第40話:泥を喰らう手
泥殻蜥蜴の討伐後、傭兵たちは魔石と素材を回収します。
残された躯を前に、吉継は喰骸瘴手を使う決断をします。
青く染まった布切れは、チヨネの影が先に押さえた。
湿地の風に揺れないよう、黒い影が布の端をぴたりと地面へ縫い止めている。
「ふん」
逃がさない、という音だった。
「助かる」
吉継は布へ近づかず、まず周囲を見た。
泥殻蜥蜴の残骸が、湿った草の上にいくつも沈んでいる。戦いは終わった。だが、傭兵たちの仕事はそこからだった。
短槍使いが首元の泥を削り、縄持ちが尾の付け根を押さえる。ニルは水魔法で泥を洗い流し、硬い殻の隙間を探していた。
「そこではない。胸の少し下だ」
アリスティが短く指示する。
傭兵が小刀を入れると、泥に濁った光が一つ転がり出た。
親指の先ほどの石だった。
灰色の中に、鈍い緑が混じっている。
「それは」
「魔石です」
アリスティが答えた。
「魔物の体内にできる魔力の核です。大きさと濁りで値が変わります。泥殻蜥蜴のものは高値ではありませんが、数があれば燃料にも、簡単な魔道具の部品にもなります」
「討伐の報酬とは別に売れるのか。戦の後始末にも値がつくのだな」
「はい。魔石、殻、爪、尾の筋。使える物は回収します。傭兵団はそれで食いつなぐことも多い」
吉継は頷いた。
戦の後、武具を拾い、矢を集め、馬を調べるのと同じだ。
勝った後にも、兵を食わせる仕事がある。
ニルが泥殻蜥蜴の背殻を叩いた。
「殻は乾かせば軽い盾の補修材になります。爪は鍬の先に混ぜる者もいます。硬いですから」
「田を荒らした魔物の爪が、田を起こす道具になるか。無駄にせぬなら、せめて民のために働かせる」
「皮肉ですが、よくあることです」
アリスティは表情を変えずに言った。
傭兵たちは手早い。
魔石を袋へ入れ、使える殻を分け、尾の筋を切り取る。血の匂いより泥の匂いが強い。湿地の水が濁り、踏まれた草が倒れている。
吉継はしばらく見てから、残った大きな躯へ目を向けた。
「残ったものはどうする」
アリスティは少しだけ肩をすくめた。
「魔物によります。大抵は魔物肉として食べます。塩漬けにするか、燻して保存する。硬い肉でも煮れば兵の腹は満たせます」
「これは食わぬのか」
「泥殻蜥蜴は別です。体内まで泥が入り込み、臭みも強い。煮ても鍋が駄目になります。村人も傭兵も、よほど飢えなければ口にしません」
「ならば」
「このまま置きます。湿地に沈めば、いずれ泥へ戻る」
当然の答えなのだろう。
ニルも、他の傭兵たちも特に驚かない。
だが、吉継は湿地の水路を見た。
泥殻蜥蜴は水路を掘り返す。躯を放っておけば、腐臭に別の獣や魔物が寄る。雨が降れば、濁った水が下の田へ流れる。
問題を先へ送るだけだ。
「ここは田に近い」
「ええ。だから急ぎの討伐でした」
「残骸を置けば、次の問題になる。勝った後に腐らせるのは、下手な戦だ」
アリスティはすぐに意味を理解した。
「燃やしますか。火の魔法使いはいませんが、油を使えば」
「泥が多い。火では時間がかかる」
「では、穴を掘って埋める」
「水が近い。深く掘れば、濁りが広がる」
吉継は軍配を閉じた。
「俺が処理する。見せたい仕事ではないが、放っておく方が悪い」
チヨネの影が、ぴくりと揺れた。
「ふん……」
不安の音だ。
「見せたいものではない。少し離れていろ」
チヨネは首を振った。
離れない、という意思が固い。
吉継は無理に下がらせなかった。ただ、傭兵たちへ視線を向ける。
「全員、背を向けろ。気分を悪くする者が出る」
短槍使いが眉をひそめた。
アリスティが先に手を上げる。
「従え。見物料は契約に含まれていない。無理に見て、夜に眠れなくなっても知らん」
傭兵たちは冗談とも命令ともつかない声に従い、数歩下がった。
アリスティだけは、横目で吉継を見ている。
「見ない方がいい類の魔法ですか」
「ああ」
「なら、半分だけ見ます。団長として、部下の前で何が起きたか知らぬわけにはいかない」
「好きにしろ。ただし、近づくな」
吉継は泥殻蜥蜴の残骸の前に立った。
右腕が熱を持つ。
先ほど水刃薄断と野面土壁を使った反動が、まだ指先に残っていた。細い魔力の流れを無理に通したせいで、内側が乾いたように痛む。
その痛みの奥で、病毒が静かに口を開ける。
「喰骸瘴手」
黒灰色の瘴気が、足元から伸びた。
手の形をした影ではない。
影に似ているが、もっと湿っている。腐葉土と鉄と雨の匂いを混ぜたような気配が、泥の上を低く這う。
瘴気の手は、残骸を外から包んだ。
肉も骨も見せない。
ただ、黒い布を被せたように輪郭が沈み、内側で泥が抜けるような鈍い音がした。
ごくり。
湿地が、何かを呑み込んだような音。
チヨネの小さな手が、吉継の袖を掴む。
「大丈夫だ。今のところはな」
嘘ではない。
少なくとも、今は。
残骸が一つ消える。
二つ目も、三つ目も、黒い瘴気の中で形を失う。残ったのは、濁った水と浅い窪みだけだった。魔石も殻も抜かれた後だから、呑み込むものは泥と肉と、魔物の残り香だけだ。
だが、吉継の体内では違うことが起きていた。
指先の痺れが薄くなる。
水魔法で焼けるように乾いた感覚が、少しだけ戻る。
土魔法で軋んだ腕の奥が、静かに埋められていく。
それだけではない。
先ほどまで喉を刺していた湿地の腐った泥の臭いが、少し遠い。
息が、通る。
泥殻蜥蜴の躯に近づいた時、傭兵たちは顔をしかめていた。吉継自身も、わずかに喉を焼かれるような感覚を覚えていたはずだ。
今は、それが薄い。
喰骸瘴手の反動が、感覚を鈍らせているのか。
吉継はそう考え、ひとまず深く追わなかった。
人でなくとも、魔物の残骸でも補えるのか。
その仮説が、冷たく胸に落ちた。
同時に、別のものも流れ込む。
水路を掘れ。
泥へ潜れ。
畦を崩せ。
言葉ではない。魔物の体に残っていた衝動だ。
吉継は呼吸を細くし、瘴気を押さえ込んだ。
これは糧だ。
だが、受け入れるものではない。
「……ここまでだ」
瘴気の手が縮む。
最後の残骸が泥へ沈むように消えた後、湿地には異臭がほとんど残っていなかった。
傭兵たちが振り返る。
誰もすぐには喋らない。
ニルが喉を鳴らした。
「今のは、便利と言っていいんですか」
「便利という言葉だけで片付けるな」
アリスティが低く言った。
「あれは、兵に見せすぎれば恐怖になる。民に見せれば、領主ではなく化け物を見る目になる」
「分かっている」
吉継は白布の下で息を整えた。
「だが、残せば田が傷む。田が傷めば民が飢える。ならば、俺が処理する」
チヨネが袖を掴む力を強めた。
「ふん……」
怒っている。
心配もしている。
「すまない。使いすぎぬ。止める手がそばにあるのは、ありがたい」
チヨネは納得していない顔で、もう一度だけ小さく鼻を鳴らした。
その時、黒い瘴気が消えた跡に、青い粒が残っているのが見えた。
泥ではない。
布でもない。
乾いた粉が、水に溶けずに固まっている。
アリスティが膝をつき、短刀の先でそれをすくった。
「香り粉です」
「魔物を寄せるものか」
「断言はできません。ただ、狩りで使う誘引粉に似ています。血の匂いを長く残し、湿地の魔物を呼びやすくする」
吉継は青い布切れを見た。
「青い布に包み、湿地へ置いた」
「その可能性はあります」
アリスティの声が冷えた。
「自然に出た魔物ではなく、呼ばれた魔物だったかもしれない」
チヨネの影が、布切れの周囲で細く尖る。
「ふん」
怒りの音だった。
「魔石と素材は帳面に載せろ。誰が何を回収したか、数も重さも残す」
吉継は軍配を開いた。
「青い布と香り粉は別に包む。触れた者の名も記せ。売るな。捨てるな。洗うな」
ニルが慌てて頷く。
「分かりました」
「アリスティ殿」
「はい」
「この粉を扱う商人を知っているか」
「狩人向けの品なら、数は限られます。白霧境で買える者は、もっと限られる」
「なら、次に調べるのは獣の巣ではない」
吉継は湿地の奥を見た。
泥は静かだった。
だが、静かな泥の下で、人の手が動いている。
「人の帳面だ」
魔物の残骸は消えた。
けれど、白霧境を腐らせる者の名は、まだ泥の底に沈んでいる。
喰骸瘴手の回復仮説が、魔物相手にも広がり始めました。
ただし、力を得るだけではなく、魔物の残滓のような危うさも含んでいます。




