第69話:空き礼拝堂の学び舎
ラザルの件は、ひとまず王都へ。
しかし吉継は、保護された者たちの「明日」がまだ空白であることを見ていました。
ラザルを王都へ送る準備は、昼前には整った。
トモエリアが護送を引き受け、アリスティの部下が馬車の前後につく。チヨネの影も、しばらくは見えないところから追うことになった。
ラザルは黙っていた。
もう丁寧な笑みはない。聖印の指輪を撫でる手も、縄で軽く縛られている。
ジゼリアは、馬車が城門を出るまで見送った。
十字架を握ってはいない。
ただ、背筋だけは真っ直ぐだった。
「終わった、とは言えませんね」
エルネが帳面を抱えたまま言った。
「終わっていない」
吉継は頷く。
「ラザルは捕らえた。だが、保護された者たちの明日は、まだ空白だ」
白蝶城の西倉には、保護された女性等がいる。
眠れる者は眠り、食べられる者は少しずつ食べている。だが、それだけでは足りない。安全な寝床を与えただけで、人は明日を選べるようにはならない。
名を書く手。
数を数える目。
契約書を読める力。
それがなければ、また誰かの綺麗な言葉に絡め取られる。
「ジゼリア殿」
吉継が呼ぶと、ジゼリアは静かに振り返った。
「はい」
「使われていない神殿はあるか」
「白霧境の南に、小さな礼拝堂があります。巡礼路が変わってから、ほとんど使われていません。雨漏りはありますが、壁は残っています」
「そこを白蝶城の管理下に置きたい」
ジゼリアの眉が動いた。
「祈りの場所として、ですか」
「学びの場所としてだ」
エルネが顔を上げる。
ロウエンも、倉台帳を持ったまま足を止めた。
「読み書き、計算、帳面のつけ方、契約書の読み方。まずはそれを教える。学んだ者には、白蝶城の仕事、市の帳面、商人の補助、ギルドの受付や記録係の道を作る」
「……保護された方々に、ですか」
「望む者からだ。無理に学ばせるつもりはない」
ジゼリアは少しだけ目を伏せた。
「神殿が、管理を譲ると思いますか」
「譲らせるのではない。使われていない建物を、白蝶城が責任を持って直し、借り受ける。その分の使用料は神殿に払う」
吉継は言った。
「名目は寄進ではなく、礼拝堂の使用料と修繕費だ。食糧と薬、教師の俸給も白蝶城の帳面に残す。神殿側にも同じ写しを渡す。銭だけを渡さぬ」
「神殿を買うのですか」
「違う。借りる。だからこそ、銭の流れを見えるところへ置く」
ジゼリアは黙った。
今の彼女には、その言葉が痛いはずだ。
だが、目を逸らさなかった。
「救済に金がかかる。それはラザルの言葉でも、事実です」
「ああ」
「だから、金のために人を売った」
「なら、人を売らずに金が回る形を作る」
吉継は西倉の方を見る。
吉継の脳裏に、前世の記憶がよぎる。
己のいた国では、戦う家の子が祈りの場に預けられ、僧から読み書きや経、書状の書き方を学ぶことがあった。庭訓往来という書もある。手紙の形で、世の作法を学ばせるものだ。
この世界に、武士も寺もない。
ならば、言葉を選ぶ必要がある。
「俺の故郷では、戦う家の子が祈りの場で文字を学ぶことがあった」
ジゼリアが少し驚いた顔をした。
「騎士の子が、神殿で学ぶようなものですか」
「近い。戦う者ほど、字と数を知らねばならぬ。兵糧を数えられぬ将は、兵を飢えさせる。書状を読めぬ者は、敵の言葉に殺される」
ジゼリアは口元を引き結んだ。
「……言葉も、人を殺すのですね」
「ああ。だから、読む力を持たせる」
エルネが小さく息を呑む。
「それ、私にも仕事が来る流れですよね」
「来る」
「やっぱり」
エルネは肩を落としたが、口元は少しだけ緩んでいた。
「教える側が足りません。文字なら私が見ます。計算も初歩ならできます。でも契約書や商業帳簿は、人手がいります」
「商人から雇う。ギルドにも声をかける」
「ギルドが簡単に出しますか」
「来る理由を作る。読み書きできる者が増えれば、受付も記録も楽になる。商人も、計算できる働き手を欲しがる。能力がある者なら、どこにいた者でも欲しがるのが商いだ」
そこで吉継は、トモエリアへ視線を向けた。
「トモエリア殿。王都へ戻る際、ミセリア殿へ伝えてほしい」
「この件を、か」
「ああ。空き礼拝堂を白蝶城の管理で借り受け、学び舎として使う。使用料は神殿へ支払い、帳面は白蝶城と神殿の双方に残す。保護された者の再出発と、神殿の経済の穴を同時に塞ぐ策だ。王国に黙って進めることではない」
トモエリアは腕を組んだ。
「ミセリアなら、まず帳面を見せろと言うぞ」
「分かっている。だから先に作る」
「ふっ。貴殿らしい。分かった、伝えよう。だが、あの女は容赦なく数字を見る」
「望むところだ」
ロウエンが咳払いした。
「領主様。商人は得を嗅げば来ます。ですが、神殿と組むとなると警戒する者もいます」
「だから役に立つ人材を育てる。文字が読める。数が分かる。帳面を任せられる。そこまで育てば、商人もギルドも放っておかぬ」
「奴隷商に買われるより、商人やギルドに腕を買われる方がいい、ということですか」
「ああ。一人雇って役に立てば、次も白蝶城に人を求めに来る。人が働き、銭が回り、また学ぶ者を増やせる。その循環を作る」
ロウエンは黙り、やがて苦笑した。
「……綺麗事に聞こえますが、商人には効きますね。即戦力になるなら、出自を気にしない者は必ず出ます」
「そうさせる」
ジゼリアがゆっくり顔を上げた。
「私も、手伝います」
「治療か」
「それもあります。ですが、それだけではありません」
彼女は胸の十字架に触れた。
今度は握りしめない。
「光神教の者として、そこに立ちます。神殿の名を怖がる人がいるなら、その怖さを消すまで、一人ずつ向き合います。……逃げられても、追いません。待ちます」
吉継は彼女を見た。
怒りが、形を変え始めている。
よい。
刃のままでは、人を守れない時がある。
「ジゼリア殿」
「はい」
「貴殿は、良い教師にもなれる」
「私が、ですか」
「真っ直ぐすぎて、たまに痛いがな」
ジゼリアは目を丸くした。
エルネが口元を押さえ、ロウエンは露骨に横を向いた。
柱の影から、チヨネが戻ってきていた。
「ふんふん」
今のは、少し面白かった、だ。
ジゼリアは困ったように眉を下げる。
「……褒められたのか、注意されたのか分かりません」
「両方だ」
吉継は静かに答えた。
その時、西倉の戸が少しだけ開いた。
保護された女性の一人が、こちらを見ている。
痩せた手が、戸の端を掴んでいた。
「字を……」
かすれた声だった。
全員がそちらを見る。
彼女は怯えたように肩を縮めたが、逃げなかった。
「字を覚えたら、契約書を読めますか」
吉継は一歩だけ近づき、そこで止まった。
近づきすぎない。
逃げる余地を残す。
「読めるようにする」
「名前も、書けますか」
「書ける」
彼女の目が揺れた。
「なら、覚えたいです」
ジゼリアが息を呑んだ。
エルネは帳面を胸に抱き直す。
吉継は白布の奥で、静かに頷いた。
「では、そこから始めよう」
ラザルを捕らえたことで、ひとつの悪は止まった。
だが、止めるだけでは足りない。
奪われた者が、自分の名を自分で書けるようになる。
それが、次の戦だった。
今回は、保護された人たちの先をどうするかの回です。
吉継は使われていない礼拝堂を学び舎として使い、読み書き、計算、契約書の読み方を教える構想を出しました。
白蝶城が管理責任を持って借り受け、使用料と修繕費を神殿へ支払う形にしています。
さらに、学んだ者を即戦力として育て、商人やギルドに雇われる循環を作る方向へ進みます。
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