第70話:最初の雇い手
空き礼拝堂の修繕が始まる。
学び舎の話を聞きつけ、ギルドと商人が早くも白蝶城へやって来た。
雨漏りの音が、礼拝堂の床に落ちていた。
ぽたり、ぽたり。
古い木椅子は半分が腐り、壁の聖句は煤けて読みにくい。窓の一枚は割れたままで、そこから入る風が、積もった埃を薄く揺らしていた。
だが、建物は死んでいない。
柱は残っている。床も、少し直せば使える。祈りの場として忘れられた場所でも、人が集まる場所にはできる。
「屋根は三日。壁の穴は二日。机は、倉の板を削れば何とかなります」
ロウエンが指を折って数えた。
前なら、まず銭の出所を探しただろう。今は違う。手元の木材、余った釘、暇な職人、働きたい者。使えるものを先に数えるようになっている。
「足りぬ分は買う。だが、買う前に余りを探せ」
「分かっていますよ。領主様の倉は、財布より先に帳面を開く。最近、夢にまで出ます」
ロウエンはぼやいたが、顔は悪くない。
エルネは礼拝堂の奥で、板に炭で線を引いていた。文字を教えるための板だ。隣にはリーネが立っている。細い指で炭を持ち、白く削った小板へ、震えながら線を引いていた。
「そこ、曲がっても大丈夫。名前は一度で綺麗に書くものじゃないわ。何度も書いて、自分の手に覚えさせるの」
「……汚くても、読めますか」
「読める。今のは、ちゃんとリーネのリだわ」
リーネは目を伏せた。
嬉しいのか、怖いのか。
その両方なのだろう。
ジゼリアは少し離れた場所に立っていた。近づきすぎない。リーネが顔を上げた時だけ、静かに頷く。
吉継はその距離を見て、少しだけ息を吐いた。
ジゼリアは変わろうとしている。光で救うだけではなく、相手が近づける距離で待つことを覚え始めていた。
「ふんふん」
足元で、チヨネが小さく鼻を鳴らした。
褒めている。
「そうだな。よく待てている」
チヨネは満足げに胸を張った。自分が褒められたわけではないのに、なぜか誇らしそうだった。
その時、礼拝堂の外が少し騒がしくなった。
ロウエンが扉へ向かい、すぐに戻ってくる。
「領主様。西街道ギルドの者と、市の商人が来ています」
「早いな」
「得の匂いは、雨でも消えませんからね」
入ってきたのは、灰色の外套を着た女性だった。髪は短く切り、腰に小さな帳面を三冊吊っている。武器より帳面が似合う人物だ。
「西街道ギルド出張所、記録係のミラ・クラインです。白蝶城が読み書きできる者を育てると聞きました」
声は乾いているが、目は鋭い。
その後ろから、丸い腹の商人が顔を出した。名はバズ。白霧境の市で油と布を扱っている男で、損得の話になると鼻の穴が少し広がる。
「私も聞きましてね。帳面を見られる若い手がいるなら、早めに声をかけておこうかと」
エルネが小さく眉をひそめた。
「まだ始めたばかりです。いきなり雇える段階ではありません」
「いやいや、飯と寝床はこちらで出しますよ。給金は最初の半年なしでも、まあ、学ばせながら使うということで」
空気が冷えた。
リーネの手から炭が落ちる。
ジゼリアが一歩出かけたが、吉継が先に口を開いた。
「バズ殿」
「はい?」
「人手が欲しいのか、ただの安い手が欲しいのか。どちらだ」
声は静かだった。
だが、バズの笑みは少し固まった。
「い、いや、もちろん人手でございます」
「ならば払え。学ばせながら使うと言ったな。使うなら仕事だ。仕事なら対価がいる」
「ですが、まだ半人前でしょう」
「半人前なら、半人前の賃を払え。飯と寝床だけで縛る契約は認めぬ」
ロウエンが横で咳払いした。
「領主様、それを言うと商人の顔が半分死にます」
「死なせるつもりはない。だが、安く買い叩く顔は少し削る」
ミラがふっと笑った。
「分かりやすい領主ですね。ギルドなら試用で日当を出せます。銅貨は多くありませんが、記録係の補助なら、読み書きと数え間違いの少なさを見ます」
「どれほどだ」
「最初は半日で銅貨二枚。帳面を任せられるなら四枚。依頼札を読んで仕分けできるなら六枚」
バズが慌てて口を挟む。
「うちも払えないわけではありませんよ。ただ、最初から高くすると他の奉公人が騒ぎます」
「騒がせればよい」
「は?」
「文字を覚えれば賃が上がる。数を覚えれば任せられる仕事が増える。そう分かれば、他の者も学びに来る」
吉継は礼拝堂の中を見た。
「働き手を育てる場だ。安く使い潰す場ではない」
リーネが、落とした炭を拾った。
指先はまだ震えている。
だが、今度は自分で拾った。
「……私、数なら少しできます」
小さな声だった。
エルネが驚いて振り返る。
「リーネ?」
「村で、豆を分けていました。兄がよく間違えるから、私が数えていました」
ミラが腰の袋から銅貨を十枚出し、床に置いた。
「では、試しても?」
ジゼリアがリーネを見る。
吉継もまた、答えを急がなかった。
「選ぶのは、お前だ」
リーネは唇を噛み、ゆっくり頷いた。
ミラは銅貨を三つの山に分けた。四枚、三枚、三枚。
「依頼が三件。薬草採りが四枚、荷運びが三枚、針角兎の確認が三枚。合計は」
「十枚です」
「では、薬草採りの依頼が二件増えたら」
リーネは指を動かした。
声が詰まる。
チヨネが、床の端で銅貨と同じ数だけ小石を並べ始めた。何気ないふりをしているが、助けている。
リーネはその小石を見て、息を整えた。
「十八枚」
ミラの目が少し変わった。
「今のを、誰に教わりました」
「家で……昔」
「なら、残っていますね。全部失くしたわけじゃない」
リーネの目に、薄く涙が浮いた。
ジゼリアが動きかけ、止まる。待つと決めた顔だった。
ミラは銅貨をしまい、吉継へ向き直った。
「三日後、半日だけギルドへ連れてきてください。無理なら断っていい。本人が嫌がるなら、それも記録します」
「よい条件だ」
「ただし、ギルドは慈善ではありません。使えるなら雇う。使えなければ返します」
「それでいい。こちらも、憐れみだけで送り出すつもりはない」
バズが困ったように腹を撫でた。
「では、うちも銅貨二枚からでどうでしょう」
「仕事の内容を書け。読めぬ者に口約束を押しつけるな」
「……領主様、商人に厳しすぎませんかね」
「商人は利益を求める者だろう。ならば、信用を損なう契約を出すな。長く儲けたいなら、相手も生かせ」
バズはしばらく黙り、やがて両手を上げた。
「分かりました。書きますよ。飯と寝床だけ、なんて話は引っ込めます」
「そうしろ」
ロウエンが小さく笑った。
「これはまた、市が騒ぎますな」
「騒げば、人が来る」
「その分、仕事も増えます」
「分かっている」
「いえ、分かっている顔じゃありません。領主様は、仕事が増える時だけ少し楽しそうです」
エルネが深く頷いた。
「分かります。困ります」
チヨネも真顔で頷いた。
「ふん」
今のは、強めの同意だった。
吉継は返す言葉を探し、やめた。
反論の材料がなかった。
夕刻、礼拝堂の入口に一枚の札が貼られた。
読み書き、計算、帳面。
望む者に教える。
働く道を探す者は、名を申し出よ。
その札の下へ、リーネが震える字で自分の名を書いた。
最初の一人。
それを見た吉継は、白布の奥で静かに目を細めた。
だが、夜になってロウエンが持ってきた報告で、その穏やかな空気は少しだけ変わる。
「領主様。妙な話が来ています」
「何だ」
「王都へ向かう商隊が、学び舎で育つ者を十人まとめて雇いたい、と。前金を出すそうです」
チヨネの影が、床の上で細く伸びた。
吉継は札から目を離さずに言った。
「早すぎる」
人材の匂いを嗅ぎつけた者がいる。
銭が回り始める時、悪意もまた、その流れに指を入れてくる。
今回は、学び舎構想が実際に「仕事」とつながり始める回です。
リーネが最初の一歩を踏み出し、吉継は安く使い潰されないための線を引きました。
人材育成は善意だけでは回らない。だからこそ、銭と信用が回る仕組みにしていきます。
次回の展開が気になる!面白い!と思ってくださった方は、ぜひブックマークや、広告下の【☆☆☆☆☆】の評価(カクヨムなら★)での応援をよろしくお願いいたします!皆さんの応援が何よりの執筆の原動力です!




