第46話:宰相は白霧を歩く
ミセリアが白霧境を歩きます。
道、市、水路、白蝶城。吉継が整え始めた領を、宰相の目はどう見るのか。
「報告より、形になっている」
ミセリア・イシダは、白蝶城を見上げたままそう言った。
褒めたのか、ただ事実を述べたのか。
声だけでは分からない。
だが、彼女の視線は土塁の高さ、空堀の深さ、木柵の間隔、門前の人の流れを順に追っていた。
吉継は一礼する。
「まだ骨組みだ。城と呼ぶには早い」
「骨がなければ肉はつかない。順序は正しい」
ミセリアは足元へ目を落とした。
城門の前には、踏み固められた道がある。ぬかるみだった場所には細い丸太が敷かれ、荷車の轍が真っ直ぐに伸びていた。
「道から見る」
「承知した」
ミセリアの供回りが少しざわついた。
宰相がまず城ではなく道を見る。
それが意外だったのだろう。
しかし吉継には分かった。
道がなければ、米も兵も命令も動かない。
城を見る前に道を見る。宰相らしい順番だった。
◆
旧街道は、まだ完成していない。
だが、前とは違う。
崩れた石は道端に積まれ、泥の深い場所には枝と丸太が敷かれていた。水が溜まりやすい低地には細い溝が掘られ、雨水が水路へ逃げるようにしてある。
ミセリアが、丸太の端へ足を置いた。
乾いて見えた木が、内側で腐っていたのだろう。
ぱきり、と鈍い音がした。
足場が沈む。
ミセリアの体が、わずかに傾いた。
供回りが声を上げるより早く、吉継は手を伸ばしていた。
白布の袖が揺れる。
彼の手が、ミセリアの手首を掴む。
次の瞬間、吉継は彼女を自分の方へ引き寄せていた。
ミセリアの肩が、白い陣羽織の胸元に近づく。
ほんの一息。
近すぎる距離で、互いの呼吸が重なった。
ミセリアは目を瞬かせた。
表情は崩れない。
だが、掴まれた手の指だけが、わずかに強張っていた。
「怪我は」
「ない」
「ならばよい」
吉継はすぐに手を離した。
ミセリアは沈んだ丸太を見下ろす。
「乾燥しているように見えて、内側が腐っていた。点検対象」
「すまない。道普請が甘かった」
「謝罪より、再発防止」
「承知した」
ミセリアは歩き出そうとして、一度だけ自分の手首を見た。
そこに残る熱を、確認するように。
「……反応が早い」
「守ると決めた相手だ。足場の悪さ程度で倒させるわけにはいかぬ」
「記録に残すには、不適切な言い回し」
「なら、残さなくてよい。記録に困ることでも、手は離さぬ」
ミセリアは答えなかった。
ただ、ほんの少しだけ視線を逸らし、道の先へ歩き出した。
ミセリアは歩きながら、短く問う。
「人足の割り当ては」
エルネがすぐ答えた。
「三村から日を分けて出しています。畑仕事と重ならないよう、二日働いた者は一日戻す形です」
「賃は」
「救い米、塩、薪の取り分。それと黒印札です」
「銭ではない理由」
「今は米の価値が銭より高いからです。銭を渡しても、米が買えなければ意味がありません」
ミセリアは頷いた。
「合理的」
エルネの肩が、ほんの少し下がる。
安心したのだろう。
ロウエンが少し離れてついてきていた。以前なら許可札を振りかざして人を止めていた男が、今は道普請に出た家の名を木板へ記している。
ミセリアはその木板を見る。
「これは何を示す」
ロウエンは緊張で喉を鳴らした。
「どの家が、何日に、何人出たかです。作業をした者には札を渡し、米を出します。嘘があれば、次の支給で止めます」
「許可札役から、記録役へ変わった」
「はい。……領主様に、そう使われました」
「不満は」
ロウエンは一瞬黙った。
そして、首を横に振る。
「あります。ですが、前より民に殴られにくくなりました。これは、かなり大きな改善です」
ミセリアは表情を変えない。
「改善」
「そう、なのでしょうか」
「殴られにくい役は、長く続く」
ロウエンは返事に困り、吉継は小さく息を吐いた。
ミセリアなりの評価なのだろう。
◆
次に一行は自由市へ向かった。
市はまだ小さい。
干し豆、薪、修理した鍬、粗い布、塩漬けの魚。並ぶ品に華やかさはない。
それでも、人がいた。
以前のように許可札小屋の前で止められる者はいない。売る者は名を残し、品を出す。買う者は値を聞き、納得すれば銭か米で払う。
ミセリアは一軒の露店の前で足を止めた。
割れた鍬の柄を直している老人が、慌てて立ち上がる。
「座ってよい」
ミセリアが言う。
老人はさらに慌てて座り直した。
「この市で、何を得た」
「え、ええと……前は、札がないと売れませんでした。今は、直した鍬を持ってくれば売れます。銭がなければ豆でも受けます。嘘を売ったら追われるそうですが、直したものなら売ってよいと」
「嘘の確認は誰がする」
「ロウエン殿と、あとは使った者です。悪ければ、次から誰も買いません」
ミセリアは吉継を見た。
「許可ではなく、信用で縛っている」
「縛りすぎると人は動かぬ。放しすぎると悪貨が混じる。今はこの程度がよい。民に息をさせながら、嘘だけを止める」
「悪貨」
「質の悪いものが良いものを追い出す。そうなる前に、帳面と評判で止める」
「理解した」
ミセリアは市場帳を受け取り、数行だけ目を通した。
「品目が少ない」
「まだ民が飢えから抜け切っておらぬ。余剰がない」
「ならば、今売られている品は、余裕ではなく工夫」
「そうだ」
ミセリアは老人の直した鍬を見た。
「この柄は使える」
老人の目が見開かれる。
「買う。記録だけでは、現物の強さが伝わらない」
「え、宰相様が、鍬を」
「私が使うわけではない。政務院の検分品として買う。正当な品が市場に出ている証拠になる」
老人は震える手で鍬を差し出した。
エルネが代金を記録する。
市の空気が、少し変わった。
宰相が品を買った。
ただそれだけで、この小さな市が王国の目に認められたように見えたのだ。
吉継はミセリアを見た。
彼女は何も言わない。
だが、こういう形で人を動かすことを知っている。
やはり、この魂は政を知っている。
◆
水路へ向かう途中、チヨネは一行の少し前を歩いていた。
草陰へ入りかけた子供を見つけると、影で小さく道を塞ぐ。
「ふん」
「そこは足元が崩れる、と言っている」
吉継が補うと、ミセリアはチヨネを見る。
「翻訳精度が上がっている」
「毎日聞いていれば分かる」
「私にはまだ難しい」
チヨネは少し考え、両手で丸を作った。
それから、誇らしげに鼻を鳴らす。
「今のは、問題なし、だ」
「記録する」
ミセリアが本当に記録板へ書きつけたので、チヨネは目を丸くした。
その横で、アリスティが笑いをこらえている。
「宰相殿、チヨネ殿の辞典を作るおつもりですか」
「必要なら作る。意思疎通の誤認は事故を生む」
「真面目ですね」
「不真面目に死ぬよりよい」
アリスティは肩をすくめた。
「その通りです」
◆
水路は、以前より澄んでいた。
まだ底には黒ずんだ泥が残る。毒土の名残だ。
だが、水は止まっていない。
細くとも流れている。
ミセリアはしゃがみ、水面を見た。
「ここを青綿会が閉じていた」
「ああ。水を止めれば米は作れぬ。米が作れねば、民は綿へ戻る」
「商いが政へ食い込んだ例」
「その通りだ」
吉継は水路の縁へ手を置く。
黒い毒気が、わずかに指へ寄った。
チヨネが袖を掴む。
「今日は吸わぬ」
「ふん……」
「約束する。今日は、貴殿に余計な心配をかけぬ」
チヨネはまだ疑っていたが、袖を離した。
ミセリアはそのやり取りを見ていた。
「病毒魔法で土地の毒を食う。報告にはあった」
「見るか」
「今日は不要。貴殿が痛むなら、視察の利益より損失が大きい」
吉継は少しだけ目を細めた。
ミセリアの声は淡々としていた。
だが、言葉の中身は彼の身を案じている。
「助かる」
「事実を述べた」
「それでもだ。事実だけでは、人はなかなか救われぬ」
ミセリアは答えなかった。
ただ、視線を水路へ戻す。
「水は戻った。道も戻りつつある。市は小さいが動いている。城は未完成だが、逃げ場にはなる」
彼女は立ち上がった。
「白霧境は、死地ではなくなりつつある」
エルネが息を呑んだ。
ロウエンも、アリスティも、少し黙る。
吉継は水音を聞いた。
死地ではない。
それは、今の白霧境にとって十分すぎる言葉だった。
◆
白蝶城へ戻る頃には、霧が少し薄れていた。
ミセリアは土塁の上に立ち、城内を見渡す。
市から戻る者。
水路へ向かう者。
槍を習う若者。
縄を編む老人。
小石を集めるチヨネ。
当然のように門番へ指示を出すアリスティ。
そのすべてを、彼女は静かに記録していた。
「吉継」
「何だ」
「この領は、王国の型にない」
供回りの一人が、わずかに身じろぎした。
それは褒め言葉にも、危険な評価にも聞こえる。
ミセリアは続けた。
「だが、動いている。理由を確認した」
「ならば、報告はどうなる」
「白霧境は継続観察。自由市と作付け再編は試験政として続行可能。白蝶城は防衛拠点として認める余地あり」
「余地か」
「完成していないものを完成とは書けない」
「正しい」
吉継が頷くと、ミセリアは記録板を閉じた。
「次に見るものがある」
「まだあるのか」
「ある。兵だ」
ミセリアの視線が、弓を構える若者たちへ向いた。
「三百を動かせると言った。ならば、数ではなく質を見る。白霧境は、人を集めただけなのか。命令で動く力を持ち始めたのか」
吉継は軍配に手を置いた。
政の次は、兵。
ミセリアは、見る順を間違えない。
「分かった」
吉継は静かに言った。
「白蝶城の兵を見せよう。まだ未熟だが、逃げぬ形は作り始めている」
ミセリア視察回でした。
白霧境は「死地ではなくなりつつある」。
けれど、次に問われるのは兵の質です。




