第38話:帳面は嘘をつかぬ
白霧境の水路が動き始めた翌日。
吉継は、今度は「証文」と「種籾」を狙う青綿会の残り火と向き合います。
前領主時代の貸付帳が、商人たちを縛る一手になります。
バルシュタイン傭兵団を仮の警護兵として置いた初日は、水路一本を通して終わった。
アリスティは約束どおり、夜のうちに部下を三つに分けた。
水門。
倉。
旧街道。
村人たちはまだ傭兵を怖がっている。だが、青綿会の者が夜のうちに戻ってこなかっただけでも、市の空気は少し変わった。
水路が一つ通った翌朝、白霧境の市には、昨日より早く人が集まった。
まだ賑わいと呼ぶには足りない。
だが、昨日まで下を向いていた者が、今日は荷を抱えて歩いている。
干し豆。
塩。
ほつれを直した布。
曲がった鍬。
売り物と呼ぶには貧しいものばかりだ。それでも、人が物を持って外へ出る。銭と物が動き始める。
吉継は白い頭巾の下から、その流れを見ていた。
エルネが帳面を抱えて駆け寄る。
「昨日の分をまとめました。水路修繕に出た村人が二十七人。警護に就いたバルシュタイン傭兵団が十八人。支給した粥が四鍋、塩が一袋、未払い日当は銀貨換算でこの量です」
「よくここまで整えた。荒れた領で、これだけの数字が立つだけでも大きい」
「まだ荒いです。名前の綴りが統一できていませんし、村ごとの呼び名と役所の名が違います。あとで照合します」
「助かる」
エルネは一瞬だけ目を丸くした。
「素直に言われると、少し調子が狂いますね」
「なら、もう一度言おう。助かっている。嫌なら三度目は飲み込む」
「一度で十分です」
その横で、チヨネが小さく胸を張った。
「ふんふん」
自分も働いた、と言っている。
昨夜、チヨネは青綿会の倉跡と旧許可札小屋の周りを見て回り、不審な足跡をいくつか見つけていた。影で追うばかりではなく、今日は小さな木札を並べ、見つけた場所を地面に再現している。
地図のつもりらしい。
吉継はその木札の前にしゃがんだ。
「これは北の倉か」
こくり。
「これは水門道」
ふん。
「では、この二つを行き来した者がいる」
チヨネは全力で頷いた。
影が少しだけ伸び、吉継の影の端をつつく。
褒めろ、という催促に見えた。
「よく見た」
頭を軽く撫でると、チヨネは口を閉じたまま、肩を小さく上下させた。
そこへロウエンが来た。
以前より背筋が伸びている。だが、顔には疲れがあった。
「大谷様。よくない動きがあります」
「話せ。悪い知らせほど早い方がいい」
「北から来た行商人が、種籾を買い集めようとしています。売れば今は助かりますが、来年、村の人間が生きていけません」
「種籾を食わせず、売らせるつもりか。来年の命を、今日の銭で買い叩く気だな」
「はい。種籾を失えば、来年の田も、食い扶持も失います」
吉継は市の端を見た。
外套を深くかぶった商人が、数人の農民を相手に声を低くしている。荷台には銭袋が積まれていた。
銭は強い。
飢えた者に、来年の話だけでは勝てない。
「止めますか」
エルネが聞いた。
「売買そのものは止めぬ」
「でも、種籾まで買われたら困ります」
「だから、禁じる理由を先に立てる」
吉継は軍配で倉を指した。
「救い米と種籾を分ける。種籾は領の預かり物とし、売買の対象から外す。売りたい者には、代わりに救い米か綿を出す」
ロウエンが眉を寄せた。
「商人は反発します」
「反発はする。だが、言い分は立ちにくい。種籾は今年の食い物ではなく、来年の命だ。命を売れと言う商いは、商いではない」
吉継はエルネへ向いた。
「札を書けるか」
「書けます。内容は?」
「種籾の売買を禁ず。救い米は領主印のある札と引き換えに渡す。売買したい者は、名、品、量、相手を帳面に残す。帳面外の買い集めは盗みに準ずる」
「強いですね」
「強く書く。だが、道は残す。追い詰めすぎれば、民まで闇へ逃げる」
商いを殺せば、銭は止まる。
だが、命の種まで買い尽くす商いを許せば、土地が死ぬ。
その線を間違えれば、政は腐る。
エルネがすぐに木板へ下書きを始めた。
チヨネはその隣で、墨壺を両手で抱えた。小柄な体には大きすぎる壺だったが、本人は重大任務の顔をしている。
「ふん」
「こぼすな」
こくり。
だが、次の瞬間、チヨネは墨壺を少し傾けた。
エルネが慌てて受け止める。
「危ないです。チヨネさん、気持ちはありがたいけど、墨は敵より怖い時があります」
チヨネは目を丸くした。
墨は強敵。
そう理解したらしい。
吉継は小さく息を吐いた。
笑いそうになったのを、白布の下で隠した。
◆
昼前、外套の商人が倉へ来た。
男は丁寧に頭を下げたが、目は倉の米袋ばかり見ている。
「私は北市の商人、ドルトと申します。こちらに、青綿会時代の証文がございます。農具貸付の返済として、該当農家の種籾を受け取る権利があると」
男は羊皮紙を差し出した。
エルネが受け取り、目を細める。
「印はあります。ですが、日付が変です」
「書記の癖でしょう」
ドルトは笑う。
「領主様が替わっても、借りたものは返すのが道理です。商人の権利を踏みにじれば、白霧境の信用に傷がつきます」
言い方は柔らかい。
だが、中身は脅しだった。
吉継は怒らない。
「借りたものを返す。それは正しい」
ドルトの笑みが深くなる。
「では」
「ただし、誰が、何を、いつ借りたかを確かめる」
吉継はロウエンを見た。
「この印を知っているか」
ロウエンは羊皮紙を覗き込み、顔をしかめた。
「青綿会の古い印に似ています。ですが、ここまで線は太くありません。北市の者なら、古い印を写したのでしょう」
ドルトの頬がわずかに動いた。
「根拠のない言いがかりです」
チヨネが、ふん、と鳴いた。
袖を掴むのではなく、今度は吉継の前に半歩出る。そして、懐から小さな紙片を取り出した。
昨夜、倉跡で拾った紙片だ。
青綿会の帳簿の切れ端。
そこには同じ名と、別の日付が残っていた。
エルネが二枚を並べる。
「こちらの切れ端では、返済済みになっています。ドルトさんの証文は、それより後の日付です。つまり、返済済みの借りを、もう一度取り立てようとしたことになります」
周囲がざわめいた。
ドルトはすぐに笑みを消した。
「古い紙切れ一枚で、私を盗人扱いするのですか」
「一枚ではない。紙切れを軽く見るなら、商人を名乗るな」
吉継は静かに言った。
「ロウエンは印の違いを証言した。エルネは日付の矛盾を読んだ。チヨネは帳簿片を拾った。倉には青綿会の原帳がある。これで四つだ」
ドルトの喉が鳴る。
「それから、もう一つある」
吉継はエルネへ視線を送った。
エルネは別の帳面を開く。
「前領主時代の貸付帳です。領主側から商人へ貸した米、銭、農具の記録があります」
ドルトの目が、一瞬だけ揺れた。
吉継はその揺れを見逃さない。
「そこに、お前の名もある」
「……古い帳面でしょう」
「古い借りも、借りだ」
吉継は静かに言った。
「白霧境で商いを続けたい者には、道を残す。三日以内に証文を再登録し、返済済みの借りを二度取りせず、種籾の買い集めを止めるなら、前領主から借りていた分は帳消しにする」
周囲の商人たちが、ざわめいた。
ドルトは黙る。
「だが、偽証文を使う者は別だ。民から取る前に、領へ返せ」
「それでも、私は商人です。裁きは王都の商会で」
「ならば王都へ送る」
吉継は軍配で倉の奥を示した。
「偽証文の疑いあり。名、荷、同行者、銭袋の数を記録する。逃げるなら追う。残るなら茶を出す」
「茶、ですか」
「客として扱うか、罪人として扱うかは、お前の次の一歩で決まる。座るか、走るか、好きに選べ」
ドルトは数息だけ黙り、やがて両手を上げた。
「……残ります」
「賢い」
吉継はチヨネへ視線を向けた。
チヨネは無言で頷き、ドルトの背後へ移動する。影は膨らまない。ただ、逃げ道に立つだけだ。
アリスティが少し離れた場所で一部始終を見ていた。
「刃を抜かないのですね」
「抜けば早い。だが、早いだけでは次が残る。斬った相手の後ろにいる者が笑うだけだ」
「次」
「同じ証文を持った者が、明日また来る」
吉継は倉の米袋を見た。
「一人を斬るより、偽証文の使い道を潰す方がよい」
アリスティは納得したように目を伏せる。
「商人も傭兵も、紙で雇われ、紙で縛られる。確かに、ここを押さえられると逃げ場がない」
「紙は軽い。だが、重く使えば武器より重い」
ドルトが顔をしかめた。
その言葉が、彼には十分に重かったらしい。
◆
夕方までに、自由市の中央には三枚の板札が立った。
一つ、種籾の売買を禁ず。
一つ、救い米は領主印の札と引き換えに渡す。
一つ、古い証文は三日以内に再登録せよ。帳面にない取り立ては認めない。
村人たちは板札の前で足を止め、エルネに読み上げてもらっていた。
「再登録ってことは、借りをなくしてくれるのか」
「なくすわけではありません。本当に借りた分だけを残します。二重取りや、返したはずの借りを戻すのを止めるんです」
「じゃあ、怖くて出せなかった紙も持ってきていいのか」
「持ってきてください。隠している方が後で困ります」
エルネの声はよく通った。
早口だが、意味は崩れない。
吉継はそれを聞きながら、倉の前に立つロウエンを見た。
「忙しくなる」
「承知しています」
「逃げたくなったか」
「少しだけ」
ロウエンは苦笑した。
「ですが、今逃げたら、私はただの許可札小屋の男で終わります」
「今は違うのか」
「違うと、思いたいですね」
吉継は頷いた。
「なら働け。白霧境は人が足りぬ」
「はい」
その返事には、昨日までなかった力があった。
日が沈む頃、王都からの早馬が来た。
馬は泥を跳ね上げ、自由市の端で止まる。
使者は疲れた顔で封書を差し出した。
「王都政務院より、白霧境領主、大谷吉継殿へ」
封蝋には政務院の印。
その横に、細い別印が押されている。
ガリア家の下位紋に似た線だった。
エルネが文面を読み、顔色を変えた。
「青綿会本部が訴えています。白霧境で、病毒持ちの領主が商人を脅し、倉と商品を不当に奪った、と」
チヨネが静かに吉継の袖を掴んだ。
アリスティの部下たちも顔を上げる。
ロウエンは唇を噛んだ。
吉継は封書を受け取り、白布の下で息を整えた。
怒りはある。
だが、それより先に、道が見えた。
「向こうから名を出したか」
「どうしますか」
エルネが聞く。
吉継は軍配を静かに開いた。
「フッ、造作でもない。こんなこと日常茶飯事だ」
霧の中で、市の灯が一つずつ揺れ始める。
白霧境の小さな帳面は、王都へ届く刃になろうとしていた。
次回、青綿会本部からの訴えが王都を動かします。
白霧境の帳面が、吉継の新たな武器になります。




