ。
黒楡商会の奥にいたのは、人材を「買う」側の影でした。
川下の灯は、逃げるには遅すぎた。
葦の影に隠すように、一艘の小舟が岸へ寄せられている。荷台ほどの幅しかない船だが、上には布で覆われた木箱が三つ積まれていた。
ケイブは足を止め、カドゥへ手で合図した。
「止まれ。近づきすぎるな」
「む。斬らぬのか?」
「斬る前に見る。今夜は首より帳面のほうがよく喋る」
カドゥは少し残念そうに口を尖らせたが、担いでいたダリムを地面へ落とさず、ゆっくり膝をついた。
「私は大変えらいな。今、落とさなかった」
「そこを自慢するな」
「褒めてもよいぞ」
「後にしろ」
短く返しながら、ケイブは弓へ矢を番えた。
小舟のそばに、白い手袋をした男が立っていた。商人にしては細すぎる。兵にしては腰が軽い。外套の裾は泥で汚れていない。ここまで歩いて来た者の足ではない。
別の誰かが、そこまで運んだ。
男は舟の上の箱を一つ開け、紙束を確かめていた。人ではない。荷も少ない。だが、紙だけはやけに丁寧に包まれている。
「ダリム」
ケイブは低く呼んだ。
地面に転がされたダリムの肩が、びくりと揺れた。
「あの男を知っているな」
「……知らん」
「その嘘は下手だ。喉が先に逃げた」
ダリムは唇を噛んだ。
白手袋の男が、こちらに気づいた。目を細めるだけで、驚いた顔をしない。
「黒楡の仕事は雑ですね。追手まで連れて来るとは」
涼しい声だった。
ダリムが叫ぶ。
「違う! 私はまだ売れる! 帳面も、子供も、取り返せる!」
「売る側が傷物になった時点で、価値はありません」
男の指が袖へ沈んだ。
ケイブは矢を放った。
細い音が闇を裂く。男の袖から飛び出しかけた小さな硝子針が、矢に弾かれて川へ落ちた。
ダリムの顔から血の気が引く。
「今のは、私を……」
「口封じだ。お前の値は、もう終わったらしい」
ケイブはもう一本、矢を番えた。
怒りはある。だが、怒りで矢は早くならない。狙う場所を決めるだけだ。
「カドゥ。ダリムを後ろへ」
「守るのか? こやつ、あまり可愛くないぞ」
「吐かせるまでは守る。可愛さは関係ない」
「なるほど。人間の価値とは複雑だ」
カドゥは片手でダリムの襟を掴み、背後へ引きずった。ダリムが悲鳴を上げるが、首は折れていない。加減はできている。
白手袋の男は、ケイブを見た。
「あなたは何者です。領主の兵ではない。冒険者にしては、目が汚れていない」
「ケイブ・アッシュ。金が欲しいだけの男だ」
「金が欲しい男は、こんな夜に証人を守りません」
「金を払う者を間違えるなよ。生きた証人は高い」
男の口元が、わずかに歪んだ。
「面白い言い訳です」
ケイブは一歩だけ位置を変えた。男の右足が、舟ではなく葦の奥へ向いている。逃げ道は、川ではない。
葦の中に、もう一人いる。
「カドゥ。茂みの奥を注視しろ。おそらく、伏兵が居やがる」
「伏兵か。そういう者は、出て来る瞬間が一番よい顔をする」
カドゥは嬉しそうに笑い、盾を茂みの奥へ向けた。
直後、葦の奥から短い矢が飛んだ。
黒い円盾に当たり、鈍い音を立てる。カドゥの盾面に黒い波紋が広がり、矢を放った男の腕が逆に弾かれたように跳ねた。
「おお。見ないで受けた。今の私はかなり格好よかったのではないか?」
「黙って前へ出ろ」
「はい!」
返事だけは妙に明るかった。
カドゥが踏み込む。黒い甲冑が葦を割り、重い剣が横へ走った。刃は首ではなく、相手の足元の泥をえぐる。
逃げようとした護衛の足が滑った。
その肩へ盾が落ちる。骨の折れる音はしたが、命までは奪っていない。
「加減したぞ!」
「上出来だ。そこで止めろ」
「また褒められた」
カドゥの声が弾む。その明るさに、倒れた護衛のほうが震えていた。
白手袋の男は箱を一つ蹴った。中から紙が舞う。契約書、名簿、白霧境学び舎の略図。子供の名前はない。代わりに、文字、計算、薬草、帳面、と短く能力だけが記されていた。
人の名を消し、使える部分だけを残している。
ケイブの奥で、冷たいものが沈んだ。
「なるほどな。お前たちは人を攫うだけではない。育った後を狙う」
「教育された者は高く売れます。字を知らぬ者を買って育てるより、最初から読める者を買うほうが早い」
「領が育てた人材を、横から刈り取るつもりか」
「言葉を選びましょう。こちらは需要に応じて買うだけです」
ケイブは矢を引き絞った。
「その言い方が、一番気に入らんな」
白手袋の男が笑った瞬間、足元で白い粉が弾けた。
煙ではない。細かい硝子粉だ。月明かりを受け、きらきらと舞う。目に入れば潰れる。吸い込めば喉を裂く。
ケイブは外套で口元を覆い、横へ跳んだ。
「カドゥ、息をするな!」
「私は死んでいるから得だな!」
「そういう得を誇るな!」
白い粉の幕の向こうで、男の足音が遠ざかる。
追うか。
いや、追えばダリムと帳面を捨てることになる。倒れた護衛も、船の箱も残る。ここで逃がしてよい相手ではないが、今掴んだ証拠を失えば次はもっと深く潜られる。
ケイブは矢を番えたまま、白い粉の向こうを睨んだ。
射るには遅い。
粉の幕が晴れた時、男の姿はもうなかった。足跡すら残らない。葦の倒れ方も不自然に戻されている。
逃げ方まで、あらかじめ決めていたか。
男の声だけが、川面の向こうから薄く届いた。
「白杯会は、黒楡ほど安くありませんよ」
「高かろうが安かろうが、買うものを間違えた」
ケイブの声は、静かだった。
「白霧境の者は売り物ではない」
その声も、すぐに水音へ紛れた。
カドゥが走り出しかける。
「追うぞ! 今ならまだ首くらいなら」
「戻れ」
「むう」
「首は後でよい。今は紙と口だ」
カドゥは不満げに頬を膨らませたが、足を止めた。
「ケイブは我慢が多いな。私は見ているだけでむずむずする」
「そのむずむずで斬るな。後で使う」
「後でならよいのか?」
「相手次第だ」
ケイブは船へ乗り、箱を開けた。
一つ目は契約書。
二つ目は空の名札。
三つ目は、白い硝子の杯を押した封書だった。
封書の表には、こう書かれている。
白霧境学び舎。
初回選定、三名。
黒楡の失敗時は、別口で回収。
ケイブは紙を握り潰しそうになり、寸前で止めた。
証拠は怒りで破ってよいものではない。
だが、胸の奥では、別の手が刀を抜いていた。
「カドゥ」
「何だ」
「ダリムを連れて戻る。こいつは今夜から、よく喋る」
ダリムは震えたまま首を振った。
「無理だ。白杯会に逆らえば、私は終わる」
「もう終わっている。さっき殺されかけただろう」
「……」
「なら、選べ。白杯会に黙って殺されるか。俺に全部吐いて、少しでも生きる目を拾うか」
ダリムの喉が鳴った。
ケイブは封書を懐へ入れた。
黒楡商会は売り手。
白杯会は買い手。
学び舎を作れば、人を狙う者も増える。米を増やせば奪う者が出る。城を築けば、城を落とす者が現れる。
ならば、守りもまた変えねばならない。
葦の向こうで、白い硝子粉がまだ月を反射していた。
ケイブは弓を背負い直す。
「帰るぞ。夜が明ける前に、白蝶城の守り方を変える」
カドゥはダリムを担ぎ上げ、明るく笑った。
「その前に、今度こそ褒めてもらう時間はあるか?」
「歩きながらならな」
「よし。では、長めに頼む」
黒騎士の足音が、川辺の泥を踏んだ。
ケイブは振り返らなかった。
今、追うべきは逃げた男ではない。
白い硝子の杯。
人を値で測る者たちの喉元へ届く道を、これから作る。
今回は黒楡商会のさらに奥にいる買い手側と、「白杯会」という名が見え始める回です。
学び舎を作ったことで、守るべきものも、狙われる理由も増えてきました。
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