第34話:自由市の初日
白霧境で、吉継の改革が動き出します。
四公六民、自由市、隠された備蓄。今回は戦場ではなく、市と倉の内政戦です。
白霧境の朝市は、いつもより早く目を覚ました。
霧の中に、荷車の車輪が軋む音が混じる。
豆袋を抱えた老婆。
薪を束ねた少年。
古い鍋を磨いて持ってきた女。
皆、恐る恐る市の入口へ近づいてくる。
そこに、いつもの許可札小屋はあった。
だが、戸は閉じられている。
代わりに、エルネが小さな机を出し、帳面を広げていた。
「名前、品、売る場所。それだけです。許可札は要りません。嘘を売ったら市から追いますが、普通に売るなら止めません」
早口だが、はっきりしている。
昨日のうちに決めた言葉を、何度も練習したのだ。
吉継は少し離れた場所で、その様子を見ていた。
この国の文字は、まだ完全には読めない。
だが、エルネが書くたび、横に一つずつ簡単な記号を写している。
豆。
薪。
布。
米。
小さな字を、吉継は自分の手元の板に書きつけた。
「字の練習ですか」
エルネが顔を上げる。
「ああ。いつまでもお前に読ませるわけにはいかぬ。俺も、この国で生きる以上は覚える」
「それを言える領主は少ないと思います。だいたいの方は、読める顔をして押し通します」
吉継は手元の板に、拙い文字をもう一つ書き足した。
「俺には何も後ろめたいことはないからな。読めぬなら読めぬと認めるだけだ」
少しだけ自慢げな声だった。
エルネは少し笑い、それから帳面へ戻った。
チヨネは市の屋根の上ではなく、今日は地面にいた。
古い布を頭からかぶり、村娘のように見せている。小柄な体には似合っていた。
彼女は豆袋の横にしゃがみ、小さな影の輪で豆を一粒だけ転がしている。
遊んでいる。
だが、視線は市の入口と許可札小屋を交互に見ていた。
「ふん」
小さく鳴った。
何か来る、という音だ。
吉継も気づいていた。
許可札小屋の裏から、三人の男が出てくる。
先頭は太った中年の男だった。名前はロウエン。昨日まで許可札を配り、商人たちから銭を取っていた者だ。
その後ろに、綿花商の使いが二人。
顔には笑みがある。
だが、目は笑っていない。
「領主様」
ロウエンは大げさに頭を下げた。
「自由市とは、たいそう立派なお考えでございます。ですが、朝から皆が困っております」
「誰が困っている」
「許可を持って真面目に商ってきた者たちです。無許可の売り手が増えれば、値が崩れます」
「値が崩れると困るのは、買う者か、売る場所を独占していた者か。そこを先に聞きたい」
ロウエンの笑みが薄くなった。
「粗悪品も出ます」
「そのために帳面を作った」
「帳面だけで市を守れると?」
吉継は立ち上がった。
ゆっくりとロウエンの前まで歩く。
白頭巾の奥の視線が、まっすぐに男を捉えた。
「商人は利益を求める者であろう」
ロウエンの喉が動く。
「粗悪品を出せば、民からも領主からも信頼を失う。それを理解できていない者は、商人としてどうなのだろうか」
吉継は静かに言った。
市の空気が止まる。
ロウエンは唇を結んだ。
その時、綿花商の使いが声を上げた。
「では、米はどうします。四公六民などと言っても、米が足りなければ終わりです。綿を減らせば、買う銭もなくなる」
不安を煽る声だった。
村人たちの顔が曇る。
吉継は怒らない。
その不安は、もっともだった。
「エルネ」
「はい」
エルネが別の帳面を開く。
「昨日確認した備蓄です。旧領主館の東倉に麦十二袋。南の廃倉に豆八袋。許可札小屋の裏倉に、米袋が十六」
ロウエンの肩が動いた。
吉継は彼を見る。
「米袋十六。帳面にはない」
「そ、それは古い預かり物で」
「誰のものだ」
ロウエンは答えない。
チヨネが豆を転がすのをやめた。
影が細く伸び、許可札小屋の裏へ向かう。
しばらくして、チヨネは戻ってきた。
そして吉継の袖を軽く引く。
「ふん」
ある、という音。
吉継は頷いた。
「開ける」
ロウエンが慌てた。
「領主様、勝手に倉を」
「領主の倉だ。勝手ではない。むしろ隠していた者の方が、よほど勝手だ」
吉継は軍配を持ち、裏倉へ向かった。
扉は重い錠で閉ざされていた。
チヨネが上目遣いで吉継を見る。
「開けられるか」
こくり。
影が錠の隙間へ入り、金具を内側から撫でる。かちり、と小さな音がした。
扉が開く。
中には、米袋が積まれていた。
十六ではない。
二十三。
さらに、干し豆と塩もある。
村人たちが息を呑んだ。
エルネがすぐに数え直す。
「帳面外の備蓄です。これだけあれば、種籾用と救い米に分けられます」
「そうする」
吉継は市へ戻り、村人たちの前に立った。
「この米は、今日売らぬ」
落胆の声が漏れた。
吉継は続ける。
「半分は種にする。来年の田を起こすためだ。残りは救い米とし、冬までに食えぬ家へ渡す」
老婆が震える声で聞いた。
「ただで、ですか」
「ただではない。返せる者は、来年の収穫で少しずつ返せ。返せぬ者は、水路掘りや畑起こしを手伝え」
吉継は、できるだけ柔らかく言った。
「飢えた者に、今すぐ銭を出せとは言わぬ。だが、皆で田を起こす」
市の空気が変わった。
不安が、少しずつ形を持つ。
やるべきことが見えれば、人は立てる。
ロウエンは顔を赤くしていた。
「これは横暴です。昔からの仕組みを一日で」
「時が経つほど、組織は腐るものだ。守るための仕組みが、縛るための鎖になる時もある。変えるべき時に変えねば、人が先に折れる」
吉継はロウエンを見た。
「だが、すぐに罰するつもりはない」
ロウエンが目を上げる。
「なぜ」
「お前は商人との人脈もあり、この地域に詳しい。俺にとっては、今一番欲しい人材だ。罪を隠すより、その頭を領のために使え」
吉継は軍配を伏せた。
「これからは商人を選別するのではなく、市全体を監視する役を担え。能力的に問題なければ、重宝する」
ロウエンは信じられない顔をした。
「私を、使うのですか」
「白霧境に人手を捨てる余裕はない」
優しいからではない。
必要だから使う。
だが、必要とされることが、人をもう一度立たせることもある。
吉継はそれを知っていた。
エルネが小声で言う。
「甘いようで、逃げ道を塞いでますね」
「働けば生きる。偽れば失う。分かりやすい方がよい」
「たしかに」
チヨネが小さく、ふんふん、と鳴いた。
たぶん、よし、と言っている。
◆
昼過ぎには、市の空気が変わっていた。
豆袋が売れる。
薪が売れる。
古い鍋を直して使いたいという者が鍛冶屋を探す。
エルネは忙しそうに帳面を書き、ロウエンはその横で汗を拭きながら品目を読み上げている。
最初はぎこちなかった。
だが、彼は市の顔を知っていた。
「その薪は北村のものだ。湿りが少ない。値を少し上げても買い手がつく」
「この豆は古い。種には向かないが、煮れば食える」
言葉が、止めるためではなく、回すために使われ始めた。
吉継はそれを見て、少しだけ息を吐いた。
戦場で敵を崩すより、難しい。
だが、こちらの方が長く効く。
その時、チヨネが吉継の袖を引いた。
「ふん?」
彼女は市場の外れを指す。
そこには、綿花商の使いが二人、こそこそと馬車へ戻る姿があった。
片方が、懐に小さな札を入れている。
吉継は追わない。
「チヨネ。印だけ」
こくり。
チヨネの影が地面を這い、馬車の車輪が踏んだ泥の端に小さな影印を残した。
直接捕まえるには早い。
誰へ報せるのかを見る。
白霧境の内政は、畑と市だけでは終わらない。
ここで止まっていた銭には、止めていた者がいる。
その者たちは、自由市を嫌う。
吉継は軍配を握った。
戦は、形を変えただけだ。
今度の戦場は、市と田と倉である。
ならば、ここでも勝つ。
お読みいただきありがとうございます。
吉継は許可札で止まっていた市を開き、隠されていた米を種籾と救い米へ回しました。自由市を嫌う者たちも動き始め、白霧境の戦いは内政の形で続いていきます。




