第50話:灰髭の弓取り
ミセリアが白蝶城を離れた後、吉継はひとつの被害届に目を留めます。
病毒魔法だけに頼らないため、彼が選んだのは別の顔でした。
白蝶城を離れる馬車の中で、ミセリアは外を見ていた。
車輪が石敷きの道を叩く。
窓の外では、白い土壁が少しずつ遠ざかっていく。まだ未完成の城だ。櫓も門も足場も、ところどころ木肌が新しい。
それでも、そこには人がいた。
荷を運ぶ者。
溝の土砂を掻き出す者。
門の前で槍を持ち、ぎこちなく立つ者。
以前の白霧境にはなかった動きだった。
ミセリアは指先で髪飾りに触れた。
青い硝子が、かすかに揺れる。
「外されますか」
同乗していた政務院の女官が尋ねた。
「不要」
ミセリアは即答した。
少し間を置いて、付け加える。
「重くない」
女官は返答に迷い、ただ頭を下げた。
ミセリアはもう一度、髪飾りに触れた。
二匹の蝶が向かい合っている。
政務に必要な品ではない。
記録にも、命令にも、証拠にもならない。
だが、不思議と外す気にはならなかった。
馬車の窓から見える白蝶城は、遠くなっても白かった。
◆
吉継は、馬車が見えなくなるまで門前に立っていた。
隣でチヨネが小さく鼻を鳴らす。
「ふん」
「心配ない。王都までは護衛がついている」
チヨネは首を横に振った。
そういう意味ではない、らしい。
吉継は苦笑し、軍配を閉じた。
「分かっている。俺も名残惜しい。だが、見送る手があるうちに見送るべきだ」
「ふんふん」
それでよい、と言うようにチヨネは頷いた。
その日の午後、吉継は執務机に戻った。
机の上には、いつものように帳面が積まれている。
年貢見込み。
水路修繕。
白蝶城の木材不足。
傭兵への日当。
そして、端に置かれた一枚の被害届。
北畑の小村で、針角兎が三度出た。
畑の若い麦と豆苗が荒らされ、追い払おうとした農夫が太腿を突かれている。命に別状はないが、走れぬほど深く刺されたらしい。
吉継はその紙を手に取った。
そこで、吉継は心の中で気づいた。
今の自分が持つ攻撃手段は、ほとんど病毒魔法に偏っている。
病毒魔法を使えば、倒すことはできる。
だが、そればかりでは駄目だ。
病毒魔法は強い。
強いが、それだけに頼れば肉体は蝕まれ続ける。短く終わる戦ならまだよい。だが、長く続く戦いには向かない。
自分が戦えばよい、というだけでは足りない。
自分が何で戦うかも、選ばねばならない。
水。
土。
火。
泥殻蜥蜴との戦いで掴んだ水と土は、まだ粗い。水刃薄断も、野面土壁も、思った形で何度も使えるほどではない。
火はさらに危うい。
喰骸瘴手で魔術師の肉体と残滓を喰らった時、火弾や火壁の感覚は確かに残った。
だが、あれは借り物だ。
自分の手で積んだ技ではない。
戦場で借り物を頼れば、肝心な時に裏切る。
「試す場がいる」
吉継は被害届を机に置いた。
領主として討伐隊を出しても、自分の実戦経験を積むことはできない。
それに、今回ばかりは俺個人で進める必要がある。
吉継は椅子へ腰を下ろした。
後回しにしていたが、これは自分がこの世界に来た理由にもつながる。
前世の理で考えれば、記憶を保ったまま輪廻することなどできるはずがない。少なくとも、吉継はそう信じて死んだ。
それなのに、自分はここにいる。
しかも、転生前から転生後までの間だけが、雲をかけられたように思い出せない。
もし、この世界へ来たことに何かしらの理由があるのなら。
その答えは、世界のどこかしらにあるのかもしれない。
大谷吉継として見える景色ではなく、誰でもない者として歩いた先にこそ、何かが落ちている可能性がある。
◆
夕刻、吉継はチヨネとエルネを執務室に呼んだ。
「明日は一日、表の政務を休む」
エルネは手に持っていた紙束を落としかけた。
「本当に休むんですか」
「休む。少なくとも、表向きはな」
「本当にですか」
「本当だ」
チヨネが両手を胸の前で握り、全力で頷いた。
「ふんふん!」
喜びが強すぎる。
エルネも、疑いながら少しだけ安堵した顔をした。
「良かったです。正直、そろそろ倒れると思っていました」
「そこまでか」
「そこまでです」
即答だった。
チヨネも強く頷く。
「ふん」
「明日は、お前たちも休め。チヨネ、影で俺を見張るな」
チヨネの動きが止まった。
「ふん……?」
「命令だ。食べて、寝ろ。必要ならエルネの手伝いを少しだけしてよい。働きすぎる主に付き合って、影まで倒れるな」
「少しだけです」
エルネがすぐに釘を刺す。
チヨネは悩みに悩んだ末、小さく頷いた。
吉継はその頭に手を置いた。
「よい子だ」
チヨネの肩が、分かりやすく緩んだ。
二人は、吉継がようやく休む気になったと思っている。
それでよい。
巻き込まぬための嘘なら、必要な時もある。
◆
夜、吉継は裏の作業場でアリスティと会った。
彼女は荷車の陰に腰かけ、短刀の鞘を磨いていた。
「領主様が、こんな時間に傭兵崩れへ相談ですか」
「身分を隠して行動できる方法を知りたい」
アリスティの手が止まる。
次に、口元が少しだけ笑った。
「それはまた、領主が聞く話ではありませんね」
「だから貴殿に聞いている。それに変装用を念のため用意しておく方が利点でしかない。身分が邪魔になる時もある」
「なるほど。では、悪い大人の知恵をお貸ししましょう」
アリスティは革袋を投げた。
中には、肌色の薄い膜、灰色の付け髭、くすんだ喉輪、古い革帽子が入っていた。
「変面膏と呼びます。頬と顎の線を変える道具で、髭は安物ですが遠目なら十分。喉輪は声を少し濁らせる魔具ですね」
「どれほど保つ」
「半日。汗をかくと剥がれます。火のそばも駄目です」
「十分だ」
「使い方は」
「変面膏は頬骨から顎へ薄く伸ばします。厚く塗ると笑った時に割れる。髭は顎の線を隠すため。喉輪は短時間だけ使ってください。長く使うと声が枯れます」
「分かった」
「何をするつもりかは聞きません」
「聞かぬ方がよい」
「でしょうね」
アリスティは小さく笑った。
「ただし、顔だけ変えても、歩き方、持ち物、口調で人は見抜かれます。そこはご自分でどうにかしてください」
「承知した」
吉継は革袋を受け取り、短く礼を言った。
◆
深夜、吉継は自室の灯を落とし、卓上に変装道具を並べた。
白い布は置いていく。
軍配も持たない。
白と青の陣羽織も、対い蝶も隠す。
刀も持たぬ。
刀を抜けば、癖が出る。間合いも出る。大谷吉継としての体の使い方が、どうしても残る。
ならば、弓を持つ。
近づきたがらない男に見える。距離を取れば、剣の癖も読まれにくい。
口も変える。
礼儀正しい領主ではない。
金にうるさく、面倒を嫌う、少し疲れた中年。
活動が不定期でも怪しまれぬ男。
吉継は変面膏を指に取り、頬から顎へ薄く伸ばした。
鏡の中で、顔の線が少しずつ変わっていく。
灰色の付け髭を顎に貼り、喉輪を軽く締める。
「名は」
声が低く濁った。
吉継はしばらく考えた。
刑部。
前世で呼ばれた名を、そのまま使うわけにはいかない。
ならば、崩す。
「ケイブ・アッシュ」
灰色の燃え残り。
それでよい。
◆
翌朝、白蝶城の領主は休んだ。
少なくとも、表向きは。
西街道沿いの冒険者ギルド出張所に、灰色の外套を着た男が入ってきた。
顎には短い髭。
目元は少し陰り、口元には気だるい笑みがある。
白い布も、軍配も、対い蝶の陣羽織もない。
背には安物の弓。
腰には短剣。
受付の男が目を上げた。
「登録か」
「ああ、懐が少し寂しくてな。稼げる仕事を探している。腹が鳴る前に動くのが大人ってもんだ」
吉継ではない声が出た。
喉輪が、声に低いざらつきを混ぜている。
受付は慣れた様子で板を出した。
「名」
「ケイブ・アッシュ」
「得物」
「弓だ」
「魔法は」
「水と土を少し。火は火種程度だ。過度な期待はするなよ」
「活動頻度」
ケイブは肩をすくめた。
「気が向いた時だ。安い仕事に朝から飛び起きるほど若くない。だが、受けた仕事を投げるほど落ちてもいない」
受付の眉が少し動いた。
「そういう奴は多い。だが、受けた依頼を放り出せば違約金だ」
「金を取られるのは好かん。受けた仕事は片づける」
「ならいい」
受付は木札に焼き印を押した。
「銅紐だ。最下位。薬草採り、荷運び、小型魔物の確認からだ」
「こいつは財布に優しくなさそうだ」
「嫌なら帰れ」
「冗談に愛想を返す余裕もないのか。働き者だな」
ケイブは壁の依頼札を見た。
針角兎。
北畑。
確認一体、討伐できれば追加。
報酬は安い。
だが、場所は近い。相手も、今の自分を試すにはちょうどいい。
ケイブはその札を抜いた。
「これを受ける」
受付が札を見る。
「針角兎は跳ねるぞ。額の角も硬い。弓だけだと外した時に面倒だ」
「面倒な仕事ほど、金の匂いがする」
「安いぞ」
「構わん。オレには腕がある。安い仕事で高く学べるなら、悪くない」
受付は鼻で笑い、登録板に印を入れた。
ケイブ・アッシュ。
灰髭の弓取り。
白蝶城の領主とは、どこにも書かれていない。
吉継は外套の内側で、静かに指を開いた。
病毒魔法は使わない。
まずは、水。
次に、土。
火は、最後だ。
借り物の火を、自分の技に変えるには、戦場より小さな死地がいる。
ギルドの扉を出ると、朝の冷たい風が髭を揺らした。
ケイブは面倒そうに肩を回し、わざとらしく呟いた。
「さて、安い仕事ほど手間を食う。オレ向きじゃないな」
その足は、迷わず北畑へ向かっていた。
今回は、吉継が身分を隠して冒険者ギルドへ入る準備回です。
ケイブ・アッシュという仮の顔で、水・土・火の基礎を試す流れへ進みます。




