第75話:石切り場の首箱
北の石切り場へ向かったケイブとカドゥ。
そこには、川船で荷を流そうとする黒楡商会の本隊と、赤黒い封蝋の箱があった。
北の石切り場は、夜でも眠っていなかった。
岩を削る音はない。
代わりに、荷車の軋みと、低く押し殺した男たちの声がある。
川へ下る道には松明が三つ。川岸には平たい荷船が一艘。箱がいくつも積まれ、黒い布で覆われていた。
ケイブは岩陰からそれを見下ろした。
「随分と働き者だな。夜に仕事をする奴は、だいたい昼に見られたくねえ仕事をしてる」
隣で、カドゥの黒い霧が北風に揺れる。
「私の首が近い」
「分かるのか」
「胸の奥が、気色悪く疼く」
「首がないのに胸で分かるのか。便利なような、不便なような」
「便利なら、貴様の首も一度外してみるか」
「遠慮しとく。仕事に差し支える」
カドゥは笑わなかった。
黒い霧が濃い。
ここから先は、軽口で押さえられる怒りではない。
石切り場の中央では、黒い外套の男が帳面を開いている。周りには護衛が六人。さらに、荷運びらしい若者が三人、縄で手首をつながれていた。
白蝶城の学び舎の者ではない。
だが、同じように若い。読み書きができるか、計算ができるか、腕があるか。そういう目で選ばれた者たちだろう。
ケイブは息を細く吐いた。
黒楡商会は、人を荷に変える。
首すら、値札をつける。
「カドゥ。暴れる前に聞け」
「嫌だ」
「聞け」
ケイブの声が少しだけ低くなった。
首なし騎士の体が止まる。
「あの若い連中を先に逃がす。箱はその後だ。お前の首だけを追えば、あいつらが川へ流される」
「私の首は」
「追う。約束した」
「約束を破った貴族を、私は知っている」
「オレは貴族じゃねえ。貧乏な冒険者だ」
「それは信用に足るのか」
「少なくとも、嘘で金を飾る商人よりは安い」
カドゥの胸甲の奥で、短い笑いが鳴った。
「よい。安い男を信じよう」
「褒め言葉に聞こえねえな」
ケイブは石灰粉を少しずつ撒き、岩の影に線を引いた。
まず逃げ道。
次に足止め。
最後に船。
大きく勝つ必要はない。船を出させず、人を逃がし、箱を押さえる。
それで十分だ。
ケイブは矢を一本抜いた。矢尻に水を薄くまとわせ、荷車の車輪下へ放つ。
水矢束流は、音を抑えて地面へ広がった。乾いた石粉が泥になり、車輪の下へ入り込む。
次に土。
野面土壁を低く、川岸の坂へ立てる。
壁ではない。車輪止めだ。
船へ向かう道が、少しだけ詰まった。
「今だ」
カドゥが前へ出た。
黒い鎧が岩陰から滑り落ちる。
「裏切り者ども」
その声だけで、護衛の一人が松明を落とした。
「首なしだ!」
「なぜここが」
「答えなくてよい。斬る」
「斬るな!」
ケイブが叫ぶと、カドゥは長剣をぴたりと止めた。
剣先は男の喉の薄皮に触れている。
「……止めたぞ」
「偉い偉い」
「子供扱いするな。次は貴様を斬る」
その間に、ケイブは縄でつながれた若者たちへ走った。
「動けるか」
「だ、誰だ」
「通りすがりの安い男だ。逃げたいなら黙って手を出せ」
短剣で縄を切る。
一人、二人、三人。
「岩陰へ走れ。灯りのない方だ。転ぶなよ。転んだら置いていく」
「置いていくんですか」
「脅しだ。だが、試すな」
若者たちは青ざめながら走った。
護衛の一人が追おうとする。
カドゥの盾が横から入った。
怨盾返し(カース・リバウンド)。
護衛の剣が盾に食い込み、黒い波紋に押し返される。男の腕が跳ね上がり、剣が宙へ飛んだ。
「逃げる者を斬るな」
カドゥの声は低い。
「それは、裏切り者のすることだ」
ケイブは一瞬だけ彼女を見た。
いい言葉だ。
ただし、本人に言うと面倒そうなので言わない。
黒外套の男が、箱へ走った。
他の荷ではない。
赤黒い封蝋の箱。
カドゥの霧が、箱へ向かって伸びる。
「それだ」
カドゥの声が変わった。
「その箱だ。私の首を返せ」
黒外套の男は箱を抱え、川岸へ走る。
船に投げ込む気だ。
ケイブは矢を番えた。
殺すか。
いや、箱を落とせば首が傷つく。男を倒せば箱が割れるかもしれない。
なら、道を落とす。
ケイブは左手を地面へ向けた。
杭印墜岩。
空からではなく、足元の石を抜く。坂道の端に拳大の穴を作り、男の足をそこへ落とした。
男が前のめりに倒れる。
箱が宙へ浮いた。
カドゥが走った。
重装とは思えぬ速さだった。
箱を両腕で抱き留め、そのまま膝をつく。
黒い霧が、箱全体を包む。
「……ある」
胸甲の奥の声が、震えていた。
「私が、ここにある」
ケイブは周囲を見る。
護衛はまだ残っている。黒外套の男も、倒れたまま短剣へ手を伸ばしていた。
「浸ってるとこ悪いが、まだ終わってねえぞ」
黒外套の男が短剣を投げる。
狙いは箱。
ケイブが動くより早く、カドゥの黒い霧が膨れた。
反逆の黒騎域。
空気が重く沈み、男たちの足が止まる。
投げられた短剣は途中で勢いを失い、箱の手前に落ちた。
男が青ざめる。
「な、何を」
「裏切った者は、足が重くなる」
カドゥは箱を抱えたまま立ち上がった。
「私の首を売った手で、もう一度触れようとするな」
その声に、護衛たちは動けなかった。
恐怖だけではない。
後ろめたさ。
自分が何を運んでいたのか、何を売ろうとしていたのか。その重さが、足に絡んでいる。
ケイブはその隙に黒外套の男を蹴り倒し、手首を踏んだ。
「本隊の頭はどこだ」
「し、知らない」
「次に知らないと言ったら、あの首なしに聞かせる」
男は箱を抱いたカドゥを見て、喉を鳴らした。
「ダリムだ! ダリムが川下の集積場にいる! 学び舎の十人は、まだ白霧境に手を出す前だった! だが、契約が失敗したから、次は攫うって」
やはり。
ケイブの目が細くなる。
白蝶城へ戻る必要がある。
チヨネ、エルネ、ロウエン、リーネ。
守るべき者たちがいる。
だが、ここでダリムを逃がせば、次はもっと深く潜る。
カドゥは箱を抱いたまま、ケイブの方へ向いた。
「軍師。私は首を戻す」
「ここでか」
「ここでだ。私の怒りを、正しい場所へ向けるために」
「……時間は」
「少しでよい。痛みは、私のものだ」
ケイブは周囲を見た。
船はまだ出ていない。若者たちは岩陰へ逃げた。護衛は足を止めている。
今なら、数呼吸だけ作れる。
「やれ。だが、終わったら走るぞ」
カドゥは箱の封蝋を砕いた。
黒い霧が噴き上がる。
箱の中身は、ケイブには見えなかった。
見ない。
見るべきものではない。
ただ、カドゥの鎧が震え、首の断面を覆っていた霧が一度大きく膨らんだ。
次の瞬間。
黒髪が、闇の中で揺れた。
長い黒髪。
深い赤紫の瞳。
凛々しく、危うく、美しい女の顔が、黒甲冑の上に戻っていた。
カドゥ・マサカは、ゆっくり目を開ける。
「……見える」
その声は、もう胸甲の奥だけから響くものではなかった。
喉を通り、震え、夜気を裂いた。
「裏切り者の顔が、よく見える」
ケイブは帽子のつばを下げた。
「そいつは良かった。じゃあ、次は見えた顔を覚えとけ」
川下へ向かう道の奥で、馬のいななきが聞こえた。
黒楡商会の本隊が逃げ出した音だった。
今回は、カドゥがついに自分の首を取り戻す回です。
首を奪われた怒り、黒楡商会が人も首も「荷」として扱う気味悪さ、そして白霧境学び舎へ迫る危険をつなげました。
カドゥは首を取り戻しましたが、黒楡商会の本隊、そしてダリムはまだ逃げています。
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