第42話:偽札の朝
白蝶城が立った翌朝。
青綿会は、城壁ではなく「米を渡す約束」を崩しに来ます。
白蝶城の土塁が霧に沈む朝、倉の前には人の列ができていた。
昨日伐った木の分、枝を束ねた分、杭を運んだ分。
民はそれぞれ木札を握り、米と塩を受け取るために並んでいる。
白霧境で、働いた者がその日のうちに食える。
それだけのことが、これまでの白霧境では奇跡に近かった。
ロウエンは倉の前に机を置き、帳面を開いていた。顔色は悪い。だが手は止まらない。
「次。名を」
「ハルダ。枝払いだ」
「枝払い。半日。塩は小袋、米は一升。合っている」
エルネが横で控え、札の刻みと帳面を見比べる。
チヨネは米俵の上ではなく、倉の梁にいた。小さな体を丸め、下を見ている。時折、梁から垂らした影の先で、列の乱れを軽くつついた。
「ふん」
「そこ、割り込まないでください」
エルネがすぐに言うと、割り込もうとした男が気まずそうに後ろへ戻った。
吉継は倉の戸口に立ち、軍配を閉じたまま列を見ていた。
人は飢えれば乱れる。
乱れたところへ、敵は手を入れる。
だからこそ、米の渡し方は戦より難しい。
ロウエンの筆が、途中で止まった。
「……おかしい」
吉継が視線だけを向ける。
「どうした」
「昨日の伐採場に出た人数より、札が多い」
エルネが帳面を覗き込む。
「木運びの札だけで十七枚多い。枝払いも九枚多いです。数え間違いなら、こちらの失態になります」
列がざわついた。
「米をくれると言ったじゃないか」
「また取り上げるのか」
「青綿会と同じだ。最初だけ良い顔をして、あとで帳面を持ち出す」
声が鋭くなった。
倉の前の空気が、朝霧より冷たくなる。
吉継は怒鳴らなかった。
怒鳴れば、腹を空かせた者は敵になる。
「札を持つ者は、そのまま並べ。約束は守る。ただし、札が正しいかどうか、確認させて頂く」
「確認って、札が偽物だとでも言いたいのか」
年若い男が前へ出た。手には木札がある。
「俺は昨日、丘の下で木を運んだ。これを渡されたんだ。偽物扱いするのか」
「渡した者の顔は覚えているか」
「白い布を巻いた男だ。領主様の使いだと言った」
吉継の白布へ、幾つもの目が向いた。
狙いはそこか。
白布。
木札。
米。
それを混ぜれば、民の疑いは吉継へ向く。
エルネが唇を噛んだ。
「このままだと、領主様の名で偽札を配ったことにされます。民の怒りも、こちらへ向きます」
「そうだな」
吉継は静かに頷いた。
「だが、幸い軽傷ですんでいる。しっかりと対応していけば問題は無い」
彼は男の木札を受け取った。
刻みは似ている。
だが、浅い。
昨日、ロウエンは急ごしらえの札に、爪先ほどの切り欠きを二つ入れていた。数を管理するための雑な工夫だ。偽札にも切り欠きはある。だが刃の入り方が違う。
ロウエンが息を呑む。
「私の小刀ではない。切り口が滑らかすぎる」
「木も違う」
吉継は札を鼻先へ近づけた。
「昨日伐った木は湿っていた。これは乾きすぎている。古い箱か、荷札を削ったものだ」
チヨネが梁から音もなく降りた。
彼女は札をじっと見て、小さく鼻を鳴らす。
「ふん……」
「匂いが違うか」
こくり。
チヨネは倉の隅に置かれていた青い布切れを指した。泥殻蜥蜴の巣で見つかったものと同じ、薄い青の粉が札の端についている。
エルネの顔が険しくなる。
「青綿会の染物倉」
「断じるにはまだ早い」
吉継は男へ札を返さず、机に置いた。
「お前は騙された側だ。責めぬ。だが、次からは顔を覚えろ。民を騙す者は、また別の顔で来る」
「なら、米は」
「今日の分は渡す。ただし帳面には貸しとして残す。あとで本物の働きで返せばよい」
男の顔が歪んだ。
屈辱ではなく、安堵だった。
「……助かる」
「民を守るのが領主のつとめだ」
吉継は列へ向き直った。
「偽札を持たされた者は前へ出ろ。隠せば、作った者と同じ扱いにする。出せば、食わせる」
沈黙。
その後、一人、また一人と前へ出た。
老婆。
痩せた少年。
薪を背負った女。
誰もが怯えている。罰されると思っている顔だった。
吉継は一人ずつ名を聞き、エルネに記録させた。
偽札を配った者の特徴は、ほぼ同じだった。
白い布。
青い手袋。
領主の使いを名乗る。
そして、必ずこう言ったらしい。
白布の御方は、働かぬ者にも米をくれる、と。
ロウエンが歯を食いしばった。
「働いた者が怒ります。働かぬ者が同じだけ貰えば、明日から誰も斧を持たない」
「そうさせるための偽札だ」
吉継は軍配で机を軽く叩いた。
「青綿会は民の不安を煽る策に切り替えたようだ。この偽札がその証拠だろう。なら、こちらとしては札を偽造できないようにすればいい」
「どうやって」
エルネが筆を構える。
吉継は懐から黒印を取り出した。
前世の世界で、書状に花押を書く代わりに用いた印だ。
底には、「大」の文字を図案化した印判が刻まれている。
この世界に来てからも、肌身離さず持っていた。
「これは、この世界で一つしか存在しない印だ。今日から札にはこれを押す。札だけを削っても、印がなければ米は出さぬ」
エルネがすぐに書き取る。
「印なら、文字が読めない人にも分かります」
「ロウエン」
「はい」
「お前が押印を管理しろ。市で使っていた目利きを、今度は民を守るために使え」
ロウエンは一瞬だけ固まった。
かつて許可札で民を止めていた男が、今は札の嘘から民を守れと言われている。
「……承りました」
その時、倉の外で悲鳴が上がった。
荷車が坂を下ってくる。
空の車ではない。石が積まれている。縄を切られた荷車が、倉の列へ向かって転がっていた。
人が散る。
米俵の前で子供が転んだ。
チヨネが先に動いた。
影が地面を走り、子供の襟を引いて横へずらす。
同時に、アリスティが坂の下へ踏み出した。
「重力不変の土」
低い声とともに、荷車の車輪が地面へ沈んだ。
車軸が悲鳴を上げる。
石を積んだ荷車は、倉の手前で傾き、土に噛みつかれたように止まった。
坂の上で、男たちが逃げ出す。
傭兵が追おうとした。
吉継は軍配を横へ振る。
「殺すな。生け捕りにしろ」
アリスティが頷き、指を二本だけ上げた。
傭兵二人が回り込み、逃げる男の武器を落とす。剣は急に重くなり、男の手から泥へ沈んだ。
チヨネは別の男の影へ短刀を突き立て、足だけを縫い止めた。
「ふん」
少し誇らしげだった。
吉継は転んだ子供の前に膝をつき、頭に手を置いた。
「怪我は」
子供は首を振る。
「よく耐えた。怖かっただろう。泣いてもかまわぬ。生きているなら、それでよい」
子供の目に、ようやく涙が浮かんだ。
吉継は肩と腕を確かめる。擦り傷はあるが、骨は折れていない。
「骨は折れていない。すぐに手当てすれば、あとには残らぬ」
子供は両腕で小さな袋を抱きしめたまま、こくこくと頷いた。
「強いな。大人でも泣く痛みだ」
チヨネが横で、なぜか全力で胸を張った。
「ふんふん」
「お前も偉い」
吉継が短く言うと、チヨネは上目遣いで一歩近づいた。
今は頭を撫でる時ではない。
だが、吉継は指先だけで白い頭巾越しに軽く触れた。
チヨネは小さく震え、すぐに何事もなかった顔で捕らえた男を睨んだ。
荷車の裏から、薄い封筒が見つかった。
エルネが封を見て眉を寄せる。
「政務院の正式印ではありません。でも、外記局で使う紙に似ています」
吉継は封筒を受け取る。
中には短い指示書があった。
白蝶城の米渡しを乱せ。
白布の名で札を配れ。
民が疑えば、城は土に戻る。
差出人の名はない。
ただ、封の隅に青い糸が一本、押し込まれていた。
ロウエンが青ざめる。
「青綿会の帳場で使う糸です。束ねた伝票を結ぶ時の」
「そうか」
吉継は封筒を閉じた。
「エルネ。写しを二つ作れ。一つは政務院へ。もう一つは白霧境の倉に残す」
「原本は」
「俺が持つ」
アリスティが捕らえた男を引きずってくる。
「吐かせますか」
「ああ、任せる」
アリスティが目を細めた。
「加減は」
「逃がすな。偽札をばらまき、荷車で民を殺しかけた。軽い罪ではない。裏にいる者まで引きずり出す」
吉継は男を見下ろした。
「お前を助けるとは言っていない。だが、正しく吐けば命だけは残る余地がある。黙れば、その余地も消える」
男の喉が動いた。
倉の前に並ぶ民たちが、静かに見ている。
偽札で揺れた列は、まだ完全には戻らない。
だが、米は渡されている。
帳面も止まっていない。
ロウエンは震える手で、新しい欄を作った。
偽札。
貸し米。
黒印。
その三つの字が、朝の帳面に並ぶ。
吉継は白蝶城の土塁を見上げた。
城は土だけでは立たぬ。
約束で立つ。
そして敵は、その約束を折りに来る。
吉継は封筒を軍配の下に挟み、ロウエンへ視線を戻した。
「偽札は、領主の支給を騙るものだ。王国の法でも重い。青綿会の帳場で使う糸が出た以上、白霧境領主として家宅捜査に入る大義は立つ」
ロウエンの喉が鳴った。
「青綿会の倉へ、ですか」
「ああ。帳簿、印、木札の材料、青い粉。残っているものを押さえる」
吉継の声は静かだった。
だが、そこに迷いはなかった。
「民の不安を食い物にする者を、これ以上この領に置くつもりはない。飢えより先に、腐った手を断つ」
霧の向こうで、青い糸が朝日に鈍く光った。
今回は、米札と黒印をめぐる内政戦でした。
ロウエンが少しずつ「止める役」から「守る役」へ変わっていきます。




