第63話:地下書庫の影
東境神殿の地下書庫へ向かう吉継たち。
正面に立つジゼリアの裏で、チヨネが影の仕事に挑みます。
東境神殿へ向かう道は、白く整えられていた。
掃かれた石畳、磨かれた門柱、朝日を受ける聖印。
吉継は馬車の中からそれを見ていた。
「立派なものだ」
アリスティが隣で肩をすくめる。
「石が白いほど、落ちた泥は目立つ。掃除係は大変だね」
「泥が表にあるなら、まだよい」
吉継は静かに答えた。
「床下に溜まった泥は、踏んでも気づかぬ」
ジゼリアは向かいで十字架を握り、目を伏せている。
「私は、何をすればいい」
「正面に立つ」
「それだけか」
「それが要る」
吉継は窓の外へ目を向けた。
「聖騎将が正面から来れば、神殿は礼を失えぬ。貴殿が門で話している間に、俺たちは内部に潜入する」
ジゼリアは小さく息を吐いた。
「囮か」
「旗だ」
「言い方を変えても、役目は似ている」
「似ているが、意味は違う。囮は命を失っても役目を果たせばよい。だが、旗は違う。役目を終えた後も、生きて立っていることを前提に考えねばならぬ」
ジゼリアは、少しだけ目を上げた。
「……分かった。倒れない」
チヨネが足元で、銀の鍵を包んだ布をじっと見ている。
手は出していない。
だが、影の先が布の周りをくるくる回っていた。
「触るなと言った」
「ふん」
触っていない。
そう言っている顔だった。
◆
神殿の正門前で、ジゼリアは馬車を降りた。
白と赤の外套が朝風を受ける。
門番の神殿兵が慌てて膝をついた。
「ジゼリア様。突然のお越しとは」
「副院監ラザルに会う。救貧院の記録について確認したい」
声はまっすぐだった。怒りは隠しきれていないが、燃えてはいない。
「しょ、少々お待ちください! すぐに取り次ぎます!」
門番は声を裏返らせ、槍の石突きを石畳にぶつけそうになりながら中へ走った。
その間に、吉継たちは馬車を神殿の裏手へ回した。
裏手には、古い排水路があった。
白い石の神殿から流れ出る水は、細い溝を通って雑木の下へ消える。
人が通るには狭い。
だが、影なら話は別だ。
チヨネはしゃがみ、排水路の暗がりを覗いた。
暗い穴だった。濡れた石の匂いがする。狭く、冷たく、声が吸われる場所。
昔、鎖で繋がれていた時も、似た暗さがあった。
誰も来ない。誰も名前を呼ばない。腹が空いても、泣いても、許可がなければ動けない。
その記憶が、足首の古い鎖跡を冷やした。
チヨネの指が、ほんの少し震える。
けれど、背後に吉継がいた。
自分の名を呼び、食べ物を報酬だと言ってくれた人。戻れば、きっと「上出来だ」と言ってくれる人。
チヨネは唇を結び、影を足元へ集めた。
「ふん」
行ける。
短い鼻鳴らしだった。
「中に入ったら、まず外扉だ。無理に開けるな。鍵穴、蝶番、見張りの足音を見ろ」
「ふん」
「帳簿を見つけても、全部持つな。抜けたことがすぐ分かる。表紙、日付、黒楡商会、支度金、ラザルの印。その写しを取る」
チヨネはこくりと頷いた。
そして、懐から小さな墨壺を出した。
吉継は少しだけ眉を動かす。
「持ってきたのか」
「ふん」
勝つ。
墨に。
そんな顔だった。
アリスティが笑いを噛み殺す。
「頼もしいね。墨壺に勝てる隠密はそう多くない」
チヨネは胸を張った。
次の瞬間、影へ沈んだ。
◆
暗い。
冷たい。
石の隙間に溜まった水が、影を細く揺らす。
チヨネは声を出さない。
呼吸も薄くする。
排水路の奥は、古い格子で塞がれていた。
鉄ではない。
青白い光を帯びた魔導格子。
普通の刃では切れない。
チヨネは指を伸ばしかけ、止めた。
吉継に言われた。
無理に開けるな。
だから、開けない。
影を細い糸にして、格子の向こうへ通す。
鍵穴はない。
代わりに、小さな魔石が壁に埋まっている。
光が強い。
影が嫌がる。
「ふん……」
不満。
だが、引かない。
チヨネは足元の水へ影を落とした。
水に映った自分の影を薄く伸ばし、魔石の後ろ側へ回す。
表から触れば焼ける。
後ろからなら、少しだけ緩められる。
こつ、と小さな音がした。
格子の光が一瞬だけ弱まる。
チヨネはその隙に身体を影へ溶かし、格子の下を抜けた。
白い神殿の床下へ、黒い影が一つ滑り込む。
◆
正門では、ジゼリアが時間を稼いでいた。
ラザルはまだ出てこない。
代わりに、若い司祭たちが何度も同じ説明を繰り返す。
「副院監は朝の祈祷中です」
「なら待つ」
「救貧院の帳簿は、神殿の内部資料でして」
「なら、聖騎将として見る」
「手続きが必要です」
「今作れ」
司祭の顔が引きつった。
吉継は神殿の裏壁を見ていた。
「今は、向こうに先に乱れさせる」
その時、吉継の足元の影が小さく揺れた。
チヨネからの合図だ。
一度。
外扉。
二度。
鍵が合う。
三度目は、少し間が空いた。
中に、人。
吉継は目を細めた。
◆
地下書庫の外扉は、銀の鍵で開いた。
チヨネは鍵を使う時、少しだけ得意げだった。
だが、中には人がいた。
年配の書庫番が一人。
机に突っ伏して眠っている。
眠りは浅い。
手元には鐘紐がある。
起きれば、すぐ人を呼ぶ。
チヨネは短刀を抜かない。
殺すなとは言われていない。
だが、今は殺す場面ではない。
影を伸ばし、机の下の椅子脚へ絡ませる。
次に、鐘紐の影を床へ縫う。
最後に、書庫番の袖をほんの少し引いた。
「ん……」
書庫番が身じろぎする。
チヨネは机の反対側で、小さな紙片を落とした。
かさり。
書庫番がそちらを見る。
その間に、チヨネは棚へ滑り込んだ。
帳簿。
帳簿。
また帳簿。
字は読めない。
だが、印は分かる。
黒い楡の葉。
救貧院の丸印。
ラザルの細い花押。
吉継が見せてくれた目印と同じもの。
チヨネの目が細くなる。
「ふん」
見つけた。
墨壺の蓋を開ける。
手は震えない。
勝った。
墨に。
チヨネは薄い紙を帳簿の上に置き、影で紙を押さえ、印と数字の部分だけを写し取る。
全部ではない。
吉継が言った通り。
抜けたことがすぐ分かるものは取らない。
だが、見たことは残す。
黒楡商会。
支度金。
四名。
移送済。
そして、次の行。
白霧境。
未処理。
チヨネの影が、ぴたりと止まった。
まだ狙っている。
白蝶城の保護対象は、まだ帳簿の中で処理されていない。
つまり、ラザルは取り返すつもりだ。
◆
チヨネが戻った時、吉継は馬車の陰で待っていた。
小さな影が排水路から浮かび、少女の形へ戻る。
服の裾が少し濡れている。
鼻の頭に、墨がついていた。
「ふん」
任務完了。
そう言っている。
吉継は紙片を受け取った。
黒楡商会。
支度金。
白霧境、未処理。
必要なものは、そこにあった。
「上出来だ」
チヨネの背筋が伸びる。
だが、吉継は紙片から目を離さなかった。
「アリスティ殿。ジゼリア殿を下げる。長く正面に立たせると、ラザルが逃げる」
「了解。派手に撤収する?」
「いや」
吉継は白い神殿を見上げた。
「静かに去る。こちらが帳簿を得たことを、まだ知られたくない」
チヨネが袖を引く。
「ふん……」
鼻。
たぶん、そう言っている。
吉継はようやく気づき、布の端でチヨネの鼻先の墨を拭った。
「墨には勝ったが、鼻には負けたな」
チヨネは目を丸くした。
そして、悔しそうに小さく鳴いた。
「ふん」
次は勝つ。
そういう顔だった。
吉継は紙片を懐へしまう。
白蝶城へ戻れば、次は王都へ出す文だ。
だが、その前に一つ。
ラザルが帳簿の消失に気づく前に、こちらから罠を置く必要がある。
吉継は静かに息を吐いた。
「帰るぞ。今度は、こちらが向こうを呼ぶ」
今回はチヨネの潜入回です。
影で排水路を抜け、書庫へ入り、帳簿そのものではなく必要な部分だけを写し取る。
吉継の指示を守りながら、しっかり仕事をしました。
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