第27話:五才の軍議
嘆きの野へ向かう前に、吉継は過去の討伐失敗を洗い直します。
今回は『呉子』の五つの戒めをもとに、敵の動き方を読む軍議回です。
記録は、血をつく。
だが、血をつく記録にも癖がある。
政務院の臨時記録室には、朝過ぎから書類が積み上げられていた。
政務院の被害報告。
軍務局の討伐記録。
神殿の巡礼者被害記録。
嘆きの野の古い地図。
向かいの机の前に座り、エルネが読み上げる内容を並べていた。文字はまだ読めない。だが、語られた情報を並べ、欠けたところを探すことはできる。
チヨネは部屋の隅にいる。
警戒している、だけではない。
机から落ちた細い紙片を拾い、影で小さな輪を作って、その輪へ通して遊んでいた。紙片が影の輪をくぐるたび、彼女の鼻が小さく鳴る。
「ふん」
楽しいらしい。
だが、扉の外で足音が止まるたび、影の輪はすぐ糸のように細くなり、チヨネの目だけが扉へ向く。
遊んでいるようで、見張りを忘れていない。
ミセリアは書き板を手に立っていた。
彼女の前には、五つの見出しが書かれている。
理。
備。
果。
戒。
約。
「呉子の五つの戒め、でしたね」
エルネが言った。
「ああ。勝ち方より先に、負け方を分ける」
吉継は軍配で机の上を軽く指した。
「まず理。兵を統制できていたか。次に備。敵を見る前から備えていたか。果は決断。戒は勝った後の油断を防ぐこと。約は命令を簡潔にすること」
ミセリアは短く頷く。
「分類として有用」
「ならば、過去の失敗をこの五つに分ける」
エルネは一枚目の記録を手に取った。
「第一討伐隊。人数三十二。出発前日に、嘆きの野の東側に野盗の焚き火ありとの報告。部隊は東へ向かい、二日目の夕方に補給馬車を失っています」
「備が弱い。敵を見つけたと思った時点で、もう誘われている」
吉継は言った。
「焚き火を見てから東へ出た。見せられた火を追っただけだ」
エルネが次を読む。
「第二討伐隊。人数四十。第一の失敗を受けて、補給を二手に分けています。ですが、主力が北の丘を越えた直後、西側の補給隊が襲撃」
「理が弱い。二手に分けたが、互いの距離と合図が決まっていない。分けただけでは策にならぬ」
ミセリアが書き板へ記す。
「第三討伐隊は」
エルネの眉が寄った。
「人数二十八。少数精鋭。夜明け前に出発。記録では、作戦を知る者は隊長、軍務局副官、補給責任者のみ」
「結果は」
「出発から半日で待ち伏せ。退却路に落とし穴。隊長が負傷しています」
吉継は目を細めた。
「作戦を知る者が少ないほど、漏れた時に犯人を絞りやすい。だが、少ないと思い込むのが一番危うい」
ミセリアの筆が止まる。
「内通者候補。隊長、軍務局副官、補給責任者」
「そこまで単純ではない」
吉継は首を振る。
「記録に名前が出ている者だけが、作戦を知っていたとは限らぬ。馬を用意した者、食糧を積んだ者、武器を整えた者、出発時刻を見た者。『嘆きの野へ出るらしい』と知れる者はいくらでもいる」
エルネが紙を一枚差し出した。
「神殿側の被害記録です。巡礼者が襲われた場所は、討伐隊の失敗地点から少し外れています」
「外れている?」
「はい。野盗が本当に嘆きの野を根城にしているなら、襲撃場所が散らばりすぎています。ですが、奪われた物は共通しています」
ミセリアが視線を向ける。
「何」
「施療薬、保存食、馬用の干し豆、銀貨。軽くて運びやすいものです」
吉継は軍配を置いた。
「野盗というより、補給部隊だな。奪い方に腹の減った賊の雑さがない」
「補給部隊?」
「盗んだ物が生き延びるための物資に偏っている。酒や装飾品ではない。必要な物だけを選んでいる」
ミセリアはすぐに記す。
「野盗団ではなく、組織的な潜伏部隊の可能性」
エルネが息を呑む。
「それなら、討伐隊が負け続けた理由も説明できます。単なる腕っぷしではなく、軍事訓練を受けた者たちかもしれません」
「あるいは、そう動くよう指示している者がいる」
吉継は地図を見た。
文字は読めない。
だが、線は読める。
嘆きの野を横切る古い道。丘の上。西の枯れ川。東側の焚き火地点。三度の敗北地点。
地脈俯瞰を使わずとも、紙の上の地形は語る。
「三度とも、退却路は似ている」
エルネが地図を覗き込む。
「枯れ川沿い……ですか。逃げるなら、ここへ下りたくなります。見通しが悪くて、ここが平らだから」
「だから罠を置ける」
ミセリアが言う。
「討伐隊が退く場所を読まれている」
「敵は野盗を追わせて、兵を枯れ川へ落としている。そこを叩く」
吉継は五つの見出しへ視線を戻した。
「理。動く者を分ける。備。時を流し、見張る場所を決める。果。目は俺が引き受ける。戒。敵が動いても勝ったと思わぬ。約。命令は一つだけ」
エルネが身構える。
「何ですか」
「誰も単独で追うな」
その時、扉が乱暴に開いた。
「だったら俺を入れろ! 細けえ話は分からんが、逃がさない役ならできる!」
部屋の空気が揺れた。
入ってきたのは、フェイ・チャンだった。
赤みを帯びた髪を後ろで雑に束ね、肩には訓練帰りの汗が残っている。腰には長柄の蛇矛を担いでいないが、それでも彼女の周りだけ空気が重い。
エルネが椅子から半分立ち上がった。
「将軍閣下!?」
「閣下はいらねえ。堅苦しい」
フェイは机の上の地図を覗き込み、すぐに眉をしかめた。
「細けえ字は読めん。で、誰を殴ればいい」
ミセリアが淡々と答える。
「現時点で殴る対象は未確定。ここで殴ると、紙が泣く」
「つまらんな」
「だが、貴殿の力は必要だ」
吉継が言うと、フェイの目が少しだけ鋭くなった。
「ほう。俺に何をさせる」
「俺、チヨネ、エルネだけでは足りぬ。エルネは文書と記録を見る者で、戦わせる者ではない。チヨネは隠密に向くが、表で敵を押しとどめる役ではない」
フェイがにやりと笑う。
「なら、俺が壁か」
「壁であり、槌だ。敵が正面から来れば止める。逃げれば追わせぬ。俺の命令が出るまで、勝手に突っ込むな。貴殿が走れば、敵は喜ぶ」
「む」
フェイは露骨に不満そうな顔をした。
チヨネが紙片を影の輪へ通しながら、ちらりとフェイを見る。
「ふん」
たぶん、ちゃんと聞け、と言っている。
「ちっ。小さいのに言われた気がする」
「チヨネの判断は正しい」
吉継は言った。
「今回の敵は、強い者を誘い出す。貴殿が怒って一人で前へ出れば、相手の思うつぼだ」
フェイは腕を組んだ。
「分かった。俺は待つ。だが、殴っていい時は言え。待つだけの戦は腹が減る」
「必ず言う」
エルネが息を吐いた。
「これで、少なくとも前衛は埋まりましたね」
「前衛どころか、門が歩いてきたようなものだ」
吉継がそう言うと、フェイは腹の底から笑った。
「気に入った。俺は門か。なら、誰も通さん」
ミセリアは書き板に短く追記した。
「行動班、再編。大谷吉継、チヨネ、フェイ・チャン、エルネ・フォリオ。エルネは非戦闘員、記録補助」
「私、さらっと連れて行かれる前提なんですね」
「記録を読む者がいないと、敵の嘘を見落とす」
吉継が答えると、エルネは唇を尖らせた。
「危険な褒め方ですね」
「命は守る。記録者を死なせる戦は、後で勝ちを証明できぬ」
「それは信用しています」
短い返事だった。
だが、十分だった。
◆
夕刻。
チヨネが窓辺で、ふん、と小さく鳴いた。
吉継は振り向く。
「何か来たか」
チヨネは首を横に振った。
そして、窓の外を指さす。
廊下ではない。
庭の向こう。
政務院の外門近くで、同じ男が三度、こちらの棟を見上げていた。
チヨネは影を使っていない。
ただ観察していた。
吉継は頷く。
「よく見ていた」
チヨネの目が少しだけ丸くなる。
頭ポン待ちの気配。
今は後だ。
そう思ったが、吉継は短く頭を撫でた。
チヨネは無言で胸を張る。
エルネが苦笑した。
「報酬制度が早いですね」
「士気は大事だ」
ミセリアが書き板へ何かを書こうとして止まる。
「今のも記録すべきか」
「しなくてよい」
吉継は即答した。
エルネが小さく笑う。
緊張が、ほんの少しだけ緩んだ。
だが、すぐにミセリアが現実へ戻す。
「外門の男。追わせるか」
「追わせぬ。見られているなら、こちらが気づいたことを悟らせず、連絡先まで泳がせる」
「理由」
「ここで捕まえれば、男一人で終わる。だが、誰へ知らせるのかを見れば、背後にいる者へ近づける」
チヨネが小さく、ふんふんと鳴る。
自分が見る、と言っている。
「任せる。ただし、深追いはするな」
こくり。
ミセリアは書き板に命じるように記した。
「噂を流す。三日後、第4次討伐部隊を編成し、嘆きの野へ向かう。大谷吉継は少数で、神殿記録を持つ」
エルネが目を丸くした。
「神殿記録を持つ、まで流すのですか」
「餌が必要だ」
ミセリアの短い答えに、吉継は頷く。
「神殿記録を奪いたい者が動く」
「危険です」
エルネが言う。
「危険な餌ほど、よく走る。問題は、こちらも噛まれやすいことだ」
吉継は静かに返した。
ミセリアは五つの見出しを見た。
「理、備、果、戒、約。次の行動は」
吉継は軍配を取った。
「理。動く者を四つに分ける。俺、チヨネ、フェイ、エルネ。エルネは記録と道案内、戦闘はさせない。備。時を流し、見張る場所を決める。果。敵の目は俺が引き受ける。戒。敵が動いても勝ったと思わぬ。約。命令は一つだけ」
フェイがにやりと笑う。
「誰も単独で追うな、だな」
「そうだ」
チヨネが紙片を影の輪へ通した。
「ふん」
今度は、満足そうだった。
ミセリアが小さく言う。
「実用的」
「呉子は実用の書だ」
吉継は地図をもう一度見た。
嘆きの野へ向かう前に、王都の中で敵が動く。
野盗を壊滅させるための初手は、荒野ではなく、ここで打つ。
刀を抜く前に、敵の連絡路を浮かび上がらせる。
外門の男は、まだこちらの棟を見ていた。
吉継は白頭巾の奥で、静かに目を細める。
見ていろ。
こちらも見ている。
その日の夕方。
王都の酒場と馬小屋に、噂が流れ始めた。
病持ちの白頭巾が、三日後に第4次討伐部隊を編成し、嘆きの野へ向かう。
神殿の被害記録を持って。
少数で。
その噂を聞いた一人の男が、酒杯を置いた。
そして、誰にも気づかれぬよう裏口から出ていった。
チヨネの影は、屋根の端からそれを見ていた。
お読みいただきありがとうございます。
吉継、チヨネ、エルネに加え、フェイが討伐任務へ加わることになりました。次回は、流した噂に食いついた者を追い、王都内の連絡路を探ります。




