第56話:救済の荷車
泣き声を真似るゴブリンの罠。
ジゼリアは民を救うために走り、吉継はその足元にある仕掛けを見抜きます。
逃げたゴブリンの血は、森の奥へ続いていた。
黒い点が、葉の裏に落ちている。
地面ではない。
追う者が足元だけを見ると見失う位置だ。
吉継はそれを見て、軍配を閉じた。
「やはり、道を選んで逃げている」
ジゼリアは唇を噛む。
「あのまま追っていれば、私たちは誘い込まれていたわけか」
「そうだ」
森の奥から、女の泣き声が聞こえた。
「まずは敵の得意な策を潰すとしよう」
吉継は森を見た。
泣き声は、同じ高さで続いている。
助けて。
助けて。
人の喉なら、息が混じる。震えも混じる。痛みがあれば、同じ調子では続かない。
あれは声ではない。
道具か、真似る役がいる。
「チヨネ」
影が足元で揺れた。
「声の元を見ろ。人がいれば知らせろ。魔物だけなら、右の影を二度動かせ」
チヨネは頷き、木の陰へ溶けた。
ジゼリアは森の奥を睨んでいる。
「遅い」
「追えば、また奴らの思うつぼだ」
「なら、罠ごと焼けばいい。私は、もう泣き声を餌にされるのを見たくない」
「生きている者がいれば焼ける。貴殿の正義で、助かる者まで殺したくはないだろう」
ジゼリアの指が、剣の柄を強く握った。
怒りを抑えている。
その怒りは本物だ。
だが、本物だからこそ、敵は使う。
しばらくして、木の影が二度揺れた。
人はいない。
吉継は弓兵に目配せする。
「あの倒木の上だ。音を出すだけでよい」
矢が飛ぶ。
倒木の上で、乾いた音がした。
泣き声が止まる。
代わりに、森の奥で短い悲鳴が上がった。
ゴブリンの声だ。
「進む。だが、まっすぐではない」
吉継は軍配を左へ向けた。
「ジゼリア殿は中央で光を抑えろ。照らすだけでよい。焼くな」
「命令するのか。私は貴殿の兵ではない」
「ジゼリア殿、ここは民を多く救うために協力しよう。勝つためではない、助けるためだ」
ジゼリアは一瞬だけ目を細めた。
「……照らすだけだな」
白い光が、森の低い枝を照らした。
影が逃げる。
その光の端で、穴が見えた。
落とし穴。
上には枝と土。人が踏めば落ちる。
その向こうに、縄で結ばれた布が揺れている。人影に見せるためのぼろ布だ。
アリスティの傭兵が舌打ちした。
「本当に誘ってやがる」
「だから言った。知能のある獣だ」
森の奥から、今度は子供の声がした。
「お母さん」
ジゼリアの足が動く。
吉継は軍配を強く閉じた。
「待て」
だが、次の瞬間、木の上から本物の子供が見えた。
枝に縛られ、口を布で塞がれている。
ジゼリアが駆け出した。
「生きている!」
吉継は、止めきれないと悟った。
背後のアリスティへ、短く告げる。
「アリスティ、ここの指揮を頼む」
「わ、分かった」
「チヨネ、俺についてこい」
ジゼリアが一歩踏み込む。
地面が割れた。
落とし穴ではない。
横から崩れる仕掛けだ。
彼女の足場が斜めに落ち、下から槍が突き上がる。
ジゼリアは聖盾を張った。
白い盾が槍を受け止める。
だが、盾は前を守る。
背後の木陰から、黒い矢が三本放たれた。
吉継は走っていた。
一足一刀。
前世の剣理が、若い体を前へ押し出す。
刀で一本を払う。
二本目は肩の布を裂く。
三本目がジゼリアの首筋へ向かう。
「影」
チヨネの影が跳ね、矢の軌道をわずかに変えた。
矢はジゼリアの赤い肩鎧を削り、後ろの木へ突き刺さる。
吉継はジゼリアの腕を掴み、崩れた斜面から引き戻した。
「なぜ来た!」
「ただ、助けたかっただけだ。貴殿のように、前へ出ずにはいられぬ者を俺は知っている」
「私が助ける側だ!」
「なら、生きていろ。救う者が倒れれば、泣く者が増える」
短い言葉だった。
ジゼリアの息が止まる。
その間に、吉継は森を見る。
ゴブリンが笑っている。
声を真似るもの。
穴を作るもの。
矢を撃つもの。
子供を餌にするもの。
役が分かれている。
群れではない。
小さな軍だ。
「ジゼリア殿。聖炎は上へ」
「上?」
「枝を焼け。地面は焼くな」
ジゼリアは迷わなかった。
聖炎が上へ走る。
枯れ枝だけが白く燃え、木の上のゴブリンが悲鳴を上げて落ちた。
地面は燃えない。
縛られた子供にも火は届かない。
「アリスティ隊、網」
傭兵たちが左右から回る。
ゴブリンは逃げようとした。
だが、逃げ道にはチヨネの影が先にいた。
「ふん」
低い音。
影が足首を縫い、ゴブリンが転がる。
ジゼリアが前に出る。
彼女の背後に、白い光が立ち上がった。
オルレアンの乙女。
視界内の味方へ、強制的に加護を注ぐ光。
傭兵たちの呼吸が揃う。手の震えが止まる。恐怖が消え、足が前へ出る。
同時に、吉継の背中と右腕が焼けた。
包帯の下で皮膚が熱を持ち、病毒が悲鳴のように暴れる。
チヨネが振り返った。
「ふん……!」
「見るな。前だ」
吉継は声を乱さない。
ジゼリアの光は味方を救っている。
ならば、自分が痛むことは今の問題ではない。
彼はジゼリアの背後へ半歩ずれた。
光を浴びながら、それでも彼女の死角を守る。
「聖盾」
白い盾が横に広がり、黒い矢を受け止めた。
吉継はその後ろから軍配を振る。
「右を押せ。左を開けろ。逃げ道を一つだけ残す」
「逃がすのか」
「違う。死兵化を防ぐ」
残した逃げ道の先には、泥の斜面がある。
チヨネが先に影を沈めていた場所だ。
ゴブリンたちはそこへ殺到し、足を取られた。
網が落ちる。
槍が喉元で止まる。
戦いは長くなかった。
だが、村を襲った魔物の質は、誰の目にも変わって見えた。
ジゼリアは縛られた子供を抱き下ろし、光で傷を塞ぐ。
吉継の右腕は熱を持っていた。
包帯の下で、病毒が光に反発している。
ジゼリアが、彼の袖の焦げを見た。
「あなたは、私の光で焼かれているのか」
吉継は軍配を閉じた。
「今は些細なことだ。痛みより、まだ動く足を信じる」
「些細ではない」
「ただ、助けたかっただけだ。貴殿も、あの子も。目の前で倒れると分かっていて、背を向けられるほど器用ではない」
チヨネが心配そうに袖を引く。
「ふん……」
「大丈夫だ」
嘘ではない。
まだ動ける。
◆
夕刻、光神教の荷車が村跡へ入ってきた。
白い布。
聖印。
弔いの鈴。
村人たちは、救いが来たと思った。
ジゼリアもそう思ったのだろう。緊張を少し解いた。
だが、吉継は荷車の後ろに目を留めた。
布をかけられた遺体。
その横に、まだ息のある女たち。
リーネと同じように傷つき、帰る家を失った者たちだ。
チヨネの影が、吉継の足元から薄く離れた。
吉継は見ていないふりをする。
司祭の一人が帳面を開いている。
「身寄りなし。保護対象。移送」
声は低い。
だが、吉継の耳には届いた。
さらに、小さな革袋が司祭の袖へ滑り込む。
受け取ったのは、光神教の紋をつけていない男。
顔を伏せている。
商人の手だ。
死者を弔う手ではない。
値を数える手だ。
荷車の下で、影が一度だけ揺れた。
チヨネは誰にも見えぬ位置で、荷台の隙間から覗いた小さな羊皮紙を拾った。
そこには、人数と移送先が書かれている。
神殿名ではない。
商会名。
そして、女たち一人ずつに付けられた値。
チヨネはそれを袖の奥へ隠し、何もなかったように吉継の影へ戻った。
吉継も、ジゼリアも、まだその紙を知らない。
白い布の下で、救済とは違う車輪が音もなく回っていた。
吉継の目が細くなる。
前世で見たことがある。
寺社は、ただ祈るだけの場所ではなかった。
米を持つ。
銭を持つ。
兵を持つ。
民の心を持つ。
織田信長が比叡山を焼き、浄土真宗と長く争った理由を、吉継は前世の戦と政で知っていた。
そして太閤殿下は、浄土真宗を武力だけで潰すのではなく、懐柔によって戦を終わらせた。
宗教は、信仰だけでは動かない。
正義の名を持つ組織ほど、刃を向けにくい。
だから厄介なのだ。
ジゼリアが司祭へ歩み寄る。
「その者たちは、どこへ運ぶ」
司祭は穏やかに頭を下げた。
「神殿で保護いたします。身寄りを失った者たちですので」
「そうか。頼む。彼女たちを、必ず守ってくれ。助かった命を、二度と荷物のように扱わないでくれ」
ジゼリアの声に疑いはなかった。
光神教は弱き者を救う。
彼女はそう信じている。
吉継は一歩前へ出る。
「俺の領に近い場所だ。必要な物資があれば、白蝶城へ知らせてくれ」
司祭の笑みは柔らかい。
「領主殿の慈悲、神もお喜びになりましょう」
その言葉は美しかった。
美しすぎて、刃の影が見えにくい。
ジゼリアは傷ついた女たちへ祈りを捧げた。
吉継は黙って、その背を見ていた。
彼女はまだ知らない。
救済の荷車。
その車輪の下で、別の闇が音もなく回っていた。
今回は、吉継がジゼリアを救う回です。
ゴブリン戦は、敵を単なる雑魚ではなく「小さな軍」として描きました。
ジゼリアのオルレアンの乙女が吉継を傷つける中、それでも背後を守る場面も入れています。
そして戦いの後、光神教の荷車が到着します。
ジゼリアは救済だと信じていますが、チヨネだけが不穏な羊皮紙を密かに拾います。
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