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大谷吉継 転生録 〜義は滅びず、再び剣を取る〜  作者: ひさめ


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第28話:馬房の空白

嘆きの野へ向かう前に、吉継たちは王都内の補給線を探ります。

チヨネの影印、エルネの文書読み、フェイの圧、そして吉継の読みが噛み合う回です。

王都の夜は、昼よりも嘘が多い。

 灯の下で笑う者。

 酔ったふりで歩く者。

 荷を運ぶように見せて、何も入っていない箱を抱える者。

 チヨネは屋根の端に伏せ、酒場の裏口から出た男を見ていた。

 男は酔客の足取りをしている。肩を揺らし、壁に手をつき、何度も頭を振る。

 だが、転ばない。

 足の置き方だけは、妙に静かだった。

「ふん」

 チヨネは小さく鼻を鳴らす。

 追いたい。

 捕まえたい。

 袖の奥で、指がわずかに動いた。

 だが、吉継の命令は短い。

 誰も単独で追うな。

 チヨネは唇を結び、足元の影を細く伸ばした。

 影は蛇のように這わない。もっと細く、もっと浅く、夜のしみのように石畳へ落ちる。

 男の踵には触れない。

 触れれば、気配に敏い者なら気づく。

 だから、男が踏んだ湿った土の端だけを、ほんの少し黒く染めた。

 影印。

 チヨネが残す、小さな目印だった。

 男は裏路地を抜け、荷受け場の前を通り、やがて馬小屋の裏手へ入った。

 王都外縁にある、古い馬房である。

 表の看板には、修繕中の札がかかっていた。

 しかし、厩の奥から馬の鼻息が聞こえる。

 チヨネは屋根の影へ身を沈めた。

 入らない。

 追い詰めない。

 印だけ残す。

 彼女は瓦の端に膝をつき、指先で自分の影を丸めた。待っている間、影を小さな輪にして、落ちていた木の葉をくぐらせる。

 一枚、二枚。

「ふんふん」

 少し楽しい。

 だが、馬小屋の扉が開いた瞬間、影の輪は消えた。

 男が出てくる。

 今度は一人ではなかった。

 荷運び姿の若い男が、干し豆の袋を二つ抱えている。袋の口は新しい紐で結ばれていた。さらに奥から、薬箱を持った小柄な男が続く。

 チヨネの目が細くなる。

 施療薬。

 馬用の干し豆。

 吉継が言っていた品と同じだ。

 チヨネは屋根を蹴らず、音を立てず、来た道を戻った。

   ◆

 政務院の臨時記録室では、まだ灯が落ちていなかった。

 吉継は地図を前に座り、ミセリアは書き板を抱え、エルネは馬房組合の貸出簿の写しを並べている。

 フェイは部屋の入口近くに立っていた。

 座るよう勧めても、彼女は首を振った。

「座ると眠くなる。立ってた方がいい。俺は寝ると起きるのが面倒だ」

「酒は」

「飲んでない。任務前だぞ。俺だって酒と命令の順番くらい分かる」

 胸を張って言うので、エルネが小さく目を丸くした。

「意外と真面目ですね」

「意外とは何だ、意外とは」

 フェイが噛みつきかけたところで、窓がわずかに鳴った。

 チヨネが戻ってきた。

 床に降りた彼女は、吉継の袖を一度だけ引く。

「戻ったか」

「ふん」

 チヨネは床に膝をつき、埃の上に指で線を描いた。

 酒場。

 裏路地。

 荷受け場。

 馬小屋。

 そして、袋を二つ。箱を一つ。

 言葉はない。

 だが、十分だった。

「馬用の干し豆と薬箱か」

 チヨネがこくりと頷く。

 エルネが貸出簿の一枚を引き寄せた。

「ありました。外縁南三番馬房。三日前から修繕中。けれど修繕費の申告がありません」

 ミセリアが別の紙を重ねる。

「同じ日、神殿施療薬の廃棄申告が二箱。理由は破損。破損確認者の署名が薄い」

「薄い?」

 フェイが眉をしかめる。

「名前を書きたくない奴の字ってことか」

「近いわ」

 エルネが答えた。

「署名はあるけど、筆圧が弱い。責任を持って書いた字じゃない。誰かに急かされて書いたか、後で消せるよう薄く書いたか。嫌な字です」

「面倒くせえな。悪いなら悪いと顔に書いとけ」

「そういう人は、記録を残す仕事に向きません」

 エルネが真顔で返す。

 フェイは少しだけ考え、笑った。

「違いねえ」

 吉継は二人の声を聞きながら、地図の一点を軍配で押さえた。

「馬房。薬箱。干し豆。三つがつながった」

 ミセリアは短く言う。

「王都内に補給拠点がある」

「おそらくな」

 吉継は、まだ断定しない。

 断定は罠になる。

 見つけたと思った瞬間、人は見落とす。

 呉子の五つの戒めのうち、今もっとも重いのは戒だった。

 勝った後でさえ、初めて戦う時のように心を締める。

 まだ勝ってはいない。

「明朝、正面から行く」

 エルネが顔を上げる。

「正面からですか。裏を取った方がよくありません?」

「裏口は、向こうも警戒している。こちらは王家直臣末席として、討伐準備のために馬房を確認する。正面から行ける理由があるなら、正面が一番強い」

 ミセリアが頷いた。

「照会書を出す。拒否すれば、討伐妨害として記録する」

「記録されると困る者ほど、慌てる」

 吉継はフェイを見た。

「貴殿は表に立て。だが、手は出すな」

「また待てか」

「待てだ。貴殿が立っているだけで、相手の胆は減る」

 フェイは不満そうに腕を組んだ。

「俺は犬じゃないぞ」

「分かっている。だから命じる。貴殿が立つだけで、相手は逃げ方を変える」

 フェイの目が少し動いた。

「俺を怖がらせるために使うのか」

「違う。敵の本音を出させるために使う。怖がる者ほど、隠し場所へ目が走る」

 吉継は淡々と言った。

「強い門番が前にいれば、臆病な者は奥へ逃げる。腹の据わった者は逆にこちらへ出る。そうなれば、相手の次の一手が読める」

 フェイは数拍黙り、それから大きく笑った。

「なるほどな。殴らなくても戦えるってやつか」

「そういうことだ」

「面白い。だが、殴っていい時は言え」

「必ず言う」

 チヨネが床の影で小さな丸を作り、そこへ埃を一粒入れた。

 ころころと回す。

 フェイがそれを見て、目を細めた。

「おい、小さいの。お前、さっきから何してる」

「ふん」

「遊んでるのか?」

 チヨネは少し迷い、こくりと頷いた。

 フェイは豪快に笑う。

「いいな! 任務前に遊べる奴は強い!」

 チヨネが、ほんの少しだけ胸を張る。

 吉継はその様子を見て、静かに息を吐いた。

 守るべき者が増えた。

 だが、重荷だけではない。

 彼らはそれぞれの形で、こちらを支えている。

   ◆

 翌朝。

 外縁南三番馬房の前に、四人は立っていた。

 吉継は白頭巾に、白と青の陣羽織。腰には刀、手には軍配。

 チヨネは吉継の半歩後ろ。袖を掴んではいない。だが、いつでも動ける位置にいる。

 エルネは照会書と写しを抱え、目だけはすでに看板と札を読んでいる。

 フェイは入口の横に立った。

 ただ、それだけで馬房の空気が変わった。

 中の男たちが、一瞬で声を落とす。

 エルネが小声で言った。

「やっぱり、修繕中の札が新しすぎます。昨日か一昨日に掛け替えたものです」

「中は」

「馬の匂いが濃いです。修繕中なら、こんなに飼葉の匂いはしません」

 吉継は頷き、扉を叩いた。

 出てきたのは、丸顔の馬房番だった。

 目が笑っていない。

「修繕中だ。今日は馬を出せねえ」

 エルネが一歩前へ出る。

「討伐準備の照会です。外縁南三番馬房の貸出状況と修繕記録を確認します」

「何の権限で」

 ミセリアの署名が入った照会書を見せると、馬房番の喉が動いた。

「宰相府……」

 フェイが横で歯を見せて笑う。

「読めるなら話が早いな」

 馬房番の顔色が変わる。

 恐れた。

 だが、フェイではない。

 彼の目は、馬房の奥へ一度だけ走った。

 吉継はそれを見逃さない。

「フェイ」

「おう」

「まだ動くな」

「分かってる」

 不満げだが、動かない。

 吉継は馬房番へ視線を戻した。

「修繕記録を見せてもらう」

「今、責任者がいねえ」

「では、責任者がいない状態で馬を入れているのか」

 馬房番が黙った。

 奥で、木箱の蓋がかすかに鳴る。

 チヨネの目がそちらへ向いた。

 影は広げない。

 代わりに、床に落ちた藁を一本、影で軽く揺らした。

 合図。

 奥に一人。

 エルネが照会書を抱え直す。

「修繕中なら、馬は置けません。馬がいるなら、修繕中の札は虚偽です。どちらにしますか。早く選ばないと、私が先に書きます」

 馬房番の額に汗が浮く。

 フェイが楽しそうに笑った。

「紙って怖いな」

「貴殿が笑うと、別の意味で怖い」

 吉継が言うと、フェイはさらに笑った。

 その瞬間。

 奥の扉が開いた。

 昨日の男が飛び出す。

 手には短剣。

 狙いはエルネだった。

 吉継が動くより早く、フェイが一歩踏み込んだ。

 殴ってはいない。

 ただ、足を置いた。

 床板が悲鳴を上げる。

 男の足が止まった。

「まだ殴ってねえぞ」

 フェイの声が低く響く。

 男は短剣を握り直す。

 その手首に、チヨネの影が細く絡んだ。

「ふん」

 動くな、という鼻鳴らしだった。

 吉継は軍配を伏せる。

「逃げ道は二つ。ここで捕まり、誰に命じられたか話す。あるいはフェイ殿の前を抜ける。後者はあまり勧めぬ」

 男の顔が青ざめた。

 フェイが笑う。

「抜けてみるか?」

 男は短剣を落とした。

 乾いた音が、馬房に響く。

 エルネが震える息を吐いた。

 吉継は彼女を見た。

「怪我は」

「ありません。怖かったですけど、立っています」

「十分だ」

 その言葉に、エルネは小さく頷いた。

 馬房番は膝をつく。

 奥の木箱からは、薬箱と干し豆の袋が出てきた。

 さらに、嘆きの野の古い道を記した粗末な地図。

 そこには、枯れ川沿いの退却路に黒い印がつけられていた。

 吉継は、その地図を見下ろす。

 野盗は野にいる。

 だが、その胃袋は王都につながっていた。

「これで、荒野へ出る前に一つ斬れた。敵の補給は、首より先に落とす」

 フェイが拳を鳴らす。

「次は本当に殴っていいんだろうな」

「相手次第だ」

「つまらん返事だ」

 チヨネが吉継の袖を軽く引いた。

 見ると、床の隅に落ちた灰の中へ、彼女の影印がまだ残っている。

 その印は、馬房の奥にある別の扉へ続いていた。

 吉継の目が細くなる。

 まだ終わっていない。

 この馬房は、入口にすぎない。

お読みいただきありがとうございます。

野盗は荒野にいるだけではありませんでした。次回、馬房の奥に続くもう一つの扉から、さらに敵の連絡路へ踏み込みます。

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