第35話:綿花商の鎖
自由市に反発した綿花商の使い。その影印を追って、吉継たちは青綿会の染物小屋へ向かいます。
白霧境が綿花から逃れられなかった理由が、少しずつ見えてきます。
チヨネの影印は、夜になっても消えていなかった。
市の外れから逃げた綿花商の使いは、旧街道を北へ向かい、霧の中にある古い染物小屋へ入った。
翌朝、チヨネはその場所を地図の上に指で示した。
「ふん」
ここ、という音。
吉継は頷き、エルネとロウエンを呼んだ。
古い館の一室には、白霧境の粗い地図と、市の帳面が広げられている。
ロウエンはまだ落ち着かない顔をしていたが、昨日より背筋は伸びていた。
「その染物小屋は誰のものだ」
吉継が聞くと、ロウエンはすぐ答えた。
「青綿会の倉です。王都の綿花商たちが作った組で、この領の綿はほとんどそこへ流れます」
「青綿会」
エルネが帳面に書く。
「白霧境の農民に種や道具を貸し、収穫した綿で返させる仕組みですね。借りた時は助かるけれど、毎年返済に追われる形です」
「米を作る余裕がなくなる」
「はい。綿で返す約束が先にあるので、畑を綿花に回さざるを得ません」
吉継は地図を見た。
水路のある土地ほど、本来なら米に向く。
だが、そこにも綿花が植えられていた。
水の届く良い土地を、腹を満たさぬ作物で押さえられている。
これは商いではある。
だが、縄でもある。
「ロウエン」
「はい」
「お前は青綿会と話ができるか」
「できます。顔は知っています。ですが、向こうは私をもう信用しないかもしれません」
「信用されなくてよい。会わせろ。相手が信用する顔かどうかは、こちらで見る」
ロウエンは喉を鳴らした。
「領主様、あの者たちは銭を持っています。王都にも顔が利く。怒らせれば、道具も種も入らなくなります」
「今のままなら、米が入らなくなる。銭の道が太くても、腹へ届かねば意味がない」
吉継は静かに言った。
「選ぶ順が違う。先に民の腹だ。商いは、生きている者がいて初めて回る」
チヨネが机の端で、綿の切れ端を小さく丸めている。
ふわふわした玉を、影の輪に通そうとして失敗した。
「ふん……」
悔しそうだった。
エルネがそれを見て、少しだけ口元を緩める。
「綿は軽すぎますね」
「ふん」
チヨネは不服そうに、もう一度挑戦した。
吉継はその様子を見てから、地図へ視線を戻した。
「染物小屋へ行く」
◆
青綿会の染物小屋は、霧の中で青く沈んでいた。
壁には古い染みがあり、軒下には乾いた綿布が吊られている。
中から出てきたのは、細い髭を整えた男だった。
名はベルノ。
青綿会の白霧境担当だという。
「新しい領主様が、わざわざこのような小屋まで」
ベルノは丁寧に頭を下げた。
だが、目は笑っていない。
「用件は分かっているだろう」
「綿畑の件でしょうか。困りますな。白霧境の綿は、王都でも需要がございます。急に米だ麦だと言われましても、商いには契約がある」
「契約は見る」
吉継が言うと、ベルノは笑みを深めた。
「残念ながら、契約書は王都の本店にあります」
「なら、写しは」
「こちらにはございません」
エルネの眉が動いた。
「農民から綿で返済を受けるのに、写しがないのですか」
「慣習です」
「便利な言葉ですね」
エルネの声は冷たい。
ベルノは彼女を一瞥し、吉継へ戻った。
「領主様、綿は銭になります。銭があれば穀物は買える。わざわざ畑を戻す必要はありません」
「買えなかったから、民は痩せている。帳面では潤っても、頬はこけている」
「それは前領主の采配では」
「今は俺の領だ」
吉継は一歩進んだ。
「水の届く土地は食糧に戻す。綿花は余った土地に絞る」
ベルノの笑みが消えた。
「青綿会は、種も農具も貸しております。それを止めれば、この領は困るでしょうな」
「困る。だから、今ここで首を預けたら終わりだ」
吉継は認めた。
ベルノの目に、勝ったという色が浮かぶ。
だが、吉継は続けた。
「だから、困らぬようにする」
吉継はエルネへ視線を向けた。
エルネが帳面を開く。
「昨日見つかった帳面外の米と豆。その一部を種に回します。農具は廃砦の倉に古い鍬と鋤があります。修理が必要ですが、鍛冶屋に仕事を出せます」
ロウエンが続ける。
「北村に元鍛冶の男がいます。目を悪くして店を閉めましたが、弟子は二人残っています」
ベルノの顔が固まる。
吉継は言った。
「青綿会に頼る分は減らす。必要な分は買う。だが、首を預ける気はない。白霧境の腹は、白霧境で守る」
「領主様は、商いを軽く見ておられる」
「軽く見てはいない。むしろ重く見ている」
吉継は静かに言った。
ただ異世界の知識を持ち込み、商売を自由にすれば豊かになる。
それだけなら、吉継でなくとも言えたかもしれない。
だが、吉継は知っている。
前世の国では、座も、寺社も、商人も、道と銭を握ることで政に口を出した。水を握る者は田を握り、田を握る者は兵糧を握る。
商いは国を生かす。
同時に、国を縛ることもある。
「商いは尊い。だが、水門と作付けを商人が決めるなら、それは商いではない。政だ」
吉継はベルノを見た。
「商人が政に口を出すな」
チヨネがベルノの足元を見た。
彼の靴に、黒い泥がついている。
昨日、毒土の水路で見たものと同じ色だった。
「ふん」
チヨネは吉継の袖を引く。
吉継も気づいた。
「ベルノ。水路へ行ったか」
「水路?」
「靴に毒土がついている」
ベルノの顔が、ほんのわずかに強張った。
「商人が水路を見てはなりませんか」
「見てもよい。だが、詰まった水門の鍵を商人が持つ理由はない」
吉継はベルノの腰を見た。
鍵束がある。
その中に、古い水門の鍵と同じ形のものが一本混じっていた。
エルネが息を呑む。
「水門を止めていたのですか」
ベルノは黙る。
「米が作れぬように水を止め、綿を作らせた」
吉継の声は静かだった。
「違うなら、今ここで水門を開ける。水が通れば、疑いは薄くなる」
ベルノは後ずさった。
染物小屋の奥で、誰かが動く気配がした。
チヨネの影が、すっと伸びかける。
吉継は片手を上げた。
「動くな」
チヨネは止まった。
奥の者も、出てこない。
吉継は刀へ手をかけない。
軍配も振らない。
必要なら脅しも使う。
だが、今はその時ではない。
ここで刃を見せれば、青綿会は被害者の顔をする。
商人を斬って政を通した、と噂を作られる。
それは下策だった。
「ベルノ。鍵は領主預かりとする」
「拒めば」
「拒否した事実を記録する。水門を見せられぬ理由があると、俺は判断する」
エルネがすぐに帳面を開いた。
ロウエンも震える手で証人名を書き始める。
ベルノは二人を見た。
武器よりも、紙が動いている。
それを理解した顔だった。
ベルノは唇を噛み、腰の鍵束から一本を外した。
「一時的に、お預けするだけです」
「記録した」
エルネが短く言う。
ロウエンが青い顔で言った。
「水門の鍵を、なぜ青綿会が」
「水を握れば、畑を握れる」
吉継は受け取った鍵を見た。
「水門へ行く」
◆
毒土の水路は、黒い泥に半分埋もれていた。
古い水門は閉じられている。
鍵穴には、青綿会の鍵が合った。
ゆっくりと水門を開けると、濁った水が動き始める。
吉継は水際に膝をついた。
「また、それをするんですか」
エルネが心配そうに言う。
「毒は残せぬ」
「体にいいとは思えません」
「俺には、毒が薬になる」
「普通は最悪の言葉です」
吉継は少しだけ笑い、手を水へ入れた。
「毒脈呑浄」
黒い筋が水の中から吉継の掌へ集まる。
昨日より、流れが速い。
水門が開いたことで、毒も動き出したのだ。
チヨネが袖を掴む。
「ふん……」
「大丈夫だ。無理はしない」
吉継はそう言って、吸い上げる量を抑えた。
すべてを一度に呑めば、体がいくら持っても危うい。
水の黒さが少し薄くなる。
水路の底に、石が見えた。
ロウエンが呆然と呟く。
「水が、通った」
吉継は立ち上がった。
「明日から、水路掘りを始める。米を植える土地を戻す」
ベルノは押さえられたまま、低く笑った。
「青綿会を敵に回した。後悔しますぞ」
「後悔する暇があれば、田を起こす」
吉継は軍配を握った。
「綿花は売る。だが、白霧境の腹までは売らぬ」
霧の向こうで、水が細く流れ始めた。
それは小さな音だった。
だが、白霧境にとっては、戦の勝ち鬨よりも重い音だった。
お読みいただきありがとうございます。
綿花商は種と農具だけでなく、水門まで握っていました。吉継は水を取り戻し、米を植えるための第一歩を踏み出します。




