第39話:水と土の理
白霧境の周辺に出没する魔物討伐へ。
吉継はアリスティの土魔法と、傭兵団員ニルの水魔法を観察し、実戦の中で水と土の理へ踏み込みます。
造作でもない。
そう言った以上、造作にしてはならない。
その夜、白霧境の倉では灯が消えなかった。
王都政務院へ返す写しは、夜明け前から作られていた。
エルネは眠そうな顔をしながらも、筆を止めない。
「青綿会原帳の写し、偽証文の写し、証人名簿、種籾預かり札の控え。足りないのは、ドルトの同行者の名前です」
「ロウエンに聞かせる」
「お願いします。私は他に証拠がないか探してみます」
「ああ、任せる」
吉継は頷いた。
吉継は椅子に腰をかけ、しばらく天井を見上げた。
紙は刃になる。
だが、刃だけでは領は守れない。
そこへアリスティが入ってきた。
「大谷殿。警護の配置について報告があります」
「話せ」
「旧街道北の湿地で、泥殻蜥蜴が出ています。畑へ降りれば苗を荒らし、水路を掘り返します。討伐依頼は以前からありましたが、青綿会との契約中は後回しにされていました」
泥殻蜥蜴。
吉継は知らない魔物の名を聞き、ここが別世界なのだと改めて思い知った。
だが、水路を掘り返すという一点だけで、放置できぬと分かった。
「傭兵団は、その依頼も受けているのか」
「はい。私たちは領内警護のほかにも、日銭を得るため複数の依頼を回しています。全員が常にここへいるわけではありません」
「当然だ。食わせるには仕事がいる。傭兵の忠義は、まず飯から始まる」
エルネが顔を上げた。
「行くんですか」
「行く。帳面だけで守れるものではない」
「青綿会の訴えが来たばかりです」
「問題を先送りにしては、手が付けられなくなる恐れが高い。ここは早急に鎮圧させるべきだろう」
エルネは反論しかけ、すぐに息を吐いた。
「では、私はこちらで写しを仕上げます。チヨネさん、吉継様を見張ってください」
チヨネは強く頷いた。
「ふん」
見張る気でいる。
吉継は苦笑を白布の下に隠した。
◆
旧街道北の湿地は、白霧境の中でも霧が濃かった。
足元は柔らかく、踏み込むたびに泥が靴を捕まえる。
同行した傭兵は三人。
一人は短槍使い。
一人は縄を持った男。
もう一人は、細い杖を持つ水魔法使いだった。
名をニルという。
若い男で、左頬に薄い傷がある。口数は少ないが、目はよく動く。
「水魔法を使うのか」
吉継が聞くと、ニルは少し緊張した顔で頷いた。
「生活魔法に毛が生えた程度です。水縄で足を取るくらいなら」
「見せてほしい。知らぬ力を知らぬまま使うほど、危ういことはない」
「今ですか」
「ああ、頼む」
ニルは戸惑いながら、湿地の水たまりへ杖を向けた。
「水縄」
水たまりの表面が細く持ち上がる。
縄というより、濡れた紐だった。
それが草の根を巻き、軽く引く。
草は倒れたが、切れはしない。
吉継は目を細めた。
水は刃ではない。
高きから低きへ流れる。
狭ければ速くなり、広ければ散る。
戦国の城攻めでも、水は敵だった。堀を満たし、田を沈め、兵糧を腐らせる。だが同時に、田を生かし、舟を運び、土を固めもする。
使い方は一つではない。
「なるほど。水は押すものではなく、通すものか」
「それだけで分かるのですか」
ニルが不安そうに聞いた。
「少しだけだ。水の形は千差万別。その理を改めて理解した」
ニルは目を丸くした。
アリスティが横で静かに笑う。
「この方、洞察力が長けている?」
「まだ使えるとは言っていない。分かった顔をして、失敗する者も多い」
吉継はそう返した。
知ることと、動かすことは違う。
そこを混同すれば死ぬ。
湿地の奥で、泥が跳ねた。
チヨネが音もなく吉継の前へ半歩出る。
「ふん」
敵がいる。
次の瞬間、泥の中から大きな蜥蜴が姿を現した。
背には乾いた泥が鎧のように固まり、四本の脚は太い。尾で湿地を叩くたび、泥水が飛ぶ。
泥殻蜥蜴。
想像より大きい。
厄介なのは、牙でも爪でもない。
背にまとった泥の殻だ。湿地の泥を何層にも固め、乾いた鎧のように背負っている。刀は滑り、槍は浅く止まり、火を当てても泥が熱を逃がす。さらに尾で水路を掘り返し、田の畦を崩す。
放っておけば、春の田は作れない。
「散れ。正面に固まるな」
アリスティの命令は短かった。
傭兵たちが左右へ動く。
ニルが水縄を伸ばし、蜥蜴の前脚へ絡めた。
水の縄は一瞬で泥に混じり、細くなる。
「足りない。水が薄ければ、牙を止める前に泥へ飲まれる」
吉継が呟く。
「水の膜が薄い。もう少し厚くすべきだ」
「なら、濃くします」
ニルが杖を握り直す。
だが、蜥蜴の尾が先に動いた。
泥の塊が飛ぶ。
吉継はチヨネの肩を引き、半歩ずらした。
泥塊が白い陣羽織の端をかすめる。
アリスティが地面へ手を向けた。
「泥足制圧」
蜥蜴の足元の泥が重く沈む。
四肢が沈み、動きが鈍った。
だが完全には止まらない。
泥殻蜥蜴は泥の中で生きる魔物だ。足場の悪さを苦にしない。
吉継はそれを見て、土魔法の理を考える。
土は壁ではない。
重さ。
支え。
沈み。
押し返し。
土塁は置けばよいのではない。水を逃がし、踏ませ、崩れぬように締める。城の普請と同じだ。
「アリスティ殿。すべての足を重くするのではなく、片足だけ沈めることは可能か」
「片足だけ?」
「体勢を崩し、転ばせる。重くするより、崩す方が早い」
アリスティの目が細くなる。
「できます」
彼女が手を下げる。
「重力不変の土」
蜥蜴の右前脚の下だけ、泥が不自然に重く沈んだ。
魔物は止まれない。
重い体で突っ込み、片脚だけを泥に取られる。
体が傾いた。
吉継はその瞬間を逃さなかった。
「ニル。水を広げるな。倒れた首元だけへ寄せろ」
「はい」
ニルの水縄が、細い流れになって蜥蜴の首元へ回る。
水が泥を洗う。
乾いた泥鎧の継ぎ目が見えた。
チヨネがすかさず背後へ回り、短刀を抜いた。
「ふん」
「見えている」
チヨネの短刀が、泥鎧の継ぎ目へ刺さる。
吉継は刀を抜いた。
一足。
泥を踏み抜かないよう、固い草の根だけを選ぶ。
一刀。
泥鎧の継ぎ目へ刃を入れる。
深くはない。
だが、動きは止まった。
短槍使いが横から突き、縄持ちが尾を絡める。
アリスティの土が、蜥蜴の四肢を沈める。
最後は吉継が首元へもう一太刀入れた。
泥殻蜥蜴は低く鳴き、湿地へ沈んだ。
終わりではなかった。
背後の葦が割れ、数体の泥殻蜥蜴が姿を現す。
ニルの顔色が変わった。
「大谷様、まだ危ないです」
「ああ」
吉継は水たまりへ指を向けた。
ニルの水魔法を思い出す。
水は押すものではない。
道を与えるもの。
高きから低きへ流れ、狭ければ速く、広ければ散る。
ならば、狭く。
薄く。
刃のように研げ。
「水刃薄断」
声は小さかった。
水たまりの端が跳ね上がった。
それは剣ではない。
だが、薄い水の線が空気を裂く。
先頭の泥殻蜥蜴の泥鎧が、首元から斜めに割れた。
遅れて、肉が切れる。
魔物の体が、湿地の泥へ落ちた。
ニルが息を止める。
「今、初めてですよね」
「初めてだ。だから、今のは成功ではなく確認だ」
「初めてで、斬ったんですか」
「形を借りた。まだ、俺のものではない。だが、借り物でも守れるなら使う」
吉継は次に、泥へ触れた。
アリスティの土魔法を思い出す。
土は壁ではない。
締める。
支える。
沈ませる。
足場にする。
もう一体が突っ込んでくる。
速度はある。
だが、一直線だ。
吉継は掌を地面へ置き、城の石垣を思い浮かべた。
野面積み。
大きさも形も違う石を、噛み合わせて積む。
見た目は荒くとも、力の逃げ道を誤らなければ崩れにくい。
「野面土壁」
泥と土が持ち上がった。
壁と呼ぶには低い。
だが、内側で土が噛み合い、重い面となる。
泥殻蜥蜴はそのまま突っ込んだ。
鈍い音。
巨体が、反射するように後方へ弾かれる。
泥を転がり、動かなくなった。
湿地にいた全員が、しばらく声を失った。
吉継の額に汗がにじむ。
魔力の流れが細すぎる。
だが、入口は見えた。
チヨネが吉継の袖を掴む。
「ふん」
もうやめろ、という音。
「ここまでだ」
吉継は素直に手を引いた。
アリスティは黙って見ていた。
琥珀色の目に、驚きと警戒が半分ずつある。
「大谷殿。あなたは魔術師ではないのですか」
「違う。俺はまだ、この世界の魔法を知らぬ」
「知らない者の覚え方ではありません」
「知っているものに置き換えただけだ。水路、堀、土塁、田。俺が住んでいた国では、そうした技術を見聞きしていた」
吉継は湿地の奥を見た。
泥殻蜥蜴が出た穴のそばに、青く染まった布切れが引っかかっている。
ただの布かもしれない。
だが、白霧境で青い染め物を扱っていた者を、吉継は知っている。
チヨネも気づいたらしい。
影が布切れの手前で止まる。
「ふん……」
「ああ」
吉継は軍配を閉じた。
「魔物が出た理由も、調べる必要がありそうだ」
水と土の理は、ほんの少し見えた。
だが、白霧境の泥の底には、まだ別のものが沈んでいた。
吉継が水と土の基礎を、戦国の治水と野面積みの感覚で読み解く回でした。
まだ完全習得ではありませんが、実戦で形を借りる段階まで来ました。




