第51話:水矢と落つる岩
ケイブ・アッシュとして北畑へ向かった吉継。
弓で針角兎を仕留めた後、彼は水、土、火の魔法を試し始めます。
北畑は、白蝶城から半刻ほど歩いた先にあった。
麦はまだ低い。
豆苗も細い。
その柔らかな緑の列が、ところどころ乱されている。踏まれ、噛み切られ、土ごと掘り返された跡がある。
ケイブ・アッシュは、畑の縁で足を止めた。
灰色の外套。
短い顎髭。
背には安物の弓。
腰には短剣。
どこから見ても、領主には見えない。
少なくとも、そう見えるように作った。
彼は畑へ入らず、まず周囲を見た。
踏み跡は三つ。
一つは畑の中央。
一つは柵の下。
一つは石垣の陰。
針角兎は、兎に似ているが兎ではない。額に針のような角を持ち、後ろ脚で跳ねる。小さいからといって侮れば、太腿を刺されて倒れる。
小さな敵ほど、油断した者を殺す。
ケイブは弓を下ろし、弦を確かめた。
久々だな。
前世で弓を引いた記憶はある。
だが、関ヶ原の頃には、弓より鉄砲と槍と刀の印象が強い。体も若く戻ったとはいえ、弓の筋はすぐには戻らない。
それでも、狙うべき時は分かる。
風。
距離。
相手が跳ねる前の、脚が沈む一瞬。
草が揺れた。
ケイブは矢を番えた。
白い影が畑の列から飛び出す。
額の針角が、朝の光を細く返した。
矢が鳴る。
一匹目の針角兎は、跳ぶ前に首の付け根を射抜かれて転がった。
次が柵の下から出た。
ケイブは一歩横へずれ、二の矢を放つ。
外したように見えた。
だが、矢は跳ね上がった魔物の腹へ入った。
矢が当たったのではない。
魔物が、矢の通る場所へ跳び込んだ。
「この腕、まだ錆びちゃいないらしい。年を食ったふりも、ほどほどにしないとな」
ケイブは低く呟いた。
三匹目は石垣の陰から出た。
これは速い。
真正面ではなく、斜めから来る。
ケイブは矢を引き絞らず、短く放った。
浅い。
針角兎の肩を掠めただけだ。
魔物が跳ぶ。
ケイブは弓を捨てず、半身で避けた。針角が外套を裂き、脇をかすめる。
若い体が反応した。
前世なら、一拍遅れていたかもしれない。
ケイブは振り返りざまに三の矢を抜き、地面へ落ちた針角兎へ撃ち込んだ。
魔物は跳ねず、畑の土に沈んだ。
討伐だけなら、これで十分だった。
だが、今日の目的はそれではない。
◆
ケイブは畑から離れ、雑木林の奥へ入った。
人の目が届かない場所を選ぶ。
病毒魔法は使わない。
試すのは、水、土、火。
まずは水だ。
吉継は、以前に水刃薄断の入口を掴んだ。
水を薄く伸ばし、刃のように飛ばす。
だが、それはまだ単純な線に近い。
この世界で水魔法を学ぶ者なら、水を球にして飛ばすのだろう。丸くまとめれば分かりやすい。形も保ちやすい。
だが、吉継が真っ先に思い浮かべる水は、丸くない。
川だ。
川の流れは単純ではない。
迂回する。
分かれる。
狭まる。
崖から落ちる。
岩に当たって向きを変える。
そして、弓矢も同じだ。
矢はまっすぐ飛ぶだけではない。風を受ける。射手の癖でわずかに曲がる。高く放てば落ちる。低く放てば地を這うように伸びる。
水を矢と見る。
流れを弓道と見る。
吉継は弓を構えた。
ただの矢ではない。
矢尻の先に、水を細く集める。
冷たい魔力が指先から弦へ伝わり、矢の周囲に透明な膜を作った。
「水矢乱流」
放つ。
一本の矢が飛んだ。
だが途中で、矢にまとわりついた水が裂けた。
二つ。
四つ。
八つ。
無数の細い水矢が、流れの枝のように分かれ、雑木林の奥へ走る。
狙いは一つではない。
水の矢は、木の幹、低い枝、地面の石、倒木の陰へ別々に突き刺さった。
土がえぐれる。
木に穴が空く。
細い枝が、見えない刃で切られたように落ちる。
遅れて、雨のような水音が散った。
ケイブは息を止めた。
強すぎる。
思ったより、はるかに散った。
兵が近くにいれば、味方の腕も脚も貫いていた。
矢の発想はよい。
だが、分かれ方を制御できていない。
◆
次は土だ。
吉継にとって、土は壁だけではない。
城攻めの防衛で、身近にあり、すぐ武器になるもの。
石。
岩。
城壁の上から落とすだけで、人も梯子も砕ける。
刀より単純で、槍より重い。
だが、単純だからこそ恐ろしい。
吉継は地面へ手をかざした。
土を固める。
石を編む。
空中に持ち上げる。
頭の中に浮かべたのは、城壁から落とす大石だった。
「墜岩砲」
空気が重くなった。
ケイブの頭上に、土と石が集まり始める。
拳大で止めるつもりだった。
だが、魔力が土を掴みすぎた。
岩は人の胴ほどに膨れ上がる。
「おいおい、大きすぎるだろう。兎に落とす岩じゃないぞ、これは」
落ちた。
砂煙が先に巻き上がった。
一拍遅れて、轟音が腹に響く。
地面が深く沈み、周囲の草が衝撃で伏せた。近くの若木が根元から傾き、土の破片が雨のように降る。
ケイブは腕で顔をかばった。
これも、味方の前では使えない。
敵陣へ落とせば強い。
だが、距離を誤れば、味方の隊列ごと潰す。
石は命令を聞かない。
落としたら、落ちる。
それだけだ。
◆
最後は火だった。
火は一番身近なものだ。
かまど。
松明。
野焼き。
火縄。
鉄砲。
そして、焼ける陣屋。
吉継が火を思い浮かべる時、最初に来るのは暖かさではない。
悲鳴だ。
火は人を追い立てる。
布を食い、木を食い、油を舐める。
風を得れば、命令など聞かずに広がる。
だからこそ、火は怖い。
ケイブは一本の矢を抜いた。
火を矢尻に乗せる。
小さく。
あくまで小さく。
そう思った。
「火矢鉛丸」
矢を放つ。
火は矢尻に乗ったまま飛ぶはずだった。
しかし途中で、火が膨れた。
鉛玉のように丸く、重く、赤黒い球となり、矢を呑み込んで前へ転がるように飛ぶ。
火球は地面に当たり、弾けた。
草が黒く焼ける。
石の表面が焦げる。
乾いた枝が一瞬で燃え、白い煙を吐いた。
ケイブはすぐに水を呼び、燃え広がる前に叩き消した。
煙が薄くなる。
そこに残ったのは、黒く焼けた半円の跡だった。
彼はしばらく動かなかった。
早めに知っておいて良かった。
心の底から、そう思った。
このまま知らずに戦場で使っていれば、敵だけでは済まなかった。
味方も、民も、守るべき者も巻き込んでいた。
自分は、強くなっている。
だが、強さの形を知らぬまま振るえば、それは策ではない。
災いだ。
ケイブは黒く焼けた草を見下ろし、低く息を吐いた。
「使えるだけじゃ足りんな。使った後に味方が立っていられなきゃ、ただの災いだ」
火の残り香が、喉の奥に苦く残った。
「使ってよい形にしなければ、味方の前には出せん。強い魔法ほど、鞘がいる」
彼は弓を背負い直した。
針角兎の討伐札は、もう満たしている。
だが、今日得たものは報酬より重い。
水は散る。
岩は落ちる。
火は広がる。
ならば、次に学ぶべきは威力ではない。
止め方だ。
灰髭の弓取りは、焦げ跡を土で覆い隠し、北畑へ戻っていった。
今回は、吉継の魔法実験回です。
水は矢のように分かれ、岩は落ち、火は広がる。
強くなっているからこそ、制御しなければ危険だと知る回でした。




