第65話:風を連れた親友
白霧境から王都へ届いた、吉継の黒印文。
それを読んだミセリアは、学園時代からの親友を呼び出します。
王都政務院の夜は、昼よりも静かだった。
静かではあるが、仕事が減るわけではない。
蝋燭の火が机の上で揺れる。積まれた報告書の角が、風もないのに小さく震えた。
ミセリア・イシダは、最後の一通を読み終えたところで指を止めた。
黒印。
大谷吉継の印だった。
文面は正式な報告書として整えられていた。
白霧境領内で保護した者たちの現状。
東境神殿副院監ラザルの関与疑い。
黒楡商会との接点。
救貧院帳簿の写し。
ベリオの証言。
長い文章から必要な骨だけを抜けば、その五つになる。
必要な情報は揃っている。文章も無駄がない。事実、証言、証拠、次に起こることの予測まで、乱れずに並んでいた。
ただ、その整い方が妙に腹立たしい。
「……また危険な場所へ自分から入っている」
声に出してから、ミセリアは眉をわずかに寄せた。
独り言は政務効率を下げる。そう判断している。だが最近、吉継に関わる文を読むと、思考が口から漏れる回数が増えた。
原因不明。
いや、原因は一人しかいない。
ミセリアは卓上の小箱に指を伸ばした。中には、青い硝子の髪飾りが入っている。
白霧境の小商店で、吉継が買ったものだ。
政務上の価値は低い。軍事的効用もない。証拠品でもない。
それなのに、外す理由がまだ見つからない。
「宰相閣下。入ります」
扉の向こうから女官の声がした。
「入れ」
女官は深く一礼し、短く告げた。
「ラングレイス辺境伯家のトモエリア様が到着されました。通しますか」
「通せ。待たせる理由がない」
「はい」
扉が閉じる。
その次に開いた時、風が入ってきた。
正確には、風をまとった女が入ってきた。
トモエリア・ラングレイス。
王国東北の境を守るラングレイス辺境伯の娘であり、ミセリアの学園時代からの親友だった。
深い緑の髪を高い位置で一つに結び、毛先には黒い一房が混じっている。細身に見えるが、肩、腰、脚の線に無駄がない。柔らかな貴族令嬢の体つきではなく、毎日刃を振る者の身体だった。
銀の軽鎧には赤い縁取りが入り、腰には細身の長刀。
彼女が一歩踏み込むたび、足元の空気が薄く鳴る。
「夜中に呼び出すとは、相変わらず人使いが荒いな、ミセリア」
「急ぎだ」
「だろうな。そうでなければ、貴女は私を呼ばない。寂しいものだ」
「寂しいなら、先に手紙を出せ」
「出した。返事は『受理した』の三文字だった」
「届いた証明には十分」
トモエリアは肩をすくめた。
「ああ、懐かしい。学園時代から変わらない。相手の心を木札か何かだと思っている」
「木札は扱いやすい」
「否定しろ、そこは」
女官が口元を押さえかけ、慌てて頭を下げた。
ミセリアはその反応を見て、少しだけ目を伏せる。
トモエリアの言葉は、政務院の空気を乱す。だが、不快ではない。むしろ、固まりすぎたものが少しだけ動く。
「座れ」
「断る。座ると眠くなる」
「では立ったまま聞け」
「命令が早い。好きだぞ、そういうところは」
トモエリアは笑った。
鋭い笑みだった。令嬢の微笑ではない。戦場で獲物を見つけた鷹の顔に近い。
ミセリアは吉継の文を差し出した。
「白霧境で、東境神殿の腐敗が露見しつつある」
トモエリアの笑みが消えた。
「神殿か。面倒な相手だな」
「面倒で済むならよい。人が売られかけた」
「……誰がやった」
低い声だった。
ミセリアは文面の該当箇所を指で示す。
「副院監ラザルの関与が濃い。黒楡商会との金の流れもある。吉継は帳簿写しを得たが、相手には知られていない。明朝、ラザルを白蝶城へ呼ぶ」
「吉継。あの白布の男か」
「そうだ」
「貴女が髪飾りを外さなくなった原因の男でもある」
ミセリアの指が止まった。
「その発言は議題と無関係」
「関係はある。貴女が誰かを気にするなど、学園の卒業試験より珍しい」
「気にしているのではない。損耗を記録対象にしている」
「ふむ。では記録対象が背中に矢を受けた時、貴女は冷静だったか」
「……議題を戻す」
「勝った」
「勝敗は発生していない」
トモエリアは満足そうに笑った。
その笑いを見ながら、ミセリアは思う。
彼女は鋭い。
剣だけではない。人の痛みや揺れを、こちらが隠したつもりでも見つける。だから学園時代、ミセリアが孤立しても、トモエリアだけは勝手に隣へ座った。
理由を聞けば、こう答えた。
お前は正しいが、放っておくと正しさで自分を刺す。
当時は意味が分からなかった。
今は、少しだけ分かる。
「トモエリア。白霧境へ向かえ」
「護衛か」
「違う。王都の目だ」
「見るだけでよいのか」
「必要なら斬れ。ただし、勝手に殺すな。ラザルは証言する可能性がある」
「難しい注文だ。私は風より先に斬ることがある」
「だから貴女を選んだ。速い者ほど、止まれるなら強い」
トモエリアは一瞬、真顔になった。
彼女の周囲で、空気が細く鳴る。
気力身体強化。
己の精神力を肉体に通し、踏み込み、反応、斬撃の速度を跳ね上げる戦技。魔法障壁を破るほどの力はないが、風魔法と合わせた時、彼女は騎士の枠を超える。
長刀の柄に触れた指が、かすかに白くなった。
「もし、神殿兵が保護された者に手を出したら」
「斬れ」
「もし、ラザルが逃げたら」
「生け捕り」
「もし、吉継が無茶をしたら」
ミセリアは答えるまで、わずかに間を置いた。
「止めろ」
「力ずくで?」
「必要なら」
トモエリアは、今度こそ声を出して笑った。
「了解した。宰相命令として受ける。友人としても受ける」
「友人として受ける必要はない」
「ある。貴女がそう言えないだけだ」
反論は無駄だった。
ミセリアは文箱から王都印の封書を取り出し、彼女へ渡す。
「白蝶城に着いたら、これを吉継へ渡せ。私の正式な確認使者として扱わせる」
「分かった。ところで、その吉継は強いのか」
「強い」
「即答か」
「ただし、分かりにくい。武も持っている。知略も政治も兼ね備えている。だが、それ以外にもある。そんな気がする」
「面白いな。私は場ごと斬る方が好みだ」
「だから、斬る前に見ろ」
トモエリアは封書を懐に入れ、踵を返した。
扉へ向かう背には、風がまとわりついている。
「ミセリア」
「何だ」
「その髪飾り、似合っている」
ミセリアは即答できなかった。
その短い沈黙だけで、トモエリアは十分だと言うように笑った。
「では行ってくる。貴女の面倒な記録対象を、少し見てくるさ」
「トモエリア」
「ん?」
「無事に戻れ」
今度は、トモエリアの方が黙った。
それから、いつもの鋭い笑みを少しだけ柔らかくする。
「ああ。親友の命令だ。破るわけにはいかない」
扉が閉じる。
残った蝋燭の火が、小さく揺れた。
ミセリアは机へ戻り、吉継の黒印が押された文をもう一度見た。
白蝶城が檻になる。
ならば王都からは、風を送る。
その夜、王都の北門を、緑髪の女騎士が駆け抜けた。
白霧境へ。
まだ誰も知らない。
その風の奥に、かつて一騎当千と謳われた女武者の魂が眠っていることを。
今回はミセリア視点の回です。
新登場は、ラングレイス辺境伯家の娘トモエリア。
ミセリアの親友であり、風魔法と気力で戦う高速近接型の女騎士です。
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