第66話:白蝶城の檻
明朝、東境神殿副院監ラザルが白蝶城へ来る。
吉継が用意した檻に、王都からの風も加わります。
朝の白蝶城は、いつもより静かだった。
静かすぎる。
兵が怠けているわけではない。むしろ逆だ。門番は槍を握る指に余計な力を入れ、廊下を歩く者は足音を殺し、エルネは帳面の角を何度も揃えていた。
誰もが、今日来る男の名を知っている。
東境神殿副院監ラザル。
保護された者たちを、救済の名で奪い返そうとした疑いのある男。
吉継は白布の奥で息を整えた。
病毒の熱は、まだ右腕の奥に残っている。昨夜から眠りは浅い。だが、今日は倒れる日ではない。
倒れてよい場ではない。
「大谷様」
エルネが近づいてくる。声は抑えているが、目は落ち着いていなかった。
「門前に、神殿の馬車が見えました」
「数は」
「馬車一、神殿兵六。従者二。多すぎず、少なすぎずです」
「面目を保つ数だな」
「……ええ。逃げるには少なく、押し切るには足りません」
エルネも、ずいぶん戦の言葉に慣れてきた。
本人は嫌がるだろうが、これは成長だ。
ジゼリアは広間の入口に立っていた。
白い鎧の胸元で十字架が揺れる。赤の入った鎧の縁が朝日に光り、太ももまで覗く装甲の隙間には、戦場へ出る者の緊張が宿っていた。
彼女は剣を抜いていない。
光も出していない。
ただ、怒っていた。
顔に出ている。呼吸にも出ている。隠すつもりがないのだろう。
「ジゼリア殿」
「分かっています。剣は抜きません。光も出しません」
「それだけでよい」
「よくありません」
ジゼリアは唇を噛んだ。
「それだけで済むなら、私は昨日まで何を信じていたのですか」
その問いは、吉継へ向けたものではない。
己の胸の奥へ刺した刃だ。
「怒りは残せ」
吉継は静かに言った。
「だが、ラザルへぶつける前に、保護された者たちの顔を思い出せ。貴殿の怒りは、あの者たちの盾であるべきだ」
ジゼリアは、目を伏せた。
「……分かりました。盾になります。今度こそ」
チヨネが柱の影から顔だけ出した。
「ふん」
少し心配している。
吉継は彼女へ目だけで頷いた。
影はすでに広間の床下、窓枠、梁の裏へ薄く回っている。チヨネは見えない場所で、白蝶城の檻をもう半分閉じていた。
門前から、車輪の音が止まる。
しばらくして、ラザルが広間へ通された。
年は五十前後。白と金の法衣を着ている。指には大きな聖印の指輪。腹は少し出ていたが、歩き方だけは丁寧だった。
丁寧すぎる歩き方。
踏む場所を選び、見られる角度を考え、相手の目線より少しだけ高い顔を作る。
こういう男は、剣を持たなくても人を刺す。
「白霧境領主、大谷吉継殿」
ラザルは柔らかく微笑んだ。
「此度は、神殿記録との照合にご協力いただき感謝いたします。保護された者たちの扱いについて、行き違いがあったようで」
「行き違いか」
「ええ。現場の司祭が混乱したのでしょう。救済の手順は複雑です。地方では、どうしても誤解が起こります」
ジゼリアの肩がわずかに動いた。
ラザルはそれを見て、すぐに顔を曇らせる。
「ジゼリア様も、お心を痛めておいででしょう。ですがご安心ください。神殿は必ず、迷える者に光を」
「その光で、誰をどこへ連れて行った」
ジゼリアの声は低かった。
ラザルの笑みが、一瞬だけ細くなる。
「お言葉の意味が分かりかねます」
「分からないなら、今から分かる」
吉継は言い、エルネへ目を向けた。
エルネが一歩前に出る。
「確認事項を読み上げます。副院監ラザル殿。白霧境で保護された者たちを、東境神殿の救貧院記録では『未処理』として扱っていますね」
「救貧院の内務記録は、神殿の管轄です。外部の方に」
「答えよ」
吉継の声が落ちた。
ラザルの視線が、初めて吉継へまっすぐ向く。
「……確認中の者はいます」
「黒楡商会へ渡す予定だった者も、確認中と呼ぶのか」
広間の空気が止まった。
ラザルの指が、聖印の指輪を撫でる。
癖だ。
考える時間を稼ぐ者の癖。
「商会、ですか。領主殿は、どこでそのような名を」
「答える順が違う」
吉継は一歩も動かない。
「問われているのは、貴殿だ」
その時、外で馬のいななきが響いた。
門番の声が重なる。
「王都より使者! 宰相印の封書あり!」
ラザルの顔から、柔らかい色が消えた。
広間の扉が開く。
風が入ってきた。
深い緑の髪を高く結んだ女騎士が、赤縁の軽鎧を鳴らして歩いてくる。腰には細身の長刀。足音は軽いが、踏み込むたび床の空気が薄く鳴った。
「ラングレイス辺境伯家、トモエリア・ラングレイス」
彼女は封書を掲げた。
「宰相ミセリア・イシダ閣下の命により、白霧境の確認使者として参った」
吉継は、彼女を見た瞬間、胸の奥で古い鐘が鳴るのを聞いた。
名が響く。
巴御前。
平家物語にその名はあった。
木曾義仲に従い、武勇をもって語られた女武者。
吉継は前世で、その記述を何度も読んでいる。戦国の武士として、古き武者の名を知らぬわけがない。
平安の武士まで、この世にいるのか。
吉継は息を細く吐いた。
また一人、来たか。
トモエリアは吉継を見た。
鋭い目だ。こちらを値踏みしている。剣士として。使者として。そして、ミセリアが気にした男として。
「貴殿が大谷吉継か」
「そうだ」
「なるほど」
「何がだ」
「ミセリアが分かりにくいと言った理由が、少し分かった」
言いながら、トモエリアはラザルへ視線を移す。
空気が変わった。
白蝶城の門。
チヨネの影。
ジゼリアの怒り。
エルネの記録。
王都の封書。
逃げ道が、一つずつ消えていく。
「ラザル殿」
吉継は静かに言った。
「これで、神殿の面目だけでは済まなくなった。王都の記録にも残る」
ラザルは笑おうとした。
だが、口元だけが失敗した。
「……誤解です」
「なら、解けばよい」
吉継は白布の奥で、目を細めた。
「ここは白蝶城。貴殿のために用意した檻だ。言葉で出られるなら、出てみせよ」
今回はラザル来城と、トモエリアの白蝶城到着回です。
白蝶城、ジゼリア、チヨネ、エルネ、王都の封書。
逃げ道が一つずつ消えていく中で、吉継はラザルへ言葉の出口だけを残しました。
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